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夕映えの嘘を燃やして、新しい夜明けを

夕映えの嘘を燃やして、新しい夜明けを

作家:  まってて完了
言語: Japanese
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概要

切ない恋

愛人

ひいき/自己中

不倫

妻を取り戻す修羅場

紬希の仕事は、死者の旅支度を整えることだ。 旅立つ人に、穏やかで美しい最期を飾ってやる。 今、彼女は自分と娘のために、同じようにきちんとした「死」を用意しようとしていた。 大富豪の息子を救って手にした二百億円の小切手を握りしめながら、隣の部屋で夫が大富豪の令嬢との縁談を誰かと相談する声を聞いて――紬希はすべてを悟った。 世の中には、生きながらにして墓に入っているも同然の結婚があるのだ。 ならばこの手で、最後のひとすくいの土をかけてやろう。

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第1話

第1話

央州市にある会員制ラウンジ『夜風』の最上階VIPルーム。

白石紬希(しらいし ゆうき)は静かに座っていた。向かいにいるのは、国内随一の富豪――篠原沖嗣(しのはら おきつぐ)だ。

沖嗣はつい先ほど、二百億円の小切手を彼女の前に滑らせた。三日前、重傷を負った一人息子を咄嗟に病院へ運んでくれたことへの礼だという。

「白石さん、この金とは別に、君の願いを一つ叶えよう。篠原家にできることなら、遠慮なく言ってくれ」

二百億円――白血病の娘に、最高の治療を受けさせるには十分すぎる額だ。

断る理由などない。けれど、降って湧いたこの「贈り物」を飲み込むには、もう少しだけ時間を置いて整理する必要があった。

紬希は小さく会釈し、席を立って部屋の外へ出た。

テラスへ向かおうと角を曲がりかけた瞬間、薄く開いた隣室のドアの隙間から、聞き覚えのある話し声が漏れ聞こえてきて――足が止まった。

「……弦夜、篠原家との縁談、あれで決まりなのか」

「他に何がある」

続いたのは、黒川弦夜(くろかわ げんや)の声だった。

かつては安らぎそのものだった声だ。ずっと聞いていたいと思っていたのに、今はその奥に冷たい打算がにじんでいた。

「俺と凪紗は、互いに欲しいものを交換するだけだ」

「じゃあ紬希は?お前、あいつとは……」

「紬希?」

弦夜がわずかに間を置いた。その一瞬の沈黙が、見えない刃となって紬希の心をじわじわと抉っていく。

「愛してる。それは変わらない。だが――あいつの仕事は、どうしたって人前に出せるものじゃない」

「納棺師……確かに、口にしづらいな」

誰かが、ふっと鼻で笑った。「まあ気味の悪い仕事ではあるよな。でもお前、あの頃は彼女のために親父さんと大喧嘩して勘当同然になったんだろ。それが今さら……」

弦夜が遮った。声に「目が覚めた」とでも言いたげな、開き直ったような響きがある。

「ガキだったんだよ、あの頃は。

黒川家は俺が背負わなきゃならない。一生、惚れた腫れただけで生きていけるわけがないだろう」

声がひと際低く落ちた。だがそれは、雷のように紬希の耳を打った。

「それに……そもそも婚姻届さえ出していないんだ。あの時の受理証明書も、あいつを安心させるためのただの飾りにすぎない。お前たちだけ知っていればいい。間違っても口を滑らせるなよ」

偽物。

安心させる。

たった二つの言葉が、紬希から立っている気力さえも奪い去った。

冷たい壁に背を預ける。自分の中の何かが、音を立てて崩れ落ちていくのがわかった。

――だから、半年前からしきりに転職を勧めてきたのか。「忙しすぎて家庭を顧みていないから」と。

――だから、ひと月前、手元に置いていたあの婚姻受理証明書を持ち出したのか。「銀行の貸金庫に預けよう、俺たちの愛の証だから大切に保管しておく」と。

結局、最初から最後まで――彼女は都合のいい幻を見せられていただけだったのだ。

五年前の光景が、脳裏をよぎる。

弦夜は紬希の手を強く握りしめ、黒川の屋敷で両親に食ってかかった。

「俺は紬希を愛してる。彼女がどんな仕事だろうと関係ない。黒川がそれを許さないなら、俺が出ていく」

狭いアパートに二人で転がり込んだ日々。彼が不器用に包丁を握り、手のひらに水ぶくれをこしらえながら、それでも笑い合っていた。

「これからは俺が養う。お前も澪璃(みおり)も、絶対に惨めな思いはさせない」

澪璃が白血病だと診断された日。涙が止まらない紬希を、弦夜はきつく抱きしめた。

「怖がるな。俺がいる。金のことは俺がなんとかする。必ず澪璃を治す」

――今となっては、笑い話にもならない。

「怖がるな」の正体は、別の女との政略結婚。彼女と娘は、邪魔になれば切り捨てるだけの荷物。

「なんとかする」の正体は、法的効力のない偽の婚姻受理証明書一枚で、彼女の真心ごと欺くことだったのだ。

心が死ぬと、人は驚くほど冷静になれるものらしい。

紬希は深く息を吸い、目の縁に滲んだ涙を奥へ押し戻した。踵を返し、一歩、また一歩、沖嗣の待つ部屋へ戻る。

沖嗣はちょうど電話を終えたところだった。こちらに向けられた視線が、紬希の感情が抜け落ちたような顔にほんの一瞬だけとどまった。

「白石さん、決まったかね」

「はい」

紬希は顔を上げ、沖嗣をまっすぐに見据えた。声に揺れはない。

「私の願いは――私と娘の『死』を手配していただくことです」

沖嗣の瞳の奥にかすかな驚きがよぎったが、彼はそれ以上何も訊かず、先を促すように短く頷いた。

「徹底的で、誰にも疑われない『死』を。世間の誰もが私たち母娘は死んだと信じ、完全にこの世から消え去り、二度と誰にも見つからない場所へ行く――そういう『死』です」

沖嗣はしばらく紬希を見つめた。幾多の修羅場を潜り抜けてきたその目は、彼女の底知れぬ覚悟をはっきりと読み取っていた。

彼はただ、きっぱりと頷いた。

「いいだろう。七日以内にすべて整えさせる。足取りは誰にも辿らせない」

「ありがとうございます」

紬希は深く頭を下げ、背を向けて部屋を出た。

……

家に帰ると、リビングの照明は落ちたままで、玄関の常夜灯だけがぽつりと灯っていた。

弦夜はまだ戻っていない。澪璃はもう布団に潜り込んで眠っていた。化学療法に青ざめた小さな顔が、静かな寝息とともに揺れている。

紬希はベッドの縁に腰を下ろし、指先でそっと娘の頬に触れた。

「……ママ?」

澪璃がうっすらと目を開ける。紬希の顔を認めた途端、ぱっと瞳が輝いた。

「おかえり!」

その無邪気な笑顔を見た瞬間、鼻の奥がつんと熱くなり、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

紬希は慌てて顔を背け、指で涙を拭うと、無理に笑顔を取り繕った。

「ただいま。今日はおうちで楽しかった?」

「楽しくなかった」

澪璃が小さな眉をきゅっと寄せ、首を振る。そして不意に手を伸ばし、紬希の目尻をそっと拭った。

「ママが泣いてたら、私も楽しくないもん」

もう、堪えきれなかった。紬希は娘をぎゅっと胸に抱き寄せ、声を詰まらせた。

「澪璃……もし、もしママとパパが別々になったら、どっちと一緒がいい?」

澪璃の小さな体がきゅっとこわばる。紬希の首にしがみつき、迷いのかけらもなく言った。

「ママ!パパ最近ぜんぜん遊んでくれないし、ママにいつも怖い顔してる。パパ、もうきらい」

胸の奥にじわりと温かいものが広がる。紬希は娘の背を、とんとんと優しく叩いた。

「じゃあね、ママと一緒に海外に行かない?そこにはすごく上手なお医者さんがいて、澪璃をうんと早く元気にしてくれるの。楽しいものも、いっぱい見られるよ」

「海外?」

澪璃が小首をかしげ、何か言いかけた――そのとき、寝室のドアが不意に開いた。

弦夜の声が、探るような鋭い響きを帯びていた。

「海外?誰が海外に行くって?」
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第1話
央州市にある会員制ラウンジ『夜風』の最上階VIPルーム。白石紬希(しらいし ゆうき)は静かに座っていた。向かいにいるのは、国内随一の富豪――篠原沖嗣(しのはら おきつぐ)だ。沖嗣はつい先ほど、二百億円の小切手を彼女の前に滑らせた。三日前、重傷を負った一人息子を咄嗟に病院へ運んでくれたことへの礼だという。「白石さん、この金とは別に、君の願いを一つ叶えよう。篠原家にできることなら、遠慮なく言ってくれ」二百億円――白血病の娘に、最高の治療を受けさせるには十分すぎる額だ。断る理由などない。けれど、降って湧いたこの「贈り物」を飲み込むには、もう少しだけ時間を置いて整理する必要があった。紬希は小さく会釈し、席を立って部屋の外へ出た。テラスへ向かおうと角を曲がりかけた瞬間、薄く開いた隣室のドアの隙間から、聞き覚えのある話し声が漏れ聞こえてきて――足が止まった。「……弦夜、篠原家との縁談、あれで決まりなのか」「他に何がある」続いたのは、黒川弦夜(くろかわ げんや)の声だった。かつては安らぎそのものだった声だ。ずっと聞いていたいと思っていたのに、今はその奥に冷たい打算がにじんでいた。「俺と凪紗は、互いに欲しいものを交換するだけだ」「じゃあ紬希は?お前、あいつとは……」「紬希?」弦夜がわずかに間を置いた。その一瞬の沈黙が、見えない刃となって紬希の心をじわじわと抉っていく。「愛してる。それは変わらない。だが――あいつの仕事は、どうしたって人前に出せるものじゃない」「納棺師……確かに、口にしづらいな」誰かが、ふっと鼻で笑った。「まあ気味の悪い仕事ではあるよな。でもお前、あの頃は彼女のために親父さんと大喧嘩して勘当同然になったんだろ。それが今さら……」弦夜が遮った。声に「目が覚めた」とでも言いたげな、開き直ったような響きがある。「ガキだったんだよ、あの頃は。黒川家は俺が背負わなきゃならない。一生、惚れた腫れただけで生きていけるわけがないだろう」声がひと際低く落ちた。だがそれは、雷のように紬希の耳を打った。「それに……そもそも婚姻届さえ出していないんだ。あの時の受理証明書も、あいつを安心させるためのただの飾りにすぎない。お前たちだけ知っていればいい。間違っても口を滑らせるなよ」偽物。安心させる。
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第2話
紬希は弦夜に背を向けたまま、そっと指先を唇に当て、澪璃に「しーっ」と合図した。それから何食わぬ顔で答える。「友達が海外に行くんだって、その話をしてただけ」弦夜が歩み寄り、優しく母娘を腕の中に包み込んで、二人の額に順番にキスを落とした。「行きたいなら、家族で行くのもありだな」だが次の瞬間、彼はさりげなく話の方向が変わった。「ただ紬希、お前の仕事だと手続きが少し面倒かもしれないけど」紬希は体の脇で、そっと拳を握り込んだ。またこれだ。手を変え品を変え、仕事を辞めさせようとする。澪璃が何かを感じ取ったのか、弦夜の裾をくいくいと引っ張った。「パパ、もう眠い。今日はママと寝たい」弦夜はすぐに声を甘くして応じた。「はいはい、うちの澪璃は甘えん坊だなぁ」変わらず優しげなその横顔を見つめながら、紬希の胸にじわりと苦いものがこみ上げた。もし今日、あの会話をこの耳で聞いていなかったら――きっと自分は、この作り物の幸せを本物だと思い込んでいたかもしれない。翌朝、紬希と澪璃が目を覚ましたとき、弦夜はもう出かけた後だった。どこへ行ったかなんて、もう知りたいとも思わない。ふと、皮肉な安堵が胸をよぎった。――この結婚が偽物でよかった。離婚の手続きすら要らない。手早く身支度を整え、澪璃を連れて病院へ向かった。治療に使う薬を受け取るためだ。だがまさか、こんなところで弦夜と鉢合わせることになるとは。彼の隣には、目を引く女が立っていた。仕立ての良いワンピースがすらりとした体の線を際立たせ、艶のある黒い巻き毛が肩に流れている。待合室の案内モニターには、無情な文字が示されていた。【黒川弦夜・篠原凪紗ブライダルチェック】――この女が、弦夜の婚約者。国内随一の富豪の令嬢、篠原凪紗(しのはら なぎさ)。「パパ!」澪璃がぱっと顔を輝かせて駆け寄り、弦夜の脚にしがみついた。弦夜の体が、一瞬で強張った。顔から血の気が引いていく。凪紗が片眉を上げ、冷ややかに口を開いた。「弦夜、この子は?」弦夜はすぐさま表情を取り繕い、何でもないように言い放った。「うちの家政婦の娘だよ。父親がいないから、男の人を見るとすぐ懐くんだよ」弦夜の視線が紬希に移り、声の温度が一気に下がる。「紬希、自分の娘の面倒くらいちゃんとしろ」その
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第3話
その言葉が、錆びた刃のように紬希の胸を深く抉った。息が、できない。ずっとこらえていた涙が、堰を切ったようにあふれ出した。弦夜は途端にうろたえ、慌てて駆け寄って彼女の涙を拭おうとした。「紬希、泣くなよ。ただの名分じゃないか。俺の心にいるのは、本当にお前だけだ」名分。紬希は心の中で自嘲した。今は「ただの名分」。この先の長い年月、自分に何が残るというのか。人の心は移ろうものだと、この結婚生活で嫌というほど思い知らされた。娘を連れて出ていくと決めた以上、この機会に澪璃のための備えを少しでも多く引き出しておくべきだ。紬希はこみ上げる嗚咽を押し殺した。「……わかった、信じる。でも、お医者さんに言われたの。澪璃の移植手術に備えて、資金を先に用意しておかないといけないって。もし適合する骨髄が見つかったら――」言い終わらないうちに、弦夜の携帯が震えた。画面に浮かんだ「凪紗」の二文字をちらりと見るなり、弦夜は素早く電話に出た。声が、別人のように甘くなる。「もしもし、凪紗?どうした?」短い通話を終えると、その場でスマホを操作し、紬希の口座に二千万円を送金した。それから、ソファの上着をひっつかんで玄関へ向かった。「急な用だ。遅くなる」ドアがバタンと閉まる。紬希はスマホに表示された入金通知を見つめ、力なく自嘲の笑みを浮かべた。――さすが、大富豪の令嬢に取り入っただけのことはある。かつては澪璃に少し値の張る粉ミルクを買うだけで、半日うじうじ悩んでいた男だ。それが今では、二千万円を躊躇いもなく振り込んでくる。笑っていたはずなのに、いつの間にかまた涙がこぼれ出していた。五年前。弦夜が紬希を黒川家の屋敷に連れていった日。弦夜の母が吐き捨てた言葉が、今も耳にこびりついている。――毎日死体に触っているような女が、うちの敷居を跨げると思っているの。自分のために家を飛び出し、狭いアパートで小銭を数えるような暮らしをしながら、いつも笑って「お前がいればそれでいい」と言ってくれた男。その男が、結局は心変わりした。紬希は乱暴に涙を拭い、机の上のカレンダーに目を向けた。印をつけた日付に、指先が止まる。あと六日。たった六日耐えれば、澪璃を連れてここから出られる。弦夜の世界から、完全に消える。午後、見知らぬ番号か
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第4話
「家政婦」――その一言が毒針のように突き刺さり、紬希の顔から血の気が引いた。視線が、弦夜の顔に釘付けになった。かつて永遠を誓ったはずの男は、唇を引き結び、他人行儀な声で言った。「紬希、お前ここで何してる」紬希はふっと鼻で笑った。目の奥に、冷たい光が灯る。「何してるかって?決まってるじゃない、男を引っかけに来たのよ」ありもしない罪を着せるなら、いっそその芝居に乗ってやる。冷めた目で抱き合う二人を一瞥し、声の温度を限りなく落とした。「でも私みたいな家政婦が誰に近づこうと、お二人には関係ないでしょう?」弦夜は拳を白くなるほど強く握り込み、怒りで肩を震わせた。だが怒りを飲み込み、邪魔者を払うように手を振る。「用がないならさっさと行け」紬希はもうその顔を見る気にもなれず、二人の脇をすり抜けてエレベーターに乗り込んだ。ドアが閉まる寸前、外の二つの視線をまっすぐ受け止めて、迷わず中指を立ててみせた。屈辱も、怒りも、全部この指一本に込めて。……家に着いたのは、深夜だった。バッグの中でスマホが狂ったように震えている。着信画面には、病院の名前があった。紬希は嫌な予感に胸を鷲掴みにされながら、急いで出た。「白石さん、澪璃に適合する骨髄が見つかりました。ただ――」医師の言葉が、そこで途切れた。そのわずかな沈黙が、鈍い刃のように胸を抉った。「ただ、何ですか。早く言ってください!」「一時間ほど前に、黒川様からお電話がありまして……移植手術のキャンセルを申し出られました。枠はすでに別の患者さんに回っています。ただ、やはりお伝えしておくべきだと判断しまして……」その先は、一言も耳に入らなかった。スマホを握る手が止まらないほど震え、全身から力が抜け落ちていく。涙が、堰を切ってあふれた。なぜ。弦夜はどうして、こんなことをしたのか。あの子は――彼自身の血を分けた娘じゃないか。電話を切った瞬間、すぐに弦夜へかけ直した。つながった途端、半狂乱で叫んでいた。「弦夜!どうして澪璃の移植をキャンセルしたの!あなたの娘でしょう!どうしてそこまでできるの!」弦夜の口調には諦めのような色が混じりつつも、どこか強硬さがにじんでいた。「紬希、落ち着け。骨髄ならまた見つかる。だが今夜お前は凪紗を怒らせた、その落とし前はつけ
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第5話
真冬の寒空の下、潜水装備もなしに凍った湖へ飛び込めというのか。紬希は信じられない思いで、目の前の女を見据えた。「もし断ったら?」凪紗の赤い唇が、ゆっくりと弧を描く。「あなたに拒否権なんてないの」彼女がそう言い捨てるが早いか――鈍い水音とともに、紬希の体は容赦なく湖に突き落とされていた。凍えるような水が口と鼻に一気に流れ込む。全身に無数の針を突き立てられたような激痛が走った。水を吸ったコートがみるみる重くなり、体を底へ底へと引きずり込んでいく。必死にもがいて岸へ這い上がろうとするが、見張りのボディーガードに何度も水中へ押し戻された。凪紗は岸辺で腕を組み、薄く笑っている。「そういうの、得意なんでしょう?見つけられるわよね」そう言い残し、ハイヒールの音を響かせて去っていった。遠ざかる背中と、湖畔で目を光らせるボディーガードたち。紬希の胸に、冷たい絶望が押し寄せた。もう手を引くと決めたのに。全部捨てて消えると決めたのに。どうしてこの人たちは、まだ自分を放してくれないのか。悔しさ、屈辱、弦夜への失望――あらゆる感情が絡み合い、息もできない。紬希は歯を食いしばり、水を含んで鉛のように重くなったコートを引き剥がすように脱ぎ捨てた。そして一気に湖底へ潜る。肺の空気が尽きかけると、もがきながら浮上して息を継ぐ。潜っては浮き、潜っては浮き。凍えきった体はとうに感覚を失っていた。それでも、やめるわけにはいかない。澪璃が待っている。ママがいなくなったら、あの子はどうなるの。どれほど経っただろう。暗い湖底にふいに、かすかな光が走った。――指輪だ。ようやく岸に這い上がり、ボディーガードの前に指輪を差し出すように落とした。濡れそぼった体を寒風が容赦なく切りつけ、歯の根が合わない。湖のほとりにうずくまったまま、意識がゆっくりと遠のいていく。暗闇に沈む直前、弦夜が血相を変えてこちらへ走ってくるのが見えた気がした。……目を開けると、鼻先をかすめたのは覚えのある消毒液の匂いだった。「紬希、やっと目が覚めたか!」紬希が目を覚ましたことに気づくや否や、弦夜がいきなり力任せに抱きしめてきた。息が詰まるほどの強さだ。紬希は彼を両手で突き飛ばし、冷めた目で男を見た。充血して真っ赤な目。げっそ
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第6話
その言葉が会場に響いた瞬間、空気が一変した。無数の視線が、一斉に紬希に突き刺さる。好奇、軽蔑、侮蔑――あらゆる色が混じり合っている。「死体の化粧?女がそんな仕事してるなんて、縁起が悪いにもほどがあるだろ」「考えただけで鳥肌が立つ。なんでああいう人間がこんな場にいるんだよ」「俺なら絶対に嫁にはもらわないね。毎日死人に触ってるような女、どんな穢れが染みついてるかわかったもんじゃない」ざわめきの中で、紬希は手のひらに爪が食い込むほど拳を握りしめ、青ざめていく顔を伏せ、必死に平静を保とうとしていた。凪紗はくすくすと体を揺らし、紬希に向かって手招きした。「紬希さん、せっかくだからステージに上がってきてくださいな。こんなにお客様がいらっしゃるんですもの、あなたの『お客様』が見つかるかもしれませんわよ」逃げ場のない視線に押し出されるようにして、紬希は一歩、また一歩とステージへ歩を進めた。客席のあらゆる視線を正面から受け止め、深く息を吸い込んだ。そのままマイクの前に立つ。透き通った声が、宴会場に響いた。「私は自分の仕事を、恥じたことは一度もありません。亡くなった方がきちんとした姿でこの世を旅立てるように、そしてご遺族に最後の安らぎを届けるために――それが、私の仕事です」言い終わるかどうかのところで、誰かがぱちぱちと手を叩き始めた。まばらな拍手が少しずつ広がり、やがてひとつの大きな波になる。紬希は、凪紗の毒をはらんだ視線と真正面からぶつかった。これ以上ここにいては、何をされるか分からない。澪璃の顔が脳裏をよぎった瞬間、紬希は弾かれたように宴会場から駆け出していた。だが正面の扉を出たところで、背後に腕をねじ上げられ、ボディーガードに押さえ込まれた。紬希は力なく笑い、目を閉じる。目を閉じたまま、次は何をされるのかと身をこわばらせた。間もなく、凪紗が険しい顔で出てきた。弦夜がその隣に控えている。同じように沈んだ顔をしていた。凪紗は紬希の前まで歩み寄り、冷たく笑った。「紬希、いい気分だったでしょうね、あのスピーチ。自分の仕事にそこまで誇りがあるなら、望み通りにしてあげるわ」紬希の全身の血が凍った。体中の細胞が逃げろと叫んでいる。けれど手首を押さえられ、指一本動かせない。震える声で、凪紗を見据えた。「何をするつ
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第7話
凪紗の一言一言が、毒を塗った刃のように紬希の心を抉っていく。彼女は思わず耳を塞いだ。けれどあの声は、どんな隙間からでも頭の中に入り込み、最後の理性を蝕んでいく。「あなたたちが夫婦だから何?今、彼を手に入れているのは私よ。ああそうだ、五年かけて弦夜をよく仕込んでくれたこと、感謝しなきゃね。おかげで今の彼ったら――女の悦ばせ方を、びっくりするくらいよく分かっているのよ」言い終えると、凪紗はブランドバッグを手に、ハイヒールの音を響かせて去っていった。残されたのは、紬希ひとり。頭から冷水を浴びせられたような絶望の中、こらえ続けていた涙がついに決壊した。この五年の愛は、最初から最後まで、ただの茶番だった。弦夜への想いも、この家に寄せた最後のかすかな望みも、この瞬間すべて灰になった。心が、死んだ。……紬希は歯を食いしばって退院の手続きを済ませた。家に帰ると、澪璃はおとなしくアニメを見ていた。胸の奥の苦さを飲み込んで娘を寝かしつけ、荷造りを始める。帰り道で、今夜の便のチケットはもう買ってあった。これが、娘との新しい人生の始まりだ。過去との、完全な決別。納戸には思い出が溢れていた。弦夜がかつて雪山で描いてくれた油絵「夕映えの峰と少女」。色彩は今も鮮やかなのに、もう胸を温めてはくれない。三晩徹夜して二人で完成させた、名画「星月夜」の巨大パズル。今となっては、皮肉でしかない。そしてツーショット写真をびっしり貼り込んだ手帳。甘い言葉のひとつひとつが、全部嘘に変わっていた。紬希はすべてをベランダに運び出し、火鉢に火を入れた。手帳を、炎の中へ放り込む。ぼっ、と火が燃え上がり、紙を舐めるように飲み込んでいく。写真の中の笑顔が歪み、黒く焦げていった。続いて油絵。パズル……炎に照らされた紬希の顔は蒼白で、涙だけが音もなく頬を伝った。宝物のように大切にしてきた思い出が、火の中で灰に変わっていく。弦夜への最後の未練もろとも、すべて焼き尽くされていく。「紬希、何してるんだ」背後から、弦夜の慌てた声がした。火鉢の中で燃える手帳を見た途端、弦夜は咄嗟に手を突っ込んだ。けれど掴めたのは、焦げて黒ずんだ数枚の切れ端だけだった。「なんで燃やしたりしたんだよ。俺たちの思い出だろう!」弦夜は痛みに歪んだ顔で紬希
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第8話
深夜、弦夜はずきずきと痛むこめかみを押さえた。眉間には深い疲労が刻まれている。午後に一度家へ戻り、慌ただしく澪璃の顔を見てから、すぐグループ本社に引き返して会議に出ていた。長い会議は深夜までかかり、帰りの車に乗り込んだ頃には心身ともに限界だった。車内は暖房が効いていたが、これから黒川家の本邸に戻って凪紗との結婚の段取りを話さなければならないと思うと、頭痛はさらにひどくなった。本邸に着いた時、夜はすでに深く更けていた。央州の冬の夜は骨まで凍える。冷たい風が襟元から入り込み、かえって濁りきった頭が少しだけ冴えた。リビングにはまだ灯りがついていた。父が珍しく起きていて、ソファで茶を飲んでいる。「父さん」弦夜が声をかけると、黒川時厳(くろかわ じごん)は茶を一口含み、軽く頷いた。「お前と凪紗の式が近いが、家に囲っているあの女にはきちんと言い聞かせたんだろうな。土壇場でつまらん騒ぎを起こして、篠原家との関係に傷がつくようなことは許さんぞ」時厳は弦夜をちらりと見やり、付け足した。「凪紗はお前が外で拾ってきたような、どこの馬の骨とも知れん女とは格が違う。くれぐれも粗相のないようにしろ」弦夜は眉をひそめた。紬希をそんなふうに言われることへの不快感が胸を突いたが、結局、言い返すことはできなかった。「……紬希にはもう話してあります」時厳の表情がわずかに緩んだ。「それならいい。明日は凪紗のドレスの試着に付き合え。粗相は一切許さん」弦夜は頷き、二階の自室へ上がった。部屋は五年前、家を出た時のまま残されていた。暖房は十分に効いている。なのに、胸の奥はひどく冷え切っていた。紬希と澪璃と三人で暮らしたあの小さな家が、狂おしいほど恋しかった。名門のしきたりも、利害の計算もない。紬希の温かい手料理と、澪璃の無邪気な笑い声だけがある、あの場所。恋しさが胸を締めつけて離れない。スマホを取り出し、紬希にメッセージを送ろうとした。母娘二人の旅は順調だろうか。午後に見た紬希の、あの異様なほど静かな目が、どうにも引っかかっている。画面が点いた瞬間、秘書から電話が入った。用件を片づけ終えた時にはもう明け方だった。紬希と澪璃を起こしてしまうのが忍びなく、結局、電話はかけずに終わった。翌朝。身支度を済ませ、運転手に篠原家ま
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第9話
あの頃、二人の全財産をかき集めても、たかが知れた額だった。けれど弦夜は、誰よりもわかっていた。ドレスが紬希にとってどれほど大きな意味を持つか。それは結婚という道を歩み出す象徴であり、この人と一生を共にするという、紬希が心の奥にしまい込んできた願いそのものだった。だから歯を食いしばって、自分たちに手が届く範囲で一番小さなレンタルショップを探した。紬希はいつだって俺の懐事情を気遣ってくれた。一番安くて、デザインも地味なドレスを選んだ。だが弦夜には見えていた。紬希の視線が何度も、ショーウインドウのマーメイドラインのドレスに吸い寄せられていたことを。あんなに憧れるような目をしていたのに、ほんの数秒見つめただけで視線をそらし、笑ってこう言ったのだ。「これで十分すてきよ」それが、二十年余りプライドばかり高かった弦夜が初めて味わった、「金がない」という惨めさだった。六畳一間のアパートでも、地に足がついていると思えた。毎食、腹を満たすだけの質素な食事でも、耐えられた。服が擦り切れるまで着ても、気にならなかった。けれど――紬希が本当に欲しかったドレスの一着すら買えなかったこと。それだけが鈍い刃となって、自尊心をずたずたに引き裂いた。あの時初めて、衝動で黒川家を飛び出したことを後悔した。後に弦夜は紬希の手を握りしめ、誓った。必ずいい暮らしをさせる。欲しいものを何ひとつ我慢させない、と。だが運命は残酷だった。暮らしがようやく上向き、約束を果たせると思った矢先に、澪璃の病が突然の嵐のように降りかかり、すべてを打ち砕いた。黒川家の財産に目がくらんだわけじゃない。本当に、どうしようもなかったのだ。澪璃の治療費は底なしの沼だった。頭を下げて実家に戻る以外に、道はなかった。家を出る時にあれほど潔かった分、戻る時の代償は途方もなく大きい。その代償が――凪紗との政略結婚だった。……弦夜は遠くへ飛んでいた意識を引き戻し、凪紗のタブレットに目を落とした。どうにか柔らかい笑みを作る。「君が気に入ったものなら、どれも似合うよ」「口が上手いんだから」凪紗は甘えたように唇を尖らせたが、口元は満足げにほころんでいる。この場しのぎの褒め言葉に、すっかり気を良くした顔だった。最終的に凪紗が選んだのは、小粒のダイヤが一面に散り
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第10話
ティーポットに手をかけた瞬間、弦夜の指がびくりと止まった。ポットが小さく震え、熱い茶が数滴跳ねて、テーブルに暗い染みを広げる。無理やり平静を装い、引きつった笑みを浮かべた。「元妻と娘?何のことですか。篠原社長、ご冗談でしょう」克海は鼻で笑った。目に浮かぶのは、隠しもしない嘲りだ。「見事な芝居ですね。役者にでもなればよかったのに」彼はわずかに身を乗り出し、淡々と、しかし断定的に言った。「まどろっこしいのは抜きにしましょう。あなたの元妻の白石紬希さんと、娘さんの澪璃さん。お二人の飛行機が墜落しました」その一言が、研ぎ澄まされた刃となって弦夜の心臓を貫いた。ガシャン、とポットが手から滑り落ち、テーブルの上で砕け散った。弦夜は克海を凝視した。嘘であってくれと、その顔に一筋の綻びを探す。だが克海の目は、息が詰まるほど凪いでいた。一拍遅れて押し寄せてきた絶望が、津波のように全身を飲み込む。紬希と澪璃が――死んだ?つい昨日、澪璃の柔らかい体を抱いた。つい昨日、紬希が目の前に立っていた。あり得ない。絶対に嘘だ。克海が自分を騙しているんだ。紬希と澪璃は、今も家で自分を待っている――この瞬間、冷徹な実業家としての仮面が、音を立てて完全に崩れ落ちた。オフィスに残された「未来の義弟」のことなど、気にする余裕もなかった。弦夜は狂ったようによろめきながらオフィスを飛び出した。地下駐車場に駆け込み、ドアを引き開けて車に飛び乗ると、アクセルを踏み抜いた。車は弾かれたように急発進する。スピードメーターの針がみるみる跳ね上がる。冷静にならなければと頭のどこかで思っているのに、脳は真っ白で、「家へ帰る」という思いしか残っていなかった。車は道路を縫うように暴走し、四方からクラクションが鳴り響く。何も目に入らない。ただ一秒でも早く、紬希と澪璃がいるあの家に辿り着きたかった。自分の目で、克海の言葉を嘘にしたかった。――凄まじい衝撃音。交差点で小型トラックに激突した。エアバッグが展開し、顔面を激しく打ちすえられ、額に激痛が走る。だが弦夜は構わなかった。もがくようにドアを押し開け、ふらつく足でタクシーを止めた。運転手がバックミラー越しに弦夜を見て、顔から血の気が引いた。「お客さん、額からすごい出血だ。先に病
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