央州市にある会員制ラウンジ『夜風』の最上階VIPルーム。白石紬希(しらいし ゆうき)は静かに座っていた。向かいにいるのは、国内随一の富豪――篠原沖嗣(しのはら おきつぐ)だ。沖嗣はつい先ほど、二百億円の小切手を彼女の前に滑らせた。三日前、重傷を負った一人息子を咄嗟に病院へ運んでくれたことへの礼だという。「白石さん、この金とは別に、君の願いを一つ叶えよう。篠原家にできることなら、遠慮なく言ってくれ」二百億円――白血病の娘に、最高の治療を受けさせるには十分すぎる額だ。断る理由などない。けれど、降って湧いたこの「贈り物」を飲み込むには、もう少しだけ時間を置いて整理する必要があった。紬希は小さく会釈し、席を立って部屋の外へ出た。テラスへ向かおうと角を曲がりかけた瞬間、薄く開いた隣室のドアの隙間から、聞き覚えのある話し声が漏れ聞こえてきて――足が止まった。「……弦夜、篠原家との縁談、あれで決まりなのか」「他に何がある」続いたのは、黒川弦夜(くろかわ げんや)の声だった。かつては安らぎそのものだった声だ。ずっと聞いていたいと思っていたのに、今はその奥に冷たい打算がにじんでいた。「俺と凪紗は、互いに欲しいものを交換するだけだ」「じゃあ紬希は?お前、あいつとは……」「紬希?」弦夜がわずかに間を置いた。その一瞬の沈黙が、見えない刃となって紬希の心をじわじわと抉っていく。「愛してる。それは変わらない。だが――あいつの仕事は、どうしたって人前に出せるものじゃない」「納棺師……確かに、口にしづらいな」誰かが、ふっと鼻で笑った。「まあ気味の悪い仕事ではあるよな。でもお前、あの頃は彼女のために親父さんと大喧嘩して勘当同然になったんだろ。それが今さら……」弦夜が遮った。声に「目が覚めた」とでも言いたげな、開き直ったような響きがある。「ガキだったんだよ、あの頃は。黒川家は俺が背負わなきゃならない。一生、惚れた腫れただけで生きていけるわけがないだろう」声がひと際低く落ちた。だがそれは、雷のように紬希の耳を打った。「それに……そもそも婚姻届さえ出していないんだ。あの時の受理証明書も、あいつを安心させるためのただの飾りにすぎない。お前たちだけ知っていればいい。間違っても口を滑らせるなよ」偽物。安心させる。
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