Share

第4話

Author: 夕風の旋律
こうして、彼らが縺れ合っているうちに野次馬はどんどん増え、誰もが由理恵を指さして口を揃えて責め立てた。

その様子を見ていた凪は、考えるより先に真司の頬を平手で打った。

「真司、あなたって頭がおかしいんじゃないの?」

だが、生まれてから一度も人に殴られたことのなかった真司はその一発にさらに腹が立った。彼は、冷たく笑いながら由理恵を睨みつけて言った。

「たいしたもんだな。妊婦を連れてきて騒ぎ立てるとは。由理恵、お前はいつからこんなえげつない手段を使うようになったんだ?」

それを聞いて、凪はもう一度真司を殴ろうとしたが、由理恵に止められた。

「もう行こう。車が来たから」

そう言って由理恵は真司と、まだわざとらしく痛々しい真似をしている女には目もくれず、怒りで発狂しそうになった凪を連れてその場を去ろうとした。

しかし、初めて由理恵にこれほどあからさまに無視された真司はさらにかっとなって、由理恵の腕をつかみ、鋭い声で言った。

「待て、翠に謝れ」

そして、由理恵が何の反応も示さないのを見て、真司はさらに強く彼女の手首を掴んだ。

「翠に謝れと言っているんだ」

一方で、手首の痛みよりも心の痛みのほうをずっと強く感じた由理恵は深く息を吸い込み、ようやく真司のほうを振り向いた。

「なぜ私が謝らなきゃいけないの?私が彼女を傷つけるようなことを何か言った?それとも何かしたかしら?それに、この病院はあなたのテリトリーってわけでもないでしょ?あなたが来られるなら、私が来てもいいはずじゃない?そんな屁理屈を並べるあなたこそ、教養や品格がないんじゃない?」

そう言う、由理恵の眼差しはあまりにも冷たく、まるで見知らぬだれかを見ているようで感情がこもっていなかった。

その目を見て、真司はなぜか心がヒヤッとするのを感じ、彼女を掴んでいた手の力をすっと緩めた。

一方で、真司とはもうこれ以上関わりたくないと思った由理恵は凪を連れてそのまま病院の出口へと向かった。

真司の不安そうな様子を見て、翠はおずおずと彼の手を取った。

「真司さん、私、​また何かいけないことをしたかしら」

そう言われて、真司は我に返り、なだめるように翠の手をぽんと叩いた。

「君のせいじゃない。俺が最近、彼女を構ってやれなかったからだ」

そうだ、きっとそうに違いない。最近忙しくて由理恵を放っておいたから、彼女の機嫌が悪くなって、こんな騒ぎをおこしているんだ。

あとで、家に帰ってちゃんと機嫌を取れば、由理恵は誰よりも物分かりがいいから、きっと分かるはずだ。

そう自分に言い聞かせると、真司は心によぎった一瞬の不安を打ち消し、翠を連れてエレベーターに乗り込んだ。

その晩、真司は蘭と翠の世話を済ませてから家に帰った。

そして、帰り道、彼は由理恵が一番好きなピンクのチューリップも忘れずに買っていった。

すると、ドアを開けて家に入るなり、由理恵がちょうど電話で話しているのを聞いた。

「はい。では協議書を作成して、送ってください。ええ、なるべく急ぎでお願いします」

そう言って、由理恵は電話を切った。

「何の協議書だい?」真司は、今日の病院での気まずい出来事などなかったかのように、できるだけ普段通りに振る舞った。

だが、「仕事のことよ」由理恵は真司の方を見ようともせず、そう言うと部屋へ向かった。

片や、それを見た真司は慌てて数歩前に出て、後ろから由理恵を抱きしめた。

「由理恵、ただいま」

もし以前の由理恵なら、きっと振り返って、優しく彼の頬に触れ、微笑みながらキスをしてくれただろう。

しかし今の彼女は、真司と口をきく気にもなれないようだった。

由理恵は、抱き着いてきた真司の腕を力強く振り払うと、さっさと寝室に入りドアを閉めてしまったのだ。

一方で取り残された真司は、どうすればいいのか分からずその場に立ち尽くした。

まだ怒っているのか?こっちはもう帰ってきてやったというのに、どうしていつまでもそんな不機嫌な顔をするんだ。

真司は少し腹が立った。彼はリビングで何度も深く息を吸い込んで、ようやく冷静さを取り戻した。

由理恵はどんなに学歴が高くても、所詮は女だ。女というのは嫉妬深くて、やきもちを焼くものなんだ。これは普通のことだ。

そう考えると、真司はすっと気が楽になり、フンと鼻で笑うとバスルームへ向かった。

この3日間、由理恵は病院でまったく眠れなかった。目を閉じれば、真司が長谷川親子をかばう光景ばかりが目に浮かぶのだった。

結局、離婚すると決めたものの、長年の愛情を捨てることに、彼女は身も心も引き裂かれるような苦しみを感じていたのだった。

そんな想いを巡らせながら、涙を拭くと、由理恵はひどい疲労感に襲われ、ただ眠りたいと思った。

ちょうどその時、シャワーを浴びてきた真司が寝室に入ってくると、布団をめくりあげ、彼女の隣に滑り込んできた。

そして、真司がすらっとした長い腕で、背後から由理恵の腰に抱き着くと、彼はやつれてはいたものの相変わらず端正な顔を、彼女のうなじにすり寄せた。

「由理恵、ここ数ヶ月、寂しい思いをさせてごめんな。お前も俺に会いたかっただろ?」

そう言いながら真司は彼女にキスをしようとする一方で、布団の中の手もなにやら怪しく動き始めた。

8年も愛し合ってきた二人なんだから、これまで数え切れないほど体を重ねてきたのだった。しかし今回ばかりは、由理恵にとってなんとも吐き気がするように思えた。

彼女はそのキスを避けると、嫌悪感をあらわにしながら真司の手を振り払った。

「私に触らないで」
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 夕風はもう吹かない   第28話

    由理恵は、あの暑い夏の日に、樹に飴と絆創膏をあげたことを思い出した。「だから、私たちはずっと前から知り合っていたんですね」「ええ」樹はうなずいた。「ずっと前から知り合っていましたよ。ただ俺は運が悪くて、一度すれ違っただけで、一生のチャンスを逃すところだった」「どういうことですか?」由理恵の目からは涙がとめどなく溢れた。もう二度と動くことはないと思っていた心臓が、また高鳴り始めた。「まあ、おいおいゆっくり話しますよ。あれ?また泣いていますか?泣かないで、あなたが泣くと傷が痛むんですよ」樹は手を伸ばして、由理恵の涙を拭った。由理恵はその手を振り払った。「痛み止め使ってるでしょう。痛いわけないじゃないですか?」「胸が本当に痛むんです」「はいはい……水、飲みますか?」「いつになったら、俺のこと、ちゃんと彼氏だって認めてくれますか?」「水、飲みますか?」「飲みます。俺の彼女が淹れてくれるなら、なんだって飲みます」「誰があなたの彼女ですって!私はそんなこと言った覚えがないんですが!」「言いましたよ。寝言で」「寝言なんて、本気なわけないじゃないですか」「……」二人は言葉を交わし、まるで付き合いたてのカップルのようにいちゃついていた。病室の外で、千佳は誇らしげな顔で言った。「樹が刺されたのも、無駄じゃなかったみたいね」夫の山田隆(やまだ たかし)は汗を拭った。「彼は笑いものになるぞ。テコンドーの黒帯なのに、あんな華奢な女の子に刺されたなんて」千佳は言った。「もう、あなたって何もわかってないわね。どうして後から来た者が勝つか、知ってる?」「知ってるさ。後から来た奴の方が、がめついからだろ」(本編終わり)あとがき(一):翠は再鑑定の結果、精神に異常なしと判断された。裁判の結果、彼女は故意傷害罪で懲役5年の判決を受けた。真司は判決通知書と海外行きの航空券を手に、由理恵との最後の面会に臨んだ。その頃、由理恵は樹のプロポーズを受け入れていた。彼女の薬指には、再び輝く結婚指輪がはめられていた。真司は大きなご祝儀袋を取り出し、由理恵に手渡した。「おめでとう」「ありがとう」由理恵は笑顔でご祝儀袋を受け取った。「今までずっと分からなかったんだ。俺はどこで間違えたんだろうって。でも、

  • 夕風はもう吹かない   第27話

    ほどなくして、由理恵の両親が病院に駆けつけたとき、目にしたのは血だらけの娘の姿だった。二人は彼女の体を何度も何度も確かめて、怪我がないことを確認すると、やっと安心したように息をついた。でも、すぐ後に駆けつけた樹の両親の顔は、とてもこわばっていた。重い表情をしながらも、樹の母親の山田千佳(やまだ ちか)は由理恵のそばに歩み寄り、その手を強く握ってくれた。「怖かったでしょ?心配しないで。樹は体が丈夫だから、少しくらいの怪我じゃびくともしないわ」「ごめんなさい、おばさん。彼は、私をかばって……本当にごめんなさい」由理恵はまた感情が溢れてきてしまった。まるで悪いことをしてしまった子供のように、千佳の顔をまっすぐ見ることができなかった。周りの人たちも由理恵の様子を見て、今何を言っても無駄だと悟った。一分、一秒と時間が過ぎていく。やがて手術室のランプが消え、中から医師が出てくると、由理恵は誰よりも先に駆け寄った。「先生、患者さんはどうなりましたか?」「大丈夫ですよ。急所は外れています。縫合も終わりましたから、もうすぐ病室に戻れます」その言葉を聞いた瞬間、由理恵の張り詰めていた気持ちが、ぷつりと切れた。彼女は医師にお礼を言おうとした。でも、目の前が真っ暗になり、みんなの前でそのまま意識を失ってしまった。手術室から出てきた樹が目にしたのは、気を失った由理恵をみんなが心配そうに取り囲んでいる光景だった。もちろん、彼は誰よりも心配だった。由理恵は、とても長い夢を見ていた。夢の中では、真司と過ごしたこれまでの思い出が溢れていた。その光景はまるで時間が逆戻りしていくようで、離婚、失望、すれ違い、そして切ない遠距離恋愛。高校3年生の、あの夕暮れの出会い。そして最後に、まだ盛沢市にいた高校2年生の夏で、時間が止まった。由理恵が階段の踊り場の壁新聞を描き終えて、はしごを物置に返しに行ったときだった。物置のトレーニングマットに、タバコを吸っている男の子が座っていた。男の子は髪が長くて目が隠れていた。でも、その頬には一筋の血がにじんでいた。服にはぐちゃぐちゃの靴跡。どうやら喧嘩をしたばかりらしかった。「ゴホッ、ゴホゴホッ」由理恵は喉が弱くて、タバコの煙を吸うとすぐに咳き込んでしまう。その咳の音に、タバコを吸ってい

  • 夕風はもう吹かない   第26話

    翠には精神疾患の診断書があったので、由理恵は彼女に手出しできなかった。そして、警察署の前で、真司が由理恵に話しかけようとした。でも、樹が二人の間に立ちはだかって、まったく隙を与えようとしなかった。「由理恵、二人だけで話がしたい」「彼女は、あなたと話したくないです」一方で樹は、ずっと我慢していたが、今日こそ、真司に面と向かってはっきり言っておかなければならないと思った。「あなたは一体どうしたいんですか?あなたたちはもう離婚したでしょう。これ以上、彼女の生活を邪魔しないでください。それと、自分の女をちゃんと管理して、精神疾患の診断書があるからって、なんでも許されると思いますよ」その言葉を聞いて、真司の競争心にも火がついた。彼は鼻で笑うと、樹を見返した。「離婚したから何だ?俺と由理恵は8年間も一緒にいた。彼女の初めては全部俺のものだ。お前に何がある?それに、俺がお前のことを知らないとでも思ったか?とっくの昔から知ってるさ。だけど、全く気にも留めてなかった。お前は哀れな負け犬だからな。暗がりから俺と由理恵の幸せをこっそり覗くことしかできない、哀れな男だ」樹は、もう何年も人を殴っていなかった。自分が罵られるくらいならどうでもいい。でも、真司は、由理恵のかつての愛情を踏みにじったんだ。そう思って、樹が拳を振り上げて真司を殴ろうとした瞬間、由理恵が一足先に彼の腕を掴んだ。「やめなさい」由理恵が樹の行動を予測できたのは、彼のことを理解していたからじゃない。真司という人間を、あまりにも知り尽くしていたからだ。真司は一見穏やかで優しそうだが、実はかなりの腹黒だ。警察署の前でわざと樹を挑発したのは、彼に手を出させるためなのだ。由理恵は激怒する樹を後ろに下がらせると、一歩前に出て、一人で真司と向き合った。「彼女を連れて行って。もう私の邪魔をしないで。私たちが愛し合った8年間をまだ思ってくれているのなら……お願い真司、これ以上は付き纏わないで」「由理恵」真司はまだ諦めきれない。彼は由理恵の肩を掴み、目を赤く充血させていた。「愛してる。俺が愛してるのはお前だけだ。お前なしじゃ、本当にダメなんだ。どうしてもう一度だけチャンスをくれないんだ?」「チャンスはあげたわ」由理恵は嫌悪感をあらわに、真司の手を振り払った。「もう

  • 夕風はもう吹かない   第25話

    そして、樹は本当にただ由理恵と食事をするだけだった。逆に、ご飯のあと、由理恵の方から「ちょっとぶらぶらしませんか?」と繁華街に誘ったのだ。それから、温かいミルクティーを手に、二人はたくさんの人がいる中を、肩を並べて歩いていた。「今日は雪が降らないなんて、残念ですね。ねえ、去年とかって雪降りましたか?」由理恵はもう何年も地元でクリスマスを過ごしていなかった。だから、雪の記憶は高校生のときで止まっている。樹は一瞬ぽかんとした顔をしてから、申し訳なさそうに首を横に振った。「わかりません」「え?地元にいなかったのですか?」「うん、東都にいました」「東都に?仕事で来てたのですか?」由理恵は、ただ何気なく聞いたつもりだった。そこまで話したところで、樹は立ち止まった。そして、寒さで頬が少し赤くなった由理恵の顔をじっと見つめた。「あなたに、会いに行ってたんです」由理恵は言葉に詰まった。「去年のクリスマス、あなたは野口先生と一緒でした。大学で、彼の担当の留学生たちとパーティーしてましたね。一昨年は、野口先生はいなかったはずです。あなたは下のコンビニに行って、リンゴを一つ買っていました……」樹に言われなければ、由理恵はすっかり忘れていたことだ。でも、どうして彼がそんなことまで知っているんだろう。「どうしてそんなに詳しいんですか?」「あなたのことが気になって、ずっと見ていたからですよ。それで知りました」そのとき由理恵はふと思い出した。そういえば、日々の出来事はツイッターに投稿していた。でも、あの頃はまだ離婚してなかった。周りから見たら真司とは幸せな夫婦のはずで、ツーショット写真だってよく載せていたのに。もし樹がその頃から自分のことを好きだったのなら、彼はずっと希望のない恋をしていたことになる。「私たちって、一体いつ会ったのですか?」「ふふ」樹は少し寂しそうな顔をしたが、すぐに笑顔でくるりと背を向けて歩き出した。「自分で思い出しなさい」「教えてください!」どうしても知りたくて、由理恵は樹の腕を掴もうと手を伸ばした。でも、その手が触れる直前、突然横から現れた人に思いきり頬を叩かれた。「みんな見て!この女は、自分の夫を捨てて、浮気した有名なインテリアデザイナーよ!」突然のことで、由理恵は

  • 夕風はもう吹かない   第24話

    由理恵は、今まで自分がこんな修羅場を経験するなんて、考えたこともなかった。誰も傷つけたくはなかったが、こうなった以上、彼女も演じ続けるしかなかった。「あなたは先に帰って、彼が、私に何か用があるみたいですから」「ええ。じゃあ、夜、仕事が終わる頃に迎えに来ますよ」樹はそう言うと、手を伸ばして由理恵の頬にそっと触れた。その仕草はとても手慣れていて、まるで二人がもう長い付き合いの恋人同士みたいに見えた。そして、真司にも軽く挨拶をすると、樹は車に乗り込んで去っていった。だが、彼の車が遠くへ走り去るのを待ってから、由理恵は一変して冷たい表情で真司を見つめた。「また何かしようっていうの?お互い、もうこれから先のことを考えればいいじゃない。どうして私の生活を邪魔しに来るのよ?」「由理恵、仕事、辞めたんだ。これからは盛沢市で働くことにした」真司は由理恵の冷たい態度にも怒る様子もなく、むしろ微笑んで一歩前に出た。由理恵はいらだたしげに手に持っていた花を投げ捨て、真司のことなどもう見たくもない、という態度をとった。「あなたは本当にどうかしてる」「さっきの男、お前の友達だろ?なかなか演技が上手いじゃないか」「演技じゃないわ。彼は私の彼氏よ」「お前のことは分かってる。俺たちが離婚したばかりなのに、そんなにすぐ他の男と付き合うなんてあり得ない」「それはあなたが私のことを分かってないってことね」由理恵はまったく機嫌を直そうとせず、その口調はひどく刺々しかった。真司は一度、ぐっと息を飲み込むと、決意を固めた真剣な眼差しで彼女を見つめた。「由理恵、俺はもう決めたんだ。もう一度、お前を振り向かせてみせる。絶対に諦めないから。お前を一生守るって、俺は誓ったんだ」「私たちはもう無理なのよ、真司!あり得ないの!」これ以上時間を無駄にしたくなくて、由理恵はくるりと背を向けてスタジオのドアへと入っていった。さっきまで平静を装っていた真司だったが、この瞬間、彼の目は赤く充血していた。答えはもう出ているようなものなのに、それでも真司はどうしても諦めきれなかった。由理恵はオフィスでしばらく気持ちを落ち着かせてから、樹にメッセージを送った。【さっきはありがとうございました。演技が上手なんですね】すると、樹からすぐに返信が

  • 夕風はもう吹かない   第23話

    由理恵は記憶を何度もたどってみた。でも、いつ樹と会ったのか、どうしても思い出せなかった。それに、彼がずっと好きだったって言うくらいだから、絶対に会ったことはあるはずなのに。その質問を聞くと、樹はクスっと笑った。「ええ、ありますよ」「どこでですか?」由理恵はさらに問い詰めた。「そうですね。薄いグレーなんてどうでしょう。上品に見えますよ」樹が、この質問に答える気がないのは明らかだった。彼が言いたくないなら、由理恵もそれ以上は聞けなかった。「はい。修正したデザイン画、後でスマホに送りますね」その時、由理恵のスマホが鳴った。相手は叔母の真奈美からだった。正直、電話に出たくなかったけど、無視するわけにもいかないのだ。そして、案の定電話に出たとたん、相手が矢継ぎ早に質問してきた。「由理恵ちゃん、会えたの?どうだった?言っとくけどね、樹さんは本当にいい人なのよ。性格もいいし、イケメンだし、稼ぎもばっちり。あの人と結婚したら、もう安泰よ」スマホから漏れる声を、隣にいた樹ははっきりと聞いていた。そして、彼の口元は緩みっぱなしで、にやけるのを隠しきれない様子だった。由理恵も笑っていた。でも、その目は全く笑っていなかった。「おばさん。そんなにいい人なら、陽菜ちゃんに紹介すればよかったじゃないですか」松田陽菜(まつだ ひな)というのは、真奈美の娘で、今年大学を卒業したばかりだった。「陽菜?彼女にそんないい人が、釣り合うわけないでしょ。話をそらさないでちょうだい。それで、あなたはどう思ったの?」もうごまかせないと観念して、由理恵は正直に答えることにした。「いい人だとは思いますけど、私たち、合わないと思うんです。おばさん、また家に帰ってから話します。今、ちょっと立て込んでるので、切りますね」そう言うと、由理恵は一方的に電話を切った。改めて樹の方を見ると、さっきまで浮かべていた笑みはすっかり消えていた。彼が何も言わないので、由理恵も黙っていた。まもなく、車は由理恵のスタジオの前に停まり、二人は順番に車を降りた。樹は中までついてくるつもりらしかったけど、由理恵はもうこれ以上話すことはないと感じていた。「カラーについてはもうご意見を伺いましたし、この後、来客の予定が……」由理恵の言葉が

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status