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略奪女に夫を譲ったら、今更執着された

略奪女に夫を譲ったら、今更執着された

作家:  くまちゃんは必ず輝く完了
言語: Japanese
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概要

逆転

ドロドロ展開

愛人

ひいき/自己中

不倫

どん底の時代、私たちは狭い安アパートで身を寄せ合い、ゴミを拾って露命を繋いでいた。 転機は、彼が暴漢に襲われていた「ある女の子」を助けたこと。 大怪我を負った彼が手にしたのは、加害者の男からの莫大な示談金—— その金を元手に、私たちは地を這う生活から抜け出し、上流階級へと駆け上がった。 すべてが報われるはずの結婚式。 あの時、彼が命懸けで救った女の子が現れ、式を台無しにした。 追い出そうとする警備員を制したのは、新郎である彼自身だった。 式は続行された。けれど私は見てしまった。 彼の視線が、客席で涙を浮かべる彼女に、ずっと囚われたままだったことを。 結婚から五年。 数えきれないほどの「離婚してくれ」を飲み込んできた。 そして最後の一回。 私は、その言葉に頷いた。

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第1話

第1話

どん底の時代、私たちは狭い安アパートで身を寄せ合い、ゴミを拾って露命を繋いでいた。

転機は、彼が暴漢に襲われていた「ある女の子」を助けたこと。

大怪我を負った彼が手にしたのは、加害者の男からの莫大な示談金——

その金を元手に、私たちは地を這う生活から抜け出し、上流階級へと駆け上がった。

すべてが報われるはずの結婚式。

あの時、彼が命懸けで救った女の子が現れ、式を台無しにした。

追い出そうとする警備員を制したのは、新郎である彼自身だった。

式は続行された。けれど私は見てしまった。

彼の視線が、客席で涙を浮かべる彼女に、ずっと囚われたままだったことを。

結婚から五年。

数えきれないほどの「離婚してくれ」を飲み込んできた。

そして最後の一回。

私は、その言葉に頷いた。

……

大晦日の夜。スマートフォンの画面を埋め尽くすLINEの緑色の吹き出しを眺め、確信した。今夜、紀藤紀一(きとう きいち)は帰ってこない。

「苦労している男を支えて一緒に起業するなんて、女として一番愚かな選択だ」

かつて周囲が口を揃えて忠告してきた言葉が、今さら呪いのように脳裏をよぎる。

紀一だけは例外だと信じていた。けれど時間の流れという残酷な洗礼は、彼をも「どこにでもいる、恩を忘れた男」へと変え、世間の俗説を証明する新たなサンプルに仕立て上げてしまった。

私・紀藤志乃(きとう しの)は、友達リストから紀一のアカウントを削除した。

迷いはなかった。そのまま、何日も前からリビングのテーブルに放置されていた離婚届にペンを走らせる。

最後の一文字を書き終えた、その時だった。

玄関のドアが開く、重苦しい音が響いた。

顔を上げると、そこには紀一と、その腕に親しげに絡みつく白河澪(しらかわ みお)の姿があった。

五年前、彼が身を挺して守ったあの子。あの日を境に、紀一はまるで別人のようになってしまった。

私を労る言葉もなくなり、視線さえ交わさなくなった。

かつて、澪が「自分の居場所が欲しい」と泣いて縋った時、彼は目を血走らせてこう言い放ったという。

「俺が志乃と結婚したのは、入院中に献身的に支えてくれた恩があるからだ。一緒にこの資産を築き上げてきたっていう情もある。……それさえなければ、あんな女、妻にするはずがないだろう」

何人もの伝言ゲームを経て私の耳に届いたその言葉は、彼自身の本音に違いない。

夫の心の内を最後に知ったのが、他ならぬ妻である私だったというのは、滑稽ですらある。

だから、今朝また彼が離婚を切り出してきた時、私は、ようやく頷いたのだ。

紀一は当たり前のような仕草で腰をかがめると、靴箱からふわふわした毛織のレディーススリッパを取り出し、澪の足元に揃えた。

澪はその細い手を自然に彼の腰へと回し、身を預けるようにして靴を脱ぐ。その姿は、私よりもずっと「家族」としての体裁をなしていた。

透明人間として扱われることには慣れていたはずなのに、その光景は今もなお、鋭い棘となって私の胸を突き刺す。

私は深く息を吸い込み、彼を呼び止めた。

「紀一、話があるの」

彼は私の声など聞こえていないかのように、手元の動作を止めようともしない。

代わりに反応したのは、隣にいた澪だった。彼女は勝ち誇ったような笑みを私に向けると、わざとらしく照れたように彼の肩を小突いた。

「紀一さん、志乃さんが待ってるわよ」

そこでようやく、彼は視線の端で私を捉えた。

先ほどまで彼女に向けていた柔らかな情愛は跡形もなく消え去り、そこにあるのは突き放すような冷徹さだけだ。

「……何だ、藪から棒に」

背後に佇む澪に目を向け、私は視線を伏せた。

「二人だけで、話したいの」

「今さら何を隠す必要がある?澪は他人じゃない」

苛立ちを隠そうともせず、彼は私の言葉を遮った。

その言葉を聞いた澪は、頬を朱に染めて「もう、紀一さんったら」と甘えるように彼の腕を叩く。

これ以上、二人の安っぽい芝居に付き合うつもりはなかった。私はただ、テーブルの上に置いてあった離婚届を、彼の前へと静かに押し出した。

その動きを見た瞬間、彼は不快そうに眉を寄せた。

「いい加減にしろ。またその手口か?」

一瞬、言葉の意味を測りかねて硬直したが、すぐに思い当たった。先月のことだ。

結婚記念日の当日、私は彼のSNSに投稿された写真を見た。海外の離島でバカンスを楽しんでいるようだった。

レンズの向こうで澪と笑い合う彼の表情は、私との結婚生活では一度も見せたことのないほど、眩しく輝いていた。

だから、私はあてつけのように彼へメッセージを送ったのだ。――「離婚に同意する」と。

彼は天にも昇るほどの喜びようだった。その言葉の真偽を疑うことすら忘れ、その日のうちに海外から飛行機で飛んで帰ってきた。

そして家に入るなり、弁護士に作成させた離婚届を私の目の前に叩きつけたのだ。

私は自嘲気味な笑みを浮かべ、静かに告げた。

「今回は本気よ。紀一、私たち、これで終わりにしましょう」

紀一はその場に立ち尽くしたまま動こうとしない。抜け目のないその瞳が、私の本心を見透かそうとするかのように執拗に注がれる。

沈黙を破ったのは澪だった。彼女は数歩前へ出ると、テーブルの上の書類を手に取り、隅々まで眺め始めた。

「……あれ?どうして財産分与が折半になっているんですか?」

彼女は書類の一箇所を指差し、不満げに首をかしげる。

「私の記憶が確かなら、志乃さんは結婚してから一度も会社の経営には関わっていないはずですよね?」

あまりにも分をわきまえない振る舞い。それを平然と許している紀一の姿を見て、私の心はこれ以上ないほど冷え切っていった。

「夫婦の問題に、いつから部外者が口を出すようになったのかしら」

冷徹な響きを隠そうともせず私が言い放つと、澪はすぐさま傷ついた顔をして書類を置いた。その瞳には、見る間に涙が溜まっていく。

「私はただ、疑問に思っただけで……悪気なんてなかったんです。志乃さんをそんなに怒らせてしまうなんて……」

紀一は、澪の涙に滅法弱い。彼はすぐさま彼女を愛おしそうに抱き寄せると、私を激しい口調でなじり始めた。

「志乃、いい加減にしろ!何を血迷っているんだ。

彼女は素朴な疑問を口にしただけだろう。そこまで悪し様に言う必要があるのか?」

言い返そうとした。けれど、目の前で色をなして怒る紀一を見ていると、喉の奥に何かがつかえたようになり、言葉が一つも出てこない。

必死に彼女を庇うその形相を見ているうちに、ふと、澪に出会う前の彼を思い出した。

あの頃の彼は、私が料理中に少し指を切っただけで、数日間も自分のことのように心を痛めてくれる人だった。

分かっている。その献身も愛情も、消えてなくなったわけじゃない。ただ、向ける相手が私から別の誰かに変わっただけなのだ。

一体、どこで、何を見誤ってしまったのだろう。かつて安アパートで身を寄せ合っていた私たちが、どうしてこんな結末を迎えてしまったのか。

私は思考を遮り、テーブルの上の離婚届を彼へと差し出した。

「これまでの年月、あなたを支えて一緒に戦ってきた自負はあるわ。この財産分与は、私の権利として妥当なはずよ」

紀一は苛立ちを隠そうともせず、私の手にある書類を乱暴に払いのけた。

「今日はそんな話をするつもりはない」

その言葉に、彼の腕に抱かれていた澪の表情が瞬時に曇る。

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第1話
どん底の時代、私たちは狭い安アパートで身を寄せ合い、ゴミを拾って露命を繋いでいた。転機は、彼が暴漢に襲われていた「ある女の子」を助けたこと。大怪我を負った彼が手にしたのは、加害者の男からの莫大な示談金——その金を元手に、私たちは地を這う生活から抜け出し、上流階級へと駆け上がった。すべてが報われるはずの結婚式。あの時、彼が命懸けで救った女の子が現れ、式を台無しにした。追い出そうとする警備員を制したのは、新郎である彼自身だった。式は続行された。けれど私は見てしまった。彼の視線が、客席で涙を浮かべる彼女に、ずっと囚われたままだったことを。結婚から五年。数えきれないほどの「離婚してくれ」を飲み込んできた。そして最後の一回。私は、その言葉に頷いた。……大晦日の夜。スマートフォンの画面を埋め尽くすLINEの緑色の吹き出しを眺め、確信した。今夜、紀藤紀一(きとう きいち)は帰ってこない。「苦労している男を支えて一緒に起業するなんて、女として一番愚かな選択だ」かつて周囲が口を揃えて忠告してきた言葉が、今さら呪いのように脳裏をよぎる。紀一だけは例外だと信じていた。けれど時間の流れという残酷な洗礼は、彼をも「どこにでもいる、恩を忘れた男」へと変え、世間の俗説を証明する新たなサンプルに仕立て上げてしまった。私・紀藤志乃(きとう しの)は、友達リストから紀一のアカウントを削除した。迷いはなかった。そのまま、何日も前からリビングのテーブルに放置されていた離婚届にペンを走らせる。最後の一文字を書き終えた、その時だった。玄関のドアが開く、重苦しい音が響いた。顔を上げると、そこには紀一と、その腕に親しげに絡みつく白河澪(しらかわ みお)の姿があった。五年前、彼が身を挺して守ったあの子。あの日を境に、紀一はまるで別人のようになってしまった。私を労る言葉もなくなり、視線さえ交わさなくなった。かつて、澪が「自分の居場所が欲しい」と泣いて縋った時、彼は目を血走らせてこう言い放ったという。「俺が志乃と結婚したのは、入院中に献身的に支えてくれた恩があるからだ。一緒にこの資産を築き上げてきたっていう情もある。……それさえなければ、あんな女、妻にするはずがないだろう」何人もの伝言ゲームを経て私の耳に届いたそ
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第2話
澪は不満げに唇を尖らせ、縋るような声を上げた。「どうして?彼女も署名したんでしょう?ずっとあなたが望んでいたことじゃない」そうだ。これこそが、彼が切望していた結末ではなかったのか。それなのに、なぜ今さら話し合いを避ける必要がある?紀一は彼女を見つめ、溢れんばかりの甘い声で宥めた。「俺たちが何のために帰ってきたか、忘れたのかい?」澪はこくりと頷き、「忘れてないわ。……早く行ってきて」と彼を促した。階段を上がっていく紀一の背中を見送りながら、彼らがここへ寄った理由を悟った。どうせ、海外旅行にでも行くためのパスポートを取りに来たのだろう。去年と同じだ。けれど今回は、この広い屋敷で独り、帰りを待つだけの私ではない。紀一の姿が見えなくなると、澪はテーブルに並んだ料理と私を交互に眺め、嘲るような笑みを浮かべた。先ほどまでの「守ってあげたくなるような弱々しい女の子」の面影は、微塵も残っていない。「志乃さん、本当にごめんなさいね。紀一さんが、どうしても私を海外に連れて行きたいって聞かなくて。断るのも悪いでしょう?そういえば、あなたとは結婚してから一度も旅行なんて行ってないんですってね」私が黙殺していると、彼女はこれ見よがしに左手をかざし、食指に輝く指輪を自慢げに見せつけてきた。「このリングも、紀一さんからの贈り物なんです。別に欲しくないって言ったのに、どうしてもって……これほどのサイズの翡翠、市場にも滅多に出回らないんですって」幼稚で執拗な誇示に、胸の奥からどす黒い不快感がせり上がってくる。私は彼女の言葉を強引に遮り、隠しきれない嘲笑を込めて言い放った。「ええ、そうね。恩人を仇で返すような人間なんて、世の中にそう何人もいないもの。あなたのその無神経さには感服するわ」彼女の顔が屈辱で赤らんだり青ざめたりするのを見て、胸の内に溜まっていた鬱憤がいくらか晴れるのを感じた。けれど、そのささやかな快感も長くは続かなかった。階段の方から、紀一の怒声が響き渡ったからだ。「志乃、いい加減にしろ!」言葉が終わるより早く、紀一は階段を駆け下りて私の前に立ちはだかり、澪を庇うように背後に隠した。「彼女をいじめるなと何度言えばわかるんだ。言葉も通じないのか?少し目を離した隙に、またこれか!」冷徹な面持ち
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第3話
私はその三通のメッセージを、読み返すことなく削除した。視界に入れなければ、苛立つこともない。ついでに、彼の電話番号も着信拒否に設定した。高平市に腰を据えて半月が過ぎた頃、ようやく登山道が開放される日がやってきた。この半月の間、航は頼みもしないのに私の専属ガイドを買って出て、高平市はおろか周辺の観光スポットまで余すところなく案内してくれた。さすがに申し訳なく思い、ガイド料を支払いたいと申し出たのだが、彼はただ静かに首を振って受け取ろうとしない。彼は紳士だった。いや、紳士という言葉だけでは、彼を形容するには不十分かもしれない。男という生き物が持ち合わせる欠点をすべて濾過したかのような、穏やかで礼儀正しい振る舞い。それは、世の女性なら誰もが一度は夢見る、理想の伴侶そのものだった。いよいよ登頂へ挑む前夜のことだ。航からは、未だに山岳ガイドの紹介がない。私たちはいつものようにリビングで、テレビのバラエティ番組をBGMに夕食を囲んでいた。痺れを切らした私は、箸を止めて切り出した。「ねえ、お願いしてたガイドさんの件なんだけど……」すると航は、どこに隠し持っていたのか、二冊の公認ガイド資格証をテーブルに滑らせた。そして部屋の隅に積まれた装備に視線をやり、さらりと言った。「明日のガイドは、僕が務めるよ」その言葉が落ちた瞬間、表で呼び鈴が鳴った。航は箸を置いて立ち上がり、玄関へ向かう。扉が開くと、賑やかな男たちの声と共に、数人の集団が雪崩れ込んできた。その騒がしい輪の中心には、二人の男女が守られるように立っている。人垣の中の二人を認めた瞬間、フライドチキンにかぶりついていた私は、その格好のまま凍りついた。紀一と、澪だ。なぜ、こんなところに?私と目が合った瞬間、澪の瞳が大きく揺れた。コートの裾を握りしめる指先が白くなる。「志乃さん……?どうしてここに?」紀一もまた、虚を突かれたように立ち尽くしていた。だが次の瞬間、心の底に澱んでいた感情が一気に顔へ昇ったようだ。無言のまま私を射抜く視線には、殺意すら滲んでいる。口元には冷笑を浮かべているものの、その顔色は隠しようもなく強張っていた。私は組んだ足を解くこともなく、食べかけのチキンをボウルに戻した。そして、さも心当たりがないといった
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第4話
目の前の男が吐くあまりに身勝手な理屈に、怒りを通り越して笑いが込み上げてきた。私は抵抗するのをやめ、冷ややかな視線を彼に向けた。「なによ。今さら『人妻なんだから貞淑にしてろ』とでも言いたいの?ねえ紀一。あなた、ずいぶん物忘れが激しいようだから教えてあげる」私は一言一言、噛み含めるように告げた。「私たちはもう、他人よ」「それに、私と瀬戸口さんはやましい関係じゃない。宿の主人と客、ただそれだけよ。あんたと一緒にしないでくれる?……反吐が出るわ」紀一の表情が修羅のように歪む。その形相は恐ろしいほどだったが、私は怯まずに畳みかけた。「だいたい、離婚はずっとあなたが望んでたことじゃない。五年もかけて、ようやく私が判を押してあげたのよ。これ以上、何を望むっていうの?私を追い詰めて殺さないと、気が済まないわけ?」その言葉が引き金だった。ふっと、肩に食い込んでいた指の力が抜ける。あれほど煮えたぎっていた怒気は霧散し、彼は逃げるように背を向けた。私は解放された両肩をさすりながら、呆れたように彼を見つめる。すると、背中越しに震える声が聞こえた。「……死ぬな」その言葉はかつて、生死の境をさまよう彼に、私が祈るように繰り返したものだった。あの頃、彼は集中治療室のベッドに繋がれていた。一日の治療費だけで四十万円。陽の当たらない安アパートで暮らしていた当時の私たちにとって、それはまさに天文学的な数字だった。やがて判決が下りた。加害者の親が資産家だったこともあり、示談金や慰謝料を含めて七千万円近い賠償金が支払われることになったのだ。当時の紀一は、一日のうち三十分ほどしか意識が戻らなかった。だが、賠償金の話を聞いた途端、彼は人が変わったように暴れだした。食事を運ぶ私の手を何度も振り払い、管だらけの身体をよじって、必死の形相で「出て行け」と喚き散らしたのだ。彼の意図は痛いほど分かっていた。七千万といえば、一般人が一生かけても拝めないような大金だ。当時の私にとっても、想像すらつかない額だった。彼は私に、その金を持って逃げろと言いたかったのだ。自分のような死に損ないに浪費せず、その金で自由になって幸せに生きろ、と。けれど、私に彼を見捨てる選択肢などなかった。ある日、私が治療費を払いに窓口へ向か
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第5話
血走った目で睨みつけてくる彼女を見て、私は小さく溜息をついた。言うだけ無駄か。自ら地獄を見たいというなら、好きにすればいい。どうせ六人もガイドを雇っているのだ。いざとなれば彼らが交代で彼女を背負って登ればいいだけの話だ。夕食後、航は全員を集めて明日の注意事項を説明し始めた。だが説明が終盤に差し掛かった頃、澪が不機嫌さを隠そうともせず口を挟んだ。「ねえ、さっきから御托ばかりでうんざりなんだけど。私が大金を払ってあんたたちを雇ったのは、登頂するためでしょ?もし登れなかったら許さないからね。私のカネが空から降ってくるとでも思ってるの?」その増長ぶりは目に余るものがあった。紀一に甘やかされた結果、彼女は自分を中心に世界が回っていると勘違いしているのだ。私はチラリと紀一の様子をうかがった。彼は俯いたまま押し黙っていたが、膝に置いた指先が、トントンと不規則なリズムを刻んでいる。私は知っている。あれは彼が極度の苛立ちを感じている時の癖だ。あと一つ何かきっかけがあれば、彼の感情は爆発するだろう。長年連れ添った直感がそう告げていた。航は澪の暴言を完全に無視し、最後まで淡々と説明を続けた。一通りの話が終わると、彼は私のそばに来て声をかけた。「今夜は早めに休もう。午前三時に朝食をとって、そのままアタック開始だ」翌朝、朝食を終えた私が装備の最終チェックをしていると、ある異変に気づいた。酸素ボンベとエナジーバーが、三分の一近く減っているのだ。ふと顔を上げると、昨日よりも明らかに不自然に膨れ上がった澪のザックが目に入った。私は出発しようとする彼女の前に立ちはだかり、手を突き出した。「人の荷物から抜き取った分、返してもらうわよ」澪はわざとらしいほど目を丸くし、か細い声を作って訴える。「志乃さん、また言いがかりですか?私がいつ盗ったっていうんです?私のことが嫌いなのは分かりますけど、泥棒扱いは酷すぎます……っ」白々しい演技に反吐が出る。私は冷ややかに言い放った。「そう。じゃあそのザック、今ここで開けてみなさいよ」澪は背後のガイドにザックを押し付け、顎をしゃくって見せた。「なんであなたに見せなきゃいけないの?盗ってないって言ってるでしょ」「私の食料には全部マーキングしてあるの。やましいことがな
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第6話
高平市から海原市までは、車でおよそ五時間の道のりだ。その五時間、車内は息が詰まるような重苦しい沈黙に支配されていた。不意に、ポケットの中でスマホが震えた。取り出して画面を見ると、航からのLINEだ。【今夜、ご飯は戻る?】この状況では、戻れそうにない。返信を打とうとしたその時、横から伸びてきた手がスマホをひったくった。画面を睨みつける紀一の指に力がこもる。関節が白く浮き出るほど強く握りしめ、彼は私に向けて怒りを露わにした。「これが、離婚したい理由か?どこの馬の骨とも知れない男のために、俺を捨てるのか?」私は彼の手からスマホを奪い返してポケットに突っ込むと、湧き上がる怒りを強引にねじ伏せて冷たく言い放った。「いくつか質問するわ。正直に答えて」彼は黙っている。私はそれを肯定と受け取り、言葉を続けた。「そもそも、離婚したいと言い出したのは、あなたよね?」彼は苦々しげに顔を歪めたが、否定の声あげることはできなかった。事実だからだ。「この五年間、あなたが離婚を口にするたびに、私は必死に引き止めたわよね?違う?」彼の視線が泳ぐ。図星なのだろう。「今、私はあなたの望み通りに行動している。それなのに、どうしてそんなに不満そうなの?」紀一は形の良い薄い唇を真一文字に引き結び、悔しさと後悔がない交ぜになった目で私を見つめた。その唇が微かに震えている。やがて、長い沈黙の後。彼は祈るように声を絞り出した。「離婚なんてしない……頼む」耳を疑った。あのプライドの塊のような男が、私の前でそんな言葉を吐くなんて。「今までのことは俺が悪かった。殴ってもいい、罵ってもいい。だから、頼むから俺を捨てないでくれ。あいつとはもう関わらない、縁を切る。これからは、お前とやり直したいんだ」その言葉には聞き覚えがあった。彼が退院したあの日も、同じことを言っていたからだ。けれど、その誓いは長くは続かなかった。ほどなくして、澪が私たちの生活に入り込んできたからだ。「命の恩人への感謝」という、誰も拒めない大義名分を掲げて。当初、私はそれを意に介さなかった。夫婦にとって最も大切なのは信頼だと信じていたから。しかし、二人の逢瀬は頻度を増し、その空気は日増しに濃密になっていった。彼女の目的が単なる感謝などではないと気
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第7話
あの日を境に、私と紀一の立場は常軌を逸した奇妙な逆転を見せた。かつては毎晩、私が彼のために温かいミルクを用意していた。それが今では、彼がホットミルクを私のベッドサイドに運んでくるようになったのだ。少し媚びるような笑みを浮かべる彼を一瞥し、私は口の端を皮肉に歪めて言った。「私、乳糖不耐症なんだけど」その一言で、彼の顔から血の気が引いた。「……忘れてた。すまん、二度とこんな間違いはしない」私は追い打ちをかけるように、にっこりと微笑んで教えてあげた。「寝る前にミルクを欲しがるのは白河澪でしょ。私じゃないわ」その晩以降、我が家の冷蔵庫から乳製品が姿を消した。そんな折、航からLINEが入った。高平市に置きっぱなしの荷物をどうするか、という確認だった。私はスマホを片手に三十分ほど考え込み、最終的に一年分の家賃を彼に送金した。【部屋はそのままでお願い。必ず戻るから】この茶番劇が終わったら、私は必ずあそこへ帰る。やり残した雪山登頂を、今度こそ果たすために。私はソファに沈み込み、ポケットから煙草を取り出した。ライターに手が触れた瞬間、チャイムが鳴った。煙草を口にくわえたままキャットアイを覗き込む。来訪者の顔を確認した私は、すぐにドアを開け放った。私はドア枠にだらしなく寄りかかり、わざとふてぶてしい声色で出迎えた。「あら、意外と早かったわね。海原市まで乗せてくれる物好きなんて、いないと思ったのに」澪は私を軽く睨みつけると、私の肩を突き飛ばして土足で上がり込んできた。「紀一さん!どうして私を置いて……!」リビングに飛び込んだ彼女の絶叫が、不自然に途切れた。キッチンでエプロン姿になり、忙しく立ち働く紀一の姿を目にしたからだ。結婚して以来、彼が厨房に立つことなど一度たりともなかった。その光景に、彼女は言葉を失っている。私はカチリとライターの石を擦った。赤い炎が煙草の先端を舐め、紫煙が揺らめくのを横目で見ながら、私は深く煙を吸い込んだ。さあ、見物だと言わんばかりに。紀一は出来上がった料理をテーブルに置くと、澪に向けてあからさまな警戒心を剥き出しにした。「何しに来た」彼の声は氷のように冷たかった。「話は済んだはずだろ。これ以上、俺と妻の生活を邪魔するな」あんなに突き放すような紀
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第8話
私は乾いたインクを確認して離婚届をしまい、二階へ上がって荷造りを始めた。この家には未練がない。協議書の条件通り、私が出ていくつもりだった。スーツケースを引いて階下へ降りると、紀一が立ちはだかった。「お前はここにいろ。俺が出ていく」彼はそれだけ言い残すと、私の返事も待たずに家を飛び出して行った。澪が私をひと睨みし、慌てて彼を追いかけていく。やがて外から激しいエンジン音が響き、それが遠ざかると、家の中には深い静寂だけが残された。後日、市役所の自動ドアを抜けた瞬間、身体がふわりと軽くなった気がした。長年私を閉じ込めていた鳥籠が、ようやく開かれたのだ。隣を歩く紀一が何か言いかけた時、一台の車が私たちの前に滑り込んできた。運転席から降りてきたのは、航だった。昨日、LINEで「飛行機で戻る」と伝えた時、彼は「迎えに行く」と言ってきかなかったのだ。まさか本当に、片道五時間もかけて海原市まで来てくれるとは。私は彼に歩み寄り、軽口を叩いてみせた。「瀬戸口さんの宿はすごいわね。こんな遠方まで無料送迎サービスがあるなんて」航は少し照れくさそうに笑うだけで、何も言わずに助手席のドアを開けてくれた。車に乗り込もうとしたその時、背後から呼び止められた。紀一が、ずっと喉元で支えていた言葉を、ようやく吐き出したようだった。「……すまなかった」たった一言。けれど、その謝罪が向けられた相手は、今の私ではない。かつて彼と共に安アパートで暮らし、その日暮らしの飢えを凌ぎ、生理用品の一枚さえ惜しんで生活していた、あの頃の「志乃」に向けられたものだ。今の私には、五年前の私が受けた傷を、代わりに許す資格なんてない。そして、許すつもりもなかった。その悔恨は、彼が一生背負い続けるべき借りなのだから。高平市に戻り、久々に穏やかな時間が流れた頃。航が改まって尋ねてきた。あの雪山に、まだ未練があるかと。私は窓の外に広がる雄大な山脈を見つめ、迷いなく頷いた。「もちろん。あの頂上に立つまでは終われないわ」「分かった」航は頼もしく微笑んだ。「今はルートが封鎖されているけれど、一ヶ月後には解禁される。……その時も、ガイドは僕に任せてくれるね?」「ええ、お願いするわ」再挑戦の日が近づいたある日、航の宿に一人の
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