FAZER LOGIN火曜の午前、悠真は気管挿管されたまま、目を開けていた。
絵里が挨拶すると、彼の視線は名札から顔へ上がった。前日の最後の会話を覚えているかどうかは分からなかった。絵里はまず、ここがICUで、骨盤の出血を治療した翌日だと説明した。
悠真の右手が動いた。看護師がコミュニケーションボードを差し出すと、彼は指先で3文字を示した。
「足の指」
絵里は、朝に整形外科が確認した神経と血流の評価を読んでから、今感じている不安をもう一度尋ねた。しびれや感覚がないという意味なのか、動かしてもいいかという質問なのか、区別する必要があった。悠真は後者の質問に、まばたきで答えた。
「骨盤に力がかかる動きはできません。私が確認している間に、足の指を少し動かしてみてください」
左右とも動きが見えた。絵里は感覚も別に確認した。足の指が動くからといって、自分で立って歩
火曜の午前8時30分、会議室のいちばん後ろの椅子が1脚空いていた。絵里は資料をめくりながら、その席を確認した。救急科の佐伯遥が到着する前だった。携帯電話には、救急室で引き継ぎを終えてから上がるというメッセージが届いていた。高瀬は開始時刻を2分遅らせた。その短い待ち時間にも、誰かの患者を代わりに診ている人がいた。小野寺美穂はICUの担当看護師と業務を調整して参加した。放射線科の黒田修一は次の手技までの40分を空け、整形外科の立花健吾は前日に共有された悠真の画像に印をつけてきていた。水野紗季の前には麻酔記録が、輸血部の担当者の前には血液製剤の出庫時刻が置かれていた。湊はノートパソコンの横に座っていた。絵里が発表画面を開こうとすると、彼が先に接続ケーブルを差し込んだ。「今日は先生方が全員そろっていますね」「だから、間違いを早く見つけられます」絵里が答えた。湊は笑ったが、頬はこわばっていた。佐伯が入ってドアを閉めると、大槻和彦が口を開いた。「先週の患者さんは助かりました。その結果だけを理由に、途中の判断もすべて正しかったことにするのはやめましょう」絵里は最初の画面から患者の名前と個人的な事情を外した。損傷の仕組み、到着時の反応、利用できた資源だけを残した。悠真の名前が消えた画面を前に、湊はノートパソコンの位置を直した。あのとき目にした状態から説明しなければならなかった。「救急室への到着は月曜13時52分です。初回の輸血で血圧は一時上がりましたが、維持できませんでした」画面に2つの時点の記録が並んだ。湊が搬送時刻を指した。「CTを先に撮らず、手術室へ移動しました」大
月曜の朝、絵里は共用キッチンの入口で、携帯電話と目の前にいる一条怜司を交互に見た。画面には「起きましたか」というメッセージが表示されていて、送信した本人はフライパンを持っていた。卵の縁が焦げすぎている。「返事がなかったので」「シャワーを浴びていたんです。今、返事をしましょうか?」「いえ、まず救助要請を受けます」怜司がフライ返しを差し出した。絵里は卵の下を確認してから火を弱めた。もうひっくり返すには遅かった。焦げた縁だけ切り落として食べよう、という結論に2人とも異論はなかった。彼がテーブルに置いた2枚の皿のうち、片方にだけパンが載っていた。絵里が冷蔵庫からおかずの容器を出すと、空いていた皿の前にご飯が置かれた。前のように、相手が何を食べるか想像して両方の分を決めておくことはなかった。「今日の最初の回診は早いんですか?」「修平さんの傷を一緒に見ることになっています。怜司さんは?」「手術前の説明があります」絵里はいつもどおり答えたあと、スプーンを少し置いた。昨日から付き合うことになった人との最初の朝の会話が、病院の出勤時間だった。そう思うと、笑いがこみ上げた。「どうしました?」「付き合ったら、朝に何か変わると思っていたんです」怜司は切り落とした卵の縁を見た。「メニューの安定性は下がりましたね」「それは恋愛と関係ありません」彼は笑い、テーブル越しに手を差し出した。絵里はご飯をひと口飲み込んでから、その手を握った。急いで離さなくてもいい手だった。それでも出勤時間が延びるわけではな
日曜の午後1時50分、絵里は着ようとしていたシャツをベッドの上に広げた。ボタンを外せば気合いを入れすぎたようだし、留めれば会議へ行く人みたいだった。結局、最初の状態に戻った。ドアの外で足音がした。怜司が先に下りていくようだった。絵里は鏡を見ながら髪を耳にかけ、また元に戻した。携帯電話が鳴った。午後2時、ゆっくり出てきてください。絵里はドアのほうを振り返った。返信を書こうとしたところへ、次のメッセージが届いた。僕が早く出すぎました。絵里はとうとう声を出して笑った。シャツのボタンにはもう触れなかった。***職員寮の前で、怜司は駐車してある車の横に立っていた。いつもより明るい色のシャツを着ていた。絵里が下りてくると、彼は先に挨拶しようとして、言葉より視線が長くなった。「変ですか?」絵里は自分の服を見下ろした。「いいえ。言葉が出るのが遅くなりました」「何の言葉ですか?」「よく似合っています」彼はそう言ってから車のドアを開けた。絵里はシートベルトを締めながら、うつむいた。「教授も、似合っています」怜司は運転席に座りかけて、彼女を見た。「今日は、僕の名前で呼んでもらえませんか?」絵里はシートベルトの端をつかんだまま止まった。先週キスをしたのに、名前を1度呼ぶことが、また新しく難しくなっていた。手術室でいつも顔を合わせる人なのに、肩書きなしで呼ぼうとする
土曜の午後2時、絵里は申し送りを受けながら、悠真の名前の横に病棟移動の予定がついているのを確認した。前日に骨盤の最終固定を終えてから、夜間の循環と呼吸は安定していた。新たな出血を示す変化も、追加の輸血もなかった。整形外科とICUが状態を確認し、午後に整形外科病棟へ移ることになった。悠真はその話をすでに聞いていて、荷物を探していた。荷物といっても、運動靴とウェットティッシュ、姉が持ってきた小さなポーチくらいだった。そのどれも自分で片づけるのは難しそうだった。「携帯の充電器もありませんでしたか?」絵里が尋ねると、悠真はベッドの下のほうを指した。担当看護師が確認し、コードを抜いて理恵に渡した。「患者さんって、これをよく置いていくんですよね。私も忘れるところでした」悠真は笑った。絵里は転棟先で続ける治療計画を確認した。痛みと創部を観察する基準、異常が出たときに整形外科と外傷チームへ連絡する方法も整理されていた。骨盤外傷で動きが制限されている間は、血栓予防も忘れられない。出血が落ち着いてから始めた薬物予防が、前日の手術前後の計画に合わせて調整されているか、現在の投与と機械的予防に問題がないかを担当チームと確認した。出血と血栓のリスクは、どちらか片方だけを見て決めることはできなかった。移動する前に、悠真が美穂を呼んだ。「夜、何度も呼びましたよね」日勤中の美穂は荷物の一覧を折りたたんだ。「必要だから呼んだんでしょう。病棟でもそうしてください」「それでも、お礼は言っておこうと思って」美穂は少し笑って、ありがたく受け取ると言った。それから理恵に、まずコールボタンを探しておく
金曜の朝、悠真は姉が持ってきた運動靴を、ベッドから見える場所に置いてほしいと言った。「すぐには履けないって分かってるよ」理恵は紙袋を折りながら言った。「履かせてくれって頼んでないよ」悠真は少し口を閉じた。それから、靴ひもがほどけているから結んでほしいと頼んだ。理恵は何も言わず、左右のひもを内側へ入れた。弟は出勤するたび、ひももほどかずに靴を脱ぎっぱなしにしていたのだという。絵里は今日の手術に向けた状態を確認した。夜間に追加の輸血は必要なく、骨盤のパッキングを取り除いた部位にも再出血を疑う変化はなかった。麻酔科と整形外科が確認した蘇生の経過と検査結果を一緒に検討した。悠真は自分の下腹部を見下ろした。「この鉄の枠も、今日なくなりますか?」体の外側から骨盤を支えている固定器材だった。絵里は、内固定で骨盤を安定させてから取り外す計画だと答えた。最終的に安全な固定ができたかは、手術チームが確認しなければならない。「最初は縛って、手術して、また外して。ずっと、ばらしては組み直している気分で」彼は目をそらして付け加えた。「必要だからやっているのは分かっているんですけど」絵里は、出血がひどかった初日に命を守るために行った一時的な固定と、今日の治療目的をもう一度説明した。最初の手術が不十分だったから、同じ手術を繰り返すわけではない。「今は、骨が治るまで支えてくれる固定をする段階です。最初とは違うところまで来たんですよ」悠真はしばらく聞いてから顔を上げた。「じゃあ、今日からはもう少し長く使えるものを入れるんですね」&
木曜の午前、修平は形成外科という名前を聞くと、まず頭に手をやった。「顔はけがしていないんですけど」千春は笑いかけて、絵里の表情をうかがった。絵里は笑みを隠さず、今日のコンサルトの目的を説明した。深い感染を取り除いたあとに残った傷をどう覆い、機能を回復させるか、一緒に判断する専門医だった。「縫う方法だけを見るわけではありません。動いたときに引きつったり、不便になったりするところも相談したいんです」修平は自分の脚のほうを見た。「それなら、座ることについても聞いていいんですね」絵里は、まずそれを聞いてほしいと答えた。今日は写真館で椅子にどれくらい座っていなければならないかも、治療チームにとって必要な情報だった。***鎮痛薬を投与し、効果を確認してから創部を評価した。形成外科医は野口と一緒に、残っている皮膚と深部組織、傷の広さと位置を見た。絵里は最後に壊死組織を取り除いた手術と、その後の変化を説明した。必要のない部位は覆ったままにしていた。一部には新しい組織が育ち始めていたが、周囲を急いで引き寄せて閉じれば済む傷ではなかった。形成外科医は周辺の皮膚を動かしたときの緊張を確かめた。感染が再び現れないかを見ながら、再建できる土台を整える必要があった。修平が尋ねた。「機械をつけて吸い出せば、早く閉じられると聞きました。それはできないんですか?」形成外科医は、陰圧を利用した創傷治療も選択肢の1つだと説明した。ただし、どんな傷でも必ず良い結果になるわけではない。この部位で密閉を維持できるか、皮膚や露出した構造をどう保護するかも一緒に考えなければならなかった。今日はこれまでの







