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第94話

Author: 談棲
車は郊外の別荘に戻り、ガレージに停まった。菫はシートベルトを外し、ドアノブに手をかけたが、ロックが解除されていないことに気づいた。

司の両手はまだハンドルの上にあり、薄暗いガレージの灯りが、くっきりした横顔を照らしていた。

どう考えても、その憤りは収まらなかった。

彼は舌先で頬の内側を押し、振り返って彼女を見た。

「一緒に買い物して、雰囲気よかったのに……なんでいきなり関係ない人の名前なんか出すんだ?」

前世は刺客だったのか?

こんな不意打ちで刃物を突き立てるなんて。

菫は逆に聞きたかった。どこに雰囲気の良さがあったのかと。

最初から、彼に恩を着せられて見返りを求められていただけだ。

とはいえ争う気はなかった。さっきは回想に囚われて、うっかり口に出してしまっただけ。

今は我に返って、そんな必要もないと思った。

菫は淡々と言った。「何でもない。ただ、あなたが私にお金を使ってくれる数少ない機会だったから、申し訳なくて、少し感慨深くなっただけ」

「結婚したばかりの頃、俺の家族カードを渡しただろ?『仕事があるから金に困ってない、使わないから持って帰れ』って突き返したのはお前だ。なのに今度は俺が金を使わせないって言うのか?」

司はシートにもたれて、菫の冷たい顔を見た。

「奥さん、扱いづらいって言われたこと、一度もないのか?」

彼女は彼の金を受け取らなかっただけで、贈り物はいらないとは言っていない。

彼はどうして、弱々しく魅力的な小夜に、希少な「海の歌」を贈ることを知っているのか。どうして、派手で幼い雪菜に、高価で見栄えのするダイヤのネックレスを贈ることを知っているのか。

彼女たちには、相手の好みに合わせることをよくわかっているではないか。

結局のところ、彼は彼女にだけ心を砕きたくないのだ。

菫はとても平静に言った。「あなたが初めてよ。今まで誰にも言われたことはない」

司は、おとなしくて甘えていた「以前」の彼女を思い出し、視線が急に柔らかくなった。怒りもかなり収まる。

そして鼻で笑って言った。「言われないからって、ないとは限らない。昔のお前はわがままで、マンゴーを食べるのでさえ――」

彼が皮を剥き、果肉を切り、フォークを刺して、目の前に持ってこなければ食べなかった。

だが言い終える前に、菫が言った。「前は、お兄さんはいつも私は世話し
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