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第21話

Author: 名無千夜
600メートルのトンネル。車窓の外を流れる街灯の光が、時折、隼人の顔を照らしていた。

その表情がはっきり見えた。驚くほどストイックで、真剣なものだった。

まだキスの余韻に浸る暇もないうちに、突然差し込んだ明るい光に隼人が身を引いた。

トンネルを抜けたのだ。

「ごめん……驚かなかった?」少しかすれた声。

耳がほんのり熱くなって、思わず首を振った。

「い、いいえ……」

「僕、今まで……他の女性に触れたことがなくて」

隼人は、どうやら私以上に緊張しているみたいだった。

「だから……その、あんまり上手じゃなかったかもしれない」

「隼人お兄ちゃんっ!」

思わず大声を出してしまった。恥ずかしさで顔が熱くなった。

運転席の前方、ドライバーが必死に笑いをこらえているのが見えた。

隼人が低く、くすっと笑った。

「嫌だった?」

正直、こんな質問に他人の前で答えたくない。

でも、隼人の瞳に浮かぶあの期待の色を見てしまったら、嘘でごまかすこともできなかった。

「……嫌いじゃないよ」

自分の声ですら聞こえないくらい、小さな声で答えた。

その瞬間、隼人の顔がぱっと明るくなった。まるで雪に覆われた山野に、突然春が訪れたかのように。

「全部、終わったね」

隼人はそう言いながら、そっと私の手のひらに触れた。

「おめでとう。生まれ変わったんだね」

「ありがとう……」

少しぎこちなくなりながらも、そう返した。

なんとなく気まずくなった空気の中、隼人がタイミングよく話題を変えた。

「例のブツ、ちゃんと手に入った?」

鉢植えの中に仕込んでいた小型カメラを見せた。

「うん、やっぱり気づいてなかったみたい」

少し前、自分の動きを確認するために、鉢植えにカメラを取り付けていた。映像はメモリーカードに保存してある。

一つひとつの動作、動きの流れすべてが映っている。誰がこのダンスを創ったのか、ダンスの素人でも分かるはずだ。

すぐにネットに投稿することもできたけど、私はあえて急がなかった。

奈緒に、自分から謝る時間をあげたかった。

人柄はともかく、彼女のダンスの技術は確かに悪くない。国内でも上位に入る実力者だと思う。

今回の件が公になれば、彼女は間違いなく業界からの制裁を受けるだろう。だからこそ、一度だけチャンスをあげた。

でも、結果的にそれは、情け
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