登入東都の社交界では誰もが知っていた。柊匡介(ひいらぎ きょうすけ)のそばにいる女は次々と入れ替わり、1年を超えた者は一人もいない。 その中で、篠原澪(しのはら みお)だけが例外だった。社長秘書でありながら、関係を隠した恋人として、匡介と長いこと関係を続けている。 二つの顔を持ったまま千日目を迎えたその日も、澪はおとなしく、匡介が名家の令嬢との見合いをするのを受け入れた。 しかし、高架道路の上で、その見合い相手から匡介に「車が故障した」と電話が入ると、匡介はすぐに澪を車から降ろし、方向を変えて迎えに向かったのだった。 なぜなら、その相手が、澪の存在を見て気分を害さないようにするためだった。 その瞬間、澪はふいに思った。もう、こんな関係はやめよう、と。
查看更多誠と匡介が柊グループ本社ビルの最上階に戻ると、秘書室の面々が我先にと出迎えた。匡介が軽く手を振って応えると、あちこちから「ありがとうございます、柊社長!」という感謝の言葉が上がる。匡介は手にしていたコーヒーを持ち、意気揚々と澪のもとへ駆けていった。「澪、お前が一番好きなホワイトモカを買ってきたぞ」匡介が自分の好みを覚えていたことに驚きを隠せなかった澪は、思わず眉をひそめた。自分はすっかり思い詰めていて、匡介の気持ちを誤解していたのかもしれない。だが、実際のところ、匡介の自分への好意は、確かに随所にそれと分かる形で現れていたようだ。それでも澪はわざと気のないふりをして、「でも、今日はラテの気分なんですけど」と言ってみた。匡介は以前、自分のことをふざけた女だと言った。だったら、とことん面倒な女になってやろうじゃないか。澪は匡介が言葉に詰まる様子を見ようと思ったのに、彼はもう一つのカップを当たり前のように差し出した。なんと、そこには本当にラテが入っていたのだ。「ほら、お前がお望みのラテだ。砂糖抜きにしておいたから」澪は呆気にとられ、驚いた目で匡介を見つめる。すると、匡介が得意げに眉を上げた。「どうだ?かっこいいだろ?」澪は笑いながら呆れたように目を細め、ラテを手に取って一口飲んだ。さっき澪がいらないと言ったホワイトモカを手に取った匡介は、蓋を開けながら言う。「なんで自分に飲みたいものを聞いてくれなかったんだって思ってるのか?」澪はこくりと頷いた。「そんなことまで分かるんですか?」「そんなの当たり前だ。だって、本気でお前が好きだって言ってるじゃないか。だから、好きな相手の好みを忘れるわけがない。それに、この二つのコーヒーを目の前に出さなければ、お前だって自分がどっちを飲みたいのか分からないだろ?」澪は言葉を失った。もしかして、自分のほうが匡介のことをよく分かっていないのかもしれない。彼がこんなに気の利く人だったなんて、今までどうして気づかなかったのだろう。「澪、今までは自分でできることまで、ついお前に頼んでしまっていた。少し身勝手だったかもしれないけど、あれが俺なりの愛を伝える方法で、頼りにする気持ちの表現方法だったんだ。だからこれからは、お前にできることでも、あえて俺に頼んでもらえるような、そんな
「それは駄目です。自分で買いに行ってほしいから。だって、さっき、私の言うことは何でも聞いてくれるって言ってくれましたよね?それなのに、会社の下にコーヒーを買いに行くのすら嫌なんですか?これくらいもできないなら、私たちは合わないと思いますよ?」澪はため息をついて、匡介の手を振りほどこうとした。それを聞いた匡介は、即座に立ち上がる。「待ってて。今すぐ買ってくるから!」早足で立ち去る匡介の後ろ姿を見送り、澪は思わずくすっと吹き出し、彼の背中に向かって呟いた。「今まで、散々私を使い走りにしたんだから、その分返してもらうんだから」匡介は下階へ向かう際、忘れずに誠も連れて行った。澪と仲直りができて、最高に気分がよかった匡介は、秘書室にいる全員にコーヒーを奢ろうと決めたのだった。しかも、わざわざ自分で買いに行って。ただ、一人では持ちきれないから、どうしても誠を荷物持ちとして使う必要があった。匡介と共にエレベーターへ乗り込む際、誠は少し呆気にとられ、思わず尋ねた。「社長、どこへ行くんですか?今日の午後、外出の予定はないはずですが……」匡介は眉を上げて、飄々と答える。「仕事じゃない。下にコーヒーを買いに行くんだよ。最近みんな働き詰めで疲れてるだろうから、差し入れでもって思ってさ。でも、俺一人じゃ持ちきれないから、お前にも手伝って欲しいんだ」誠は驚いた。「そんなことなら、私に言っていただければ下のカフェからデリバリーさせましたのに。どうしてわざわざご自身で行かれるんですか?」匡介は相変わらず平然としている。「別にいいだろ?デスクに座りっぱなしだと体がなまるんだ。そうだ。グループチャットで、みんなに何を飲むか聞いてくれ。1分以内に返信がなかったら、全員分アイスコーヒーにしよう」誠が指示通りグループチャットで聞くと、すぐに返信が返ってきた。しかし、それは全て【?】のクエスチョンマーク……だが、すぐにこのグループに匡介がいることを思い出した一同は、こぞって【?】を取り消し、お目当てのドリンクを打ち込み、最後には【ありがとうございます、匡介社長!】とお世辞を添えることも忘れなかった。あの気難しい柊家の御曹司が、従業員のために自分でコーヒーを買いに行くなんて!普段なら、階下のカフェに電話してデリバリーを頼むような些細なことさえ、すべ
匡介は、澪の心の中を見抜いているかのように付け加えた。「いつからお前のことが好きだったのかは自分でも分からない。もしかすると、一目惚れだったのかも。ただ、今まで恋したことがなくて、この感情の正体が分からなかったんだ。だから、卑劣な手段で強引に引き留めて……逃げられたくない一心で執着してしまった。お前を秘書にしたのも、マンションを与えたのも、すべてはお前が好きだったから。接待に連れて行くのをためらったのも、結局はお前が好きで、誰にも見せたくなかったからなんだ。今までずっと、名前のある関係をあげられなくてごめん。雨の中、高架道路に置き去りにしたことも、本当に後悔してる。何より、石原をけしかけて怖がらせたこと、本当に悪かったと思ってるんだ。ごめんな、澪」澪は匡介をまっすぐに見つめる。自分の中に築かれた頑固な壁が、崩れ去る音が聞こえたような気がした。もう認めざるを得ないらしい。自分にも、もうこの男しかいないようだ。共に過ごした3年間。この男は自分の人生そのものだったし、もう自分の一部となっている。忘れられないし、忘れたくもない。それに、黒崎家に戻った今、自分たちの仲を阻む身分的な障害もなくなり、今までの誤解も消えつつある。ならば、この男とよりを戻さない理由なんて、どこにあるのだろうか。父と母の結末を思い出し、澪の瞳にふと影が落ちた。二人と同じ轍は、絶対に踏まない。愛の告白と真摯な謝罪を受けた澪は、沈黙を守ったままだった。だが、匡介も急かすことはなく、ただ静かに彼女の答えを待った。許してもらえなければ何度でも謝ろう、そう腹を括った時だった。澪にぐいと引き寄せられ、その両手で首を抱きしめられたかと思うと、キスをされた。唇の柔らかさと、鼻先をかすめる慣れ親しんだ匂いに、匡介の頭が一瞬ぼうっとする。しかし、珍しく澪からきたのだ。踊り出したいほど歓喜した匡介は、彼女の腰を抱き寄せ、その唇を貪るように深く受け入れた。彼女主導の長いキスが終わる。昂った気配を残したまま匡介が意味を尋ねると、澪は笑ってこう言った。「どうですか?これがあなたが望んでいた仲直りの方法ですよね?」匡介は驚いたが、すぐにその意味を理解し声を弾ませた。「澪、それって……許してくれたってことでいいのか?」澪は腕を離すと、少し悪戯っぽい笑みを
「誠実さこそが、唯一にして最強の武器だ」だから匡介は、当たって砕けろの精神で、抱いていた本心をすべて澪に伝えたのだった。友人のアドバイスが功を奏したのか、長い沈黙の後、澪が呆れたような声で言った。「人に無理やり折れさせようとするくせに、自分がどう折れればいいかも分からないんですか?だったら、あのとき私がどういうふうに折れれば、あなたは気が済んだんですか?」匡介は一拍おいてから、澪に問いかける。「本当に知りたいのか?」澪は小さく頷いた。すると、澪の隙を突いて、匡介は素早く身を寄せると、彼女の赤い唇に触れるか触れないかのキスをした。そしてすぐに身を引く。呆気にとられている澪を見つめ、匡介は無邪気に笑った。「こうして欲しいって俺は思ってた」澪は目を見開き、すぐには状況を飲み込めずにいた。だが同時に、どこか居心地の悪さを覚えながらも、匡介の近さに対して以前ほど強い拒絶感を抱いていない自分に気づいてしまう。かつての出来事のいくつかは、やはり彼に対する誤解だったのかもしれない。頭を抱えた澪はあれこれ考えるのが煩わしくなり、これ以上このことについて追及するのはやめた。そもそも、彼に何を期待すればいいのかさえ、自分でも分からなかったのだから。澪は話題を変えるために、手元にあったプロジェクトの企画書を彼の前に突き出す。「プロジェクトに大きな不満はありませんが、一点だけ修正をお願いできますか?」しかし、匡介は書類などは見もせず、じっと澪の顔を見つめていた。「ああ、何だ?」「プロジェクト期間中、広報チームの指揮を柊グループに執って欲しいんです。あと、取材の際には神谷と一緒に、柊社長も参加してください」匡介は迷いもせず、即答する。「わかった」「本当ですか?」澪には少し予想外だった。「ああ」匡介の言葉には、揺るぎない確信がある。澪はあっけに取られた。容姿端麗で社会的地位も高い彼は、これまで数え切れないほどのメディアからインタビュー依頼を受けてきた。しかし、匡介は人前に出ることを嫌い、自身の容姿を広告にするなど愚の骨頂だと考えていたはずなのに。過去の3年間、澪は何度か匡介にインタビューの件を持ちかけていたが、一度として彼が首を縦に振ったことはなかった。そのため今回も、彼女は涼介を道連れにしてまで、何とか