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夜もすがら、あなたを恋う
夜もすがら、あなたを恋う
Autor: 浮世雪月

第1話

Autor: 浮世雪月
十一月の東都は雪化粧を纏っている。飛行機の車輪が滑走路に触れた鈍い衝撃で、依織は浅い眠りから目を覚ます。13時間にも及ぶ長いフライトが、ようやく終わった。

今回の帰国は、本社からの辞令による研修プログラムのためだ。期間は半年。

まさか自分が再びこの街に戻ってくるとは、思ってもみなかった。何しろここは、すべてを断ち切ってでも逃げ出したかった場所なのだから。

40分後、依織は東都国際空港の到着ロビーを出た。

刺すような冷たい空気に、どんよりとした鉛色の空、そして風も強まり始めている。

出口に立ち、コートの襟を立てながら周りを見渡す。まるで別世界に迷い込んだような錯覚に陥る。ここを離れてから10年も経ったのだ。

「いおりん!」

声のする方へ視線を向けると、道路の向こう側で親友の木下優香(きのした ゆうか)が大きく手を振りながら、興奮した様子で名前を呼んでいる。

車の流れが途切れた瞬間、両手を広げて駆け寄ってくる。

優香の分厚いダウンジャケットに顔を埋め、依織はくぐもった声で尋ねる。

「どうして来たの?到着時間は教えてなかったのに」

「そんなの調べればすぐ分かるよ」優香は依織の肩をきつく抱き寄せる。

「さあ、行くよ!依織の大好きなお店、もう予約してあるから」

……

東都の冬は相変わらず凍えるほど寒く、馴染みの老舗の味も、昔のままだ。

「あっという間に10年だね」優香は注文用のタブレットを依織に手渡す。

「あのとき、私がいくら引き止めても無駄だったし」

依織は伏し目になって、ただ微笑むだけで何も答えない。優香は少し迷ったあと、口を開く。

「ねえ、知ってる?御堂司が、婚約したんだって。

依織がいないこの10年間、御堂家は本当に勢いに乗っていた。

御堂さんのお兄さん、あの雅臣が東都の経済界でトップの座に上り詰めたし、御堂さんだって政界の中心人物となっている。今じゃ注目される若手政治家だし、今回の総選挙でさらに上に行くって噂されてるよ。

もしあの時婚約を破棄してなかったら、今頃あなたたちには子供がいたかもしれないね」

依織の手が止まって、一瞬だけ目が点になった。瞳を伏せると、長いまつげが瞼に影を落とす。再び視線を上げるときには、いつもの無頓着な様子に戻っている。

「もう昔のことよ。今さらそんな話を……」注文する気も失せ、タブレットを店員に返す。

優香は仕方なさそうに唇を噛み、それ以上は何も言わなかった。食事の間、御堂家に関する話題が出ることは二度となかった。

その夜、優香はかなり酒を飲み、すっかり酔っていた。酒を飲まなかった依織は彼女を車の後部座席へ乗せ、シートベルトを締める。眠りについたのを確認してから自分のコートをそっと掛ける。

そして運転席に乗り込み、車をゆっくりと発進させる。

しばらくすると、空から雪が舞い落ちてくる。道の途中で突風が吹き荒れ、雪はどんどん激しくなる。前方の視界が次第に白く霞んでいく。

車を路肩に停めようとしたその瞬間。タイヤが突然滑った。ブレーキを踏んだが、ドンッという鈍い音とともに、前方の黒いSUVに追突してしまう。

シートベルトを締めていたものの、強い衝撃で体が前のめりになり、ハンドルの装飾部分で手首を深く擦りむいてしまった。ヒリヒリと焼けるような痛みが走る。

慌てて振り返って後部座席を確認するが、優香は無事だ。まだぐっすりと眠っている。依織はブレーキペダルを強く踏みしめたまま、心臓が早鐘のように打っている。

そのとき、誰かが窓ガラスを叩く。

痛みをこらえながら、気を取り直して重いドアを押し開ける。雪を伴った強風が、頬を打ちつける。

骨まで凍りつくような吹雪のせいで目が開けられず、相手の顔はよく見えない。その人は少し立ち止まって、確かめるように尋ねる。

「林……依織さん、ですか?」

心臓がドクンと跳ねる。この東都で自分の名前を知っている人間なんて、ほんのひと握りしかいない。まさか、そんな偶然があるはずが……

依織が黙り込んでいると、相手はSUVの後部座席へ戻って、中にいる人に何かを報告した。

その隙に、依織は急いで自分の車の後部ドアを開けて、優香の様子を細かく確認する。幸い、何も問題はなかったので、ようやく安堵の息を漏らす。

その時、手首に生温かいものが伝うのを感じて視線を落とすと、白いセーターの袖口には血が滲んでいる。

痛みを噛み殺し、手首をダウンジャケットの袖に隠す。これ以上雪が入り込まないよう、首元のマフラーをしっかりと巻き直す。

顔を上げると、吹雪の向こうから、背が高い男の人がこちらへ歩いてくるのが見える。

黒いロングコートをまとった姿は、どんな嵐にも折れない竹のようにまっすぐ伸びている。

ネオンが瞬き、風は少しばかり弱まったが、雪はまだ降り続いている。ゆっくりと歩み寄る男の、美しくも冷たい顔立ちを、街灯の光が鮮明に照らし出した。

まるで冬の静寂が人の形をとったかのような男だ。際立つ整った顔立ちは、刃物のように鋭く、近づく者を拒む冷気を纏っている。

一歩、また一歩と近づいてくるにつれて、懐かしい気配が、見えない糸のように身体の奥へ入り込んでくる。

10年間、何一つ接点のなかった二人が、まさかこんな形で再会するなんて。

男は昔と変わらず、冷静で、迷いがない。一方で、依織は寒さと動揺に震えながら、逃げ場すら失っている。

依織は立ち尽くしたまま、ただ茫然とその男を見つめている。二人の髪や睫毛には、すでに真っ白な雪が降り積もっている。

御堂司は自分のコートを脱ぎ、依織の肩に掛ける。馴染みのある香りと確かな体温が、彼女を包み込む。

司は何も言わない。ただ、その黒い瞳には、読み取れないほど深い感情が宿っている。

しばらく見つめ合った後、依織がまず目を逸らす。肩に掛けられたコートを脱いで相手に返すと、かじかんだ手で車のドアを開けようとする。その瞬間、腕を力強く掴まれた。

「ッ……」激痛に、依織は思わず息を呑む。

「怪我をしたのか?」

司は眉をひそめて、すぐに手を離した。血で染まったその手首に視線を落とす。

依織は答えない。ただほんのりと赤くなった目で司を睨みつけ、ありありと不満と拒絶の意を示す。

「俺の車に乗れ。病院へ連れていく。ここは部下に任せる」

その声には、逆らうことを許さない厳しさが滲んでいる。

「結構です。責任はこっちにあります。賠償は保険会社を通じて必ず支払います」

白く透き通った顔に、冷え切った作り笑いを浮かべる。

「こんな些細なことで、御堂さんのお手を煩わせる必要はありません」

司は黙って彼女を見る。

再び風が吹き荒れる。ただでさえ悪条件の道路はさらに渋滞する。ほどなくして警察が現場へ駆けつけ、交通整理を始める。

しばらくすると、一人の警察官がこちらへ歩み寄り、深々と頭を下げる。

「申し訳ありません、御堂さん。到着が遅くなりました。処理はすべて完了していますので、もうお帰りいただけます」

司はただ短く「ああ」とだけ応じた。その声からは何の感情も読み取れない。

何年経っても、この人は相変わらず冷たいままだ。

「そちらの女性も、もう行っても大丈夫です」警察官に声をかけられ、依織は小さく頷いた。

「わかりました。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

そう答えると、振り返って自分の車へ向かう。運転席のドアに手をかけたその瞬間、大きく力強い手が、開きかけたドアを強引に閉めた。

「病院へ連れて行くと言ったはずだ」

依織は振り返って、冷たい視線を向ける。

「『結構』と言ったはずです」

譲る気はない。二人が睨み合うように立ち尽くしている間に、後続車の列は刻一刻と伸び、突き刺さるような視線と圧迫感が増していく。

司の秘書兼運転手・佐藤旭(さとう あきら)が慌てて割って入る。

「林さん、かなり出血しています。この天気と路面状況では運転なんて無理です。ここは御堂さんの言う通りにしてください。お友達は、僕が責任を持ってお送りしますから」

街灯の光が、依織の顔を白く照らしている。長いまつげには、いつの間にか厚い霜がついていて、左手はべっとりと血に染まっている。

その痛々しい姿を目の当たりにして、司は苛立ちにも似た感情が湧き上がる。ゆっくりと近づき、圧を感じさせる視線が、まっすぐ依織を捉える。

「自分で乗るか、俺に抱き抱えられて乗るか」

脅しにも聞こえる言葉だ。意図的に低く落とされた声には、怒りを露わにしていないのに、人を従わせるような威圧感と、わずかな焦りが滲んでいる。

依織は眉をひそめ、言い返そうとするその時、後部座席で眠っていた優香が、無意識に小さなクシャミをした。

そこでようやく思い出した。車内の暖房は、とっくに切れている。このままここで眠り続ければ、優香は確実に風邪を引いてしまう。

依織は少しためらった後、近くに停まっている司のランドローバーへと黙って歩き出した。

すれ違いざまに横目で確認すると、どちらの車も軽く凹んでいる程度だ。頑丈な高級車同士だったのが不幸中の幸いだ。

司は旭にいくつか指示をだして、すぐ依織の後を追うように車へ乗り込む。

エンジンをかけると、すぐに暖房を入れる。どこから取り出したのか、温かいカイロを隣に座る依織へ差し出す。

「暖かいから、ポケットに入れろ。怪我した手は動かすな」

その言葉の端々には、やはり逆らいを許さない響きがある。

カイロを受け取ろうとした瞬間、依織の視線は、司の左手の薬指に落ちる。そこには、見覚えのない指輪がはめられている。

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