FAZER LOGIN
司の瞳にも一瞬だけ驚きが走ったが、すぐに元の冷ややかな表情に戻り、道を譲るように身を横へずらす。「教授は書斎にいる」「ありがとう」依織は静かに目を伏せ、短く答えて玄関へ上がる。すれ違う瞬間、二人の肩がかすかに触れそうなほど近づいた。依織は用意されていた来客用のスリッパに履き替え、まっすぐ奥へと進む。それほど長くない廊下の突き当たりに、わずかに開いたドアが見える。「書斎はあそこだ」背後から司の低い声がする。依織は書斎の前に立ち、開いたままのドアを軽くノックする。デスクの向こうには、きちんと整えられた白髪の、威厳ある老人が座っている。橘教授は還暦をとうに過ぎているが、その眼差しは澄み切っており、佇まいはどこまでも穏やかだ。「橘教授、はじめまして。BCFの林依織と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」依織は書斎に入り、礼儀正しく頭を下げる。橘教授は立ち上がり、柔らかい笑みを浮かべて向かいの椅子を勧める。「林さんですね。どうぞ、お掛けなさい」そう言って、教授は依織の背後へと視線を向ける。「司くん、少しリビングで待っていてくれないか。林さんと話があるから」依織が振り返ると、司がいつの間にか書斎の入り口まで来ていたことに気づく。司は中には入らず、教授に向かって無言で軽く頷くと、踵を返してリビングへ戻っていく。そこからの2時間、依織は完全に仕事モードに入り、インタビューに全神経を集中させていた。橘教授の知識は海のように深く、話にはユーモアもあり、取材は非常にスムーズに進んでいく。依織は質問を投げかけたり、メモを取ったり、教授が織り交ぜる学界のちょっとした逸話に声を上げて笑ったりする。そのたびに依織の目は三日月のように細まり、頬には小さなえくぼが浮かぶ。彼女は気づいていない。リビングと書斎の空間が完全に仕切られていない半オープンの間取りになっていることに。リビングのソファに深く腰掛けている司は、少し顔を上げるだけで、仕事に打ち込む彼女の横顔を視界に捉えることができる。真剣な眼差し、引き結ばれた唇、ノートの上を滑る、細く美しい指先。そして、時折、緊張が解けた瞬間に見せる、息を呑むほど生き生きとした表情。彼の手元には書類が開かれているが、もうずいぶん長い間、ページは一度もめくられていない。イン
高速道路の入口に設けられた検問所では、いつも以上に厳重な警備体制が敷かれている。数台の黒い車が少し離れた場所に停まり、制服姿の警備員たちが、通行証や免許を一人ずつ確認している。規制線の外側にはメディアの車両が何台も足止めされていて、記者たちがカメラを構えながら中の様子を窺っている。依織が乗る車も、その中に含まれている。気分転換に車を降りると、前方にはネットニュースで見かけたことのある記者たちの姿がいくつか見える。「何かあったの?」隣にいた同僚の小川春菜(おがわ はるな)に尋ねる。「御堂司さんが来てるみたい」春菜は声を潜める。「ほら、あそこ。黒い制服に肩章をつけてる人」依織は言われた方向へ視線を向ける。開けた場所に集まった人々の中心に、司が立っている。濃紺の制服を身にまとい、肩章が陽の光を受けて輝いている。隣で現場の責任者が何かを報告していて、周囲の者たちは皆、わずかに身をかがめて耳を傾けている。司はほとんど口を開かない。ただ時折、小さく頷くか、短い言葉で確認するだけだ。それでも、彼が口を開くたびに、周囲の動きが止まり、彼の言葉が終わるのを固唾を飲んで待っている。風が工事現場を吹き抜け、砂ぼこりが舞い上がる。秘書からヘルメットを受け取って被ると、司はきびきびとした足取りで施工エリアの奥へと歩き出す。随行者たちもすぐさま後を追い、常に一定の距離を保ちながら歩いていく。規制線の外では、テレビ局の記者がカメラに向かって速報を伝えている。「御堂氏による現地視察は、今後の安全対策に大きな影響を与えると見られています」依織は人だかりの後ろに立ち、司の背中を見つめている。背が高く、強い風に制服の裾が揺れている。橋の上に設けられた仮設の指揮用テントに入ると、司はヘルメットを脱ぐ。現場責任者がタブレットを差し出す。「次はこちらの確認になります」「ああ」と短く返事をすると、ポケットで震え続けていたスマホを取り出し、通話ボタンを押す。「兄さん、明樹から聞いたんだけど……依織、帰ってきたんだって?」電話の相手は、司の従弟・相沢颯介(あいざわ そうすけ)だ。「俺には関係ない」司の表情は変わらない。声にも余計な感情は混じっていない。颯介がさらに何か言おうとした瞬間、司はそれを遮るように電話を切る。数日後、依織は次
部屋に戻ると、依織は優香にパジャマを借りて、そのまま浴室へ向かう。鏡に映った自分の姿を、依織はぼんやりと見つめる。濡れた髪から水滴が落ちる。今夜の出来事を思い返すたび、あの冷たく気高い横顔が脳裏に浮かぶ。風呂から上がると、優香はソファに座ってスマホを見ている。湯上がりの依織を見るなり、優香は意味ありげな笑みを浮かべる。「ねえ、本当に今回は東都に残るつもりないの?」依織は記者として、これまで培ってきた専門知識と鋭い取材力、そして人目を引く容姿で、海外の報道業界でも知られる存在になっている。英語、フランス語、ドイツ語を自在に操り、何より事実を追求する真摯な姿勢が高く評価されている。「ええ。ここは私には合わないから」依織は迷うことなく答える。優香は深く背もたれに寄りかかり、天井を見上げる。「でもさ……あの時のこと、御堂さんは本当に気の毒だったと思うよ。何も悪くなかったのに」依織は視線を落とし、しばらく黙り込む。「彼を責めてない。ただ、自分を許せなかっただけ」少し間を置いて、低い声で付け加える。「それに、お父さんがあんなことをするなんて、今でも信じてないから」優香は依織の腕にぎゅっと抱きつく。「あの時、意地張って婚約まで破棄して、そのまま振り返りもしないで、いなくなっちゃったじゃん。それから10年……いおりんの心って何でできてるの?一度開けて見てみたいよ。冷たすぎる」依織は静かに笑う。「あの時、離れてよかったと思ってるよ」優香はじっと彼女の顔を見つめる。「今日、元婚約者に会ってどうだった?」依織は淡々と答える。「何も感じなかった」優香はすぐに疑わしげな目を向ける。「悪いけど、言うときは私の目を見てくれない?」依織は優香の目を見る。「今のままでいいと思ってる。彼には彼の人生があるし、もう婚約者もいる。私にも、やるべきことがあるから」部屋の中に、短い沈黙が落ちる。そして優香は、容赦なく真実を突きつける。「依織ってさ、嘘をつくとき、いつも無意識に手を強く握りしめる癖があるんだよ。まだ御堂さんのこと、忘れられてないよね。依織がいなくなった後、彼も東都を離れたんだよ。それから、前よりずっと冷たくなったって聞いた。戻ってきてからは、あっという間に政界の中心へと進出して……あんなにイケメン
司は、依織の視線に気づいている。それでも隠すつもりはないらしい。片手で堂々とハンドルを握り、まっすぐ前を見据えている。依織は一瞬だけ動きを止め、ふっと小さく笑う。「婚約したって聞いたけど?」「ああ」と、司は淡々と返す。「おめでとう」交差点に差しかかると、車は横断歩道の手前で静かに停まる。暖房の効いた車内は、少しずつ暖かさを増していく。暖かさに包まれる中、わずかな冷気が隙間から入り込み、依織はゆっくりと運転席へ顔を向ける。いつの間にか、司はタバコに火をつけていた。漂う煙の向こうで見える横顔は、10年前よりもずっと落ち着きを増している。かつて鋭かった眼差しには、今ではさらに深い冷たさが宿り、近寄りがたい緊張感をまとっている。青信号に変わると、司はすぐにタバコを消した。ゆっくりと窓が閉まる。そして、ようやく口を開く。「……ありがとう」その言葉を聞いて、依織は小さく息を呑んだ。まるで鉄の帯で胸を締め付けられるような息苦しさを覚え、手元のカイロをきつく握りしめる。黙って視線を逸らし、流れていく街の明かりを、ただ窓越しに眺める。10年前、幼馴染だった依織と司は、大学卒業と同時に結婚する約束をしていた。しかし、依織の父親・林泰三(はやし たいぞう)は、国家機密を漏洩したスパイだと疑われ、追われる身となった。その逮捕作戦の指揮を執っていたのは、他でもない、司の父親・御堂栄一郎(みどう えいいちろう)だった。泰三は、妻・林洋子(はやし ようこ)と依織の目の前で一本の電話を受けた後、自ら命を絶った。その後、依織は迷うことなく司との婚約を破棄し、洋子を連れて海外へと渡った。それから10年、すべては変わってしまった。人も、関係も、もう昔のままではない。依織は苦く笑った。まさか、巡り巡ってまた司と出会うことになるなんて。吹雪は次第に弱まり、車は東都を横断する幹線道路を走っている。依織があまりにも静かなせいか、司は何気なく視線だけを横へ向ける。街路灯のオレンジ色の光が車内を流れていく。依織は窓ガラスにそっと頭をもたせかけている。かつて自分の後ろをついてきた長髪の少女は、今ではすっきりと洗練されたショートヘアになっている。ほんのり色づいた唇が、彼女の儚げな美しさを際立たせている。10年前のあの日、司は一日中、依織
十一月の東都は雪化粧を纏っている。飛行機の車輪が滑走路に触れた鈍い衝撃で、依織は浅い眠りから目を覚ます。13時間にも及ぶ長いフライトが、ようやく終わった。今回の帰国は、本社からの辞令による研修プログラムのためだ。期間は半年。まさか自分が再びこの街に戻ってくるとは、思ってもみなかった。何しろここは、すべてを断ち切ってでも逃げ出したかった場所なのだから。40分後、依織は東都国際空港の到着ロビーを出た。刺すような冷たい空気に、どんよりとした鉛色の空、そして風も強まり始めている。出口に立ち、コートの襟を立てながら周りを見渡す。まるで別世界に迷い込んだような錯覚に陥る。ここを離れてから10年も経ったのだ。「いおりん!」声のする方へ視線を向けると、道路の向こう側で親友の木下優香(きのした ゆうか)が大きく手を振りながら、興奮した様子で名前を呼んでいる。車の流れが途切れた瞬間、両手を広げて駆け寄ってくる。優香の分厚いダウンジャケットに顔を埋め、依織はくぐもった声で尋ねる。「どうして来たの?到着時間は教えてなかったのに」「そんなの調べればすぐ分かるよ」優香は依織の肩をきつく抱き寄せる。「さあ、行くよ!依織の大好きなお店、もう予約してあるから」……東都の冬は相変わらず凍えるほど寒く、馴染みの老舗の味も、昔のままだ。「あっという間に10年だね」優香は注文用のタブレットを依織に手渡す。「あのとき、私がいくら引き止めても無駄だったし」依織は伏し目になって、ただ微笑むだけで何も答えない。優香は少し迷ったあと、口を開く。「ねえ、知ってる?御堂司が、婚約したんだって。依織がいないこの10年間、御堂家は本当に勢いに乗っていた。御堂さんのお兄さん、あの雅臣が東都の経済界でトップの座に上り詰めたし、御堂さんだって政界の中心人物となっている。今じゃ注目される若手政治家だし、今回の総選挙でさらに上に行くって噂されてるよ。もしあの時婚約を破棄してなかったら、今頃あなたたちには子供がいたかもしれないね」依織の手が止まって、一瞬だけ目が点になった。瞳を伏せると、長いまつげが瞼に影を落とす。再び視線を上げるときには、いつもの無頓着な様子に戻っている。「もう昔のことよ。今さらそんな話を……」注文する気も失せ、タブレットを店員







