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第3話

Author: 浮世雪月
部屋に戻ると、依織は優香にパジャマを借りて、そのまま浴室へ向かう。

鏡に映った自分の姿を、依織はぼんやりと見つめる。濡れた髪から水滴が落ちる。今夜の出来事を思い返すたび、あの冷たく気高い横顔が脳裏に浮かぶ。

風呂から上がると、優香はソファに座ってスマホを見ている。湯上がりの依織を見るなり、優香は意味ありげな笑みを浮かべる。

「ねえ、本当に今回は東都に残るつもりないの?」

依織は記者として、これまで培ってきた専門知識と鋭い取材力、そして人目を引く容姿で、海外の報道業界でも知られる存在になっている。

英語、フランス語、ドイツ語を自在に操り、何より事実を追求する真摯な姿勢が高く評価されている。

「ええ。ここは私には合わないから」依織は迷うことなく答える。

優香は深く背もたれに寄りかかり、天井を見上げる。

「でもさ……あの時のこと、御堂さんは本当に気の毒だったと思うよ。何も悪くなかったのに」

依織は視線を落とし、しばらく黙り込む。「彼を責めてない。ただ、自分を許せなかっただけ」

少し間を置いて、低い声で付け加える。「それに、お父さんがあんなことをするなんて、今でも信じてないから」

優香は依織の腕にぎゅっと抱きつく。

「あの時、意地張って婚約まで破棄して、そのまま振り返りもしないで、いなくなっちゃったじゃん。

それから10年……いおりんの心って何でできてるの?一度開けて見てみたいよ。冷たすぎる」

依織は静かに笑う。「あの時、離れてよかったと思ってるよ」

優香はじっと彼女の顔を見つめる。「今日、元婚約者に会ってどうだった?」

依織は淡々と答える。「何も感じなかった」

優香はすぐに疑わしげな目を向ける。「悪いけど、言うときは私の目を見てくれない?」

依織は優香の目を見る。

「今のままでいいと思ってる。

彼には彼の人生があるし、もう婚約者もいる。私にも、やるべきことがあるから」

部屋の中に、短い沈黙が落ちる。そして優香は、容赦なく真実を突きつける。

「依織ってさ、嘘をつくとき、いつも無意識に手を強く握りしめる癖があるんだよ。

まだ御堂さんのこと、忘れられてないよね。

依織がいなくなった後、彼も東都を離れたんだよ。それから、前よりずっと冷たくなったって聞いた。

戻ってきてからは、あっという間に政界の中心へと進出して……あんなにイケメンで、若くして高い地位にいるんだから。東都でどれだけの人が彼に近づきたがってると思う?」

熱を込めて話すうち、優香の手がふいに包帯に触れた。依織が小さく眉をひそめると、優香はようやく怪我に気づく。

「……ちょっと待って。怪我してるじゃん!見せて」慌てて腕を離し、依織の手を確認する。

「ただの擦り傷よ、もう手当てしたから」依織は静かに答え、話を元に戻す。

「彼のことは私には関係ない。今回はただの出張だし、お母さんも海外にいるから、帰らなくちゃいけないの」

ふと隣を見ると、優香が瞬き一つせずにこちらを見つめている。

「何?顔に何かついてる?」

優香はゆっくり首を横に振る。

「変わったよね。冷たくて、無口になって……

昔の依織は、いつも笑ってて、素直で、周りまで明るくするような子だったよ。

でも今は……何があっても動じないみたい。

おじさんのことがあってから、おばさんと海外で、よっぽど苦労したんだね」

依織は静かに目を伏せる。10年前、自らの命を絶った父親の無惨な姿が、今も鮮明に脳裏に焼き付いている。

父が金で買収され、スパイになったなど、当時も今も全く信じていない。事件の後、林家と親交のあった人々は、我先にと縁を切っていった。そんな中でも、司だけは彼女たちを見捨てなかった。

司と結婚すれば御堂家の援助がもらえるかもしれない。しかし、依織は最も非情な形で婚約を破棄したのだ。

この10年間、ずっと事件の真相を追い続けてきたが、何一つ手がかりは掴めなかった。

その間、ジャーナリストとして多くの紛争地帯を渡り歩いた。そこには、金も、まともな医療施設もなく、最低限の食事すらままならない人々がいた。

生と死を間近で見続ける中で、気づいたことがある。自分には、まだやるべきことがある。だから、もう過去を振り返るつもりはない。

それなのに、今日、再び司の顔を見た瞬間、やはり心は激しくかき乱されてしまう。

翌日、依織は勤務先であるBCF東都支社へ向かう。BCFは世界的に知られる国際ニュースメディアで、海外に本社を構えている。今回派遣されたのは、東都に新設されたばかりの支社だ。

支社とはいえ規模は決して小さくない。依織は人事担当者に案内されながら手続きを済ませ、社員証を受け取って自分の席へ向かう。

人事部長を務める里見玲子(さとみ れいこ)は、40代の柔らかな雰囲気を持つ女性だ。

「これからはみんなと同じように、玲子さんって呼んでね。そのほうが親しみやすいから」

東都支社は設立からまだ日が浅いものの、すでに業界では名が知れ渡っている。

経済、芸能、社会、政治関連のニュースまで幅広く扱い、迅速かつ正確な報道姿勢が評価され、短期間で大手メディアの一角を担うまでに成長し、テレビ局とも緊密な協力関係を築いている。

玲子に案内されながら社内を回り、各部署の業務について簡単な説明を受ける。

その途中、すれ違う社員たちから何度も「新人ですか?」「綺麗ですね」と声をかけられた。

今日の依織の装いは、洗練されたアイボリーのパンツスーツ。髪をすっきりと耳の後ろでまとめ、すらりと伸びた背筋が、彼女の浮世離れした気高さをより一層際立たせている。

一通り案内を終えると、玲子は隣を歩きながら口を開く。

「ここは本社ほど設備が完璧じゃないかもしれないけど、必要なものは全部揃ってるわ。

これも全部、新しく赴任してきた工藤社長のおかげなのよ」

「工藤さんは若くして有能ですから、本社の幹部の間でもよく名前が挙がるんです」

玲子は内心、鼻で笑う。ただ研修に来ただけの新人が、本社の上層部と関わりがあるはずがない。

そんなことを考えているうちに、二人は社長室の前まで来ていた。ちょうど外から戻ってきた人物と鉢合わせになり、視線が重なる。工藤景(くどう けい)だ。

依織は彼に向かって少しだけ目を細め、いたずらっぽく微笑む。

「社長、お久しぶりです」

景の顔に笑みが広がる。一瞬だけ鼓動が止まったように感じたが、次の瞬間には激しく脈打っていた。

「いつ来たの?」

「昨日の便で」

依織と景は、BCFの同期入社だ。その後、景は出世街道をひた走って、今は本社に籍を置きながら、東都支社の責任者として抜擢されている。

玲子は景に向かって軽く頭を下げる。

「社長、林さんは本社から研修で来ています。入社手続きはすでに完了しておりますが、配属先はどちらにされますか?」

「先に戻っていい。部署は後で決める」

「承知しました」玲子は頷き、社長室を後にする。

「こっちの仕事は急ぎじゃないから、少し休んでから来てもよかったのに」

景は依織にソファーへ座るよう促す。

「平気だよ。こっちの用件が早く済めば、その分早く本社に戻って報告できるから」依織は静かに腰を下ろす。

「悪いな、わざわざ来てもらって。ちょうど今、人手が足りなくて困っていたところなんだ」景はそう言いながら、依織のためにお茶を淹れる。

依織は微笑む。「気にしないで。こうしてまた一緒に仕事ができて嬉しいわ」

……

依織は栗原真央(くりはら まお)の報道チームに配属されることになった。玲子が紹介をする。

「こちらは本社から研修に来た林依織さんです。みんな、よろしくね」

そう言うと、依織の肩を軽く叩いて挨拶を促す。依織は微笑みながら軽く会釈をする。

真央は、依織のその冷ややかで気位の高そうな態度を見ると、露骨に顔をしかめる。ドンッとファイルを依織の前に投げ出し、冷たく言い放つ。

「このプロジェクト、今日から動くから。現場回ってきて」

傍らにいた玲子は、そんな光景に驚く様子もなく、踵を返して報道部を去っていく。残りのいざこざは、人事の彼女には関係のないことだ。

依織はじっと真央を見つめた後、机の上のファイルを手に取り、軽く目を通して平然と答える。

「分かりました」

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