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第5話

Author: 浮世雪月
司の瞳にも一瞬だけ驚きが走ったが、すぐに元の冷ややかな表情に戻り、道を譲るように身を横へずらす。

「教授は書斎にいる」

「ありがとう」依織は静かに目を伏せ、短く答えて玄関へ上がる。すれ違う瞬間、二人の肩がかすかに触れそうなほど近づいた。

依織は用意されていた来客用のスリッパに履き替え、まっすぐ奥へと進む。それほど長くない廊下の突き当たりに、わずかに開いたドアが見える。

「書斎はあそこだ」背後から司の低い声がする。依織は書斎の前に立ち、開いたままのドアを軽くノックする。

デスクの向こうには、きちんと整えられた白髪の、威厳ある老人が座っている。橘教授は還暦をとうに過ぎているが、その眼差しは澄み切っており、佇まいはどこまでも穏やかだ。

「橘教授、はじめまして。BCFの林依織と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

依織は書斎に入り、礼儀正しく頭を下げる。橘教授は立ち上がり、柔らかい笑みを浮かべて向かいの椅子を勧める。

「林さんですね。どうぞ、お掛けなさい」そう言って、教授は依織の背後へと視線を向ける。

「司くん、少しリビングで待っていてくれないか。林さんと話があるから」

依織が振り返ると、司がいつの間にか書斎の入り口まで来ていたことに気づく。

司は中には入らず、教授に向かって無言で軽く頷くと、踵を返してリビングへ戻っていく。

そこからの2時間、依織は完全に仕事モードに入り、インタビューに全神経を集中させていた。

橘教授の知識は海のように深く、話にはユーモアもあり、取材は非常にスムーズに進んでいく。

依織は質問を投げかけたり、メモを取ったり、教授が織り交ぜる学界のちょっとした逸話に声を上げて笑ったりする。そのたびに依織の目は三日月のように細まり、頬には小さなえくぼが浮かぶ。

彼女は気づいていない。リビングと書斎の空間が完全に仕切られていない半オープンの間取りになっていることに。

リビングのソファに深く腰掛けている司は、少し顔を上げるだけで、仕事に打ち込む彼女の横顔を視界に捉えることができる。

真剣な眼差し、引き結ばれた唇、ノートの上を滑る、細く美しい指先。そして、時折、緊張が解けた瞬間に見せる、息を呑むほど生き生きとした表情。

彼の手元には書類が開かれているが、もうずいぶん長い間、ページは一度もめくられていない。

インタビューが終盤に差し掛かり、依織はノートPCを閉じる。そして立ち上がり、教授に向かって手を差し出す。

「貴重なお時間をいただき、本当にありがとうございました。大変勉強になりました」

教授も彼女の手を握り返し、心からの笑顔を見せる。

「林さんとは話が合うと思っているよ。すっかり遅くなってしまったね。良ければ、夕食でもご一緒しないか?」

「お気遣いありがとうございます。ですが、まだ仕事が残っておりまして……」

依織は丁寧に断り、手早く荷物をまとめる。最後は一礼して、書斎を後にする。

リビングでは、司が先ほどと変わらぬ姿勢で座っている。手にしたタブレットの青白い光が、無表情な彼の顔をかすかに照らしている。

足音に気づいているはずだが、彼は顔を上げようとしない。依織は足を止め、彼の冷たい横顔に視線を落とす。

少し唇を噛んだあと、彼のほうへほんのわずかに会釈だけをして、玄関へ向かう。靴を履き替え、ドアを開けて外へ出る。

背後で静かにドアが閉まる音がする。

遠ざかる足音。やがて、それも完全に聞こえなくなる。リビングで、司はようやく顔を上げる。誰もいない玄関を見つめ、固く閉ざされたドアに視線を移す。その場には、しばらく沈黙だけが残っている。

タブレットの滑らかな縁を指でなぞる。画面はすでに暗転している。タブレットをソファに放り投げ、背もたれに深く寄りかかると、苛立ちを抑え込むようにこめかみを押す。

次の瞬間、突然立ち上がり、椅子に掛けられていたコートを掴むと、足早に玄関へと向かう。エレベーターはちょうど下へ降りているところだ。

エレベーターの表示を一瞥すると、すぐに非常階段の扉を押し開け、階段を駆け下りていく。

エントランスから外へ出た瞬間、冬の凍てつく風が容赦なく吹きつけてくる。依織はコートの襟をかき合わせ、敷地の外へ歩き出そうとする。その時、背後から落ち着いた足音が近づき、低く響く声が聞こえる。

「依織」

歩みが止まり、振り返る。数歩離れた場所に司が立っている。コートのボタンも留めず、彼女を見据えている。

「送ってやる」

「いい。タクシーで帰るから」依織は視線を逸らし、再び歩き出そうとする。

司は追いつき、彼女の前に立ち塞がる。「この時間はタクシーは捕まらないぞ」

「構わない」

二人は押し問答を続けながら、敷地の入り口まで歩いていく。路肩には司の車が停まっている。彼がキーのボタンを押すと、ヘッドライトが一度点滅する。

助手席のドアを開け、彼女に視線を向ける。「乗れ」

依織は立ち止まり、彼を睨む。「一人で帰れる」

「分かっている」彼は片手をドアに置いたまま、感情の読めない目で彼女を見つめ、低く、それでいて有無を言わせない声で命じる。「乗れ」

冷たい風が吹き抜け、足元の落ち葉を巻き上げる。車の脇で、二人は再び無言のまま向き合っている。

依織は唇を強く引き結び、結局、諦めたように身を屈めて車に乗り込む。司は運転席側に回り、エンジンをかけて暖房を入れる。

車内はすぐに暖かくなったが、二人の間に流れる空気は、冷え切ったままだ。

車が発進する。司は前だけを見据え、一言も発しない。

依織も窓の外へ視線を移す。街のネオンが灯り始め、色とりどりの光の粒となって窓ガラスに浮かんでは消えていく。

車内には、逃げ場のない沈黙だけだった。

交差点で赤信号につかまる。司が前を向いたまま、ふいに口を開く。「夕飯食ったか?」

スマホで仕事のメッセージを確認している依織は、顔を上げる。「まだ」

信号が青に変わる。司はウィンカーを出して、依織が見覚えのない通りへと車を進める。

「どこへ行くの?」

「飯だ」

「私は帰って……」

「俺もまだ食ってない」司は彼女の言葉を遮り、淡々と言う。「一日中忙しかったんでな」

車は一見すると目立たない料亭の前に停まる。しかし、店先に並ぶ車はどれも高級車だ。

司はエンジンを切る。「行こう」

依織は動こうとしない。「そこまでしてもらう必要は……」

「腹が減ってるなら食う。それだけだ」司はすでに車を降り、助手席のドアを開けて立っている。「降りろ」

依織は彼を見上げ、ため息をついてからゆっくりと車を降りる。

店内は静かで、客は二組しかいない。店主が司の顔を見るなり、愛想よく駆け寄ってくる。

「いつものお席でよろしいですか?」

司は短く頷いた。案内されたのは一番奥の個室だ。こぢんまりとしているが、上品な雰囲気が漂っている。司はメニューを依織の方へ押しやる。「好きなものを頼め」

「私は何でもいいから」依織は受け取らない。

司は彼女を一瞥すると、それ以上は何も言わず、手早く数品の料理を注文する。すべてあっさりとした味付けのもので、辛いものや、彼女が嫌いな食材は一切入っていない。

料理を待つ間、個室には気詰まりな沈黙が広がっている。

依織は視線を上げて司を見る。その美しく整った顔立ちは、歳月を重ねても少しも色褪せていない。

ただ唯一違うのは、年齢を重ねたことで、若い頃の剥き出しの傲慢さや鋭い棘が、より深く内側へと隠されていることだ。注意深く見極めようとしなければ、怒っているのか、何を考えているのかすら全く分からない。

しばらく考えた後、彼女はついに口を開く。その声は微かに震えている。

「私たち、もう二度と会わない方がいい」

お茶を注いでいた司の手がピタリと止まる。それでも、茶碗からお茶が一滴たりともこぼれることはなかった。

彼は急須を置き、感情の揺らぎを一切見せない瞳で、依織を真っ直ぐに見据える。「理由は?」

依織はその視線を正面から受け止め、できるだけ感情を抑えた声で答える。

「婚約者がいるって言ってたよね。だから……こういうのは良くないと思う」

司は何も答えない。ただ自分の湯呑みを持ち上げ、ゆっくりと一口飲む。湯呑みを置いてから、ようやく低い声で尋ねる。

「俺に婚約者がいるって、誰から聞いた?」

依織は眉をひそめる。「自分で言ったじゃない」

司の瞳は、底なし沼のように深く暗い。「婚約者がいようがいまいが、誰と会うかは俺の自由だろ」

あまりにも直接的な問い詰めに、依織は言葉を失う。

「依織」彼は少しだけ身を乗り出し、テーブルの縁に両肘をつく。

「10年前、お前が去った時、俺は引き止めなかった。あの頃の俺には、お前に何の約束もしてやれなかったし、お前を守り抜く力もなかったからだ」

さらに低くなった声が、依織の心を鋭く射抜く。

「だが今、お前は戻ってきた。俺が誰とどうしようが、それは俺の問題だ。お前は……」

彼は言葉を切り、彼女の目を深く覗き込む。

「会うか会わないかは、お前自身が決めることだ。婚約なんてくだらない言い訳を盾にするな。もし本当に俺と会いたくないなら、そうはっきり言えばいい」

逃げ道を完全に塞がれ、依織は息が詰まりそうになる。「言い訳なんかじゃない……」声がわずかに上擦る。

「じゃあ何だ?」司は鋭く問い詰める。「自分の感情を抑えきれなくなるのが怖いのか?それとも、他人にどう思われるかが怖いのか?」

「何言ってるの!」依織の顔が熱くなる。

「図星だな」司は椅子の背もたれに寄りかかり、冷たい笑みを浮かべる。

「10年経っても、お前は少しも変わっていない。何かあったらすぐに逃げようとする。そしていつも、建前ばかりを並べ立てる」

その言葉が、依織の心の一番脆い部分を容赦なく突き刺す。膝の上に置いた両手を強く握り締める。

「逃げてなんかない」声が震える。「私はただ、すべきことと、してはいけないことをわきまえているだけよ」

「それを一体誰が決める?」司は問い返す。声は依然として冷静だが、言葉の端々には圧倒的な重みがある。

「お前か?俺か?それとも、何の関係もない他人がか?」

依織は答えられない。ただ、目の前の男を見つめることしかできない。よく知っているはずなのに、ひどく遠い存在になってしまったこの男を。

10年という歳月が彼をより強大に、より底知れない人間へと変えてしまった。そして、彼女は完全に圧倒され、防戦一方になるしかないのだ。

店員がワゴンを押して入ってきて、料理を並べ始める。そのおかげで、張り詰めた空気が少しだけ緩む。

すべての料理が揃い、店員が退室すると、個室に再び、二人きりの静けさが戻る。

司は箸を手に取り、白身魚の蒸し物から身をほぐし、丁寧に骨を取り除くと、そのまま依織の前の小皿へ置く。

「まずは食え」その口調は、いつもの淡々としたものに戻っている。

依織は小皿に置かれた魚の身を見つめ、再び彼へと視線を移す。

彼はすでに自分の食事を始めており、その表情は驚くほど穏やかだ。つい先ほどまで、容赦ない言葉で彼女を追い詰めていた人物とは到底思えない。

この完璧なまでの感情のコントロールが、依織の心をさらにかき乱す。自分がまたしても完全に主導権を握られたのだと、嫌でも自覚させられる。

彼の前では、必死に保とうとしていた理性も、引いたはずの境界線も、いとも簡単に打ち砕かれてしまう。

この日の食事は、どうしても味がしない。

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