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第2話

Author: 浮世雪月
司は、依織の視線に気づいている。それでも隠すつもりはないらしい。片手で堂々とハンドルを握り、まっすぐ前を見据えている。

依織は一瞬だけ動きを止め、ふっと小さく笑う。「婚約したって聞いたけど?」

「ああ」と、司は淡々と返す。

「おめでとう」

交差点に差しかかると、車は横断歩道の手前で静かに停まる。

暖房の効いた車内は、少しずつ暖かさを増していく。暖かさに包まれる中、わずかな冷気が隙間から入り込み、依織はゆっくりと運転席へ顔を向ける。

いつの間にか、司はタバコに火をつけていた。漂う煙の向こうで見える横顔は、10年前よりもずっと落ち着きを増している。かつて鋭かった眼差しには、今ではさらに深い冷たさが宿り、近寄りがたい緊張感をまとっている。

青信号に変わると、司はすぐにタバコを消した。ゆっくりと窓が閉まる。そして、ようやく口を開く。

「……ありがとう」

その言葉を聞いて、依織は小さく息を呑んだ。まるで鉄の帯で胸を締め付けられるような息苦しさを覚え、手元のカイロをきつく握りしめる。

黙って視線を逸らし、流れていく街の明かりを、ただ窓越しに眺める。

10年前、幼馴染だった依織と司は、大学卒業と同時に結婚する約束をしていた。しかし、依織の父親・林泰三(はやし たいぞう)は、国家機密を漏洩したスパイだと疑われ、追われる身となった。

その逮捕作戦の指揮を執っていたのは、他でもない、司の父親・御堂栄一郎(みどう えいいちろう)だった。

泰三は、妻・林洋子(はやし ようこ)と依織の目の前で一本の電話を受けた後、自ら命を絶った。

その後、依織は迷うことなく司との婚約を破棄し、洋子を連れて海外へと渡った。

それから10年、すべては変わってしまった。人も、関係も、もう昔のままではない。

依織は苦く笑った。まさか、巡り巡ってまた司と出会うことになるなんて。

吹雪は次第に弱まり、車は東都を横断する幹線道路を走っている。

依織があまりにも静かなせいか、司は何気なく視線だけを横へ向ける。

街路灯のオレンジ色の光が車内を流れていく。依織は窓ガラスにそっと頭をもたせかけている。

かつて自分の後ろをついてきた長髪の少女は、今ではすっきりと洗練されたショートヘアになっている。ほんのり色づいた唇が、彼女の儚げな美しさを際立たせている。

10年前のあの日、司は一日中、依織を待ち続けた。しかし最後に届いたのは、たった一通のメッセージだった。あの冷たい言葉を、今でも鮮明に覚えている。

別れを告げられてからの1年間、目を閉じれば、募る想いが胸を締めつけ、息もできないほど苦しかった。依織への恋しさに飲み込まれ、苦しみ、壊れそうになるほど耐え続けた。

依織が去ってから、司は感情というものを捨てたように生きていた。狂ったように過酷な訓練を繰り返し、危険な任務にも身を投じた。そうしなければ、彼女のことを考えてしまいそうだったからだ。

この女は、一度心を閉ざしたら、誰よりも冷たくなれる。

……

夜もすっかり更けた頃、依織は病院の廊下にある長椅子に腰を下ろしている。手についた血はとうに乾いている。少し離れた場所で、司が誰かと電話をしている。

しばらくすると、白衣姿の若い男が姿を現す。

「どれどれ……誰かと思えば」上野明樹(うえの はるき)のからかうような声が、静まり返った病院の廊下に響く。

「久しぶりすぎて、一瞬誰だか分からなかったよ」

近づいてくる姿を見て、依織は立ち上がり、微笑んで挨拶をする。

「上野先生、お久しぶりです」

「東都に戻ってきたのか?こっちで働くことになった?」明樹が尋ねる。

「ただの出張です」

「どれくらいいる予定?」そう言いながら、明樹はちらりと司の方に視線を送る。

依織は少しだけ口角を上げる。「用事が終わったら、すぐに発ちます」

司は眉をひそめ、無表情のまま会話を遮る。

「さっき事故に遭った。手を怪我している。念のため、他も診てくれ」

明樹は、すでに血の止まった依織の手首へ視線を落とす。

「こういうのは、お前のほうが慣れているだろ。どうしてわざわざ俺を大急ぎで呼び出したんだよ」

「余計なことはいい。早く診てくれ」

明樹は小さく肩をすくめると、血のついた白いセーターの袖をまくり上げる。

「ッ……」痛みに思わず顔をしかめる。そこには、赤く腫れ上がった長い擦り傷が痛々しく残っている。

骨に異常がないかなど、一通り念入りな検査を終える頃には、1時間が経過していた。

「骨にも異常はないし、筋肉にも問題ない。頭も大丈夫だ。手の傷も深くないから、消毒して包帯を巻けば大丈夫だ」明樹はカルテに書き込みながら状況を説明する。

傷の手当てが終わると、依織は明樹に向かって感謝の笑みを浮かべる。ふと司へ視線を向けると、すぐにその笑顔を引っ込める。そして何も言わず、手を洗うために洗面所へ向かう。

司の深い瞳からは、何の感情も読み取れない。彼はただ、無言のまま立ち尽くしている。

依織の姿が見えなくなると、明樹が小さな声で言う。

「依織は言ってたよ。ここに残るつもりはないって」

司は片手をポケットに突っ込み、窓辺に寄りかかったまま、夜の闇を見つめて何も答えない。

しばらくして、依織が戻ってくる。「上野先生、今日はありがとうございました」

そう言ってから、窓辺に立つ司へ視線を向ける。「では私はこれで」

小さく会釈をすると、そのまま背を向ける。

病院のエントランスを出ようとしたその時、優香から電話がかかってきた。

「今どこ?車で目が覚めたらいなくなってるし、知らない男の人に送ってもらって帰ってきたんだけど……どういうこと?」

「ちょっとトラブルがあってね。すぐ帰るよ。あの人は御堂家の運転手、怪しい人じゃないから」電話をしながら、依織は手を上げてタクシーを止めようとする。

「分かった。家で待ってるね」

電話を切り、もう一度道路へ視線を向ける。

「どこへ行く?送ってやる」背後から、司の声が響く。

依織は手を止め、振り返らずに答える。「自分で帰る」

しかし司は何も言わない。助手席側のドアを開けたまま、そこに立っている。一歩も引かないという無言の圧力をかけてくる。

再び雪風が吹き荒れ、刺すような冷気が、深夜の静寂をいっそう物悲しくさせている。

無言のまま視線が交錯する。しばしの攻防の末、ついに依織が折れて助手席へと乗り込む。

司も運転席に乗り込み、雪を被ったコートを後部座席へ放り投げる。「住所は」

依織が淡々と住所を告げると、司はエンジンをかけ、ゆっくりと車を出す。

しばらくして、司は前を向いたまま、低い声で問いかける。「今回は、どれくらいいる」

「長くはない」依織の返答は素っ気なく、一切の温度を感じさせない。

依織には分かっている。この人と、もう交わることはない。だから、取り繕う必要もない。

その冷たすぎる態度に、司のハンドルを握る手がわずかに強くなる。

雪は少しずつ弱まっていく。依織は助手席にもたれ、流れていく街並みを眺めている。

あれから10年、これほど近い距離で向き合うのは初めてだ。

車内には、沈黙だけが広がっている。司は黙ってハンドルを握る。その硬質な横顔からは、誰も寄せ付けないようなオーラが放たれている。

司から話を切り出すことはなく、依織もまた、暗黙の了解のように口を閉ざしたままだ。

ようやく目的地に到着した。車が完全に停まるや否や、依織は身を起こし、シートベルトを外そうと手を伸ばす。

「待て」低い声が車内に響く。依織の手が止まって、眉をひそめて隣を見るが、何も言わない。

司は返事を待つことなく、自らドアを開けて車を降りる。ほんの数秒後、助手席のドアが外から開けられる。

肩に雪を積もらせた司が立っている。冷たい夜の中でも、背筋はまっすぐ伸びている。彼は依織を見下ろし、少しだけ声を和らげる。

「階段が凍っている。気をつけろ」

依織の瞳が微かに揺れる。一瞬、10年前の傲慢で冷たかった少年の面影が重なって見える。

しかし、若き日の初々しさは今や跡形もなく消えている。今の二人に残っているのは、よそよそしい距離感だけだ。

我に返った依織は、差し出された司の手を避ける。「大丈夫」そう言うと、シートに手をついて身体を支え、ゆっくりと車から降りる。

マンション前の階段には雪が積もり、その下は凍っている。一歩踏み出した瞬間、足元が滑る。体が後ろへ倒れそうになる。

しかし、予想していた衝撃は来なかった。司の腕が、間一髪で依織の腰を支えていた。

突然の接触に、依織の体が強張る。心臓がバクバクして、本能的にその手から逃れるように後ずさって距離を取る。

「ありがとう、自分で歩けるから」

司が何か言おうとした、その時、「いおりん!」と呼ぶ声が響いた。焦りと心配が入り混じった声とともに、優香が小走りで駆け寄ってくる。

隣に立つ男の存在に気づくと、優香は少し緊張した様子で頭を下げる。

「わざわざ依織を送ってくださってありがとうございます」先ほど運転手の旭から聞いた追突事故のことを思い出し、引きつった笑いを浮かべる。

「あの……今日は本当にご迷惑をおかけしました。今度、依織と一緒に食事でもご馳走させてください。改めてお詫びします」

依織はそっと優香の腕を引く。これほどの権力者が、一般人と関わりを持つはずがないし、何よりこれ以上彼と関わりたくない。

止めに入ろうと口を開きかけたその時、司が先に口を開く。「いつ」

依織は思わず顔を上げる。まるで聞き間違えたかのように司を見つめる。

優香の最大の長所は、空気を読んで機転を利かせることだが、同時に「引き際を知らない」という大きな欠点もある。

「では、御堂さんはいつ頃お時間がありますか?」優香がすぐに尋ねる。

「いつでも」司は淡々と答える。

「それなら、後で連絡できるように連絡先を交換してもいいですか?」

依織は木偶の坊のように突っ立ったまま、二人が連絡先を交換するのをただ見ていることしかできない。

交換を終えると、優香は再び深々と頭を下げる。

「今日は本当にありがとうございました。

雪で道が滑るので、運転には気をつけてください」

そう言い残すと、優香は依織の腕を引いて、その場を離れていく。

また風が吹き始める。

車に戻った司はハザードランプを点け、ルームミラーに映る次第に遠ざかっていく依織の後ろ姿を見つめている。

その黒い瞳の奥では、長い間抑え込んできた感情が静かに渦巻いている。

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