LOGIN美月side
「いなくなりましたね……」
「二人とも嵐のようでしたね」
陸が立ち去ったのを確認してから胸を撫で下ろすように呟くと、世羅も苦笑気味に返してきた。声を荒げて言いたいことだけ言って盛大な舌打ちをしていなくなった二人は、『嵐のように現れ嵐のように去っていった』という比喩がピッタリだった。
「ふふ、本当。このまま通り過ぎて平穏が来るといいのですが」
「どうでしょうね。話が分かる相手ならここまで長引かないので難しいかもしれません」
「同意です。簡単に引き下がる人たちではないですもんね」
「お互い厄介な相手に当たりましたね。あんな相手と結び付けた親族を恨みますよ」
タイプは違うが、それぞれ癖の強い元婚約者二人に私たちは呆れながら苦笑した。
「でもそのおかげで、世羅と会うことができて現状を変えようと思った。もう二度と戻りたくないけれど、あの人がいなかったら父の会社に危機感を覚えながらも行動には移さなかったと思います。だから、反面教師な点はたくさんあるけれど、結果としては意味はあったのかなって」
その言葉に世羅は苦笑とは違う優しい笑顔で私を見返してきた。<
美月side「それがね、応接室に入る前にうちの社員の前で、この会社を遠藤製薬の子会社にしたいって言い始めたの」事務員の佐藤さんの声は震えていた。私は耳を疑った。「うちの会社を遠藤の子会社に? そんなことを、わざわざ社員の前で言ったんですか?」「ええ。一部の社員は待遇が上がるかもしれないって喜んでいるけれど、子会社にしたら遠藤製薬側から役員や代表取締役を送り込むとも言っていて……。私はそんな甘い話ではないと思うのよ」「それって……買収じゃないですか」「ええ。社長をはじめ、今の役員たちは全員退任させられる可能性があるわ。それでね、外部から役員を迎えるのが嫌なら、美月さんが代表を務めるなら今いる全社員のポジションを保証して待遇も改善するって言っているのよ」「え……」頭の中が真っ白になった。陸は、私を社長の椅子に座らせることで私を縛り付けようとしている。「社長は、その場での回答はしなかったんだけれど会社が乗っ取られたら元も子もないわ。美月さん、社長から話があるとは思うけれど、一度……考えてくれない?」
美月side両親に渡米の件を伝えると、二人とも一瞬言葉を失うほど驚いていた。「そんな遠いところへ一人で行くの?言葉だって通じないのよ」母は顔を曇らせと心配して色々と尋ねてきたが、隣に座る父がそれを静かに制した。「母さん、もういい。美月には、今まで会社のことで色々と苦労や迷惑をかけた。これからは美月の好きなように、自分の人生を歩めばいいんだ。それに、美月ももう立派な大人だ。困った時にだけ私たちが手を差し伸べるようにして、あれこれ口を挟むのはもうやめよう」父の言葉には、かつての陸との政略結婚への深い後悔と謝罪の念が滲んでいた。母もその言葉に深く頷いて、私は快く送り出してもらうことができた。それからの日々は、瞬く間に過ぎていった。新居の準備は世羅に任せ、向こうに持っていく荷物をまとめ、パスポートの更新も済ませた。アメリカでの日本語教師の仕事先もエージェントを通じていくつか候補が挙がっている。出発まであと一か月に迫り、期待と少しの不安が入り混じった高揚感の中にいたある日、私のスマホに父の会社の事務員である佐藤さんから電話が入った。「あ、美月さん? はぁー、電話に出てくれて良かった。今、大変なことが起きていて……」普段はどんな時も丁寧な対応を崩さない
美月side「ええ。アメリカでも強くならなきゃと思って」「え……」その言葉に世羅は驚いて私を見返している。私は、世羅の瞳を見つめながら、少し照れくささを感じつつも、自分の本当の気持ちを伝えることにした。陸に言い返した時の高揚感と、これから踏み出す一歩への緊張が混ざり合い、心臓がバクバクと大きく音を立てている。「返事が遅くなったけれど、私は世羅の側にいたい。だから、一緒にアメリカに行く。それが私の答えよ」「いいの? 本当に、一緒に来てくれるの?」世羅の声が微かに震えている。喜びと安堵が入り混じったその表情を見て、私は大きく頷いた。「ええ、決めたの。本当は、話をもらった時からもう心は揺れ動いていた。一緒に過ごすうちにあなたのいない世界なんて考えられなくなって……。でも、ただ付いていくだけの私にはなりたくなかった」バッグの奥から、先日届いたばかりの「登録日本語教員」の認定証を取り出して、世羅に手渡した。「世羅と一緒にいたいけれど、私がいることで余計な心配を掛けたり、あなたが研究に集中できなくなることだけはしたくなかった。だから
美月side「違う、俺はお前のことを思っていた。結納金も初めての食事も、一体お前にいくら使ったと思っているんだ?」「……いくら使った? あなたのそういうところよ。あなたはお金で何でも自分の思い通りにしようとする。お金さえ払えばいいと、人を駒にしか思っていない。そういうところが心底嫌なのよ。柳さん、お見苦しいところをお見せしてすみません。行きましょう」私は世羅の腕を掴み、陸の顔を見ずにその場を去ろうとした。しかし、陸は納得がいかないのか、私の手首を強く掴んで離さない。「待て、まだ話は終わってないぞ!」陸の叫びは、もはや愛ではなく執着とプライドの崩壊からくる断末魔のように聞こえた。その時、隣にいた世羅が、冷静だが逃げ場のないほどの強い威圧感を纏って私と陸の間に割って入った。「遠藤さん、彼女が嫌がっています。これ以上付きまとうなら警備員を呼びますよ。ここは公共の場です。ご自分の醜態をこれ以上晒さない方がいい」世羅の冷徹な一言に陸の指先から力が抜け、私の手首が解放される。私はすぐさま世羅の背中に寄り添い、その場を離れた。背後で陸が何かを叫んでいたが、その声は駅の喧騒にかき消されていく。振り返る必要はなかった。最後に陸の悔しそうな顔を最後に見た時、私の心の奥底に溜まっていたどす黒い感情が一気に浄化されていくのを感じた。
美月side世羅に連絡をすると、週末に名古屋まで来てくれて一緒に過ごすことになった。新幹線の改札前にある大きな丸時計の下で待っていると、世羅が気がついてこちらに近付いてくる。普段から連絡は取っているけれど、直接会えた喜びを二人で微笑みあいながら噛みしめていた。連日続く猛暑日で、アスファルトは太陽の日差しを浴びて足元からの熱気を感じる。世羅の隣を歩いていると、後ろから大声で私の名前を叫ぶ声が聞こえてきた。「おい、美月!こんなところでお前、何をやっているんだ。やっぱりそいつと出来ているんじゃないか!」振り向くと、陸が鬼のような形相で猛スピードでこちらに駆け寄ってきて、私の両肩を強く掴んできた。「もう言い訳出来ないぞ。お前は、こいつとの関係がありながら俺を騙していたんだろ?今すぐ俺のところに戻ってこい。お前は俺の女だ」「言いがかりは止めてください。すべてあなたの妄想で勘違いです」世羅が陸の手を掴んで咎めたが、怒りが収まらない陸は世羅の手を振り払うと私に詰め寄ってきた。「お前は黙っていろ。俺は今、美月と話をしているんだ」血走った目で睨みつけてくる陸の腕を手で払い、大きなため息をつく。長年溜め込んでいた怒りと屈辱をぶつけるように、私も陸を睨み返し冷たい声で吐き捨てた。「私はあなたと話すことなんてないわ。『俺の女?戻ってこい?』嫌よ、あんな地獄みたいな生活に戻るわけないじゃない。お願いされてもお断りよ」「な、何を言っているんだ。俺がどれだけお前のことを思って与えてやったと思っているんだ!お前に教養やマナーを学ばせてやって、社会人としての経験もやらせてやった。周りにも紹介してやってお前は、遠藤製薬の次期社長夫人として振る舞えて、これ以上何の不満あがあるんというんだ?」「与えてやった?物は言いようだよね。あなたは私を自分の都合のいいように扱っていただけよ。私の事なんて考えたことないじゃない。あなたが与えてくれたのは『愛』じゃないわ。私はもうあなたの顔色を窺って生きる人形じゃない」私の言葉に、陸は本気で困惑しているようだった。彼にとっては、馬鹿にしたように罵倒して私をなじるのも、時間など関係なく私を呼び出して婚約者だと紹介するのも、すべて「愛」であり、私はそれを喜んで受け取るべきだったのだ。その傲慢さが、今の私には滑稽ですらあった。
美月sideパーティーが終わり、舞がスポンサー契約を結べたかまでは分からないが、舞や楽団にイベントのオファーが来たり演奏会の奏者として招待を受けたようだ。地元のTV局でもたまに舞や楽団が取り上げられていることもあり、少しずつだが露出も増えている。舞たちは、世羅の開いたパーティーの恩恵を受けたようで、このことをきっかけに婚約破棄の問題に終止符が打てることを願った。―――――七月上手くいけば今頃渡米するはずだった世羅は今も日本にいる。舞の問題で少し時期がずれたが、遅くなるが年明けからアメリカ行きが確実視されていて、十月には準備も兼ねて出発の予定だ。私も世羅に返事をする時が近付いていた。しっかりと返事はしていなかったが、世羅に話をされたときから、私の心は決まっていたと思う。この期間で英語を学び直していた。そして、もう一つ……。『酒井美月殿 登録日本語教員に認定する』この日、教員免許と賞状が届き、私は晴れて日本語を教える教員となった。教育への道は高校生の頃に目指していた夢だったが、父の会社を継ぐ可能性もあったので、大学は教育学部ではなく教員免許もとれる学部を選択した。在学中に会社のことが気になり教員への夢は諦めたが、理恵と話をしているうちに興味が湧いてきた。