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第4話

Author: 蒼井航
私に向ける声は氷のように冷たいのに、渓に話しかける声だけは、明らかに甘く柔らかい。

その声を聞くだけで、二人の距離の近さが分かる。

渓が私を心配している?

そんなの、彼に「優しい女」だと思わせるための芝居に決まっている。それなのに征也は、あっさり信じ込んでいる。

「莉乃」

征也の目に、かすかな怒りが浮かんだ。

いつも黙って従ってきた私が言い返したことが、よほど気に入らないらしい。

これまでは、この男に名前を呼ばれるだけで身がすくんだ。すぐに謝って、何が悪かったのかと自分を責める。それが「いつもの私」だった。

情けないことに、今もまだ体は反射的に強張ってしまう。

まったく、嫌になる。

こんな男を怖がる癖が、まだ体に染みついているなんて。

「離婚届はもう書いてきたって言ったわよね。一週間以内に署名してくれないなら、弁護士に任せるから」

苛立ちを隠さず、もう一度だけ離婚する意思を告げてから、私はスマホを取り出し、カメラを起動した。

そのまま二人に向けて、立て続けにシャッターを切る。

渓の顔が、わずかに引きつった。

「何してるの?」

「話し合いで済まなかったら、調停だの裁判だのになって面倒でしょう?夫婦関係が破綻していた証拠は、多いほうがいいから」

スマホを構えたまま平然と答え、渓に向かって軽く顎で示した。

「もう少し征也に近づいてくれる?そのほうが、不貞っぽく見えて分かりやすいわ」

その言葉に、渓はあからさまに動揺した。困ったように征也を見上げ、それから私を見る。

しかしファインダー越しに見ると、渓の体はわずかに征也のほうへ傾いていた。距離は、さっきよりも近い。

本当に、抜け目のない女だ。

私はすかさず、さらに数枚シャッターを切った。

「もういい加減にしろ!」

怒りに任せて一歩踏み出した征也が、私の手からスマホを奪い取った。写真を消すつもりなのだろう。けれど、画面はすでにロックされていた。

征也はスマホを手にしたまま、険しい顔で私を睨みつける。

「パスコードは?」

「私の誕生日」

それ以上は何も言わず、淡々と答えた。どうせこの短い間に、写真はもうクラウドへ同期されている。この端末から消したところで、家のタブレットには残る。

しかし――私が答えた瞬間、征也の表情が固まった。

画面に触れようとした指が、途中で止まっている。

ロックを解除できなかった。

自分の妻の誕生日さえ、覚えていなかったのだ。

なるほど。

これまでの誕生日プレゼントは、やはりすべて秘書が用意していたのだろう。当日になって秘書に言われて、彼はただそれを私に手渡していただけだった。

はぁ、とため息が漏れた。

彼の手からスマホを奪い返す。

「離婚は絶対にするから。あと、弟さんをどうにかしたほうがいいわよ。あの調子だと、賭け事で痛い目に遭うから」

本当に、自分でも親切な女だと思う。

こんなときまで、弟の不始末を知らせてやっているのだから。

「浩也が何をした?」

征也の問いには答えず、私は背を向けた。

追ってくるかと思ったが、渓が征也を呼び止めた。背後から、彼女の甘ったるい声が聞こえる。

「私も聞いただけなんだけど、浩也くん、グループLINEで賭けを始めたらしいの。莉乃ちゃんがいつあなたのところに戻るかって……けっこう大きな額で、みんなも乗ってるみたい」

「……くだらない」

征也が低く吐き捨てる声が聞こえた。

私は歩く速度を緩めなかった。

それでも背後で、征也がスマホを取り出す気配がした。次の瞬間、氷のような声が響く。

「――どこにいる」

今度は、あの弟が標的らしい。

けれど、その賭けで一番傷つけられたのが私だということに、征也は気づいていない。

弟を叱るためなら、すぐに電話をかける。それなのに、目の前にいる私には、謝罪の一言すらない。

ホテルに戻り、シャワーを浴び終えた頃、知らない番号から着信があった。

何も考えずに切ると、次の瞬間、その番号からメッセージが届く。

南條浩也だった。

どうやら征也にひどく叱られたらしい。画面には、私を見下すような言葉がびっしり並んでいた。

いつものことだ。

今回も、私に謝らせるつもりなどないらしい。

弟を力ずくで黙らせることならできるのに。

賭けるな。遊び歩くな。夜遊びするな。無茶な運転をするな。

そう命じれば、浩也は一応従う。

けれど、兄の妻に対する最低限の礼儀だけは、最後まで教えなかった。

それでも、昔からこうだったわけではない。

浩也とは、大学の同級生だった。

あの頃の浩也は、今のように私を見下したりしなかった。

征也だって、最初からこんなに冷たい男だったわけではない。

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