تسجيل الدخول番外編・南條征也離婚協議書に署名した翌日、征也の前に、思いもよらない人物が現れた。葉山莉乃の代理として、弁護士に同行してきた男。葉山悠真。葉山家の三男。それが、莉乃の兄だった。そんな話を、征也は一度も彼女の口から聞いたことがなかった。財産分与の手続きは、離婚協議書の内容に基づき、弁護士を通じて淡々と進められていった。対象となる資産がひとつずつ確認され、必要な名義変更や書類の手続きが進められていく。その手際に、隙はなかった。そのときになってようやく、征也は思い知った。莉乃は、本気で自分と離婚するつもりなのだ、と。金のことなど、彼にとってはどうでもよかった。征也は思わず悠真の腕をつかみ、低い声で問い詰めた。「あいつはどこだ?」どうして、突然姿を消したのか。なぜ、何も言わずに自分の前から消えたのか。「失せろ」征也は、自分でも驚くほど取り乱していた。たった二週間前まで、彼女は自分のカードで高級ホテルに泊まり、腹を立てて、自分が迎えに行くのを待っているはずだった。いつものように拗ねて、宥めてほしいだけなのだと思っていた。それなのに二週間後には、離婚協議書に署名するところまで追い込まれていた。家のクローゼットには、彼女の服もバッグも、まだ一つも持ち出されずに残っているというのに。「兄貴」南條グループの株式に関する話を聞きつけ、株主の一人として来ていた浩也が、横から口を挟んだ。「あいつ、実家に帰ったよ。たぶん、江ノ原。空港で見た。チェックインカウンターまで送ったから」それは、浩也が彼女を空港まで送り届けたときに知ったことだった。その言葉を聞いた瞬間、征也は江ノ原へ向かおうとした。だが、その前に悠真が彼の胸ぐらをつかんだ。強引に引き寄せ、そのまま壁際へ押しつける。「お前に、あの子を探しに行く資格があるのか」悠真は吐き捨てるように言った。「莉乃がどれだけお前に連絡してたと思ってる。メッセージも電話も、何度も無視しておいて、今さら何を慌ててるんだ。お前に、莉乃の気持ちを受け取る資格なんてない!」いなくなってから惜しくなったのか。ふざけるな。征也の表情が、険しく歪んだ。それでも彼は悠真を押しのけ、最短の便を押さえて江ノ原へ向かった。江ノ原では
あの頃の私は、どうしてあんなに馬鹿だったのだろう。どうして、あんなに遠くまで逃げようとしたのだろう。どうして、自分を好きになってくれない人を好きになってしまったのだろう。私が突然泣き出したことで、兄たちも両親もひどく驚いていた。母は痛ましそうに顔を歪め、私を抱きしめたまま、何度もため息をついた。ずっと心の奥に隠していた秘密を、ようやく家族に話せた。それだけで、胸につかえていたものが少しずつほどけていく気がした。離婚の件については、怜司兄さんがすぐに動いた。人脈を使い、地元で評判のいい弁護士を紹介してくれたのだ。弁護士はすぐに征也側へ書面を送り、私の離婚の意思が固いことを伝えてくれた。話は、思っていたよりも順調に進んだ。私が家を出て二週間ほど経ったころ、弁護士は征也へ、こちらの条件をまとめた離婚協議書案を送った。征也はその書面を受け取ると、すぐに私へ電話をかけてきた。病院で一度ブロックを外したまま、ブロックし直すのを忘れていたのだ。電話の向こうで、征也は怒りを含んだ声で言った。「莉乃。二週間も家に戻らず、まだ足りないのか。今度は弁護士まで立てて、こんな書面を送りつけてくるとはな」私が姿を消して、もう二週間になる。それでも征也は、私がまだ拗ねているだけだと思っているらしい。あの男の中では、私はそれほどまでに彼から離れられない女なのだろう。「勝手にそう思ってれば。書面は届いたんでしょ。早く署名して」前の夫が信じようと信じまいと、もうどうでもよかった。私はただ、この関係を一刻も早く終わらせたかった。「結婚を何だと思ってる」征也は、電話の向こうでまだ私を説教していた。「こっちは忙しいんだ。お前のわがままに付き合ってる暇はない。これ以上家に戻らないなら、本当に署名するぞ」「すれば?それで私が戻ると思ってるなら」思わず笑ってしまった。私がまだ強がっているだけだと思ったのだろう。征也も引く気はないらしく、すぐに言い返してきた。「お前が署名しろと言ったんだ。後悔するなよ。あとで戻りたいなんて泣きついても、そう簡単にはいかないからな」征也は、まだ私が本気ではないと思っていたのだろう。家には、まだ私の物が山ほど残っている。クローゼットには、買ったばかりのバッグも
けれど、そんなことは今の私には関係ない。一刻も早く、この場所を離れたかった。冷えきった目で、まっすぐに睨みつける。余計なことは聞かないで。私の言う通りにして。口に出さなくても、そう言っているのだと浩也には伝わったはずだ。予約していた便は、夜九時発だった。今から向かえば、まだ間に合う。浩也はしばらく私を睨み返していたが、やがて面倒くさそうにため息をついた。それから乱暴に、けれど私を倒さないよう慎重に支えてくれる。「分かったよ。行けばいいんだろ。今から空港まで送ってやる」空港へ向かう車の中で、浩也は一言も話さなかった。到着してからもそれは同じで、黙って車椅子を借りてくると、そのまま私をチェックインカウンターまで押していった。その間、私たちの間には重苦しい沈黙が落ちていた。保安検査場へ向かう前、浩也がふいに足を止めた。気まずそうに視線を落とす。その視線の先にあるのは、まだ目立つはずもない私のお腹だった。「妊娠してるのに、それでも行くのか?向こうに行ったら、もう戻ってこないつもりなのか?」彼がこんなに静かな声で話しかけてきたのは、ほとんど初めてだった。私は浩也の目を見返し、静かに答えた。「うん」本当に、もう二度と戻るつもりはなかった。どうしようもない浩也だけれど、一度引き受けたことは必ず守る。そういう妙な律儀さだけは、あの兄弟に共通していた。この三ヶ月間、浩也は絶対に私の妊娠を征也に告げないだろう。三ヶ月もあれば、弁護士が離婚に向けた手続きを進めるには十分だ。浩也に何も言わず、振り返りもしないまま、私は保安検査場へ向かった。この街から故郷まで、飛行機で一時間半。たったそれだけの距離なのに、私は青春のほとんどを、この街に置いてきたような気がした。実家の葉山家に戻ると、両親は驚いた顔をしたあと、すぐに嬉しそうに駆け寄ってきた。母は私の手を握り、父は落ち着かない様子で荷物を受け取る。「莉乃?どうしたの、急に。こんな時期に帰ってくるなんて。向こうの仕事はどうしたの?」私はずっと、結婚していたことを両親に言えずにいた。ただ曖昧に、「あっちで仕事を見つけたの」と誤魔化し続けていたのだ。「うん。終わったの。仕事も辞めて、帰ってきた」私は両親を強く抱き
「申し訳ありません。今の状態でお一人でお帰しするのは、こちらとしても難しくて。ご家族か、付き添いの方に来ていただけませんか」困ったような顔で、看護師にそう断られた。この街で連絡できそうな相手といえば、文乃くらいしかいない。けれど彼女は今、海外の大学院にいる。しばらくスマホの画面を見つめたあと、仕方なく連絡先を開いた。迷った末に、征也のブロックを解除し、電話をかける。廊下には、多重事故で運ばれてきた負傷者や、その付き添いらしき人たちがあふれていた。コール音が途切れ、電話がつながる。「今、どこにいるの?」そう尋ねた直後だった。廊下のずっと向こう側に、征也の姿を見つけた。隣には渓がいる。征也はスマホを耳に当てたまま、医師に手当てを受ける渓を見守っていた。医師は、渓の指にガーゼを巻いている。たったそれだけ。かすり傷のような怪我だった。「会社だ」少しの迷いもなく、征也は答えた。「これから会議がある。用がないなら切るぞ。……帰る気があるなら、浩也に迎えに行かせる」その声はあまりにも自然で、もしこの目で見ていなければ、嘘をついているとは気づけなかっただろう。その瞬間、胸の奥がすっと冷えていった。長椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。涙は出ない。ただ、急にすべてが馬鹿馬鹿しくなった。私の七年間は、いったい何だったのだろう。何ひとつ、残らなかった。うつむいたまま、胸の奥に沈んでいくものをただ感じていた。そのとき、視界の端に黒いスニーカーが現れた。「お前、また何やってんだよ。そんな格好で、兄貴に心配してもらえるとでも思ってんのか?兄貴がそんなことで――」顔を上げると、目の前には浩也が立っていた。こんな状態の私を見ても、口から出てくるのは相変わらずひどい言葉ばかりだった。「そんなこと、しないよ」彼が言い終える前に、自分でその続きを口にした。征也は、私のことなんて心配しない。もしかしたら、あの頃はほんの少しだけ、情のようなものがあったのかもしれない。けれどそれも、文乃の企みに乗り、結婚まで押し切ったあの日に、きっと使い果たしてしまった。「お前……」浩也は一瞬言葉に詰まり、気まずそうに咳払いをした。「兄貴に電話してやるよ。家まで送らせてやる」
ところが、南條家の人々は、私の実家のことなど最初から気にも留めていなかった。婚姻届を出す日だけが、淡々と決められていく。征也もまた、私の実家について一度も尋ねなかった。結婚してからの征也は、ひどく冷淡だった。家の中に他人が入ることを極端に嫌がったため、私は包丁の握り方もろくに知らないところから、毎日キッチンに立つようになった。失敗を繰り返しながら、少しずつ料理を覚えた。三食を用意し、彼の身の回りを整え、家中を隅々まで磨いた。そうしてようやく、征也はわずかに柔らかい表情を見せてくれるようになった。けれど、そのわずかな変化だけでは、不安を埋められなかった。毎日のようにメッセージを送り、どこにいるのか確かめようとした。暇さえあれば電話をかけた。見張るように確認しては、無視されるたびに「離婚する」と騒ぎ立てた。本当は、引き止めて、宥めてほしかっただけなのに。征也が機嫌を取りに来てくれたことなど、一度もない。結局いつも、私の怒りが勝手に冷めて、自分から彼のもとへ戻っていった。どうしようもないほど、恋に目がくらんでいた。「いつか私を好きになってくれる」「一緒に暮らしていれば、いつか本物の夫婦になれる」そう本気で信じていた。けれど、間違っていた。渓が戻ってきたことで、はっきり分かった。彼の目に、最初から私など映っていなかったのだ。あの冷たさも、無関心も、理由はただ一つ。私を愛していなかったからだ。ようやく、目が覚めた。この街には、つらい記憶が多すぎる。征也との離婚が成立したら、故郷へ帰るつもりだった。征也に与えた猶予は、一週間だけ。その間に離婚届へ署名してくれれば、余計な争いをせずに別れられる。あとは役所へ提出すれば、夫婦としてはそれで終わりだ。その一週間は、ひどく静かに過ぎていった。私は征也から渡されていたカードで、都内のブランドショップを回った。欲しいと思ったものを、片っ端から買った。それでも征也からは、何の反応もなかった。もともと、買い物を制限されたことなどない。勝手に遠慮して、自分を縛っていたのは私のほうだった。結婚してからの数年間、渡されたカードにはほとんど手をつけてこなかった。でも今は違う。これは全部、私に認められてい
想像していたとおりだった。征也の整った唇は、触れた瞬間に息を奪われるほど、甘くて柔らかかった。暗いホテルの部屋で、自分から触れたその唇が、私の初めてのキスになった。身じろぎした征也の腕を、私は夢中でつかんでいた。どうしてあのとき、あんな力が出たのかは自分でも分からない。いま思えば、不思議なくらいだ。結婚してからの私は、力で征也に敵ったことなど一度もない。いつだって体力があるのは彼のほうで、少し力を込められるだけで、簡単に抱き上げられてしまう。本気で逃げようと思えば、逃げられたはずなのに。あの夜の征也は、なぜか最後まで私を振りほどかなかった。不器用なまま、私はただ彼にしがみついていた。何も知らないまま、夢の中だと思い込んで、少しずつ彼に近づいていく。気づけば息が上がり、彼の肩に手を置いていなければ、体を支えていられなくなっていた。どれくらいそうしていたのか分からない。やがて疲れ切って、ようやく体を離した。「……熱い。これ、苦しい」ドレスは半ばずり落ちていた。それでも彼の体温が近くにあるだけで、肌が熱を持つ。酔った頭のまま、私はもどかしく胸元に手をかけた。そのときだった。部屋のドアが開いた。ぱちん、とスイッチの音がして、まぶしい光が一気に部屋へ流れ込んでくる。思わず目を細めた。その光に、ぼんやりしていた意識がわずかに引き戻される。「葉山莉乃、お前、本当に最低だな!」浩也の怒鳴り声が響いた。次の瞬間、征也が素早くジャケットを脱ぎ、私の上半身にかぶせた。乱暴にかけられたジャケットの重みで、沈みかけていた意識が少しだけ戻る。ジャケットの隙間からドアのほうを見ると、その向こうには何人もの客が集まっていた。誰もが冷ややかな目でこちらを見ている。征也の顔は、ぞっとするほど険しかった。「酒癖の悪さも大概にしろ。次はないと思え」冷え切った声だった。その場にいた誰もが、私を見る目には露骨な軽蔑を浮かべていた。渓のいないところで、私が征也に迫った。きっと、そう思われているのだろう。パーティーが終わったあと、親友の文乃でさえ、呆れたように笑いながら言った。「すごいね、莉乃。まさか征也さんを押し倒そうとするなんて。既成事実でも作るつもりだったの?」「そんなこと