Short
夫が初恋の人に会いに行ったので

夫が初恋の人に会いに行ったので

By:  蒼井航Completed
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
12Chapters
618views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

妊娠が分かった、まさにその夜。 夫の南條征也(なんじょう せいや)は家に帰ってこなかった。 朝まで一緒に過ごしていたのは、いまだに忘れられない初恋の相手・篠原渓(しのはら けい)だった。 あっそ。 なら、こっちも好きにさせてもらいます。 私、葉山莉乃(はやま りの)はその日のうちに荷物をまとめ、記入済みの離婚届だけを置いて家を出た。 今どき、あんな夫がいなくたって子どもはちゃんと育てられる。 慰謝料と財産分与はきっちり取って、お腹の子と気ままに暮らしてやる! 未練ゼロの痛快シングルマザー生活、むしろ最高じゃない?

View More

Chapter 1

第1話

昨夜、検査の結果が出た。私、葉山莉乃(はやま りの)は妊娠5週目だった。

真っ先に夫へメッセージを送った。けれど一晩待っても返信はなく、結局、彼は家にも帰ってこなかった。

翌日になって、夫の南條征也(なんじょう せいや)がどこで何をしていたのかを知った。きっかけは、誰かがSNSに上げた集合写真だった。その中央で、私の夫はある女性と隣り合って座っていた。征也の口元には、私には滅多に見せない、穏やかな笑みが浮かんでいる。

その隣の女性を、私は知っていた。

夫の初恋の相手であり、彼がずっと忘れられずにいた人――篠原渓(しのはら けい)だ。

四年。征也を好きになってから、追いかけ続けた時間だった。渓が夢を追ってパリへバレエ研修に旅立ったあの年、私はようやく彼との結婚に漕ぎ着けた。

それから結婚して三年。

渓が帰国したのは、よりによって私の妊娠が分かったその夜だったらしい。そして征也は、いともあっさり、渓のいるほうへ戻っていった。

本当に、笑える。

これだけ長くそばにいれば、どんなに冷たい人でも少しは情が移ると思っていたのに。

スマホの画面を見つめたまま、胸の奥が細かく引き裂かれていくように痛んだ。深く息を吸い込み、集合写真をもう一度だけ見つめて、静かに目を閉じた。

そして、決めた。

もう、征也にメッセージを送り続けるのはやめよう。

「見ました」という意味を込めて、私はその投稿に「いいね」を押した。

すぐに弁護士へ連絡を入れ、離婚届と必要な書類を手配してもらった。荷物をまとめながら待っていると、しばらくして弁護士の事務所から書類が届けられた。けれど、征也はまだ帰ってこない。

必要な書類に目を通してから、離婚届に必要事項を書き込んだ。それをダイニングテーブルの上に置き、私はスーツケースを引いて家を出た。

クローゼットに残してきた服も、妊娠している以上、どうせすぐ着られなくなる。そう思うと、一着も持っていく気にはなれなかった。

今の時代、夫がいなくたって子どもは育てられる。まだふくらみすらないお腹にそっと手を当て、これからどこに部屋を借りようかとぼんやり考えた。

征也はかなりの金持ちだ。結婚するとき、財産について特別な取り決めもしていなかったので、離婚となれば、婚姻後に築いた財産は財産分与の対象になるはず。

この三年で、その資産は大きく膨れ上がっていた。たとえその一部でも手に入れば、子どもを連れてのんびり暮らすには十分すぎる額だ。

離婚の件は、すべて片づいてから両親に話すつもりだ。

だから今夜の宿には、東都中心部のホテルを選び、征也から渡されていたカードで部屋を取った。

どうせ離婚すれば、私はそれなりの財産を手にする。今から少しばかり贅沢をしたところで、罰は当たらないだろう。

ホテルに入り、チェックインを済ませて部屋に入ったところで、ようやく征也から着信があった。きっと家に戻って、離婚届を見たのだろう。

「今度は何のつもりだ」

電話がつながった瞬間、耳に飛び込んできたのは、不機嫌で苛立ちの滲んだ声だった。

「俺は一睡もしてない。お前の相手をしている暇はない」

昨日までの私なら、きっと何も問いたださずに征也を心配していただろう。

一晩中帰ってこなかった理由なんて追及もできず、怒りもしぼみ、情けないほどあっさりと彼のもとへ戻っていたはずだ。

けれど、あの写真を見てしまった今、彼に尻尾を振るだけの妻でいるつもりは、微塵もなかった。

「離婚届は記入して、テーブルの上に置いてあります。あなたも署名したら、あとは弁護士に連絡してください」

自分でも驚くほど、声は冷たく落ち着いていた。

もう、征也を優先する理由なんてどこにもなかった。

それでも征也は、私が本気で離婚するなど、少しも思っていないようだった。私の言葉など聞こえていないみたいに、勝手に話を進める。

「浩也に迎えに行かせる。俺はこれから会議だ」

会議?知ったことか。

何も言わず、通話終了のボタンを押した。

出会ってから今日まで、私のほうから彼との電話を切ったのは、これが初めてだった。

それでも、胸の奥の痛みは止まらない。大きなベッドに倒れ込んでも、少しも楽にはならなかった。目尻から涙がこぼれ続け、ふかふかの枕を濡らしていく。

豪奢な天井を見上げながら、心の中でそっと決めた。

南條征也のために泣くのは、今夜で終わりにする。

妊娠初期特有の眠気のせいもあったのだろう。泣き疲れた私は、そのまま深く眠り続けた。

ふたたび目が覚めたのは、翌日の午後5時。

ひどい空腹で、ようやく意識が現実へと浮かび上がった。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters

reviews

松坂 美枝
松坂 美枝
若気の至りが手ひどい代償になったふたり 主人公は突っ走りすぎたしクズ男は無関心すぎた 全く合わないふたりだった
2026-07-14 09:42:18
0
0
12 Chapters
第1話
昨夜、検査の結果が出た。私、葉山莉乃(はやま りの)は妊娠5週目だった。真っ先に夫へメッセージを送った。けれど一晩待っても返信はなく、結局、彼は家にも帰ってこなかった。翌日になって、夫の南條征也(なんじょう せいや)がどこで何をしていたのかを知った。きっかけは、誰かがSNSに上げた集合写真だった。その中央で、私の夫はある女性と隣り合って座っていた。征也の口元には、私には滅多に見せない、穏やかな笑みが浮かんでいる。その隣の女性を、私は知っていた。夫の初恋の相手であり、彼がずっと忘れられずにいた人――篠原渓(しのはら けい)だ。四年。征也を好きになってから、追いかけ続けた時間だった。渓が夢を追ってパリへバレエ研修に旅立ったあの年、私はようやく彼との結婚に漕ぎ着けた。それから結婚して三年。渓が帰国したのは、よりによって私の妊娠が分かったその夜だったらしい。そして征也は、いともあっさり、渓のいるほうへ戻っていった。本当に、笑える。これだけ長くそばにいれば、どんなに冷たい人でも少しは情が移ると思っていたのに。スマホの画面を見つめたまま、胸の奥が細かく引き裂かれていくように痛んだ。深く息を吸い込み、集合写真をもう一度だけ見つめて、静かに目を閉じた。そして、決めた。もう、征也にメッセージを送り続けるのはやめよう。「見ました」という意味を込めて、私はその投稿に「いいね」を押した。すぐに弁護士へ連絡を入れ、離婚届と必要な書類を手配してもらった。荷物をまとめながら待っていると、しばらくして弁護士の事務所から書類が届けられた。けれど、征也はまだ帰ってこない。必要な書類に目を通してから、離婚届に必要事項を書き込んだ。それをダイニングテーブルの上に置き、私はスーツケースを引いて家を出た。クローゼットに残してきた服も、妊娠している以上、どうせすぐ着られなくなる。そう思うと、一着も持っていく気にはなれなかった。今の時代、夫がいなくたって子どもは育てられる。まだふくらみすらないお腹にそっと手を当て、これからどこに部屋を借りようかとぼんやり考えた。征也はかなりの金持ちだ。結婚するとき、財産について特別な取り決めもしていなかったので、離婚となれば、婚姻後に築いた財産は財産分与の対象になるはず。この三年で、その資産は大きく膨れ上
Read more
第2話
深い眠りから覚め、スマホを確認すると、十数件もの着信履歴が残っていた。征也からだろうか。ほんの少しだけ期待して画面を開いたものの、表示されていたのは、征也の弟・南條浩也(なんじょう ひろや)の名前だった。思わず鼻で笑ってしまう。どうやら私は、征也にとっての自分の存在を、まだ少し大きく見積もっていたらしい。そもそも征也が私に、何度も電話をかけてきたことなんてなかった。そのとき、再びスマホが震えた。表示された名前は、やはり浩也だった。通話ボタンを押した瞬間、耳をつんざくような怒鳴り声が響いた。「お前、どこに消えたんだよ!こっちは午後ずっと探し回ってたんだぞ!」さっき着信履歴を見たばかりだ。13件の着信は、すべてこの10分以内に集中している。午後ずっと探していた?よく言う。きっと午前中に征也から「探せ」と言われていたのに、午後になってようやく思い出し、慌てて電話をかけてきたに違いない。浩也は昔から、私を兄嫁として扱ったことなどなかった。今朝、私を打ちのめしたあの集合写真も、そもそも浩也のSNSに投稿されていたものだ。「もう探さなくていいわ。離婚届には記入して置いてきたから、征也にも早く書くように伝えて」征也のそばにいるために、私は彼の周囲にまで気を遣ってきた。南條家では、浩也の機嫌を損ねないよう、いつも言葉を選んだ。正面から言い争ったことは一度もない。家族の前では、ろくに見つからない長所まで拾い上げて、わざわざ褒めたこともある。それでも浩也は、昔から私にだけは刺々しかった。こちらがどれだけ下手に出ても、まともに向き合ってくれたことはほとんどない。「離婚するって、お前それ何回目だよ。本当に兄貴から離れられたら、土下座してやるよ」電話の向こうで、浩也が鼻で笑った。どうやら彼も、私が本気で離婚するとは少しも思っていないらしい。呆れて、ため息が漏れた。私は冷え切った声で返した。「じゃあ練習しときなさい」言い捨てるなり、一方的に通話を切った。ついでに、南條家の親族の連絡先を片っ端からブロックリストに放り込んだ。けれど、さっき言い負かされたのが、よほど悔しかったらしい。浩也は、私も入っている共通の知人だらけのLINEグループで、私と征也の離婚話をさっそくネタにした。【南
Read more
第3話
大学を卒業してすぐ、征也と結婚した。南條家では、嫁が外に出て目立つ仕事をすることをよしとしなかった。家に入り、夫を支え、いずれ南條家の跡継ぎを育てる。そんな古風な暮らしを、当然のように望まれた。だから結婚してから、私は一度も外で働いていない。それでも当時は、征也に養われ、不自由のない暮らしを送ることこそが「幸せ」なのだと信じ切っていた。けれど彼のもとを離れた今になって、ようやく気づいた。私には、私だけの居場所も、人とのつながりも、何ひとつ残っていなかったのだと。とはいえ、そんな残酷な現実も、今の私の食欲には敵わなかった。ホテルのレストランでコースを頼み、息が苦しくなるほど平らげる。食べすぎで張ったお腹をさすりながら、腹ごなしに近くの公園まで歩くことにした。そこでまさか、渓と征也に出くわした。二人は親しげに肩を並べ、公園の小道を歩いていた。整った顔立ちの征也と、華やかな雰囲気をまとった渓。並んでいるだけで目を引く二人は、楽しそうに笑い合っている。「あれ、莉乃ちゃん?久しぶり」征也を見上げて何かを話していた渓は、こちらに気づくと驚いたように目を丸くし、ひらひらと手を振ってきた。人懐っこい笑顔を向けたまま、その視線だけが、私の全身を上から下へとゆっくり滑っていく。それから、にこりと微笑んだ。「少しふっくらした?顔、丸くなって可愛いね」以前の私なら、そんな嫌味を言われただけで恥ずかしさに縮こまっていただろう。バレエで鍛え上げられた彼女の体には、余分な肉など少しもない。そんな渓と比べれば、私の体つきはどうしても丸く見えてしまう。太っているとまでは言わない。けれど、あちこちに肉がついているのは確かだった。でも今は、どうでもいい。私がちゃんと食べなければ、お腹の子にも栄養が届かないのだから。黙っていると、渓はくすっと笑った。そして、私がお腹をさすっているのを見て、わざとらしく小首を傾げる。「そのお腹……もしかして、妊娠?」違う。ただの食べすぎだ。たしかに妊娠しているものの、まだ5週目。お腹が目立つはずもない。そう答えようとした瞬間、征也が眉をひそめ、私の言葉を遮るように口を開いた。「食べすぎただけだろ。妊娠なんてしてるわけない」その言葉に、思わず目を見開いた。妊娠したことは、昨夜メッセージ
Read more
第4話
私に向ける声は氷のように冷たいのに、渓に話しかける声だけは、明らかに甘く柔らかい。その声を聞くだけで、二人の距離の近さが分かる。渓が私を心配している?そんなの、彼に「優しい女」だと思わせるための芝居に決まっている。それなのに征也は、あっさり信じ込んでいる。「莉乃」征也の目に、かすかな怒りが浮かんだ。いつも黙って従ってきた私が言い返したことが、よほど気に入らないらしい。これまでは、この男に名前を呼ばれるだけで身がすくんだ。すぐに謝って、何が悪かったのかと自分を責める。それが「いつもの私」だった。情けないことに、今もまだ体は反射的に強張ってしまう。まったく、嫌になる。こんな男を怖がる癖が、まだ体に染みついているなんて。「離婚届はもう書いてきたって言ったわよね。一週間以内に署名してくれないなら、弁護士に任せるから」苛立ちを隠さず、もう一度だけ離婚する意思を告げてから、私はスマホを取り出し、カメラを起動した。そのまま二人に向けて、立て続けにシャッターを切る。渓の顔が、わずかに引きつった。「何してるの?」「話し合いで済まなかったら、調停だの裁判だのになって面倒でしょう?夫婦関係が破綻していた証拠は、多いほうがいいから」スマホを構えたまま平然と答え、渓に向かって軽く顎で示した。「もう少し征也に近づいてくれる?そのほうが、不貞っぽく見えて分かりやすいわ」その言葉に、渓はあからさまに動揺した。困ったように征也を見上げ、それから私を見る。しかしファインダー越しに見ると、渓の体はわずかに征也のほうへ傾いていた。距離は、さっきよりも近い。本当に、抜け目のない女だ。私はすかさず、さらに数枚シャッターを切った。「もういい加減にしろ!」怒りに任せて一歩踏み出した征也が、私の手からスマホを奪い取った。写真を消すつもりなのだろう。けれど、画面はすでにロックされていた。征也はスマホを手にしたまま、険しい顔で私を睨みつける。「パスコードは?」「私の誕生日」それ以上は何も言わず、淡々と答えた。どうせこの短い間に、写真はもうクラウドへ同期されている。この端末から消したところで、家のタブレットには残る。しかし――私が答えた瞬間、征也の表情が固まった。画面に触れようとした指が、途中で止まって
Read more
第5話
私が大学に入学したばかりの頃、二つ年上の征也は二年生だった。征也と初めて会ったのは、前期試験の直前だ。浩也に忘れ物を届けに、講義室までやってきたのだった。廊下には、午後の柔らかな光が差し込んでいた。講義室の入口から顔をのぞかせた征也は、浩也に声をかけると、本とノートが詰まった紙袋を放り投げた。「単位、落とすなよ」涼やかな声だった。ところが、スマホゲームに夢中だった浩也は、顔も上げずに片手だけを伸ばした。当然、うまく受け止められるはずもない。紙袋は浩也の手をかすめ、中からノートが滑り落ちた。それが、私の額に当たった。角が当たったらしく、額が少し切れてしまった。「――大丈夫?」征也は申し訳なさそうにこちらを見た。それから、もう一度浩也の頭を小突く。「ゲームやめろ。ちゃんと見ろよ、怪我してるじゃないか」その言葉で、ようやく浩也はスマホから目を離した。眉をひそめ、不機嫌そうに私をじろりと見る。しばらく眺めてから、兄に向かってぼそりと言った。「ちょっと血が出てるだけだろ」「血、出てるの?」思わず額に手を伸ばしかける。「道理で痛いわけだ……」入学したばかりの私は、浩也とはまだほとんど話したことがなかった。遊ぶことしか考えていないような、甘やかされたお坊ちゃんには、もともと好感など抱いていない。だから、笑って許してやる義理もなかった。そのとき、浩也が私の手首をぐいっと掴んだ。「汚い手で触るなよ」乱暴な口調だった。「浩也。怪我をさせたのはお前だろう。もう少し言い方ってものがある」そう言って、征也は私の前に身をかがめた。額の傷を覗き込む。近くで見る彼の目は、思っていたよりも静かだった。浩也よりずっと落ち着いていて、目元には揺るがないものがある。額にかかった私の前髪を、そっと指先でどけた。その仕草は驚くほど丁寧で、優しかった。けれど表情そのものはどこか冷たく、近寄りがたい。その一瞬、私は目を逸らせなくなった。「大丈夫です。もう、そんなに痛くないので」気づけば、そんなことを口走っていた。心臓の音が、やけに大きく聞こえる。これ以上近づかれたら、その音まで聞かれてしまうのではないかと思った。額の痛みなど、もう意識の外へ追いやられていた。「さっき痛いって言
Read more
第6話
そのとき初めて、私は気づいた。征也に恋愛をする気がなかったわけではない。ただ、その相手が私ではなかっただけだ。篠原渓は、征也の幼馴染だった。16歳のとき、征也が初めて恋に落ちた相手でもある。二人は20歳まで付き合っていたが、渓がパリのバレエ団から声をかけられ、海外公演に参加することになったのをきっかけに、彼女のほうから別れを切り出したらしい。征也は、渓を引き留めなかった。けれど征也を知る人たちは、別れたあとの彼は一年近く抜け殻のようだったと、口をそろえて言っていた。冷たくなったのも、その頃からだという。私が三年生になった年、渓が戻ってきた。その途端、征也の表情に色が戻った。そんな話を聞かされても、私は何も言い返せなかった。いつも涼しげで、感情の読めない征也の顔が、渓の前でだけ珍しくほころぶ。渓を見つめる瞳だけが、別人のように柔らかかった。大学の保健センターで私を介抱してくれたあの日よりも、もっと深く、もっと優しい感情がそこにはあった。あの日、私が感じた温もりなど、ただの思い込みだったのかもしれない。渓が戻ってきていた三ヶ月間は、私にとって、ずっと重い雲の下にいるような息苦しい日々だった。征也への想いを断ち切ろうとした。周囲は表向きこそ私を慰めてくれたが、裏ではきっと笑っていたはずだ。報われない片想い。尽くして、尽くして、最後には何も残らなかった女。きっと、そんなふうに。あの三ヶ月は、いつも私に突っかかってきた浩也でさえ、私の惨めな姿を気の毒に思ったのか、しばらく大人しくしていた。結局、渓はまた去っていった。征也の卒業式に顔を出すため。そして、征也の隣こそ自分の場所だと、私に見せつけるため。きっと、それだけのために戻ってきたのだろう。これで日常が戻る。そう願った。けれど、三年ものあいだ征也を追いかけ続けた想いは、そう簡単に断ち切れるものではなかった。そんなとき、大学に入ってから親しくなった大原文乃(おおはら ふみの)から、誕生日パーティーに招待された。会場に足を踏み入れて、ようやく気づいた。文乃は、私が思っていたような普通の学生ではなかった。都内でも名の知れた家の令嬢で、その日の会場には、同じような家柄の子息や令嬢たちが大勢集まっていた。その
Read more
第7話
想像していたとおりだった。征也の整った唇は、触れた瞬間に息を奪われるほど、甘くて柔らかかった。暗いホテルの部屋で、自分から触れたその唇が、私の初めてのキスになった。身じろぎした征也の腕を、私は夢中でつかんでいた。どうしてあのとき、あんな力が出たのかは自分でも分からない。いま思えば、不思議なくらいだ。結婚してからの私は、力で征也に敵ったことなど一度もない。いつだって体力があるのは彼のほうで、少し力を込められるだけで、簡単に抱き上げられてしまう。本気で逃げようと思えば、逃げられたはずなのに。あの夜の征也は、なぜか最後まで私を振りほどかなかった。不器用なまま、私はただ彼にしがみついていた。何も知らないまま、夢の中だと思い込んで、少しずつ彼に近づいていく。気づけば息が上がり、彼の肩に手を置いていなければ、体を支えていられなくなっていた。どれくらいそうしていたのか分からない。やがて疲れ切って、ようやく体を離した。「……熱い。これ、苦しい」ドレスは半ばずり落ちていた。それでも彼の体温が近くにあるだけで、肌が熱を持つ。酔った頭のまま、私はもどかしく胸元に手をかけた。そのときだった。部屋のドアが開いた。ぱちん、とスイッチの音がして、まぶしい光が一気に部屋へ流れ込んでくる。思わず目を細めた。その光に、ぼんやりしていた意識がわずかに引き戻される。「葉山莉乃、お前、本当に最低だな!」浩也の怒鳴り声が響いた。次の瞬間、征也が素早くジャケットを脱ぎ、私の上半身にかぶせた。乱暴にかけられたジャケットの重みで、沈みかけていた意識が少しだけ戻る。ジャケットの隙間からドアのほうを見ると、その向こうには何人もの客が集まっていた。誰もが冷ややかな目でこちらを見ている。征也の顔は、ぞっとするほど険しかった。「酒癖の悪さも大概にしろ。次はないと思え」冷え切った声だった。その場にいた誰もが、私を見る目には露骨な軽蔑を浮かべていた。渓のいないところで、私が征也に迫った。きっと、そう思われているのだろう。パーティーが終わったあと、親友の文乃でさえ、呆れたように笑いながら言った。「すごいね、莉乃。まさか征也さんを押し倒そうとするなんて。既成事実でも作るつもりだったの?」「そんなこと
Read more
第8話
ところが、南條家の人々は、私の実家のことなど最初から気にも留めていなかった。婚姻届を出す日だけが、淡々と決められていく。征也もまた、私の実家について一度も尋ねなかった。結婚してからの征也は、ひどく冷淡だった。家の中に他人が入ることを極端に嫌がったため、私は包丁の握り方もろくに知らないところから、毎日キッチンに立つようになった。失敗を繰り返しながら、少しずつ料理を覚えた。三食を用意し、彼の身の回りを整え、家中を隅々まで磨いた。そうしてようやく、征也はわずかに柔らかい表情を見せてくれるようになった。けれど、そのわずかな変化だけでは、不安を埋められなかった。毎日のようにメッセージを送り、どこにいるのか確かめようとした。暇さえあれば電話をかけた。見張るように確認しては、無視されるたびに「離婚する」と騒ぎ立てた。本当は、引き止めて、宥めてほしかっただけなのに。征也が機嫌を取りに来てくれたことなど、一度もない。結局いつも、私の怒りが勝手に冷めて、自分から彼のもとへ戻っていった。どうしようもないほど、恋に目がくらんでいた。「いつか私を好きになってくれる」「一緒に暮らしていれば、いつか本物の夫婦になれる」そう本気で信じていた。けれど、間違っていた。渓が戻ってきたことで、はっきり分かった。彼の目に、最初から私など映っていなかったのだ。あの冷たさも、無関心も、理由はただ一つ。私を愛していなかったからだ。ようやく、目が覚めた。この街には、つらい記憶が多すぎる。征也との離婚が成立したら、故郷へ帰るつもりだった。征也に与えた猶予は、一週間だけ。その間に離婚届へ署名してくれれば、余計な争いをせずに別れられる。あとは役所へ提出すれば、夫婦としてはそれで終わりだ。その一週間は、ひどく静かに過ぎていった。私は征也から渡されていたカードで、都内のブランドショップを回った。欲しいと思ったものを、片っ端から買った。それでも征也からは、何の反応もなかった。もともと、買い物を制限されたことなどない。勝手に遠慮して、自分を縛っていたのは私のほうだった。結婚してからの数年間、渡されたカードにはほとんど手をつけてこなかった。でも今は違う。これは全部、私に認められてい
Read more
第9話
「申し訳ありません。今の状態でお一人でお帰しするのは、こちらとしても難しくて。ご家族か、付き添いの方に来ていただけませんか」困ったような顔で、看護師にそう断られた。この街で連絡できそうな相手といえば、文乃くらいしかいない。けれど彼女は今、海外の大学院にいる。しばらくスマホの画面を見つめたあと、仕方なく連絡先を開いた。迷った末に、征也のブロックを解除し、電話をかける。廊下には、多重事故で運ばれてきた負傷者や、その付き添いらしき人たちがあふれていた。コール音が途切れ、電話がつながる。「今、どこにいるの?」そう尋ねた直後だった。廊下のずっと向こう側に、征也の姿を見つけた。隣には渓がいる。征也はスマホを耳に当てたまま、医師に手当てを受ける渓を見守っていた。医師は、渓の指にガーゼを巻いている。たったそれだけ。かすり傷のような怪我だった。「会社だ」少しの迷いもなく、征也は答えた。「これから会議がある。用がないなら切るぞ。……帰る気があるなら、浩也に迎えに行かせる」その声はあまりにも自然で、もしこの目で見ていなければ、嘘をついているとは気づけなかっただろう。その瞬間、胸の奥がすっと冷えていった。長椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。涙は出ない。ただ、急にすべてが馬鹿馬鹿しくなった。私の七年間は、いったい何だったのだろう。何ひとつ、残らなかった。うつむいたまま、胸の奥に沈んでいくものをただ感じていた。そのとき、視界の端に黒いスニーカーが現れた。「お前、また何やってんだよ。そんな格好で、兄貴に心配してもらえるとでも思ってんのか?兄貴がそんなことで――」顔を上げると、目の前には浩也が立っていた。こんな状態の私を見ても、口から出てくるのは相変わらずひどい言葉ばかりだった。「そんなこと、しないよ」彼が言い終える前に、自分でその続きを口にした。征也は、私のことなんて心配しない。もしかしたら、あの頃はほんの少しだけ、情のようなものがあったのかもしれない。けれどそれも、文乃の企みに乗り、結婚まで押し切ったあの日に、きっと使い果たしてしまった。「お前……」浩也は一瞬言葉に詰まり、気まずそうに咳払いをした。「兄貴に電話してやるよ。家まで送らせてやる」
Read more
第10話
けれど、そんなことは今の私には関係ない。一刻も早く、この場所を離れたかった。冷えきった目で、まっすぐに睨みつける。余計なことは聞かないで。私の言う通りにして。口に出さなくても、そう言っているのだと浩也には伝わったはずだ。予約していた便は、夜九時発だった。今から向かえば、まだ間に合う。浩也はしばらく私を睨み返していたが、やがて面倒くさそうにため息をついた。それから乱暴に、けれど私を倒さないよう慎重に支えてくれる。「分かったよ。行けばいいんだろ。今から空港まで送ってやる」空港へ向かう車の中で、浩也は一言も話さなかった。到着してからもそれは同じで、黙って車椅子を借りてくると、そのまま私をチェックインカウンターまで押していった。その間、私たちの間には重苦しい沈黙が落ちていた。保安検査場へ向かう前、浩也がふいに足を止めた。気まずそうに視線を落とす。その視線の先にあるのは、まだ目立つはずもない私のお腹だった。「妊娠してるのに、それでも行くのか?向こうに行ったら、もう戻ってこないつもりなのか?」彼がこんなに静かな声で話しかけてきたのは、ほとんど初めてだった。私は浩也の目を見返し、静かに答えた。「うん」本当に、もう二度と戻るつもりはなかった。どうしようもない浩也だけれど、一度引き受けたことは必ず守る。そういう妙な律儀さだけは、あの兄弟に共通していた。この三ヶ月間、浩也は絶対に私の妊娠を征也に告げないだろう。三ヶ月もあれば、弁護士が離婚に向けた手続きを進めるには十分だ。浩也に何も言わず、振り返りもしないまま、私は保安検査場へ向かった。この街から故郷まで、飛行機で一時間半。たったそれだけの距離なのに、私は青春のほとんどを、この街に置いてきたような気がした。実家の葉山家に戻ると、両親は驚いた顔をしたあと、すぐに嬉しそうに駆け寄ってきた。母は私の手を握り、父は落ち着かない様子で荷物を受け取る。「莉乃?どうしたの、急に。こんな時期に帰ってくるなんて。向こうの仕事はどうしたの?」私はずっと、結婚していたことを両親に言えずにいた。ただ曖昧に、「あっちで仕事を見つけたの」と誤魔化し続けていたのだ。「うん。終わったの。仕事も辞めて、帰ってきた」私は両親を強く抱き
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status