「そういうことなら、納得だわ」弥生が静かに笑い、ふっと呟く。「どうりで、あんた......」言いかけて、ふと口をつぐんだ。光莉は横目で彼女を見て、「どうかされました?」「なんでもないわ......もう少し先へ進んで、その先を右に曲がって」光莉はそれ以上詮索せず、ハンドルをそのまま切った。けれど、ふと気づいた。―進めば進むほど、道がどんどん寂しくなっていく。......その頃、千景は若子をホテルまで送っていた。部屋のドア前まで来ると、彼は中に入らず、扉の前で言った。「じゃ、ここまでにしとく。俺はもう行くよ」若子は腕の中の暁が眠そうにしているのを見て、穏やかに答えた。「お気をつけて」千景は「うん」と小さく頷いた。「じゃあ......明日も、会いに行ってもいい?」「もちろん。ちょうど明日、物件を見に行こうと思ってたんだ。一緒に来てくれる?」「うん、行く」そうして二人は「また明日」と約束し、若子が部屋の扉を閉めたのを見届けたあと、千景はホテルを離れた。駐車場に着き、車に乗り込んでエンジンをかけようとしたそのとき―ひやりと冷たい金属の感触が、後頭部に押し当てられた。千景の眉がピクリと動く。バックミラーには、黒ずくめのマスク姿の男。鋭い目が鏡越しに彼を射抜いていた。「誰だ......?」「運転しろ」千景はハンドルを握り直し、ゆっくりと車を動かす。男はそのまま、次々と指示を出していく。進め、曲がれ―と。車はいつしか、海沿いの大橋の入り口までたどり着いた。そこから先は、人気のない地帯だった。「......なあ、お前の目的はなんだ。金か?命か?」「ヴィンセント」男の声が低く、鋭く響いた。「どうして君はB国なんかに来たんですか?アメリカにいればよかったのに。僕の計画に、余計な首を突っ込まないでいただきたいですね」「『計画』だと?」千景の眉間に深い皺が寄る。「お前の計画って何だ。若子に関係あるのか?お前、何者だ」「僕の計画は......みんなを苦しませることです」「若子も......含まれてるのか?」千景が問いかける。「いいえ。彼女には幸せになってもらうつもりです。だから、君が邪魔なんですよ。君は僕の代わりになろうとし
若子の目に、一瞬疑問の色が浮かんだ。―なんでいきなり西也のことなんか聞いてくるの?その空気に気づいたのか、光莉も自分の言い方がおかしかったと気づいたようで、話を切り替えた。「若子、元気にしてたの?」若子はやわらかく微笑んだ。「はい、元気にしています」そのとき、光莉の視線が千景の腕の中にいる暁に向いた。驚いたように声を上げる。「その子......」若子はすぐに暁を抱き直し、光莉に向けて言った。「この子は暁です」「抱っこしていい?」「もちろんです」若子はにっこりと笑い、赤ちゃんをそっと渡した。光莉は暁を優しく抱きしめて、その小さな鼻や目をじっと見つめ、表情を緩めた。ほんの少し、頬がとろけそうなほどの微笑を浮かべていた。しばらくして若子が口を開いた。「そういえば、お母さん。今日、西也と離婚しました」「......は?」光莉が顔を上げて、目を見開いた。「あんた、西也と離婚したって?どうして?」「最初から、あの結婚は形だけのものでしたから。今こうして離婚するのも、自然なことだと思っています」若子は、西也のことを多くは語らなかった。―どうせ、お母さんと西也の関係も、あまり良くなかったみたいだし......光莉はさらに何かを言いたそうだったが、余計なことを言えばまずいと察したのか、話を切り替えた。「......まあいいわ。若いもんのことに、いちいち口出すのもどうかと思うし。で、修には会った?」「はい。今は山田さんという方と一緒にいるようで、うまくやっていました」光莉は苦笑を浮かべて言った。「ほんと、あの子はねぇ......多情なとこがあるのよ」若子は何も返さず、黙って暁を受け取った。「お母さん、お友達が待っておられるみたいですし」「あの人はお客さんよ。じゃ、私は戻るわ。また連絡するわね」「はい。お仕事、頑張ってください」光莉は頷いて、その婦人の元へと戻っていった。若子と千景も、そのままレストランを後にする。光莉は席に戻ると、相手に向かってにっこり笑った。「すみません、ちょっと知り合いに会ってしまって」「気にしないくていいよ」西片弥生は優しく微笑んだ。そのタイミングで、店員がメニューを差し出してくる。光莉は尋ねた。「西片さん
若子がホテルに戻ると、部屋の扉を開けた瞬間、千景が暁を高く持ち上げて抱いているのが目に入った。 「きゃはっ」 暁が楽しそうに笑う。もう、嬉しさが顔にあふれてる。 背後の気配に気づいた千景は振り返り、優しく微笑んだ。 「おかえり」 若子は小さく「うん」とだけ返して、ゆっくり歩み寄る。ぼんやりとした目で千景を見つめ、何か言いたげに口を開きかけたけど......そのまま言葉が詰まったみたいに、何も言わずに口を閉じた。 「どうした?」 千景が尋ねた。 「今日、あいつに会いに行ったって言ってたよな。何かあった?」 若子はバッグから離婚届受理証明書を取り出し、静かに言った。 「もう彼と離婚したの」 千景はふうっと息を吐いて、ほっとしたように笑った。 「スムーズにいったみたいだな。ちょっと心配してたんだ。トラブルに巻き込まれるんじゃないかって」 「最初はそう思ってた。でもね、西也......ちゃんと話を聞いてくれて、納得してくれたの。離婚に応じてくれた」 けれど、千景の中にはどこか引っかかるものがあった。 西也があの若子に対してどれだけ執着していたかを思えば、こんなにも簡単に離婚が成立するなんて、少し変だと思ったのだ。 でも、もう離婚は済んだのだし、今さらどうこう言える話でもない。 ―考えすぎかもしれない。 何せ自分だって、西也のことをそこまで知ってるわけじゃない。 結局、千景は静かに言った。 「まあ、どうあれ......もう自由だ。これからは、自分のために生きられるんだな」 若子はふんわりと笑った。 「それに......私には、この子もいるしね」 そう言って、暁を抱きかかえた。 「ありがとう、子どもの面倒を見てくれて」 「気にするなよ。こいつ、ほんとにいい子だしな」 「じゃあ、お礼に食事でもどう?何か食べたいものある?」 もう午後の時間に差し掛かっていた。 千景はちょっと考えてから言った。 「まだ時間あるよな。せっかくだし、ちょっと外に出てみない?この辺、全然詳しくなくてさ。何か有名な観光地とか、面白そうな場所ってある?」 若子は少し考えてから、にっこりと笑った。 「あるよ。たとえば、エコパークとか、海を見に行くとか、山登りやスキーもできるし......ど
西也にはもう、どうしようもないってわかってた。たとえサインを拒んでも、若子が黙って済ませてくれるわけがない。 少しでも時間を稼げたら―そう思っていたのに、返ってきたのは、若子のより強い決意だった。 最後には、西也がペンを手に取った。 「......サインする。でもその前に、一つだけ聞かせてくれ」 「なに?」 「さっき言ってたよな。サインすれば、離婚しても、友達でいられるって。あれ......本当なんだよな?」 若子は短く頷いた。 「ええ」 「じゃあ......それってつまり、これからも会えるし、あの子にも会えるってことか?」 「あなたが私を困らせたり、しつこくしなければ......普通に友達としてなら、子どもに会うのを止めたりはしないわ」 子どもに向けた西也の気持ちも、世話をしてくれた日々も、若子はちゃんと見ていた。そこまで冷たくはなれなかった。 「じゃあ、昔みたいな......結婚する前の、友達に戻れるってことだよな?」 若子はまた「うん」と頷いた。 今の彼女が望んでいるのは、ただ離婚すること。それさえ叶えば、他のことはどうでもよかった。 しばらく迷った末に、西也はついにサインした。 若子は小さく息をついて、離婚届を手元に引き寄せた。そこには、しっかりと西也の署名があった。 「ありがとう、西也」 彼がサインを渋ると思っていた。けれど、こんなにもあっさり応じるとは、想定外だった。 「若子......俺たちは友達だって言ったから、俺はサインした。裏切らないでくれ」 「うん、嘘なんてつかないよ」 離婚届に両方のサインがそろったあと、ふたりはすぐに役所へ向かい、離婚手続きを終えた。それで、正式に夫婦じゃなくなった。 市役所の入口で、若子は手の中にある、離婚届受理証明書を見つめながら、思った。 ―あっという間だったな。 西也も、離婚届受理証明書をじっと見つめたまま、しばらく動かなかった。 そんな彼に、若子が口を開く。 「西也......これで、あなたは自由よ」 「若子、お前だってそうだ......で、藤沢と......また―」 「もう彼の話はしないで」 若子が食い気味に遮る。 「修とは無理。たとえあなたと別れても、彼と復縁するつもりはないわ。私は......彼
―もし村崎家に、西也と村崎家が血の繋がりがないと知られたら。そのときは......村崎家は一切の情けをかけず、容赦なく切り捨てにくるだろう。今のところ、紀子はこのことを黙っている。それなら―今はまだ、隠しておいた方がいい。成之が低い声で問いかけた。「......お前と伊藤さん、今さら何があるっていうんだ。まさか『まだ愛してる』なんて言う気じゃないだろうな?」「つまり......お前は、俺と光莉の関係に首を突っ込む気なのか?」成之の口調が一段と冷たくなる。「遠藤高峯、俺の我慢にも限界がある。これが最初で最後の警告だ。次に彼女を煩わせたら―今度は穏やかに済ませる気はない。今のお前の地位?そんなもん、元通りの『無一文』にしてやる。それどころか、牢屋の中に逆戻りだ」張り詰めた空気の中で、高峯は拳を固く握りしめる。その眉間には怒りの炎が灯っていた。「......あいつには旦那がいるって、知ってるよな?まさかお前、人妻に興味でもあるのか?」「ここに残って、俺と彼女の関係を詮索していくか、それとも―とっとと会社に戻って、自分の尻ぬぐいを始めるか」成之の声は、どこまでも冷静だった。「......さすがは成之さん。そっちの趣味があるとは思いませんでしたよ。本当に感心しますね」吐き捨てるように言い残し、高峯は怒りをぶつけるようにして背を向けた。バタン―重いドアが閉まる音。成之はその音にも動じず、静かにスマホを取り出し、ひとつの番号へ電話をかけた。「......ここ数日、あいつを見張っておいてくれ。ちゃんと大人しくしてるか、確認したい」......カフェの店内。若子と西也が向かい合って座っていた。テーブルの上に、若子は一通の書類を差し出す。「西也、これにサインして。そしたら、一緒に役所行って、ちゃんと手続きしよう」目の前に置かれた離婚届を見つめながら、西也の胸が張り裂けそうになった。今日、若子から会いたいと連絡がきて、正直、彼はすごく嬉しかった。けれど、会って早々に手渡されたのは―離婚届だった。彼女は、本気で離婚するつもりだった。「若子......頼む、離婚しないって選択肢はないのか?もう二度と、藤沢とは会わない。誓うよ、これからは絶対に―」「西也」若子がその言葉を遮っ
「......お前っ」 高峯は一歩前に出て、成之に詰め寄ろうとした。だが、その鋭い視線と冷たい空気に気圧され、目的を思い出して踏みとどまる。 彼は黙ってソファへ腰を下ろすと、静かに切り出した。 「帳簿を調べたのは......お前か?」 成之は肩をすくめ、まるでどうでもいいことのように答えた。 「なんだ?お前の帳簿って、そんなに見せられないものだったのか?抜き打ち検査は合法だ。何か文句でも?」 「わざとだな......俺が、お前の妹と離婚したからって、私怨で報復してるんじゃないだろうな。離婚はあいつが納得して決めたことだ。俺はあいつに何もしてない。信じられないなら本人に聞け!こんな真似、卑劣すぎるぞ!」 「卑劣、ね......」 その言葉に、成之は鼻で笑うと、ゆっくりと椅子の背にもたれた。 「お前が俺に『卑劣』なんて言葉を使う資格があると思ってるのか?妹の件だって、本当ならとっくに落とし前をつけさせてた。けど―あいつが馬鹿みたいに庇ってたんだよ。『高峯を潰すなんてやめて』ってさ」 高峯の眉間がさらに深く寄る。 「......じゃあ、なんで今になって動いた?お前の目的は何だ......いくら欲しい?」 「賄賂?」 成之は軽蔑するように鼻を鳴らす。 「お前、俺がその程度の金に困ってると思ってんのか?」 「だったら何が目的だ。理由くらいあるだろ」 ―正直、帳簿の中身はまずい。 もし事前に通達があれば、証拠になるものはすべて消せたはずだ。 だが今回は完全な奇襲。逃げ道がない。 下手をすれば......牢獄行きだ。 成之は悠々と椅子にもたれ、鋭い視線を真っすぐに向けた。 「お前、伊藤光莉と......どこまで関係ある?」 「......っ」 その名前が出た瞬間、高峯の顔色が変わる。 「......なんで、その名前が出てくる」 「最近、伊藤さんにちょっとしたトラブルがあったみたいだな―お前が原因らしいが?」 その言葉に、高峯の顔がみるみる険しくなる。 「......お前、彼女とどういう関係だ?」 成之はゆったりと笑みを浮かべながら言い返した。 「お前が想像してるほど親しくはないさ―ただ、お前と比べたらマシだ。お前の『親密さ』なんて、無理やり押しつけただけだろ。伊藤さ