西也は呆然と若子を見つめ、信じられないような顔で言った。 「本当なのか?お前、俺に嘘をついてないよな?」「嘘なんてついてないわ」若子は穏やかに答えた。「西也、信じて。これが真実よ。もし嘘をついているなら、どうして今も私がこうしてあなたのそばにいると思う?そうでしょ?」「それは......」若子の言葉に、西也の表情が少しずつほぐれていった。彼は何度か頷きながら言った。「確かに......そうかもしれない。もし俺が何か悪いことをしたなら、お前はとっくに俺から離れていただろう。でも......でも......」西也はまだ何か疑念を抱いているようだった。若子は首をかしげて聞いた。「でも、何?」「でも、俺たちの間に、何かおかしな感じがするんだ。まるで、俺たちの間に別の男がいるような......すごく嫌いな男だ」若子の心臓が一瞬跳ね上がった。まさか―修のことを思い出しているのだろうか?この状況で、西也が修を思い出すことが良いことなのか、それとも悪いことなのか、若子には判断がつかなかった。「それで?そのあとどう思ったの?」若子は慎重に尋ねた。西也はさらに記憶を辿るように目を細めて言った。「なんだか妙な感じがするんだ。お前が......そいつを好きだったんじゃないかって」彼はそう言いながら若子をじっと見つめた。その視線には疑問と不安が混じっていた。 「どういうことなんだ?」若子は一瞬言葉に詰まった。この状況はあまりにも複雑すぎた。どう説明すればいいのか、彼女には分からなかった。「西也......もしかして、記憶を間違えているんじゃないかしら。今の私は誰のことも好きじゃないわ」それは厳密には嘘ではなかった。現在の若子は、恋愛において誰にも心を傾けていなかったからだ。西也は若子の手首を掴み、急に真剣な顔で言った。「若子、俺はお前が俺を裏切ったなんて言ってない。ただ、なんだか変な感じがするんだ。お前が誰かを好きだったとしても、それが裏切りじゃないような気がして。でも......でも、俺がまるで第三者みたいに感じるんだ。俺は、お前と誰かの間に割り込んだ存在なんじゃないかって思えてくるんだ」若子は首を振った。「そんなことないわ、西也。絶対にそんなことない。私は断言するけど、あなたは誰かと私の間に割り込んだりしていない。あなた
若子はそっと西也の手の甲に触れながら、優しく言った。 「信じてくれる?大丈夫よ、私はちゃんとここにいる。どんなことがあっても、ずっとあなたのそばにいるわ。あなたは絶対に一人にならない。だから心配しないで。私のためにも、そうしてくれる?」 若子の温かい声は、西也の心の奥深くまで届き、彼を穏やかな気持ちにさせた。 西也は安心したように頷き、静かに言った。「分かった。信じるよ。俺、待つから」 若子は柔らかく微笑み、「西也、さあ、ご飯が冷める前に食べて」と言った。 西也は素直に頷き、その後、二人は夕食を食べ終えた。 若子がテーブルを片付けたあと、西也のそばで過ごすことにした。二人で映画を二本続けて観ながら笑い合い、心地よい時間を共有した。そんな和やかな空気の中、西也はあくびをした。 「西也、眠くなった?」 西也は小さく頷き、「うん。でも、まだ洗面もしてないんだ」 若子は立ち上がりながら言った。「じゃあ、浴室まで手伝うわね」 若子は西也のベッドのそばまで行き、彼を慎重に支えながらベッドから立たせた。ゆっくりと浴室まで彼を案内し、歯ブラシに歯磨き粉をつけて準備を整えた。 「西也、男の看護師さんが手伝ってくれるから、私は少し外に出てるわね」 西也が洗面や入浴をする間、若子ができることはすべて手伝うつもりだった。しかし、入浴中に関しては彼女自身で手を貸すのではなく、専門の男性看護師を手配することにした。もし西也が何か尋ねてきた場合は、「最近疲れているから」と理由をつけるつもりだった。 しかし、西也は彼女に何も聞かず、黙ったままだった。若子が彼の体を洗うのを手伝わなくても、彼は何も言わず、静かに男の看護師に任せていた。 それは、彼が若子を気遣い、無理をさせたくないと思っていたからだった。 その姿勢に若子は胸が温かくなるのを感じた。たとえ記憶を失っていても、西也の優しさと気遣いは変わらなかった。 西也が浴室での支度を終え、ベッドに戻ると、若子は毛布を丁寧に掛け直した。 「西也、もう寝ていいわよ」 「うん。お前も早く休めよ」 「分かってるわ。西也が眠ったら私も寝るから」 西也は安心したように頷き、目を閉じた。そして、間もなく穏やかな寝息を立て始めた。 だが、若子にはまだ眠気が訪れなかった。少し気分転換に外
若子はまさかこんなところで松本蘭と再会するとは思わなかった。 彼女の叔母だった。 かつて、蘭が若子をSKグループの門前に置き去りにしてから、一度も会ったことがなかったのだ。 蘭がストレッチャーごと運ばれていったあと、医師が若子の前に立ち止まり、声を上げた。 「何をぼうっとしてるんですか?彼女、本当にあなたの叔母さんですか?」」 若子はぎこちなく頷いた。「はい、そうです」 「なら急いで来てください!彼女は重傷で、手術が必要なんです。早く同意書にサインしてください!」 医師に急かされるまま、若子は何も考えられないままに後を追った。 数時間後、蘭の手術が終わった。 時刻はすでに深夜。若子は疲労困憊していた。 ストレッチャーが手術室から運び出されても、若子は駆け寄ることはしなかった。この叔母に対して感情を抱くことはなかったからだ。あの頃、自分を捨てた彼女に感謝の気持ちなど持てるはずがなかった。 若子がここに残っていたのは、彼女が父の妹だから―それだけの理由だった。 「先生、彼女の容体はどうですか?」若子は立ち上がって尋ねた。 医師は答えた。「足の骨が折れていました。身体には多数の外傷がありましたが、暴力によるもののようです。足の骨は接合し、内出血の処置も完了しました。彼女の命に別状はありません。ただ、しばらく安静が必要です」 若子は驚いた。叔母に何が起きたのか見当もつかなかったが、よく考えれば、蘭がどんな人物かを知っているだけに、不思議ではないとも思えた。 彼女はギャンブル好きだった。その性格が何らかの問題を引き起こしたのかもしれない。 「分かりました」 若子は静かに答えた。心の中では複雑な思いが渦巻いていた。 今日という日は、あまりにも多くの出来事が重なりすぎていた。その上、久しぶりに会った叔母がこんな形で現れるとは思いもよらなかった。 蘭は病室に移され、若子は彼女の治療費を全て支払い、手続きを済ませた。 疲労困憊した若子は、そっと楚西也の病室へ戻り、音を立てないよう気を付けながら洗面を済ませ、ベッドに横になった。 翌朝。 西也が目を覚まし、朝食を食べたあと、若子は彼を車椅子に乗せて外を散歩することにした。太陽の光を浴びた西也はとても穏やかな表情を浮かべていた。 「若子、疲れてない
若子は口元を引きつらせながら、少し信じられないような顔で言った。「なんて?」 花は一歩前に進み出て言った。「昨日のことだけど、あんなことを言うべきじゃなかった。あと、勝手に後をつけたのも本当にごめんなさい」 突然の謝罪に、若子は少し戸惑いを覚えた。「どうして急に謝るの?」 昨日の花は、堂々とした態度で反論してきたばかりだ。それに、彼女は簡単に頭を下げるような性格ではない。 「自分で考え直したの」花は静かに言った。「私が悪かったわ。私たちは友達なのに、そんな風に疑うなんて本当に間違ってた。あなたはそんな八方美人な人じゃない。もっと信じるべきだったわ。私があんなに怒ってしまったのは、ただあなたのことが心配だったから。修が以前あなたを傷つけたことがあるから、また同じことになるんじゃないかって......それで、つい感情的になってしまって、言いすぎたの。本当にごめんなさい。私の言葉、気にしないでくれる?」 若子は優しく微笑み、「花、確かに少しだけ怒ったけど、でもよく考えたら、あなたが私のことを心配してくれたからだって分かったわ。それに、私にも非があるの。最初にちゃんと話していれば、誤解なんて生まれなかったはずだから」 若子は一歩前に進み、花の手を握った。「私たちは友達よ。このことで関係が変わるなんてことは絶対にないわ」 花が謝罪するなんて、若子には驚きだった。花のような高慢でプライドの高いお嬢様が頭を下げるのは珍しいことだ。それも、これほど早く謝罪するというのは、花が本気で若子を友達だと思い、大切にしている証だった。 「本当?」花はまだ心配そうに聞いた。「本当に私のこと怒ってない?」 「本当に怒ってないわ。今は全然平気よ。わざわざ謝りに来てくれて嬉しいし、私にも悪いところがあった。だから、もうお互いに気にしないことにしましょう。これでまた仲良しね」 花は安堵の息をついた。「それなら良かった」 花は若子が自分の従妹だと知ってから、彼女に対して実の妹みたいに接してきた。それだけに、昨日厳しい口調で話してしまったのは、自分なりの責任感から来るものだったのだ。ただ、若子自身は、まだその事実を知らない。そのとき、一人の医師が近づいてきて言った。「松本さん、叔母さんが目を覚ましました。病室に行ってみてください」 若子は頷き、「分かりま
若子は、蘭の世話をするためにここに居続けるわけにはいかないと判断し、スマホを取り出して看護師を手配することにした。 手配を終えて病室を出ようとしたところで、蘭が若子に気づいた。 「若子!若子!」 仕方なく、若子は足を止め、意を決して病室に戻った。 「若子、私よ、覚えてるわよね?」蘭はベッドから手を伸ばしながら言った。「おばさんよ」 若子はため息をつき、ベッドのそばに立った。それを見て、蘭は興奮した様子で続けた。 「若子、ここで会えるなんて本当に良かった。もう二度と会えないんじゃないかと思ってたのよ」 若子は冷淡な表情で彼女を見つめながら答えた。「あとで看護師さんが来てくれるわ。費用はもう払ってあるから」 「そう、そうなのね!」蘭は興奮を抑えきれない様子で、「若子、やっぱりいい子だね。もしここで会えなかったら、私はどうしていいか分からなかったのよ。お願いだから少しここにいて、私と話してくれない?」と言った。 若子は眉をひそめた。「いいえ、用事があるから。もう行くわ。お大事に。あと、私は頻繁にここに来るつもりはないわ。退院できるようになったら、自分でちゃんと手続きをして」 それだけ言うと、若子は振り返って病室を出ようとした。 「待って!」蘭が彼女を呼び止めた。 若子は振り返り、冷静な声で尋ねた。「まだ何か用?」 「若子、こんなに久しぶりに会ったのよ。少し話をしてくれてもいいじゃない。何があって怪我をしたのか、聞かなくていいの?」 若子は冷笑を浮かべた。「当たり前みたいに言うわね。じゃあ、あのとき私をSKの門前に捨てたことは適切だったの?」 蘭の顔に浮かんでいた笑顔が引きつり、苦笑いに変わった。「あのときのことは私も悪かったと思ってる。でもね、こう考えてみて?私があんたをそこに置いていかなかったら、藤沢家のおばあさんに拾われることもなかったでしょ?それであんたはあそこまで立派に育てられて、さらに彼らの孫と結婚して、こんなに裕福な暮らしをしてるじゃない!」 若子は眉を寄せ、疑わしげに問いかけた。「それ、どうして知ってるの?」 蘭が若子をSKの門前に捨てたあと、彼女が若子のことを気にかけていたとは到底思えなかった。蘭は面倒事を嫌う性格だ。捨てたらそのまま放置し、後ろを振り返るような人ではない。それなのに、なぜ
「私が上手くいっていないのを心配した?それで私を捨てたの?じゃあ、あなたと一緒に暮らしていた時は幸せだったとでも?」若子は怒りを抑えながら続けた。「あなたも分かってるでしょ。あなたに引き取られていたあの時期、私がどんな生活をしていたかを。あなたはいつもお酒を飲んで酔っ払い、私に当たり散らしてた。家事は全部私がやらされた。手がボロボロになるまでね。お父さんとお母さんの賠償金を全て手に入れたのに、私の勉強道具のお金すら払ってくれなかった。学校でいじめられても、あなたは全く気にしなかった」 「それ、私を非難してるの?」蘭は不機嫌そうに言った。「何だって言うのよ。私はあんたを引き取ったのよ。もし私がいなかったら、あんたは路上で寝るしかなかったのよ!」 「よくそんなことが言えるわね」若子は怒りを抑えきれず声を上げた。「お父さんとお母さんの賠償金を使い果たしたくせに。あなたが私を引き取った理由なんて分かりきってるでしょ」 蘭の顔は一瞬曇ったが、すぐに開き直るように言った。「何よ、その言い方!私が賠償金目当てだったなんて、そんなこと言わないでよ。私はあんたにとって最も近い親族なんだから、当然私が引き取るべきだったの。それに、あんたを養ったんだから、そのお金を使う権利があるでしょ?私が世話をしてあげたのよ!一人の命を救ったのよ。それに比べたら、あのお金なんて何だって言うの?」 若子は呆れ果て、思わず笑ってしまった。「本当に図々しいわね。もうこれ以上話しても無駄みたい」蘭は、何を言っても絶対に反論して、絶対に認めない人だ。若子の心の中ではちゃんと分かっている。姑がどういう人なのかを。「ここでゆっくり休んで。それじゃ」 「待ちなさい!」蘭は大声で叫んだ。「若子、どうして私にそんな態度を取るの?何年も会ってなかったのに、それが挨拶なの?!」 「じゃあ、どんな態度を取ればいいの?感謝でもすればいいの?」若子は振り返り、冷たい視線で蘭を見つめた。 「そうよ、感謝すべきじゃないの?」蘭は怒りをあらわにした。「確かにあんたは私を責めてるけど、私がいなかったら、あんたは今の裕福な暮らしなんて手に入らなかったのよ。豪邸に住んで、立派な家族の一員になれたのも、私のおかげじゃない!なのに感謝しないどころか、そんな態度を取るなんて、あんたは恩知らずよ!」 若子は鼻で笑っ
若子は病室を出ていった。その瞬間、蘭が慌てたように声を張り上げた。 「若子!戻ってきなさい!お願いだから戻って!」 蘭はベッドから降りて追いかけようとしたけれど、無情にも足が全く動かない。結局、遠ざかる若子の背中をただ見つめることしかできなかった。 ...... 病室を出ると、若子はすぐにスマホを取り出し、華に電話をかけた。向こうはすぐに応答し、相変わらずの優しく落ち着いた声が聞こえてきた。 「若子、どうしたの?」 「おばあさん、少しお聞きしたいことがあるんですが、正直に教えていただけますか?」 「もちろんよ。何を聞きたいの?」華は穏やかに答えた。 「私の叔母が、おばあさんを訪ねたことがありますか?」 一瞬、電話の向こうで静寂が訪れた。 ややあって、華は声を絞り出すように言った。 「どうして急にそんなことを聞くの?」 「おばあさん、まずは質問に答えてください。彼女、本当におばあさんを訪ねたんですね?」 「ええ、確かに来たわ。でも、それももう何年も前の話よ」 若子は眉をひそめた。「どうしてそのことを私に教えてくださらなかったんですか?」 「当時はあなた、まだ学生だったでしょう?心を乱されたらいけないと思ってね。それに、あの人があなたに良くしてくれるわけじゃないのは分かっていたから、私がその場で解決したのよ」 「でもおばあさん、それなら教えてくださっても良かったのに」 「分かってるわ。でも、あのときあなたに話していたら、きっと気分を害したでしょう?学業だって忙しかったし、それを邪魔したくなかったの。本当にごめんなさいね」 若子は心の中で小さく息をついた。 「おばあさん、私は怒っていません。おばあさんが私のためを思って黙っていらしたんだって、分かっていますから。でも、彼女がおばあさんを訪ねた理由って、私のことを心配してじゃないですよね?お金を頼んだんじゃないですか?」 華は静かに認めた。「ええ、そうよ。一億円、欲しいって言われたの」 「一億円!?」若子は驚きの声を上げた。「そんな大金を!?おばあさん、渡したんですか?」 「渡したわ」華はため息混じりに答えた。 「でもおばあさん、彼女にそんな大金を渡すべきじゃなかったです。あの人、ギャンブルが大好きだから、お金なんてすぐに使い果たして
時間が過ぎるのは早いもので、気づけば西也の退院日がやってきた。彼は約25日間、病院で過ごし、回復は順調だった。あとはしっかり休養するだけで良いとのことだった。 その間、若子は修に一度も会いに行かなかった。まるで二人の間の縁が完全に切れたかのように、何もなかった。 よくよく考えてみると、それで良いのかもしれない―そんなふうに思っていた。 遠藤家に戻った西也は、久しぶりの馴染み深い環境に心が和らぐのを感じた。ふと、ぼんやりとした記憶が浮かび上がってきたものの、それはどれも断片的なもので、完全には思い出せなかった。 現在、自由に動けるようになり、普通の生活ができるようになったことで、西也の気分は以前よりずっと良くなっていた。 その日の夜、西也が風呂から上がり、自室に戻ると、若子がベッドを整えていた。 彼女は背後の気配に気づき、振り返ると笑顔で言った。 「西也、ベッドを整えたよ。早く休んでね」 若子はベッドの端を軽く叩き、それから体を起こして立ち上がった。 彼女が部屋を出ようとした瞬間、西也が彼女を抱きしめ、顔を近づけてきた。 驚いた若子は慌てて顔を背けながら、胸を押しのけるようにして言った。 「西也、何をしてるの?」 若子の動揺した表情に、西也は眉をひそめ、疑問を口にした。 「俺たちは夫婦だろう?そんなに緊張することか?」 若子は喉を鳴らして息を飲み、彼を押しのけると後ろに数歩下がった。 彼女のそんな態度を見て、西也の疑念はさらに深まった。 「若子、どうして?俺、何か悪いことをした?」 「そんなことないよ」若子は急いで答えた。「西也、あなたはまだ完全には回復してないから、しっかり休んだほうがいいの。もう遅いし、私は隣の部屋で寝るね」 そう言って部屋を出ようとする若子の手を、西也は大きな手で掴んだ。 「若子、行かないで」 若子は立ち止まり、振り返って西也を見た。 「西也、ちゃんと休んで」 「でも、若子と一緒に寝たいんだ」西也は彼女の肩を掴み、体を自分のほうへ向かせた。 「どうして俺を怖がるんだ?」 「怖がってなんかいないよ。ただ、あなたのことが心配で......」 「退院前に、医者に確認したんだ」西也は言った。 「夫婦生活は問題ないって。ただし、激しいのは控えてってさ。で
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声
若子の赤い唇がほんの少し開き、震えるような吐息が漏れる。 修の顔は彼女の首元にうずめられていて、その呼吸はどんどん熱を帯びていった。 そのとき、ふいに、耳元から微かに女の声が聞こえた。 「修......ヴィンセントさんの手術、終わったの......?」 修の体がピタリと止まる。情熱の最中に―別の男の名前を、若子の口から聞いた。 胸の奥が、ズキンと痛んだ。 彼は無意識に、彼女の目を覗き込む。若子はまだ目を閉じたまま、目覚めてはいない。夢の中か、半分眠ったままか―今、彼女は何もわかっていない。 それなのに、彼女の意識はあの男に向いていた。 眠っていても、彼のことを気にしている。 修は、自分がとんでもない男に思えた。 どうしてこんなときに、彼女の隙をつくような真似をしてしまったんだ? もう十分、若子は傷ついているのに。 それでも― 目の前で、何も身につけていない愛する人が横たわっている。どうして、どうして自分を抑えきれなかったのか。 修は苦しげに目を閉じる。熱い一滴が、頬を伝って、若子の肌に落ちた。 最後に、深く息を吐いて、彼はそっとシーツを引き上げた。ふたりの身体を隠すように、ゆっくりと。 そして、彼女を胸に抱きしめ、頬にキスを落とし、耳元で優しく囁いた。 「まだだよ......手術は終わってない。だから今は、安心して眠って。終わったらちゃんと教えるから」 若子の身体は限界だった。恐怖と疲労で、もう目を開ける力も残っていない。今の距離の近さにも、彼女は何も気づいていない。 修は彼女を抱いたまま、じっと見つめ続けた。 その夜、修が何度キスをしたか、自分でも覚えていない。 夜明けが近づく頃、彼は小さくため息をついて、彼女の耳元で呟いた。 「若子......もし時間を巻き戻せるなら、どれだけよかったか。 俺に雅子がいなくて、お前に遠藤がいなくて、ただふたりきりだったなら、それだけでよかったのに」 ...... 朝の光が、病室の窓から差し込んできた。柔らかな陽光が、若子の上に優しく降り注ぐ。 その光は空気の中で舞うように踊り、淡い花びらのように彼女の肌に触れる。 黒くなめらかな髪は白い枕に流れ落ち、眉は月のように穏やかに弧を描き、整った顔立ちをふんわりと引き立てていた。
修の服はすっかり濡れてしまっていた。 けれど彼はもう気にすることなく、自分の服もすべて脱ぎ捨て、若子と一緒にシャワーを浴びた。ふたりの身体は湯気の中で寄り添い、ただ静かに時間が流れていく。 洗い終えたあと、修はタオルで若子の髪と体を丁寧に拭き、そっと抱き上げて病室のベッドへ運んだ。柔らかなシーツをかけると、彼女を優しく包み込むように寝かせる。 ベッドに横たわる若子。夜の街灯が窓から差し込み、彼女の体を淡く照らしていた。まるで彫刻のように整った顔立ち。透き通るような肌は、まるで宝石のような光を放っていて、一本一本際立った睫毛、そしてほんのり上向いた赤い唇― あまりにも美しくて、息を呑んだ。 部屋は静かで、ほんのり暖かい光に包まれていた。まるで幻想の中にいるようだった。 修の目には、愛しさと切なさが溢れていた。まるで星のように輝くその瞳は、彼女だけを映していた。 その眼差しは、心と心をつなぐ橋だった。 ―どれだけ、彼女に会いたかったか。 どれだけ、彼女を想い、苦しんできたか。 修の目は、彼女から一瞬たりとも離せなかった。呼吸ひとつさえ、彼女の存在を感じるためにあるような気がしていた。 こんな風に、ただ見つめ合うことが―どれだけ久しぶりだっただろう。 彼女のすべてが愛おしい。顔も、身体も、心も。たとえ、どれだけ傷つけられたとしても、それでも彼女を愛してしまう。 眠る彼女の顔を見ていると、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。あたたかくて、幸せで、でも同時に―絶望的な痛みも伴っていた。 自分の想いは、もう届かないのかもしれない。 彼女の世界に、自分はもう居場所がないのかもしれない。 若子は―もう俺を、必要としていない。 その現実に、修はただ静かに彼女を見つめ続けた。 それでも。たとえ彼女に拒まれたとしても。 彼女の幸せを守れるなら、命だって惜しくない。 「若子......俺に、守らせてくれないか?お前の人生の中に、俺をいさせてくれないか?夫じゃなくてもいいんだ」 ―その瞳に、狂気のような光が宿っていく。 修は立ち上がり、病室の扉へ向かうと、鍵をガチリと閉めた。 再びベッドに戻ると、彼女を包んでいたシーツを、ゆっくりと、まるで宝物を扱うようにめくっていく。 その瞬間、彼女の姿がすべ
「修......頭がクラクラする......眠い......」 若子の声はかすれ、まるで力が抜けるようだった。 修の瞳に、やるせない悲しみが浮かぶ。彼女の疲労は、身体だけじゃない。心のほうが、もっと限界だった。 「大丈夫。眠っていいよ。あとは、俺に任せて」 修はそっと若子の頬を撫で、囁いた。 「修......彼を、死なせないで、お願い、彼は私の命の恩人なの......彼がいなかったら、私はもう......あの男たちに捕まって、ひどいことされて......彼は危険を顧みずに私を助けてくれて......銃まで......だから、お願い、お願い、生かして」 若子の目に涙が浮かび、その声は今にも消え入りそうだった。 「わかった、約束する。俺が必ず、彼を救ってみせる」 修は彼女をぎゅっと抱きしめ、その耳元で誓うように囁いた。 若子は少しだけ安心したように目を閉じる。 修は小さく息をつき、彼女の額に優しくキスを落とした。 「若子......お前をどうすればいいんだ」 他の男のことで傷ついて、泣いて、苦しんでいる彼女。それを慰めて、守ることを約束しなきゃいけないなんて― 修は自分にその資格がないことなんて、とうにわかっていた。離婚を言い出したのは、他でもない自分だ。彼女を傷つけたのも自分。 だから、若子が別の男の胸に飛び込んだって、文句なんて言える立場じゃない。それでも、胸が張り裂けそうだった。 彼女は、間違いなくあの頃のままの若子で、今、修の腕の中にいる。 そんな彼女を―どうして手放せるだろうか。 修の親指が、彼女のやわらかな口元をそっとなぞる。そして、思わず顔を近づけ、その唇にキスを落とした。 ......どれだけ、このキスを待ち望んでいたか。 キスをするとき、愛する相手がいるなら、目を閉じるものだという。けれど今の修は、目を閉じられなかった。 だって、見ていたかった。もっと、ずっと―彼女を。 ほんの一瞬でも目を閉じてしまったら、次に開けたとき、彼女がもうどこにもいない気がして、怖かった。 何度も唇を重ね、名残惜しそうに離れられずにいた。 この時間がずっと続けばいいのに。 以前、侑子にキスしたときは、目を閉じて若子の面影を思い描いていた。でも、違った。あの人は若子じゃない。 ―
若子の姿は血まみれだった。 自分の血じゃない、それでも―あまりにも生々しくて、見ているだけで胸がえぐられそうだった。 修はすぐに若子をひょいと抱き上げた。 「ちょっ......なにしてるの!?私はここにいる、彼を待たなきゃ」 「若子、手術はまだまだかかる。だから、まず体を洗って、着替えて、きれいになって......それから待とう。もし彼が無事に目を覚ましたとき、君が血まみれのままだったら、きっと心配するよ?」 若子は唇を噛みしめて、小さく頷いた。 「......うん」 修は若子をVIP病室へと連れて行った。ちょうど空いていた部屋で、すぐに清潔な服を持ってこさせた。まだ届いていなかったけれど― 若子はずっと泣き続けていた。 修は洗面台の前で、そっと後ろから若子を抱きしめるように支え、水を出しながらタオルを濡らして、彼女の手や顔を丁寧に拭っていく。 「いい子だから、じっとしてて。血、すぐ落ちるから」 「修......あんなに血が......彼の血、全部流れちゃったんじゃないの......?」 まるで迷子の子どものように、若子は震えていた。 「医者が輸血するさ。絶対に助けてくれる。若子、手を広げて、もうちょっと拭くから」 彼女の体からは生々しい血の匂いが漂っていて、魂まで抜けたように虚ろだった。 修はタオルで彼女の手、腕、顔を優しく拭い、そしてふと、手を伸ばして彼女のシャツのボタンに指をかけた―その瞬間、 「なにしてるの!?」 若子が慌ててその手を掴んだ。目には警戒と不安の色。 修は一瞬、固まった。そして......思い出した。 ―自分たちは、もう夫婦じゃない。 ただの錯覚だった。かつての関係に、心が勝手に戻ってしまっていた。 もう彼女に触れる資格なんて、ないのに。 それでも、腰にまわした腕は......なかなか離せなかった。 しばらく見つめ合ったあと、若子は静かにタオルを取り、赤く染まったそれを見つめた。 「......自分でやるから。もう出て行って」 修は小さく息を吐き、名残惜しそうに腕を離した。 「......わかった。外で待ってる。何かあったら呼んで」 若子はこくんと頷く。 修は浴室を出て、ドアをそっと閉めた。 鏡の前で水を浴びた若子は、腫れ上がった