「......」 しばらく沈黙が続いた。 「ここでこんなに話し込んで、つい忘れてたよ。おっと、大事な用事があったんだった。君の旦那さんに住所を送らないとね。彼、もう待ちくたびれてるだろうね」 男はスマートフォンを取り出し、画面を操作し始めた。 若子は無力に目を閉じた。彼が彼女を解放する気などさらさらないことは分かりきっていた。どれだけ頼もうと無駄だった。 男はスマートフォンで何かを入力した後、ポケットにしまい込んだ。そして、突然蘭に近づき、彼女をしっかりと縛り上げると、そのまま持ち上げた。 「どこに連れて行くの!?」蘭は怯えた声を上げた。 「黙れ!」男は不機嫌そうに吐き捨てる。 蘭は本能的に暴れたが、男は苛立った様子で彼女の後頭部を力いっぱい殴りつけた。 「ドサッ」と鈍い音が響き、蘭はそのまま意識を失った。 男は彼女の片足を掴み、そのまま床を引きずるようにして部屋の外へ連れ出した。 若子には、彼が蘭をどこへ連れて行くのか見当もつかなかった。ただ、数分後には物音も聞こえなくなり、再び静寂が訪れた。 ...... 鋭いブレーキ音が、広大な廃墟のような場所に響き渡った。車のタイヤが地面をこすり、乾いた土ぼこりを巻き上げた。 車のドアが開き、修が車から飛び出した。目の前に広がっていたのは、草が生い茂る荒れ果てた工場跡だった。 その建物の中に若子がいると思うと、修の呼吸は一気に荒くなり、胸の鼓動が激しくなる。彼は中に駆け込もうとしたが、再び鋭いブレーキ音が背後で響いた。 修が振り返ると、真っ赤なスポーツカーが彼の車の横に停まった。ドアが開き、車から降りてきた人物を見た瞬間、修の表情が険しく変わった。 車から降りてきたのは、西也だった。 西也は大股で修の方に近づいてくると、不機嫌そうに口を開いた。「藤沢、なんでお前がここにいるんだ?」 修は冷たい表情を浮かべながら答えた。「俺がここにいる理由だと?それを言うなら、お前こそどうしてここにいるんだ?それに、誘拐犯から電話が来たらお互いに情報を共有するって約束だったよな?なのに、お前は何も知らせてこなかった。英雄気取りで一人で若子を助けるつもりだったのか?」 西也は拳を握り締め、低い声で言い返した。「お前だって何も教えなかったじゃないか。だから、ここにいる
「君、僕の話を訂正しようとしてるのか?」男の声が、不機嫌そうに響いた。「僕はね、人に訂正されるのが大嫌いなんだよ。なぜって?僕が言うことはいつだって正しいからさ」 西也は反論しようとしたが、それより早く修が振り返り、低い声で言った。「やめろ。若子はまだ奴の手の中にいる。少しは落ち着け」 「お前......!」西也は悔しさに歯を食いしばったが、内心で納得せざるを得なかった。ここで修と喧嘩すれば、修の言葉が正しいと証明するだけだ。それに気づいた彼は、ぐっと堪えて怒りを飲み込んだ。 仕方なく西也は視線を音響に向け、その上についているマイクに話しかけた。「若子はどこだ?」 「タブレットを開けてみなよ」 修はすぐさまタブレットを操作し、画面の再生ボタンを押した。画面に映し出されたのは、柱に縛られた若子の姿だった。彼女の周囲には血が飛び散り、地面に赤黒い跡が広がっている。 その映像を見た瞬間、二人の男の表情が一気に険しくなった。 西也は怒りを露わにしながら叫んだ。「このクソ野郎!彼女に何をしたんだ!」 「何って?」男の声は冷静そのもので、淡々としていた。「君たちが見た通りだよ。それ以上でも以下でもない」 その落ち着いた声と西也の怒声との対比は、ますます二人を苛立たせた。 西也は拳を握り締めながら、深呼吸をして必死に怒りを抑えた。そして、言葉を絞り出すように言った。「ゲームがしたいんだろ?お前の言う通りにしてやるから、俺が相手になる。だから、若子を解放しろ」 「いや、やっぱりゲームはいいかな」男は気まぐれな口調で言った。「ただ君たちが、君たちの大事な女性をこんなふうに見るのも悪くないなと思ってね。それだけで十分楽しめそうだ」 「この狂人め......!」修は歯ぎしりしながら呟いた。 「僕が狂人だってことを分かっているなら、驚く必要もないだろう?」男は面白がるように続けた。「それより、どうだい?少し座って僕とお喋りでもしようか」 西也は苛立ちながら問い詰めた。「何が目的だ?お前は一体何を求めてる?」 「お喋りだって言っただろう?」男は飄々と答えた。「だからさ、みんな仲良く冷静に、少し話をしようよ。僕がいい気分になれば、若子を解放してあげるかもしれないしね」 修は視線を鋭く向け、「じゃあ、何を話したいんだ?」と尋ねた。
若子の顎が男の大きな手に掴まれ、無理やり顔を上げさせられた。次の瞬間、男はスマートフォンを取り出し、それを若子の目の前に突きつけた。 「見えるかい?あの二人の男が君を助けに来たよ」 若子は画面の中に映る修と西也の姿を見て、一瞬怯えたように目を見開いた。「あなた、何をするつもりなの?」 「いい質問だね」男は楽しげに笑った。「僕が知りたいのは、あの二人のどちらが君にとって大事なのか、ってことさ」 「どっちも大事じゃないわ」若子は冷たく答えた。 「ほう、そうかい?」男はさらに口角を上げて笑った。「それなら、二人とも殺してしまおうかな。僕がここに仕掛けた罠を作動させれば、ボタン一つで二人の頭を打ち抜けるんだ」 「やめて!」若子は慌てて叫んだ。「私はもうあなたの手の中にいるでしょう?それ以上、何が必要なの?」 「ずいぶん取り乱してるじゃないか」男は揶揄するように言った。「君、さっき自分で言ったよね。『どっちも大事じゃない』って。重要じゃない人間を、どうしてそんなに気にするんだい?」 「お願いだから、何が目的なのか教えて。何がしたいの?」若子は声を震わせながら懇願した。 「言っただろう?」男はからかうような声で続けた。「僕が知りたいのは、君にとってどちらが大事か、ということ。片や君が深く愛した元夫、片や今の夫。君は今の夫を愛しているのかな?」 若子は目を閉じ、やるせなさそうに俯いた。「お願いだから、彼らを傷つけないで」 「本当に君は面倒な人だね」男は彼女の顎から手を離し、腰に手を当てながら大げさにため息をついた。「どちらが大事か一つも選べないなんて、君の決断力には問題があるね。 じゃあこうしよう」男はポケットから再びスマートフォンを取り出し、操作を始めた。「僕が代わりに選んであげるよ。二人とも死ぬ、ってね」 男はスマートフォンの画面を若子に向けて見せた。「ほら、ここにボタンが三つあるんだ。一番下のボタンを押せば、弾丸が二つ発射されるようになってる」 「やめて!」若子は震えながら叫んだ。「お願いだから、そんなことしないで!」 「でも君は選ぼうとしないじゃないか」男は肩をすくめて言った。 「どうやって選べっていうのよ!」若子は声を荒げた。 「簡単だよ。片方は元夫、もう片方は今の夫。そんなに難しいことかい?それとも、
「怪我をした方はどうなるの?」若子は震える声で尋ねた。 「怪我してる人間を、わざわざ殺す必要なんてないだろう?」男は軽い調子で言った。 再びスマートフォンを手に取った男は、若子に画面を向けて見せた。「ほら、左のボタンが藤沢修、右のボタンが遠藤西也、そして一番下のボタンは二人とも死ぬボタンだよ。さて、どれを押そうか。片方を怪我させるのか、それとも両方を殺すのか、君が決めな」 「お願い、選べないわ!」若子は泣きそうな声で懇願した。「二人とも怪我なんてしてほしくないし、死なせるなんて絶対嫌。だから、お願いだから、彼らを解放して。私がどんなゲームに付き合ってもいいから!」 「10秒だけやるよ」男の声に苛立ちが混ざり始めた。「それで選べなければ、二人とも死ぬ。それでいいね?」 男はカウントダウンを始めた。「10、9......」 若子は焦って尋ねた。「怪我をするって、どのくらいの怪我なの?」 「8、7、6......」 「答えて!答えてくれなきゃ選べないじゃない!」 「5、4......」 「お願い!やめて!」若子は涙声で叫んだ。 「3、2、1......」 「修!」若子は衝動的に叫んだ。「修を選ぶ!」 その言葉を聞いた男の口元に、意味深な笑みが浮かんだ。「藤沢を選ぶ、ね?つまり、遠藤が怪我をする方がいいってこと?」 そう言いながら、男は右のボタンに指を伸ばした。 「違う!違うの!」若子は震える唇をかみしめながら、涙を溜めた目で男を見つめた。「私が言いたかったのは、修が......怪我をするってこと」 若子の言葉が終わると同時に、男は無情にもスマートフォンのボタンを押した。 一方、修と西也は廃墟を隅々まで探していたが、若子の姿は見つからなかった。 「若子!どこにいるんだ!」西也は声を張り上げた。 「やめろ、無駄だ」修が冷静に言った。「ここにはいない。叫んでも意味がない」 「じゃあ、どうするって言うんだ!」西也は怒りに満ちた声で反論した。「役に立つことを言え!さもなくば黙っていろ!」 「はっ」修は冷たい笑みを浮かべた。「西也、覚えてるか?あの日、レストランで言ったことを。どうやら、あの時の俺の言葉が正しかったみたいだな。お前は若子に守られることでしか生きられない。だけど、お前自身は何の役にも立た
「そんなはずはない......嘘だ!」修はかすれた声で必死に言葉を絞り出した。「若子が俺を傷つけるなんて、そんなことあるわけない。彼女がそんなことするわけがない!」 「嘘だと思う?それなら君に見せてあげよう」 突然、壁に投影が映し出された。 「修を選ぶ!」 映像の中で若子が苦しげに言ったその姿が、はっきりと映し出された。 続いて、誘拐犯の声が響いた。「藤沢を選ぶ、ね?つまり、遠藤が怪我をする方がいいってこと?」 映像の中で男は右側のボタンに手を伸ばす。若子がすぐに反論する。 「違う、違うの!」彼女は震えながら涙を浮かべて続けた。「私が言いたかったのは、修が......怪我をするってこと」 映像がそこで終わり、投影が消えた。壁には何も残らず、ぼんやりとした影だけが残っていた。 修はその場に仰向けに倒れ込み、呆然と天井を見つめた。目は虚ろで、全身から力が抜けていく。まるで魂が抜け落ちたかのように、彼はもう動くことすらできなかった。 そんなはずはない。若子がこんなことをするなんて、絶対にありえない。これはきっと偽の映像だ。彼女が自分を傷つけることなんて、あるはずがない...... 「ははははは!」突然、西也が笑い出した。彼は修の前に立ち、嘲笑を浮かべながら言った。「藤沢、お前もこんな日が来るとはな!」 修は胸から流れる血を必死に押さえていた。だが、それでも震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、助けを呼ぼうとした。 しかし、そのスマートフォンは次の瞬間、西也の靴に蹴り飛ばされ、さらに何度も踏みつけられた。 「西也、何をしているか分かっているのか?」修は苦しげに声を絞り出した。 「もちろん分かっているさ」西也は冷たい笑みを浮かべ、修の横にしゃがみ込んだ。「藤沢、今までずっと我慢してきたが、もう限界だ。ここでお前には死んでもらう。そうすれば、もう誰も俺と若子の間に割り込むことはできない」 「俺を殺せば、若子はお前を一生恨むだろう!」修は息を荒げながら必死に言った。「お前は本当にそれでいいのか?」 「ははは!」西也は声を上げて笑いながら続けた。「お前はまだ分かってないんだな。若子はお前を嫌っているんだよ。そうじゃなきゃ、どうして俺を選んだんだ?若子の心の中では、俺の方がずっと大事だってことだよ。お前は彼
西也は車を飛ばし、マスクの男が言っていた場所にたどり着いた。そこには確かに一軒の家があった。 車を降りると同時に、彼は家の中に駆け込み、柱に縛られた若子の姿を見つけた。彼女は震えながら涙を流していた。 若子は足音を聞き、反射的に顔を上げた。西也が彼女に向かって駆け寄る。 「若子!」彼は急いで彼女の頬を両手で包み込んだ。「やっと見つけた!怪我はないか?」 彼は彼女の前髪をそっとかき分け、額に擦り傷を見つけると、胸が締め付けられるような痛みと怒りが込み上げた。 しかし、若子の目はどこかぼんやりしていた。彼の背後を見つめると、すぐに尋ねた。「修は?修はどこにいるの?」 あのマスクの男に見せられた動画で、彼女は西也と修が一緒にここへ来たことを知っていたのだ。 若子が真っ先に修を心配する様子に、西也の心には不快感が押し寄せた。彼は無言で若子を縛っていたロープを解き始めた。 自由になった若子の体は疲労で力が抜け、足元が崩れるように倒れそうになる。 「危ない!」西也は彼女を慌てて支え、「若子、家に帰ろう。俺が守るから。もう二度と危険な目には遭わせない」 そう言いながら、彼女を横抱きにして立ち上がり、家を出ようとする。 しかし若子は問い詰めるように言った。「西也、修はどこにいるの?教えて!」 彼女はマスクの男に選ばされ、仕方なく一人を選ばざるを得なかった。その選択は彼女にとって苦痛でしかなかった。どちらも傷つけたくなかったのに...... 「修は無事だよ。もう帰った」西也は冷たい顔をして答えた。 自分だって命をかけて若子を救いに来たというのに、彼女が心配するのは修のことばかりだった。もしもあの矢が自分に向けられていたら、彼女はそれでも修のことを追い続けただろうか? 「本当に修は無事なの?」若子は疑いの目で問い詰めた。 「無事だよ」と、西也は短く答えた。「心配するな、俺が連れて帰る」 だが、若子は西也の視線がどこか泳いでいることに気づいた。彼女は彼の胸元を掴むと、必死な表情で言った。「西也、本当のことを言って!修はどうなったの?あの男に選ばされたとき、私はあなたを選んだ。だから修は傷ついているはずよ!どうして無事でいられるの?」 「修は無事だ。若子、もうこれ以上聞くな。とにかくここを出るんだ。この場所は危険だ」
「あなたはどこからここへ来たの?」若子は西也を見つめながら問い詰めた。「修と一緒に来たことは知ってる。彼は今どこにいるの?」 西也は眉間にしわを寄せ、不機嫌そうな表情を浮かべた。だが、それは若子に対してではなく、彼女があまりにも修の安否を気にしていることに対する苛立ちだった。 「若子、ここは危険だ。まず家に帰ろう。話は家に戻ってからだ。それでいいだろう?」 彼は若子の手首をつかみ、促そうとした。 「嫌よ!」若子は力強く手を振り払い、反抗した。「もし今日、修に会えないなら、私はどこにも行かない!教えてくれないなら、自分で探しに行くわ!」 「なんであいつを探す必要があるんだ!」西也はついに堪え切れず、声を荒げた。「俺こそお前の夫だ!危険を顧みずお前を助けに来たのに、どうしてあいつのことばかり気にしている?ここがどれだけ危険か分かっているのか?俺たち二人ともいつ何があってもおかしくないんだぞ。お前はそれでもあいつのことばかり気にするのか?俺が危険にさらされるのは怖くないのか?」 「私はあなたを選んだわ!」若子は怒りを込めて叫んだ。「修かあなたか、どちらか一人を選ばなきゃいけなかった。私はあなたを選んだ。それなのに、修を少しでも気にかけることさえ許されないの?」 若子はそう言い放つと、目に涙を浮かべながら背を向けた。彼女の心には、西也への失望が深く刻まれていた。彼女はその場を立ち去ろうとした。 しかし、西也はすぐに若子の背後から彼女を抱きしめた。「やめてくれ!若子!」 「何をするの!放して!」若子は必死に抵抗しながら叫んだ。 それでも、西也は彼女を放さず、震える声で彼女の耳元に囁いた。「ごめん、若子......俺が間違ってた。俺が悪かった......」 彼の腕はわずかに震えていた。目を固く閉じた西也の全身は緊張で強張っていた。 「俺がこんなことを言ったのは、お前を心配するあまりだったんだ。お前が安全な場所に早く戻れるようにと焦って......それで、こんな酷いことを言ってしまったんだ......本当にごめん......」 西也の声には後悔と切実さが混ざり合っていた。その言葉に若子は動きを止め、わずかに体の力を抜いた。 若子は悲痛な表情を浮かべ、深く息を吸い込んで冷静になろうとした。そして、静かに言った。 「私はどう
地面には大量の血が広がり、周囲には息が詰まるような静けさが漂っていた。 若子はよろめきながらその血だまりの前までたどり着くと、膝から崩れるようにその場に倒れ込んだ。 「どこ......どこにいるの?」彼女は声を震わせながら叫んだ。「修はどこにいるの!?」 西也はその血だまりをじっと見つめ、眉をひそめた。彼の脳裏には、修が胸を貫かれ倒れ込んだ光景が浮かぶ。彼はその場に倒れたまま助けを呼ぶこともできなかったはずだ。それなのに、修がここにいないということは、誰かが彼を救出したのか? その考えに西也の胸には不安が広がった。もし修が生きていたら......それは西也にとって大きな問題になる。 若子は立ち上がり、震える体で西也の前まで歩み寄ると、彼の服を掴んで激しく問い詰めた。 「修はどこ?彼はどこにいるの!?」 「分からない」西也は冷静を装いながら答えた。「お前を助けに行ったとき、彼はまだここにいた」 若子はその言葉を聞いて愕然とし、再び血だまりを見つめた。そして、再び問いかけた。「つまり......修があんなに重傷を負っていたのに、あなたは彼をここに置き去りにしたってこと?助けもしないで?」 西也の心に一瞬の動揺が走った。「若子、俺を責めてるのか?俺はお前を助けるためにここに来たんだ。どうしてあいつのことまで面倒を見る余裕があったと思う?」 「違う!私じゃなくて、修を助けるべきだった!」若子は声を震わせながら訴えた。「彼は血を流して苦しんでたのよ!どうして助けなかったの?どうして!」 彼女は地面に崩れ落ちるように座り込み、血だまりに手を押し付けて泣き叫んだ。 その姿に西也は慌てて駆け寄り、彼女を抱き起こそうとする。 だが、若子は力いっぱい彼を振り払った。 「放して!あなたなんて見たくない!」 西也の拳が震える。堪えきれない怒りが爆発した。 「若子、いい加減にしろ!」 彼は強引に彼女を抱き上げた。 若子は必死にもがきながら叫ぶ。 「放して!嘘つき!修は大丈夫だって言ったじゃない!彼がどこにいるかも知らないくせに!」 彼女の手には血がべったりとつき、そのまま西也の顔や服に血痕を広げてしまった。 「放さない!」西也は彼女の手首をしっかりと掴み、声を震わせながら言い放った。「お前が誘拐されたと聞いて
若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った
若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ
若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か
修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声