「......隠してるわけじゃないよ。ちょっと顔を洗ってくる。すぐ戻るから」 そう言って、彼は洗面所へと向かった。 ―まるで、若子から逃げるかのように。 その時、病室のドアが開いた。 医師が入ってくる。 「遠藤夫人、体調はいかがですか?」 若子は静かに頷く。 「......大丈夫です。先生、私の赤ちゃんを助けてくれて、ありがとうございます」 医師は微笑んだ。 「それが私たちの仕事です。それに......すべては、あなたのご主人が下した決断ですよ」 「......私の夫?」 若子は、洗面所のドアをちらりと見る。 「西也が言っていました。手術に少し問題があって、長時間かかったと......何があったんですか?」 医師は、ゆっくりと説明を始めた。 ―そして、若子はその内容を聞き、息をのんだ。 つまり― 彼女が不用意に動き回ったせいで、赤ちゃんの状態が悪化し、手術が複雑になったということ。 ―そして、何よりも。 西也は、自分との約束を守った。 彼は、赤ちゃんを守る選択をした。 彼は、決して妊娠を諦めることなく、最後まで希望を捨てなかった。 若子は、安堵の息をつく。 彼を信じてよかった。 西也は、信頼に値する人だった。 「遠藤夫人......」 医師は、若子の表情を見て、穏やかに続けた。 「ご主人は、本当に辛そうでした。どうか彼を責めないであげてください」 若子は微笑んだ。 「責める?そんなわけないじゃないですか......むしろ、感謝しています。もし目が覚めて、赤ちゃんがいなかったら......私は生きていけなかったと思う」 彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。 医師はすぐにティッシュを取り出し、彼女に手渡す。 「泣かないでください。あなたの身体は、まだ休息が必要です。ご主人がきっと、あなたをしっかり支えてくれますよ。手術が成功したとき、彼はその場で崩れ落ちていました。まるで、何かが一気に吹き飛んだかのように......泣きながら、笑っていましたよ。 私も長年、医師をしていますが、ここまで愛情深い旦那さまを見たのは、初めてです」医師がその話をするとき、どこか嬉しそうな光が目に宿っていた。まるで、二人を応援しているように。 その言葉に、若子の心が
西也は苦い笑みを浮かべた。 「彼女には絶対に分からないよ。仮に言ったとしても怒るだろうし、下手したらお前がバカだと思うかもしれない。だから、全部俺のせいにしておけばいいんだ。もし俺が『お前がどうしてもこうしたいって言った』なんて言ったら、彼女はきっとお前を責める。お前がどれだけ彼女を大事にしているか、俺は知ってる。だから、お前には絶対に辛い思いをさせたくない」 かすかに震える西也の声が、若子の心を鋭く刺した。 彼女は彼の手をぎゅっと握りしめる。 「西也......ありがとう。こんなにも私を守ってくれて、私のわがままを受け入れてくれて......」 この世界で、彼女のことを本当に理解してくれるのは西也だけだ。 他の人なら、きっと迷わず妊娠を諦めるだろう。 だけど、西也は違う。 彼は本当に彼女のためを思ってくれている。 決して、修のように「お前のためだ」と言いながら傷つけたり、離婚にまで追い込んだりはしない。 結局、どちらも不幸になっただけだったのに。 「若子、お前の願いは、決してわがままなんかじゃない」 西也はそっと彼女の頬を撫でた。 「この子がどれほど大切なのか、俺には分かってる。お前は絶対に諦めない。それを知ってるから、俺はあの選択をしたんだ」 彼は彼女の手をぎゅっと握り、そっと指に唇を落とす。 「どんなことがあっても、俺はお前の味方だ。ずっと、ずっと支えていくよ」 若子の瞳から、涙が溢れた。 「西也......お願いだから、ちゃんと医者に診てもらって」 「もう診てもらったよ。薬も塗ったし、心配いらない。数日すれば腫れも引く」 腫れ上がった彼の顔を見て、若子は胸が締めつけられる。 光莉は、一体どれほどの力で殴ったのか。 どんな理由があろうと、手を出すべきじゃなかったのに。 藤沢家の人間全員に疎まれながらも、彼はずっと自分の味方でいてくれる。 その思いが、どれほど強いものか、彼女には痛いほど分かっていた。 「......泣かないで」 西也は優しく彼女の涙を拭う。 「頼むよ、若子。泣かないでくれ。お前、さっき手術したばっかりだろ?ちゃんと休まないと。泣いたら、お腹の子も悲しむよ」 「......泣かない」 若子は涙を拭いながら、ふと西也を見つめた。 「ね
光莉はシャワーを浴び終わり、浴室から出てくると服を一枚ずつ拾い上げて身に着けた。 ベッドに横になっていた高峯は横向きになったまま、穏やかな笑みを浮かべて彼女を見つめている。 「朝ごはん、食べていかないか?」 「自分で食べて」 彼女は彼と同じ空間で息をするだけでも嫌だった。ましてや一緒に食事なんて論外だ。 吐き気がする。 高峯は彼女を引き止めることなく、ベッドから起き上がった。 「光莉、お前に聞きたいことがあるんだ。どうして藤沢曜と結婚したんだ?時期を考えたら、俺と別れてすぐのことだっただろう。俺のせいで怒ってたのか?それとも、別の理由か?」 光莉は服を着終わり、バッグを肩にかけると冷たく振り返った。 「もちろん、彼を愛してるからよ」 その声にはどこか皮肉が含まれていた。 「愛」という言葉を耳にした瞬間、高峯の眉間に深い皺が寄った。 「嘘だ、信じられない」 「勝手にすれば?」 光莉はさっと背を向けて歩き出す。 突然、高峯はベッドから飛び起き、彼女の前に立ちふさがった。 「何?私をここに閉じ込めるつもり?」 「そういう意味じゃない」 高峯は落ち着いた声で言う。 「ただ......西也に会ってやらないか?」 「西也」という名前が出た瞬間、光莉の胸が痛んだ。 その変化を見逃さず、高峯はさらに言葉を重ねる。 「お前が修とより深い関係なのは分かるよ。あいつはお前の成長をずっと見守ってきたからな。でも......西也は違う。彼は―」 「もういい!」 光莉は彼の言葉を遮った。 「西也が母親の愛に飢えているって?それは全部あんたのせいでしょ!そのことを理由に私を操る気?」 高峯はため息をつく。 「俺のせいだと認める。でも......お前は母親なんだから、西也のことを少しは考えてやれないか?お前が彼にどんな誤解を持っていたとしても、彼はお前の息子だ。若子のことを理由に偏見を持つのはやめてくれ。彼らはもう夫婦なんだぞ」 「よくそんなことが言えるわね!二人が結婚したのは全部あんたの陰謀でしょ。どうせあんたと西也が一緒になって、若子を騙したんでしょ?あの子はバカだから、信じたのよ」 「でも、今は幸せに暮らしている」 高峯は穏やかな口調で続ける。 「確かに西也と若子の結婚
光莉は迷うことなく若子の病室へと向かった。 だが、その途中でバッグの中のスマホが鳴り響く。 彼女は取り出し、画面を確認した瞬間、顔色が変わった。 すぐに通話ボタンを押す。 「もしもし、修!?どこにいるの!?」 「母さん、俺は大丈夫だから探さないでくれ」 「どこにいるの!?病院にいないって分かったとき、どれだけ心配したと思ってるのよ!」 「だから、ちゃんと電話したんだ。俺は今、安全な場所にいる」 修の声は淡々としていた。 「ちょっと一人になりたいんだ。数日したら戻るよ」 「本当に安全なの?」 光莉は疑わしそうに問い詰める。 「本当だよ。俺は絶対に自分を傷つけたりしない」 その言葉に、光莉はそっとため息をついた。 「......分かった。好きなだけ冷静になりなさい。でも、一つだけ約束して。絶対に無茶はしないで。何があっても、自分を傷つけるようなことはしないって」 彼女の胸の奥に広がる不安。 それは、ただの母の勘ではなく、本能だった。 修がすべてを諦めかけているような気がしてならなかった。 「大丈夫。俺はもう整理がついたから。それじゃあ、切るよ」 そう言い残し、修は通話を切った。 光莉は息をつき、ほっと胸を撫で下ろした。 彼が突然いなくなったと知ったとき、最悪のことを考えてしまったが― 電話をしてきたということは、本当に追い詰められているわけではないのだろう。 もし本当に命を絶つつもりなら、何も言わずに消えるはずだ。 今の彼には、ただ一人になれる時間が必要なのだろう。 だけど......この子は一体、どうやって若子を取り戻すつもりなのか? こんな状態で、本当に彼女を取り戻せるとでも? 光莉は考えながら、病室の前に立った。 ドアの向こうからは、西也の優しい声が聞こえてくる。 彼は若子のためにリンゴの皮を剥き、飲み物を用意し、何から何まで世話を焼いていた。 「西也、そんなに動き回らなくていいのよ。ちょっと座って、一緒にお喋りしない?」 「分かった」 西也はすぐに手を止め、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。 「若子、回復したら、ちゃんとどこかへ遊びに行こうな」 「うん」 彼女は小さく頷く。 「本当なら、一緒にアメリカに行く予定だったのに、色
この言葉を口にした以上、西也は必ずそれを守る。 一つひとつの言葉に、偽りはなかった。 だけど―なぜ、若子はいつも修のことばかり考えているんだ? 西也の心の中には、次第に不満が積もっていく。 かつて修は、彼女を傷つけた最低な男だった。 今の彼は、ただの臆病者に過ぎない。 そんな男の、いったいどこがいい? 「若子、お前って本当にバカだよな」 若子は呆れたようにため息をつき、そっと西也の顔に手を伸ばした。 「まだ痛む?」 西也は首を横に振る。 「全然、痛くないよ」 「嘘つき」 彼女は苦笑する。 「そんなわけないでしょ。代わりに謝るね」 「気にするなよ。俺は何とも思ってない」 西也は、優しく微笑む。 「彼女の気持ち、分かるからな。もし立場が逆だったら、俺だって怒るさ。それだけ、お前のことを大切に思ってるんだよ。 前の義母としても、お前をすごく気にかけてるんじゃないか?だって、お腹の中にいるのは彼女の孫なんだろ? そりゃあ、お前の命を最優先するさ」 病室の外― 光莉は、廊下の壁にもたれかかり、静かに目を閉じた。 心臓が、ぎゅっと締めつけられるように痛む。 西也は、まだ彼女のことを庇っているのか? なぜ彼は、彼女の悪口を言わない? 彼女のことを嫌わせるように仕向ければいいのに。 そしたら若子は、彼から離れてくれるかもしれないのに。 ......もしかして、彼を誤解していた? 彼女は、これまで何度も彼を罵った。 軽蔑し、皮肉を浴びせた。 彼のことを、ろくでもない人間だと決めつけていた。 だけど、それは彼とほんの数回しか会っていない状態での話だ。 まともに向き合いもせずに、彼を判断してしまったのではないか? あまりにも、彼に対して不公平だったのではないか? 偏見というものは、一度持ってしまうと、簡単には拭えない。 そして―彼女はその偏見を持ったまま、彼に接してしまった。 その理由が、高峯の息子だから、というだけで。 ......でも、今は違う。 西也は彼女の― 失ったはずの、自分の息子だった。 その事実が胸に突き刺さる。 何度も、何度も、悪夢を見た。 死んでしまったと思っていた息子を、夢の中で抱きしめ、涙で目を覚まし
光莉は、手にしたコップを強く握りしめた。 その指先が、かすかに震えている。 西也は静かに、別の椅子に腰を下ろした。 若子は、少し迷ったあと、口を開いた。 「お母さん、せっかく来てくださったので、お話ししたいことがあります」 光莉が顔を上げる。 「何の話?」 若子は、そっと西也の手を握った。 「手術室の前で、西也が決断を下しました。 でも、それは彼が勝手に決めたことではありません。私がそうさせたのです」 光莉は、一瞬動揺したようにまばたきをする。 「......どういうこと?」 若子はまっすぐに彼女を見つめ、静かに続けた。 「私は手術前に西也に伝えました。 もし手術中に何かあったら、絶対に子どもを優先してほしいと。 もし目が覚めたときに子どもがいなかったら、私は生きていたくない...... そう言って、西也に誓わせました。 だから、彼はあの時、あの決断をしたんです」 「若子......」 西也は少し焦ったように、彼女を見つめる。 「そんなこと、言わなくてもいいんだ」 「いいえ、言います」 若子は首を横に振る。 彼女の視線は、再び光莉へと向けられた。 「お母さん、私は自分の命をかけて西也を追い詰めました。私のせいで彼はあの決断をしたのです。彼は、私を死なせたくなかった。だからこそ、あの選択をしたんです。彼は、私を守るために全てを背負ったんです。それなのに、お母さんは彼を責め、殴り、罵った......彼は何も言わずに耐えていました。それは、自分に非があるからではなく、私のためでした。お母さん、どんな理由があったとしても、西也に手を上げるべきではありません」 ―彼女は、どうしても西也のために、この言葉を伝えなければならなかった。 彼の決断は、自分の指示によるものだった。 彼が責められるのは、間違っている。 光莉は、長い沈黙のあと、ゆっくりと視線を上げた。 そして、腫れ上がった西也の顔を、再びまじまじと見つめる。 その傷の奥にある苦しみを、彼女はようやく理解した。 彼がどれほど悩み、苦しみながら決断を下したのか― それすら知らずに、自分はただ彼を責め続けた。 西也は、若子を死なせたくなかった。 だからこそ、彼女の望む決断をした。 彼女
「復縁」― その言葉を聞いた瞬間、若子は動きを止めた。 そして、すぐそばにいた西也の表情がわずかに険しくなる。 今さら何を言い出すんだ、この女は― こんな状況になってもなお、光莉は若子を修と復縁させようとしているのか? 藤沢家は、一体どこまで彼女を傷つければ気が済むんだ? それに、彼らは知っているはずだ。 若子は今、西也の妻だということを。 その夫である自分の目の前で、平然と「復縁」なんて話を持ち出すなんて...... ―なんて悪意に満ちた女だろう。 光莉は、じっと若子の答えを待っていた。 若子はふと、隣に座る西也を見つめる。 彼女は約束した。 彼と、離婚はしないと。 小さく息を吐き出しながら、静かに答える。 「子どもは子ども、結婚は結婚です。私はもう、修とは復縁しません。 私は今、西也の妻です。 それに......修はこの子を望んでいません」 「どうしてそう言い切れるの?」 光莉は、すぐさま問い詰める。 「彼がそう言ったの?」 「昨夜、彼のところへ行きました」 若子の声は、どこか淡々としていた。 「部屋の前で、たくさんのことを伝えました。 もし気が変わったなら、今日の午前十時までに電話してほしい、と。 けれど―彼は、一度も連絡をくれませんでした。 これは、彼が『この子を望んでいない』ということの証明です」 光莉の胸に、焦りが募る。 口を開きかけた瞬間― 西也の鋭い視線が彼女に突き刺さる。 この女......まさか、修が昨夜そこにいなかったことを話すつもりか? 藤沢家の人間は、なぜこうも邪魔ばかりするのか― だが、彼はすぐに表情を消した。 何も気づいていないかのように、ただ静かに彼女を見つめ続ける。 しかし、彼の脳裏には、光莉の顔をしっかりと刻みつけた。 この女が、どれほど自分と若子の関係を邪魔しようとしているのか。 ―必ず、復讐してやる。 光莉は西也を見つめた。 その瞳には、言葉にできないほど複雑な感情が滲んでいた。 若子は、沈黙している光莉を見つめた。 「お母さん?何か言いたいことがあったのでは?」 光莉は、ぐっと唇を噛みしめる。 「若子......もし本当に、修がこの子を望んでいないのなら...
西也は、少し緊張した面持ちで光莉を見つめていた。 やがて、光莉は静かに口を開く。 「......そうね。もう終わったことだわ。 修があんたを無視したということは、彼もこの関係を終わらせたいのよ。 これから先、お互いに関わらない方がいいわ」 ―これが、今の彼女にできる唯一のことだった。 この「因縁」は、ここで断ち切るべきなのだ。 西也は、心から若子を愛している。 彼ならば、きっと彼女を幸せにできるだろう。 一方で、修は自らすべてを放棄し、身を隠した。 今の彼にできることは、ただ若子を悲しませることだけ。 ......そう、彼は最初から、若子を幸せにできる人間ではなかったのだ。 修は恋愛に関してはまるで不器用で、 一方の西也は、どうすれば愛する人を大切にできるかを知っている。 この現実がすべてを物語っている。 西也は微かに眉をひそめた。 意外だった。 まさか、光莉がこんなことを言うなんて― 彼女なら、当然若子に「昨日の夜、修はそこにいなかった」と伝えるはずだと思っていた。もし若子がそれを知ったら、また感情的になって、修を問い詰めに行くに違いない。 ......なのに、なぜ言わなかった? それに、病室に入ってきたときから、彼女の態度がどこかおかしい。 昨日までとはまるで別人のように感じる。 一体、何があった? ―この女、何を隠している? 若子は、どこか苦笑しながらつぶやく。 「......たぶん、本当にもう修とは会うことはないんでしょうね。 彼は私の子どもを望まず、私の声も聞かず、連絡もくれない...... 私には、どうすることもできません」 彼女の表情には、どこか諦めが滲んでいた。 精一杯頑張った。 それでも― 修は、彼女のもとに戻ることはなかった。 光莉は、ふうっと小さく息をついた。 そして、席を立つ。 「若子、体を大事にして。安全に赤ちゃんを産むのよ。 どんな状況でも、あんたを気にかけている人はいる。 ......遠藤くんが、あんたをとても大切にしているのは分かったわ。 二人は、お似合いよ」 その言葉に、若子は驚いたように目を見開く。 「お母さん......?どうして......?」 彼女は、これまで西也
若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った
若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ
若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か
修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声