ログイン前世、婚約者の陽太に資産も才能も捧げ尽くした白峰結月。 陽太は初恋の女性を選び、無情に捨てられ、絶望のなか病死した。 しかし目を覚ますと、大学時代に回帰していた! 結月はクズ男への投資をやめ前世の知識を駆使し、若き天才投資家として無双。孤高のカリスマ投資家・諸星帝(もろぼしみかど)とビジネス契約を結ぶが、なぜか彼から異常なまでに溺愛されて……!? 一方、結月を手に入れられなかった陽太はみるみる没落。なんと陽太もやり直し人生を歩んでおり、前世の記憶があったのだ! 結月に近づこうとするが、まったくうまくいかずに苛立つ陽太は、暴挙に出るが――? 死に戻り令嬢の、やり直し人生・痛快大逆転劇!
もっと見る「はぁ……」
私はため息をついた。
天井のしみを、もう何百回数えただろう。
白い天井に走る、雨漏りのあとのような薄茶色のしみ。三つ、いや四つ。数えるたびに増えていくような気さえする。かつての私なら、こんな安アパートの天井を見上げて死ぬ日が来るなんて、想像すらしなかった。
白峰結月(しらみねゆずき)。白峰ホールディングスの一人娘として生まれ、何不自由なく育った。海外の大学で経営学を修め、二十代の半ばで財閥の中核事業を任され——そして三十を過ぎた今、私は、すべてを失った。
医者は、過労と慢性的な栄養失調が重なったのだと、淡々と告げた。笑ってしまう。財閥令嬢として生まれた女が、その日の食事にも事欠くようになるなんて、いったい誰が想像しただろう。一条を——いや、一条という名の、私自身が作り上げた作品を守るために、私は自分の体のことなど、いつも後回しにし続けた。気づけば貯えは底をつき、頼れるはずの人脈もすべて、奪われてしまった。
私はこの六畳一間で、誰に知られることもなく、ただ静かに朽ちようとしている。
体が、動かない。指の一本さえ、もう自分の意思では持ち上がらない。少し前まで腕に刺さっていた点滴の管も、その冷たささえ感じなくなって久しい。感覚があるのは、ただ一点、胸の奥だけだ。燃える炭を押し当てられているように、そこだけが、ずっと熱い。
——陽太(ようた)。
その名前を思い浮かべるだけで、もう涸れたはずの目の縁が、じわりと滲んだ。
一条陽太(いちじょうようた)。私の、婚約者だった男。
大学のレセプションで出会ったときの彼は、地方の中堅企業の御曹司で、野心だけは一人前の、けれどどこか危なっかしい青年だった。スーツの着こなしも、名刺の渡し方も、財界の作法も何も知らない。背伸びした言葉ばかりが先走って、足元はいつもぐらついている。私はその危うさを、どうしても放っておけなかった。
だから、私はすべてを注いだ。
父から譲り受けた、私名義の株式。母方の祖父の代から財界に張り巡らせてきた人脈。十年かけて磨いた経営の勘と、誰にも真似のできない買収のノウハウ。一条グループが業界三位まで一気に駆け上がったのは、世間では陽太の若き手腕として語られているけれど、いつもそばでアドバイスを繰り返し、彼を支えたのは私だった。
忘れもしない。一条が初めて大型の資金調達に挑んだとき、彼のずさんな事業計画書は、どの銀行にも門前払いされた。徹夜で書き直したのは私だ。
担保も、保証人も、最初の出資者も、私が裏で手を回して用意した。プレゼンの当日、舞台袖で震える彼の背中に「大丈夫、あなたならできる」と囁いたのも私。
スポットライトを浴びて喝采を受けるのは、いつも陽太だった。それでよかった。彼が笑っていれば、私はそれだけで満たされた——少なくとも、そう思い込んでいた。
『結月がいれば、俺は無敵だ』
彼はよくそう言って笑った。少年のように無邪気に。私はその言葉を愛だと信じていた。
婚約指輪を受け取った夜のことを今でも鮮明に覚えている。安物の、けれど彼が初めて自分の稼ぎで買ったというその指輪を、私は世界中のどんな宝石よりも尊いものに思えた。
「いつか必ず、本物を贈るから」と、彼は照れたように笑った。その約束が果たされることは、ついに、一度もなかった。
彼の初恋の女性――志田成美(しだなるみ)が現れたのは、一条グループが頂点に手をかけようとしていた頃だった。彼女が戻ってから、陽太はおかしくなっていった。
「な、んでだよ……っ!!」 俺は、武藤会長を連れて女王様みたいに華やかに去っていく白峰結月の後ろ姿を、ただ口を開けて見つめることしかできなかった。 驚きとパニックに、名刺入れを握る指先がみっともなくガタガタと震える。 周囲の連中が「何だあいつ?」と俺をクスクス笑っている気配がして、顔がカッと熱くなった。 おかしい。こんなの絶対におかしい! だって俺の頭には、はっきりと『前世の記憶』があるんだ―― 確か結月の財産を根こそぎ奪うことに成功し、成美といよいよ一緒になれると思い、激しい夜を過ごして目覚めたら――なんと、大学時代に戻っていた! 心の中でガッツポーズをキメた。(よっしゃあ! 俺には、あの輝かしい10年間の記憶がある!) (一条グループを業界3位まで押し上げた、俺の天才的な経営手腕をもう一度再現できる!) だからこそ、さっきこの会場で武藤会長に冷たくあしらわれた時も、「フン、今に見てろよ」と余裕をぶっこいていた。 前世と同じだ。ここで俺がちょっと困った顔をして見せれば、結月という都合のいい金持ちの令嬢が「放っておけない」とすり寄ってきて、アドバイスをくれる。 どんなアドバイスだったかは覚えていない。なんだったかな? まあいいや。すぐにでもやって来るさ。なにせ、前世の記憶があるとか、勝ち組すぎん? 俺、最強。わっはっは。この世のすべてを牛耳ってやるぜ~。
その困ったような笑顔。前世で私の心をいとも簡単に溶かしたあの顔。 不思議だった。あれほど焦がれた表情を前にしているのに、私の心は凍った湖のように静かだった。 手を伸ばして彼に武藤を紹介し、二言三言の助言を与えれば、彼はすぐに息を吹き返す。そしてまた、あの幸福で——その実、破滅へと続く十年が始まるのだ。 私はゆっくりと微笑んだ。 前世の私なら、ここで罪悪感に押し潰されていただろう。困っている人を見捨てる冷たい女だと、自分を責めたはずだ。けれど私を無情に切り捨てた男のために、これ以上、自分の優しさを安売りするのは——終わりにする。「ごめんなさい。人違いだと思いますわ」「えっ……」「私、あなたのことを存じ上げません。力をお貸しする義理もございませんの」 突き放すようにそう言って、私は彼から視線を外した。 陽太の顔から、貼りつけた笑みが剥がれ落ちた。助けを乞うた相手に、にべもなくあしらわれた屈辱。そして隠しきれない苛立ちが滲み浮かぶ。彼は苦渋の顔で言った。「……失礼しました。白峰ホールディングスのお嬢様ともなれば、僕のような人間の挨拶など、耳に入れる価値もないということですか。噂通りの、お高くとまったお方だ」 この男は最初からこうだったのだ。強い女も、賢い女も、彼にとっては「かわいげのない女」でしかない。私が十年をかけて、命を削って思い知らされたことを、彼は出会ってわずか一分で証明してくれた。 彼は自分より高い場所にいる女を認めたくないだけ。認めてしまえば自分の小ささを直視しなければならなくなるから。 ——この男に、二度と私の知識を与えはしない。 彼を無視して踵を返した。陽太に背を向け、まっすぐに——武藤征一郎のもとへ歩き出す。「武藤会長」 突然声をかけられ、彼が訝しげに眉を寄せた。「……どなたかな」「白峰結月と申します。白峰ホールディングスの娘です」 名乗ると武藤の目に、わずかな興味が灯った。白峰の名は、かろうじて財界に通用する。だが、彼が本当に身を乗り出したのは、その次の私の一言だった。「会長が今、最も頭を悩ませていらっしゃるのは、半導体材料事業への参入の是非——違いますか?」 武藤の眉がぴくりと跳ねた。 それは、まだ世間どころか、社内のごく一部にしか知られていないはずの、グループの極秘案件だったはず。前世の
シャンデリアの光の下で、若き日の一条陽太は、滑稽なほど浮いていた。 仕立ての悪いスーツ。借り物のような笑顔。名刺入れを握りしめる指先は、誰の目にも分かるほど強張っている。この華やかな会場にいる誰もが、彼を「場違いな田舎者」として、視界の端で処理していた。 二十二歳の陽太。まだ、何者でもない。これから十年をかけて私を喰い尽くす牙も、初恋の女に狂って身を滅ぼす弱さも、その内側にすべて眠らせたまま、彼はただ、必死だった。 前世の私は、その姿に、どうしようもなく惹かれたのだ。磨けば光る原石だと、本気で信じた。そして、光らせてやれるのは自分だけだと——思い上がっていた。 今なら分かる。私が惹かれたのは、彼の才能なんかじゃなかった。誰かに必要とされたかった、ただそれだけだ。父に認められず、ただ"強い娘"であることだけを求められて育った私は、「君がいなければ」と乞われることに、麻薬のように溺れていたのだ。 会場の中央、人垣の奥に、一人の老紳士がいた。武藤征一郎(むとうせいいちろう)。一代で巨大コングロマリット(※異なる業界や業種の複数の企業を一つの大きな企業グループとして統括する形態のこと)を築き上げた、財界の生ける伝説。この日のパーティーの、実質的な主役だった。 陽太が、意を決したように武藤へ歩み寄っていくのが見えた。 ああ、これも前世と同じだ。彼は、武藤に取り入ろうとして、的外れな世辞と、背伸びした事業論を並べ立て——そして、けんもほろろに追い払われる。 「君のような若い人の熱意は買うがね。中身が、まるで伴っていない」 彼の冷ややかな一言が、離れた私の耳にまで届いた。周囲のくすくすという忍び笑い。陽太の顔が、屈辱で赤く染まっていく。 会場の空気そのものが、彼を弾き出していくのが見えた。誰もが沈みかけた船から目を逸らすように、陽太からそっと距離を取っていく。前世の私だけが、その船に自ら飛び乗った。 前世では、ここで私が動いた。 恥をかいた陽太にそっと近づき、武藤の関心を引く一言を耳打ちし、彼を立て直してやったのだ。あのとき囁いた言葉を、私は今でも覚えている。「会長は、世辞より反論を好まれる。臆さず、会長の事業の弱点を一つだけ指摘なさい」、と。震えながらもそれを実行した陽太に、武藤は破顔した。『面白い若者だ』、と。 ——その『面白い若者』の
※「——結月さん? 白峰結月さん、聞いていらっしゃいます?」 名前を呼ばれて私は目を開けた。 まず飛び込んできたのは、まばゆいシャンデリアの光だった。磨き上げられた大理石の床。氷とグラスの触れ合う澄んだ音。着飾った人々が交わす華やかなざわめき。香水と、生花と、上等なワインの匂い。 冷たい安アパートの天井ではなかった。胸を焼く痛みもない。 視界を落とすと、手が映った。それは——細く、白く、傷ひとつない若い指が、シャンパングラスを握っていた。 鏡張りの壁に映った自分の姿に私は息を呑んだ。そこに立っていたのは、二十二歳の私だった。 すべてを奪われ、たった一人で死んでいったはずの女ではない。 二十二歳。まだ何の苦労も知らず、世界はすべて自分の味方なのだと信じきっていた、あの頃の私。これから始まる長い地獄を、この娘(わたし)はまだ、何ひとつ知らない。——いや。今度は、違う。今度こそ、違う。「白峰さん、どうかなさいました?」 隣で見覚えのある誰かが心配そうに声をかけてくる。大学のゼミの同級生だ。「あ、大丈夫です。すみません。ちょっと立ち眩みがしただけです。失礼します」 現状を把握するために、逃げるように彼の前を立ち去った。 確か、研究の話を饒舌にしていた時だったはず。となれば―― 会場の入り口を睨むように見つめていると、両開きの扉を押し開けて入ってきた人物が映る。 それは若き日の一条陽太だった。まだ何者でもない、野心だけが空回りした、あの頃の彼―― なんてこと……。 私はこのパーティーで、これから陽太に声をかけられるのだ。グラスを片手に会場の隅で途方に暮れていた田舎出の青年を、放っておけずについ手を差し伸べてしまうのだ。彼が声をかけやすいように、大事な話を中断し、ひとりになって、彼に声をかけやすい環境を作った。 それが、すべての始まりだった。私の十年を喰い尽くす、長い長い悲劇の、最初の一歩。 戻ってきた。あの日に。すべてを、やり直せる場所に。 近づいてくる若い陽太は、まだ私を知らない。これから自分が、目の前の女の人生をどう喰い尽くすことになるのかも、知らない。 私は、シャンパングラスを握る指にゆっくりと力を込めた。冷たいガラスの感触が、これが夢ではないと、はっきりと教えてくれる。 指先がかすかに震えた。けれどそれは恐