矢野は静かにコップに水を注ぎ、それをデスクの上に置いた。 「藤沢総裁」 修は視線を上げる。 「今日、一日中何も食べていませんし、水分も取っていません。少しでも飲んでください」 矢野はコーヒーではなく、水を差し出した。 もう夜も遅い。カフェインを摂れば、ますます眠れなくなるだろうと考えたのだ。 修は時計をちらりと見やる。 「......おまえ、まだ帰ってなかったのか」 「総裁が帰らないのに、僕だけ帰るわけにはいきません」 「気にしなくていい。もう上がれ」 「はい......そういえば」 矢野はふと思い出し、口を開いた。 「先ほど、総裁のお母様からお電話がありました。最近のご様子について尋ねられました」 修の眉がわずかに寄る。 「......それで、おまえはなんと?」 「『特に問題はない』とだけお伝えしました」 「......そうか。もしまた聞かれたら、同じように答えればいい。余計なことは言うな」 「わかりました」 修は上着を手に取り、オフィスを後にした。 車を走らせながら、彼はふと気づく。 ―どこへ行けばいいんだ? 家に帰ったところで、何の意味がある? 空っぽのベッド。何もない部屋。 ただ広いだけの空間に、自分一人が取り残されるだけだ。 窓の外には、煌びやかな街の景色が流れていく。 こんなにも広い街なのに、自分が落ち着ける場所は、どこにもない。 そんなことを考えているうちに、いつの間にか病院の前に辿り着いていた。 ―ここは、侑子が入院している病院だ。 無意識のうちに、車を走らせてしまったのか。 侑子の仕草、言葉の節々、ふとした表情― 若子に、似ている。 もちろん、彼女は若子ではない。 それは、わかっている。 でも、こうしてここに来てしまったのは― ......きっと、若子を思い出してしまったからだろう。 まあいい。どうせ来たのなら、ついでに様子を見ていくか。 病室に入ると、ちょうど侑子が夕食を終えたところだった。 修の姿を見つけると、侑子の顔がぱっと明るくなる。 「藤沢さん、来てくれたんだね!」 彼女はもう会えないかもしれないと思っていた。 でも、こうして来てくれた。 彼の「時間があれば来る」という言葉は、
「......まあな」 修は淡々と返した。 彼はもうとっくに慣れていた。 こんな大きな会社を管理していて、プレッシャーがないわけがない。 人間である以上、ミスをすることもあるし、疲れることもある。 けれど― 昔はこんな疲労を感じたことはなかった。 若子がそばにいた頃は、どれだけ忙しくても、どれだけ疲れていても、家に帰れば彼女がいた。 その存在だけで、すべてが癒された。 でも今は違う。 家に帰っても、そこには誰もいない。 どれだけ働いても、何も変わらない。 ......もう、心の疲れのほうが、体の疲れよりも重くなってしまった。 「藤沢さんは責任感が強い人なんだろうけど、無理しすぎるのも良くないよ」 侑子が静かに言う。 「ちゃんと休まないと、身体を壊しちゃう」 「わかってる」 修は短く答えた。 ベッドの上で、侑子が少し体を動かし、僅かに顔をしかめる。 「......どうした?」 「ずっと寝てたから、体がちょっと固まってるんだよね。外に出て歩けたら、少しは楽になるのにな」 修は軽く頷いた。 「じゃあ、介護の人を呼んで付き添ってもらえ」 「いや、大丈夫」 侑子は手を振った。 「もう帰らせたよ。明日の朝まで来ないし、たまにプライベートの時間も必要でしょ」 「そうか」 修は少し考え、静かに言った。 「なら、俺が付き添う。少し外を歩くか?」 「......本当に?」 侑子の目が、ぱっと輝いた。 「冗談を言うタイプに見えるか?」 「見えない!」 彼女は嬉しそうに笑う。 ―一緒に散歩なんて、願ってもない機会だ。 「ちょっと待ってて、車椅子を取ってくる」 修が病室を出ようとした瞬間、侑子が慌てて言った。 「いや、車椅子は要らないよ。私は足に問題があるわけじゃないし、自分で歩くほうが体にもいいって、医者も言ってた」 修は一瞬迷うような表情を見せる。 「......本当に大丈夫か?」 侑子は布団をめくってベッドから立ち上がると、その場で何歩か歩いて見せた。 「ほら、平気。むしろ少し動いたほうが調子いいくらい」 「わかった」 修は軽く頷くと、ふと病室の温度を確かめるように視線を向けた。 「......上着を持て。外は少
心から愛した女。修の言葉に、侑子の心臓が大きく跳ねた。 ―愛している?彼は、まだ元妻のことを? だって、離婚したんじゃなかったの? 戸惑いの色を浮かべる侑子に、修は静かに続ける。 「......俺は、今も彼女を愛してる」 「......じゃあ、なんで離婚したの?」 「俺がクズでバカだったからだ」 修は、まるで自分を嘲笑うように薄く笑う。 「手に入れていたときは、大切にできなかった。失ってから、どれだけ大事だったのか気づいた」 彼の表情には、深い後悔と痛みが滲んでいた。 ―この人、本当にその人のことを愛してるんだ。 侑子にも、それが痛いほど伝わってくる。 「......じゃあ、取り戻そうとした?」 「何度も試した」 修は淡々と答える。 「何度も、何度もな」 「......それで?」 「それで......」 修はふっと短く笑う。 「彼女は、もう別の男と結婚した」 ―その瞬間。 侑子の心に、密かに小さな安堵が生まれた。 元妻は、もう他の人と一緒にいる。 つまり、もう彼のもとには戻らない。 「じゃあ、今は......」 「今も、俺は彼女を愛してる」 修は静かに夜空を見上げる。 「もし、彼女が戻ってきてくれるなら、俺は何だってする。どんなことだって......でも、もう無理なんだ。彼女は、俺を愛していない」 ―ズキン。 安堵したはずなのに、侑子の心はなぜか痛んだ。 ―彼は、今でも彼女だけを想っている。 「......時間が経てば、少しずつ忘れられるよ」 彼を慰めようと、そう言葉をかけた。 しかし、修は微かにかぶりを振る。 「それはない」 その声は、乾いていて、どこかかすれていた。 「お前には、わからない」 ―その言葉に、侑子の胸が締めつけられる。 「......わからない、か」 そりゃそうだ。 彼の想いの深さなんて、自分に理解できるはずがない。 でも、それをこんなに冷たく突き放さなくてもいいじゃない。 「......俺は、彼女以外の女を愛することはない」 修はポケットに手を突っ込んだまま、冷たい風に目を閉じる。 「一生、若子だけを愛する」 侑子は、わずかに眉をひそめた。 ―どうして、こんな話をす
「......今、なんて?」 侑子は、まるで雷に打たれたようにその場に立ち尽くした。 「私があんたの前妻に似てるからって、それだけの理由で会わないって......そんなの、あんまりにも不公平じゃない?」 「何が不公平なんだ?」 修は、まるで当然のことのように言う。 「そもそも、俺たちは特別親しいわけじゃない。お前が俺を助けた。だから俺も助けた。それで貸し借りはなくなった」 侑子は拳をぎゅっと握りしめた。 「......じゃあ、今日はその話をするために、私を連れ出したの?」 「そうだ」修は迷いなく答える。「そのつもりだった」 侑子は苦しそうに目を閉じた。 ―二人きりで過ごせるとばかり思っていたのに。 少しずつでも、距離を縮められるかもしれないって......バカみたいに期待してた。 なのに、彼が伝えたのはこんなにも残酷な言葉だった。 やっぱり全部、私の勘違いだったんだ。 それでも、胸の痛みはどうしようもなかった。 涙がこぼれるのを止められない。 ―きっと、初めて彼を見た瞬間に恋をしたから。 修に出会って、彼女は「一目惚れ」というものを知った。 泣きじゃくる侑子を見て、修は低く呟いた。 「......お前、バカだな。俺なんか、決していい男じゃないんだ」 彼女の視線が、自分に向けられるたびに感じていた。 この女は、自分に好意を持っている。 そう確信していたが、それが現実になったとき―修は、ただ苦笑するしかなかった。 考えてみれば、馬鹿みたいな話だった。 ―若子は、あんなにも俺を愛していたのに、それに気づけなかった。 ―なのに、どうでもいい女の好意には、すぐ気づくなんてな。 きっと、本当に愛していたからこそ、怖くて見えなかったんだ。 だからこそ、冷静に考えられなかった。 でも、愛していない相手なら? 俯瞰して、客観的に分析できる。 自分にとって、この女は単なる「他人」だから。 侑子の涙を見て、彼の胸の奥にかすかな罪悪感が広がる。「俺たち、ほんの数回しか会ってない。すぐにどうでもよくなるさ。俺なんて最低な男だ。前妻をひどく傷つけたし、誰かに愛される資格なんてない」 侑子は唇を噛みしめ、涙を拭った。 「私がどんな男を好きになるかは、私が決めるこ
修は侑子の目を避けるように視線をそらした。 「......お前を代わりにするつもりはない。それはお前に対して不公平だ。 もし俺が一時の寂しさに負けて、お前を利用したとしても......本物の若子が現れたら、俺は容赦なくお前を捨てることになる」 「じゃあ......」 侑子の声は、かすれていた。 「もし、それでもいいって言ったら?もし......私が『代わり』でもいいって言ったら?」 彼女の瞳には、必死な光が宿っていた。 最初は「代わり」でもいい。 だって、彼の愛した人はすでに別の男のものになった。 もう、二人が結ばれることはない。 だったら、チャンスはある。 代わりから、本物になれる可能性は―ゼロじゃない。 「......お前、ほんとにそれでいいのか?」 修は信じられないというように、眉をひそめた。 「試させてくれる?私は、藤沢さんが私を彼女と重ねても構わない。ただ、私の目の前で彼女の名前を呼ばないでくれれば、それでいい」 自分で言っていて、侑子は驚いた。 まさかここまで自分が譲歩するなんて。 こんなにも、プライドを捨てられるなんて。 今まで、こんな気持ちになったことはなかった。 こんなにも、誰かを求めたことは― 修は、ため息をつくように呟いた。 「......バカだな。たった数回しか会ってないのに、俺の何がそんなにいいんだ」 「私にも、わからない。でも、藤沢さんがどんなに冷たくて、どんなに傷つける言葉を言っても、心は勝手に動いてしまう。だって、心なんて簡単にコントロールできないでしょう?藤沢さんだってそうじゃない。どれだけ拒もうとしても、元奥さんへの気持ちは消えない。彼女が別の男と結婚しても、今は彼女を忘れられないんでしょう?それと同じ......私も、どんなに傷ついても、藤沢さんを好きになった気持ちを止められないの」 彼女の瞳には涙が滲んでいた。 それを見た瞬間、修の胸の奥が、重く、鈍く痛んだ。 ―泣いてる。 ―若子も、こんなふうに俺のために泣いてくれた。 彼は、そっと手を伸ばし、侑子の頬を指先でぬぐった。侑子の心が、一瞬、歓喜に震えた。 ―彼が、私の涙を拭ってくれた。 ―もしかしたら、彼は私を受け入れてくれるのかもしれない。しかし―
「......っ!!」 侑子の全身が怒りで震えた。 「......あんた......あんたって人は......!」 胸の奥に溜まった激情が、爆発する。 「本当に最低の男......っ!!」 修は、嘲るように薄く笑った。 「やっと気づいたか?俺は最初から、クズなんだ。そうじゃなきゃ、前妻に捨てられるわけがないだろ?現実を早く受け入れろ。たとえ彼女の代わりになろうとしても、お前にはその資格すらない」 侑子は唇を噛みしめ、涙が次々とこぼれ落ちる。 まるで、心がズタズタに引き裂かれたような痛み。 ここまで自分を落としても、彼は一歩たりとも近づいてはくれなかった。 ―わかってたはずなのに。 ―どうして、期待なんかしちゃったんだろう。 侑子は怒りにまかせて、羽織っていた上着を脱ぎ捨て、修に投げつけた。 「......最低......!藤沢修、あんたなんか大っ嫌い!大っ嫌い!!」 そう叫ぶと、彼女はそのまま背を向けて駆け出した。 修は、投げつけられたジャケットを軽く払うと、それを腕にかけたまま、黙って彼女の背中を見送る。 足音はどんどん遠ざかっていった。 ―これでいい。 彼女が自分を諦めるなら、それが一番だ。 しかし、次の瞬間― 「きゃっ!!」 鋭い悲鳴が響いた。 修は反射的に振り返る。 少し先の道端で、二人の女性がぶつかり、そのまま地面に倒れこんでいた。 侑子が倒れているのを見て、彼は素早く駆け寄った。 しかし、近づいてみると。侑子とぶつかった相手は...... 修の目が一瞬、驚きに揺れる。 倒れているもう一人の女性―それは、桜井雅子だった。 侑子は胸元を押さえ、苦しそうにうずくまっている。 修はすぐに駆け寄り、彼女を支え起こした。 「おい、大丈夫か?どこか痛む?」 侑子は疲れたような表情で、小さく首を振った。 「......平気」 それでも、息は浅く、顔色も悪い。 彼女の視線が、雅子に向かう。 「あなたは......大丈夫?」 雅子はまだ地面に座り込んだまま、まるで時間が止まったかのように修を見つめていた。 その瞳には、驚き、困惑、戸惑い―さまざまな感情が入り混じっている。 「......なんで、あんたがここにいる?」 雅
雅子が口を開くよりも早く、修が先に言った。 「......彼女は、桜井雅子だ」 ただ、それだけだった。 それ以上、雅子についての説明はしない。 まるで、ただの名前を紹介するだけのように。 その態度に、雅子の胸がざわつく。 ―わざとよね? ―私のことを、あえて説明しないつもり? 納得がいかなかった。 まるで、自分の存在を隠したいかのような修の態度に、雅子はすぐに言葉を重ねる。 「私は、修の婚約者よ」 彼女ははっきりと宣言した。 「私たち、以前は結婚寸前だったの」 その言葉に、修の眉がわずかに動いた。 結婚式のことが、ふと脳裏をよぎる。 確かに、彼は雅子と結婚するはずだった。 しかし、式の最中に若子が誘拐されたと知った瞬間― 彼は何もかも投げ捨てて、彼女のもとへ駆け出していた。 その結果、雅子を一人、結婚式場に残したまま。 けれど、彼は若子を取り戻せなかった。 修は、それ以来雅子のことを気にかけることはなかった。 彼女がどうしていたのか、どんな気持ちであの後を過ごしたのか―考えたことすらなかった。 今こうして目の前にいる彼女を見て― 完全に「何も感じない」とは言えなかった。 ほんのわずかでも、罪悪感があったのは確かだった。 だからこそ、修は何も言い返さなかった。 その沈黙が、侑子の心を大きく揺さぶった。 「......婚約者?」 頭が真っ白になる。 侑子は信じられないというように、雅子を見た。 そして次に、修の顔を見る。 「......どういうこと?」 彼の表情からは、何の感情も読み取れなかった。 「彼女が、藤沢さんの婚約者......?」 混乱したまま、彼の目を覗き込む。 「......どういうこと?あんたはもう離婚してるはずよね?それなのに、どうして婚約者がいるの?あんたは元奥さんを今でも愛してるって......あんなに必死で取り戻そうとしてるのに......」 雅子の心臓が大きく跳ねる。 ―どういうこと......? 驚いたまま、修を見つめた。 「ねえ、修......これは、一体どういうこと? 彼女に、私のことを話していなかったの? 彼女は本当に『友人』なの?」 雅子は言葉を失った。 あの日、結
―きっと、自分の言葉が山田さんを刺激してしまったんだ。 彼女は心臓病を抱えているのに、あんな風に追い詰めてしまった。まるで命を奪うような真似を...... でも、あのときどうすればよかった?彼女を身代わりにはできない。それだけは、どうしても。 雅子は拳を強く握りしめ、指先が手のひらに食い込みそうだった。 長い沈黙の後、彼女は大きく息を吸い、気持ちを落ち着けると修の前に立った。 「修、これは一体どういうこと?あの女は誰なの?」 修は壁にもたれ、伏し目がちに答えた。 「......彼女は、俺を救ってくれたんだ」 「......え?」雅子は目を見開く。「彼女が、あんたを?いつの話?」 その言葉に、修の胸が強く締めつけられた。あのときの光景が頭をよぎり、息が詰まりそうになる。 「......もう過去のことだ。これ以上、話すつもりはない」 彼の表情は、何も語りたくないと物語っていた。 話を変えるように、彼はぽつりと呟く。 「結婚式の件は......すまなかった。俺が悪かった。お前を捨てた」 雅子は歯を食いしばり、悔しさと痛みが入り混じった瞳で彼を見つめる。 「......やっと謝る気になったのね。私は、あんたが自分の非を少しも感じていないのかと思ってたわ。だって、あの日から一度も連絡してくれなかった。修、あんた......本当に私を捨てたの?」 修は壁から背を離し、まっすぐ彼女を見つめて言った。 「俺には、お前と一緒にいられないんだ。お前なら、もっといい男に出会えるはずだ」 「......っ!」 雅子の怒りが爆発する。 「修、あんたって人は本当に......!いったいどれだけの人を傷つければ気が済むの!?」 修は冷たく口を開く。 「雅子、お前を傷つけたくないからこそ、一緒にはなれない。俺といるのは、お前にとって不公平だ」 「公平かどうかを決めるのは、あんたじゃないでしょ?」雅子は食い下がる。「それは、私が決めることよ!」 修は黙った。これ以上、何を言っても彼女を苦しめるだけだとわかっていたから。 雅子は頬を伝う涙を乱暴に拭うと、それ以上は何も言わなかった。追いすがったところで、もう意味がない。 ―この男は、本当に私を捨てたんだ。 桜井ノラからの報告で、若子と西也が国外に
若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った
若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ
若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か
修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声