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第809話

Author: 夜月 アヤメ
矢野は静かにコップに水を注ぎ、それをデスクの上に置いた。

「藤沢総裁」

修は視線を上げる。

「今日、一日中何も食べていませんし、水分も取っていません。少しでも飲んでください」

矢野はコーヒーではなく、水を差し出した。

もう夜も遅い。カフェインを摂れば、ますます眠れなくなるだろうと考えたのだ。

修は時計をちらりと見やる。

「......おまえ、まだ帰ってなかったのか」

「総裁が帰らないのに、僕だけ帰るわけにはいきません」

「気にしなくていい。もう上がれ」

「はい......そういえば」

矢野はふと思い出し、口を開いた。

「先ほど、総裁のお母様からお電話がありました。最近のご様子について尋ねられました」

修の眉がわずかに寄る。

「......それで、おまえはなんと?」

「『特に問題はない』とだけお伝えしました」

「......そうか。もしまた聞かれたら、同じように答えればいい。余計なことは言うな」

「わかりました」

修は上着を手に取り、オフィスを後にした。

車を走らせながら、彼はふと気づく。

―どこへ行けばいいんだ?

家に帰ったところで、何の意味がある?

空っぽのベッド。何もない部屋。

ただ広いだけの空間に、自分一人が取り残されるだけだ。

窓の外には、煌びやかな街の景色が流れていく。

こんなにも広い街なのに、自分が落ち着ける場所は、どこにもない。

そんなことを考えているうちに、いつの間にか病院の前に辿り着いていた。

―ここは、侑子が入院している病院だ。

無意識のうちに、車を走らせてしまったのか。

侑子の仕草、言葉の節々、ふとした表情―

若子に、似ている。

もちろん、彼女は若子ではない。

それは、わかっている。

でも、こうしてここに来てしまったのは―

......きっと、若子を思い出してしまったからだろう。

まあいい。どうせ来たのなら、ついでに様子を見ていくか。

病室に入ると、ちょうど侑子が夕食を終えたところだった。

修の姿を見つけると、侑子の顔がぱっと明るくなる。

「藤沢さん、来てくれたんだね!」

彼女はもう会えないかもしれないと思っていた。

でも、こうして来てくれた。

彼の「時間があれば来る」という言葉は、
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