修は、真っ白な病室のベッドに横たわっていた。 その瞳は、虚ろで、何も映していなかった。 何度も何度も、自分に問いかける。 ―なぜ、まだ生きている? ―なぜ、目を開けたら病院にいる? あの家には、使用人など誰もいない。 彼はひとりで、ただ酒を飲み続け、死を迎える覚悟を決めていた。 死神の手が、すぐそこまで伸びていたはずなのに― それなのに、こうして生かされている。 ―誰が助けた? 病室には、重く沈んだ静寂が漂っていた。 窓の外から、柔らかな陽光が差し込む。 だが、それはどこか頼りなく、恥じらう恋人のように迷いながらカーテンを通り、彼の顔に淡く影を落とす。 けれど、その光では、彼の心に広がる暗闇を追い払うことなどできはしなかった。 頬はこけ、肌は青白く、まるで枯れかけた花のようだった。 ―陽の光なんて、嫌いだ。 病室の扉が開いた。 光莉が、花束を手に静かに入ってくる。 何も言わず、淡々と花瓶に花を生けた。 修は、そんな彼女を無視するように目を閉じたままだった。 部屋には、ほのかに花の香りが漂う。 修は眉をひそめ、低く問いかけた。 「......何しに来た?」 光莉は、彼をじっと見つめながら、静かに答える。 「......自分の息子が死にかけたのよ。母親が来ちゃダメ?」 病院からの連絡を受けたとき、彼女は血の気が引くのを感じた。 慌てて駆けつけ、ただ祈るしかなかった。 ―幸い、修は一命を取り留めた。 だが、それがどれほどの「幸い」だったのかは、今の彼を見れば分からない。 「修......どうして?お酒を飲めないこと、分かってたはずでしょう? なのに、なんであんなに飲んだの!? どうして、家族をこんなに心配させるの!?こんなに苦しめるの!?......本当に、死ぬ気だったの!?」 光莉の声は、悲しみに震えていた。 修は、わずかに唇を歪める。 それは、笑いとも、嘲りともつかない表情だった。 「ごめん......配かけて」 その声には、何の感情も宿っていない。 彼の顔色はあまりにも白く、生命力が奪われたかのように紅潮の気配すらなかった。 瞳の輝きもすっかり消え失せ、まるで光を失った湖面に浮かぶ月のようだった。 その冷たい声音
修が何も言わないのを見て、光莉は再び口を開いた。 「修......前にも言ったけど、何か悩みがあるなら、ちゃんと話してくれない?」 「......もういい、休みたい。出ていってくれ」 今は、何も話す気になれなかった。 光莉は不安そうに彼を見つめた。 彼が何か愚かなことをしないか―それが心配で、ここを離れるのが怖かった。 「......修」 彼女は迷った末に、静かに言った。 「もし、若子に連絡を取りたいなら......私が手を貸してもいいよ」 その言葉に、修はわずかに眉を動かした。 彼女の真意は分かっていた。 本当は、彼と若子を引き離したかったはずだ。 なのに、なぜ今になって協力すると言い出す? 「......母さん」 修は口元を歪め、皮肉げに笑った。 「ついさっきまで、俺たちを会わせないようにしていたのに、今さら方針転換か?俺が死にそうだから、焦ってるんじゃないのか?」 光莉は胸が締めつけられるような気持ちになった。 「......そんなこと言わないで。ねぇ、修。ちゃんと話そう?」 「話すことなんてない」 修は冷たく言い放つ。 光莉は、どう言葉を続ければいいのか分からなかった。 沈黙の末、彼女はようやく絞り出すように言った。 「......どうすれば、あんたは生きようと思えるの?何か望むことがあるなら、私は何でもする。だから、お願い―」 「......なら、出ていけ」 修は、静かに言った。 光莉は眉をひそめる。 「......修、そんなこと言わないで」 「お前は『何でもする』って言ったんだろ?」 修は、かすかに笑う。 「それすらできないくせに、偉そうなことを言うな」 彼の瞳には、冷たい嘲笑の色が宿っていた。 光莉は、何も言えなくなった。 彼の表情を見ていると、胸の奥にどうしようもない罪悪感が込み上げてくる。 「......ゆっくり休んで」 それだけ言い残し、彼女は病室を後にした。 廊下に出ると、曜がそこに立っていた。 「どうだった?」 彼が尋ねると、光莉は疲れたようにため息をついた。 「相変わらずよ。私の言うことなんて、聞いてもくれない」 「何を考えてるのかも、全然分からない......どうすればいいの?」
修の言葉は、いちいち棘だらけだった。 「今さら父子の絆でも演じるつもりか?せめて静かにさせてくれないか?わざわざ『いい父親』のフリをするのって、そんなに楽しい?」 曜は顔をしかめた。 「修、そんな言い方はやめてくれないか?」 「じゃあ、どう言えばいい?お前の言葉に素直に頷いて、『そうですね』って言ってほしいわけ?」 「......修、ただお前に立ち直ってほしいんだ」 「立ち直るとかどうとか、そんなの俺の勝手だろ。まずはお前自身の問題を片付けてから、俺に説教しろよ。母さんとの関係すらまともにできてないくせに」 「......っ!」 曜の表情が歪む。怒りと、居心地の悪さが入り混じっていた。 ―こいつは、俺の一番痛いところを突いてくる。 この話題を持ち出されると、曜は何も言い返せなかった。 自分の人生すら満足に整理できていないのに、息子をどう導けるというのか。 全ては、自分のせいだった。 幼い頃にもっと愛情を注いでやれれば、もっとそばにいてやれれば、こんなにも父子の関係が冷え切ることはなかったのかもしれない。 今さら何を言っても、修が耳を傾けることはないだろう。 「......わかった。もう説教はしない。ただ、お前は病気だ。身体だけじゃない。心もだ。俺は、最高の精神科医を手配するつもりだ。診察を受けろ」 「帰らせろ」 修は横を向き、冷たく言い放つ。 「修、お前の今の状態は―」 「お前がそう思うなら、それはお前の勝手だ。でもな、精神科に通うべきなのは、お前自身だろ?もういい年なのに、欲しいものを手に入れられなくて、過去にしがみついて、母さんに執着して......病気なのは、お前のほうだ」 自分たちの心の病すら理解していないくせに、他人には偉そうに診察を受けろと言う。母さんはもう父さんを愛していない。そんなこと、誰が見ても明らかだった。曜はまるで何かに突き動かされたように、拳を強く握りしめた。 「......俺は、お前みたいに何度も死のうとはしない。修、お前は病んでるんだ。それを認めろ。お前には治療が必要だ。お前が嫌がろうが、俺は精神科医を呼ぶ」このままでは、修は本当に命を落としかねない。 「どうやって治療する?俺が拒否したら、精神病院にでもぶち込むつもりか?」 修
修の胸が締めつけられるように痛んだ。 「......くそったれの泥棒め。盗むなら盗むだけにしとけ。なんで余計なことまで首を突っ込むんだ......」 ―ドンドンッ! 病室のドアが激しくノックされた。 修は眉をひそめ、苛立った表情を浮かべる。 ―ドンドンッ! 再び鳴り響くノックの音。 修は毛布を頭まで引っ張り、完全に無視を決め込んだ。 しかし、外にいる相手は待ちきれなかったのか、勢いよくドアを押し開けた。 その瞬間― 修は枕元のスタンドを掴み、それを力任せに投げつける。 まるで獣が吠えるような怒声が響いた。 「出ていけ!」 ―ガシャーンッ! 「きゃあっ!」 悲鳴とともに、鈍い衝撃音が病室に響いた。 修はふと我に返る。 倒れ込んだ女性の顔を見た瞬間、息が詰まった。 「......山田さん?」 床に倒れ込んだ侑子の額から、鮮血が流れ落ちていた。 修は反射的に体を起こそうとするが、突然襲ってきた激しい胃痛に耐えきれず、そのまま床に崩れ落ちた。 「藤沢さん!」 侑子は痛みをこらえながら、ふらつく体で立ち上がり、修のもとへ駆け寄る。 必死に彼を抱き起こし、苦しそうな彼の顔を覗き込んだ。 「大丈夫?」 修は彼女の額から流れる血を見て、顔をしかめた。 「......なんでお前がここに?」 険しい表情で問いかけると、侑子は一瞬、怯えたように身を引いた。 「......あ、あの......藤沢さんの様子が気になって......」 修は苛立ったように彼女の手を振り払い、自力で起き上がると、ベッドへ戻る。 「誰が呼んだ?」 侑子がここに来たことを知っているのは、病院の関係者か......もしくは。 侑子は観念したように口を開く。 「......お母様から。藤沢さんが大変だって、病院にいるから様子を見てほしいって。それより、藤沢さん、本当に大丈夫なの?」 侑子は心配そうに彼を見つめ、額の傷のことも気にしていない様子だった。 修は、さっきの自分の行動を思い出し、微かに後悔の色を浮かべる。 「......どうして声をかけなかった?」 「すみません。確かに、声をかければよかった......でも、ノックしても返事がなかったから、もしかして何かあったの
おおよそ四十分後、病室のドアがノックされた。 まるで修がまた怒るのを恐れているかのように、ドアがノックされた瞬間、外から侑子の声が聞こえる。 「藤沢さん、私よ」 修が答える。 「入ってこい」 彼の許可を得て、侑子はそっとドアを開け、慎重に閉めた。 彼女の頭の傷はすでに処置されていて、その顔色は少し青白く、弱々しく可哀想に見える。彼女は男を惹きつけるようなタイプだが、目の前にいるこの男の心は、すでに別の女に占められている。侑子は遅すぎた。 彼女は不安げに修のベッドの横に立ち、手を握り合わせ、どうしていいのか分からずにいる。 修がちらりと彼女の額の傷を見て言った。 「医者はなんて言ってた?縫ったのか?」 侑子は首を振る。 「縫ってはないって。医者は大したことないって言ってた」 修はほっと息をついた。 「それならよかった。何か話したいことがあるなら、言っていいぞ」 侑子はそこに立っているが、どうも落ち着かない様子で、言いたいことがあるように見えるが、なかなか口を開けない。ただ、頭を垂れて黙っているしかなかった。 修が眉をひそめた。 「どうした?」 「あの......私......」 侑子が言葉を詰まらせている様子に、修は少し苛立ちを覚えた。 「なんだ、結局何を言いたいんだ?言わないなら、もう帰れ」 侑子はその言葉に驚き、唇を噛んで、涙がこぼれ落ちた。 彼女が泣き出したのを見て、修はさらに苛立ちを感じた。 「頼むから泣かないでくれよ」 自分が少し質問するたびに泣き出す彼女に、何とも言えない気持ちが湧く。まるで自分が何か悪いことをしたみたいだ。 なんでみんなこんなに大げさなんだろう。 考えれば考えるほど、やっぱり若子が一番だ。誰も彼女に勝るものはない。 たとえ、彼女が自分に死んでほしいと思っていても。 修は再び若子を思い出し、その視線がどこかぼんやりとしてきた。 侑子は涙を拭い、震える声で言った。 「言ったら怒らないでね」 修はさらに眉をひそめた。彼女の様子が本当に煩わしかった。 「怒ると思うなら、言わなくていい。さっさと帰れ」 侑子は一瞬呆然として立ち尽くした。修は前と違うように見える。 怒りやすくなったように思える。 結局、彼女は言うのを
「私......私が言っていることは分かっている、藤沢さん、私は......」 「黙れ」 修は彼女の言葉を遮るように冷たく言った。 「前にも言っただろう、俺の心にあるのは一人の女だけだ。名前は松本若子。お前には絶対に無理だ」 修の言葉は一言一言が決然としており、彼女に一切の希望を与えることはなかった。侑子がまだ何も言っていないのに、修はまるで彼女が今思っていることを見透かしているかのように感じた。 侑子は目を見開き、顔色が急に青ざめた。 心の中で渦巻く感情は、まるで猛々しい波のように彼女の脆弱で無力な心を砕いていった。 修の言葉は一つ一つが鋭く刺さり、心臓を深く突き刺すように感じ、血が絶え間なく流れ出すようだった。 侑子は泣きもしなかった。何の感情も表さず、ただ修を無表情に見つめている。まるで魂が抜け落ちたかのように。 長い沈黙の後、彼女はようやく自分の感情を落ち着け、内に渦巻く悲痛な叫びを押し殺すように言った。 「藤沢さん、私の話を最後まで聞いてから、批判してもらえる?」 彼女はずっと修を「藤沢さん」と呼び続けている。彼女は修が好きだと認めている。彼の側にいたいと思っている。しかし、彼女は一線を越えることはできなかった。 彼女は修を「修」と親しく呼びたいとも思ったが、どうしても言えなかった。 侑子の言葉は穏やかだったが、その中には隠れた絶望が感じられた。 修は彼女の反応が少し大きすぎたことに気づいたようだが、侑子が言ったことは彼にとって許せないことだった。彼女の言葉は、彼にとっては越えた一線に思えた。 旅行に行こうと言われ、彼女と感情を育んでいこうという提案に、修は気分が悪くなった。 修は冷たく言った。 「お前はもう俺と一緒にアメリカに行くんだろう?それ以上、何を話すことがある?」 「私がアメリカに行くのは、私のためじゃない、藤沢さんのためよ」 侑子は歯を食いしばり、怒りをにじませて言う。彼女は元々おおらかな性格だが、今は抑えきれなくなっていた。 「俺のため?」修は鼻で笑った。「本当にそう思っているのか?」 「そうよ」侑子は悲痛な表情で言った。「藤沢さんは前妻のために命をかけるほどの気持ちを持っている。藤沢さん、あんたが本当は死にたいんだって、私は分かっている」 修の顔色はます
侑子は歯を食いしばって言った。「私がどれだけ堕落しても、少なくとも死にはしない。これが堕落なんかじゃない、ただ、私は藤沢さんをあまりにも大切に思いすぎているだけ。人を救いたいと思うことが、どうして堕落だって言えるの?」「その通りだな」修は皮肉な笑みを浮かべて言った。「言い間違えたかもしれないな、お前のは堕落じゃない。お前はただ、貞操を落としてるだけだ」その言葉に、侑子は雷に打たれたような衝撃を受けた。「……何を言ってるの?」彼女は修がこんなに酷い言葉を言うなんて思ってもいなかった。「俺が間違ってるか?」修は一言一言が鋭い刃のように突き刺さるように言った。「愛されもしない男のために、泣き叫んで死にたいだなんて、しかもその男に殴られて罵られることを望むなんて。お前は一体何を勘違いしてるんだ?お前が俺を救うだなんて、冗談じゃない。お前にそんな資格はない。お前は救世主じゃない、ただの自己満足だろう」彼は意図的に侑子を侮辱して、彼女に目を覚ませと叫んだ。彼女が費やした時間は、ただ苦しむだけで、希望も結果も得られないことを彼女に分からせたかった。修は、彼女に一切の期待を抱くつもりはなかった。侑子は堪えきれずに涙が溢れ出した。「あんたが言う通りよ……私はただの貞操のない女よ!私は……」そのとき、突然胸の奥から激しい感情が湧き上がり、息ができなくなり、胸を押さえながら息を荒げて、大きく呼吸しようとしたが、体が徐々に地面に崩れ落ちていった。修は顔色を変え、痛みを堪えながら床から立ち上がり、彼女を支えて立ち上がらせると、すぐに振り返って叫んだ。「誰か!」数時間後、侑子はゆっくりと目を開けた。修は病院のベッドに横たわりながら、病人の服を着て、点滴を受けているのが見えた。侑子は涙に濡れた目を瞬きながら言った。「藤沢さん、大丈夫?」修は疲れた表情を見せながら答えた。「俺は大丈夫だ」侑子はベッドから起き上がり、背もたれに寄りかかりながら周りを見回した。「私は生きているわ、元気よ」修は侑子の顔色を見てため息をついた。「すまない、さっきは言い過ぎた」あのときの自分の言葉があまりにもひどかったことに気づいた。侑子は感情を抑えきれず、心臓の発作を起こして、命の危機に瀕していた。修は本来、この女に自分
「藤沢さん、まずは最後まで話を聞いてくれない?」 侑子は、また怒って立ち去られたら困ると思った。そうなれば、伝えたいことも言えないまま、もう二度と会えなくなるかもしれない。 修は怒りを飲み込み、できるだけ冷静な声を保つ。目の奥には抑えきれない感情が渦巻いていた。 「......話せよ」 「藤沢さんは、まだ前妻のことを愛してるね。たとえ彼女が別の人と結婚したとしても」 その言葉を聞いた瞬間、藤沢の目がさらに暗くなるのがはっきりとわかった。 侑子は続ける。 「そんなに苦しむくらいなら、いっそアメリカに行って、彼女に会ってみたら?」 「俺は......」 「会いたくないなんて言わないで」侑子は言葉を遮った。「もし本当にそうなら、この前、桜井ノラという男に彼女の住所を聞いたりしなかったでしょ?あの時のあんたは嘘をつけるような状態じゃなかった。自分にだって嘘はつけないはず。会いたいんでしょ?誰よりも、彼女に会いたいんでしょ?もう、自分を誤魔化さないでよ」 修は何も言わず、ただ沈黙する。 侑子はさらに言葉を重ねた。 「会いたいなら、どうして会いに行かないの?ここで一人で苦しむくらいなら、彼女に会ってちゃんと話してきなよ。何も言えないまま抱え込んで、一人で痛みを噛み締めるくらいなら―」 「俺と彼女に、今さら話すことなんてあるか?」 「何もないなら、どうして住所を知ろうとしたの?」侑子は問い詰める。「今なら、まだ間に合うよ。会いに行けば、ちゃんと向き合えるかもしれない。心の中のしこりを解くことができるかもしれない。だって、未来に何が起こるかなんて、誰にもわからないでしょ?」 「......誰にもわからない?」修は冷たく笑った。「じゃあ、もし悪いことが起こったら、どうする?」 「どうするって?」侑子は肩をすくめた。「何が起こったって、今より悪くなることなんてないでしょ?だって、今のあんたより苦しい未来なんて、そうそうないと思うよ?」 「......」 「会いに行きたいんでしょ?でも、踏ん切りがつかないんでしょ?だったら、私が一緒に行ってあげる。ちょうどアメリカに行ってみたかったし、あんたも彼女に会える。一石二鳥じゃない?」 「なんでお前がついてくる必要がある?」 「だって......心配だから」侑子は言葉
若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った
若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ
若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か
修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声