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第899話

Author: 夜月 アヤメ
修の手が、優しく侑子の髪を撫でた。

ふと、頭の中に懐かしい光景がよぎる。

―何度も迎えた朝。

若子が、こうして恥ずかしそうに彼の胸に顔をうずめていた朝。

彼は彼女の頬を撫で、長い髪に指を通し、そしてそっと唇を重ねた。

今、彼の腕の中には侑子がいる。

まるで子猫のように身を寄せ、甘えるように身体を預けている。

彼女は小さく微笑み、細い指で彼の胸にそっと触れた。

そして、顔を上げ、静かに問いかける。

「......修、平気?」

修は小さく首を振った。

嘘はつけなかった。

ただ彼女を安心させるために「大丈夫」だなんて言うことは、できなかった。

侑子は切なそうに、彼の傷にそっと手を伸ばす。

「......まだ痛む?」

修は静かに首を振る。

「もう痛くない。心配するな」

侑子は少し躊躇いながらも、そっと言葉を続けた。

「......修、国に帰ろう?」

もう、ここにいる意味なんてない。

これ以上、この場所に留まれば、修の心はますます壊れてしまう。

だから、彼を遠ざけたかった。

彼を苦しめるものから―できるだけ遠くに。

「でも、お前......旅行を楽しみにしてたんじゃないのか?せっかく来たのに」

「いいの。他の場所に行けばいいだけだから、二人で」

つい、口をついて出た「二人」という言葉。

言った瞬間、後悔した。

―二人?

そんなふうに言える立場じゃないのに。

修がここに来た理由は、前妻のためだった。

自分のためではない。

きっと、他の場所に旅行に行くなんて話も、彼にはどうでもいいことだろう。

だが、修はしばらく黙ったあと、意外にもこう言った。

「......もう少しここにいよう。せっかく来たんだし、少しくらい遊べよ」

侑子の胸が、一瞬だけ高鳴る。

でも、すぐに不安がよぎる。

「でも......ここにいたら、また彼女と―」

「心配するな」

修は、彼女の考えを見抜いたように言った。

「もう、彼女には会わない。これからの時間は、お前と過ごす。遊び終わったら、一緒に帰ろう」

侑子は驚きつつも、小さく頷くと、幸せそうに修の胸に顔を埋めた。

腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。

こんなに近くにいる。

同じベッドで、同じ温もりを
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Comments (1)
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シマエナガlove
侑子の愛情で修が変わって 本気で侑子求めて欲しいわ 若子みたいなのは 一緒にいても意味ない 修だけを毎回傷つけて 感傷に浸ってるバカ女だし 若子と西也 西也母(修母)最後に狂って死ぬくらい後悔すれば
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