ログイン「あなた!しっかりして!」紗智子は泣き崩れそうになりながら夫の体を揺らした。「七海、何とかできないの?」「お母さん、家にハンマーはある?」「ある、そこの棚の中よ!」七海はすぐに棚からハンマーを取り出し、力任せに玄関のドアを叩き始めた。だが何度振り下ろしても、ドアはびくともしない。「七海……お父さんがもう……!」紗智子は嗚咽を漏らしながら叫んだ。「お父さんが死んだら、私だって生きていけない!」「誰かいませんか!お願いです!ドアを開けてください!」廊下には避難する人々が次々と駆け抜けていく。けれど、誰一人として立ち止まり、この部屋の扉を開けようとはしなかった。絶望しかけた、その時だった。ドアの向こうから聞き覚えのある声が響く。「七海、中にいるのか?」祐希だった。「七海さん!ご両親は無事ですか?」続いて俊平の声も聞こえる。「七海、慌てるな!今すぐ助ける!」二人が同時に駆けつけてくれた。七海は胸が熱くなり、必死に叫ぶ。「私はここです!お願い、早く開けて!父がもう限界なんです!」ドンッ――!激しい衝撃とともに玄関が破られた。真っ先に飛び込んできたのは祐希だった。「お義父さん、お義母さん、もう大丈夫です!今助けます!」炎はさらに勢いを増し、廊下まで熱気が押し寄せている。祐希は康二を背負うと、そのまま階段へ向かって駆け出した。俊平も紗智子を背負い、数歩進んだところで振り返る。「七海さんも早く!」「はい!」七海もふらつきながら二人のあとを追う。避難する住人で階段は大混雑だった。酒がまだ残っていた七海は足元がおぼつかず、人にぶつかられた拍子にバランスを崩す。「きゃっ――!」そのまま階段を転げ落ちた。最後の一段まで転がり落ちると、頭を手すりへ激しく打ちつける。次の瞬間、意識は闇に沈んだ。……目を覚ますと、誰かが話している声が耳に入ってきた。「紗智子さん、安心してください。七海さんに命の別状はありません」俊平の声だった。「それと、犯人の夏目麻衣ですが、警察に逮捕されました。放火のうえ、多くの住民に迷惑をかけ、負傷者まで出しています。実刑は免れないでしょう。仮に出所できたとしても、もう紗智子さんたちに危害を加えることはできません」「そうだったの……
「私は……理想の物件が見つかったから、ちょっと浮かれて……」「僕も同じ気持ちですよ」「じゃあ、お礼にご飯をご馳走します。一日付き合ってもらったので」二人は近くの小さな居酒屋へ入り、食事をしながら酒を酌み交わした。その夜の七海は久しぶりに心から気分が高揚していた。飲み過ぎたせいで酔いが回り、すっかり上機嫌になってしまう。俊平が止めようとしてもまったく聞かず、最後は彼が七海を家まで送り届けることになった。だが俊平は気づいていなかった。この日はずっと、自分たちのあとをつけている者がいたことを。一人は祐希。そして、もう一人は――女性だった。祐希は一日中、七海のあとを追っていた。彼女がずっと俊平と一緒に過ごしている姿を見て、胸の奥に激しい苛立ちが込み上げる。だがそれ以上に、不安も募っていた。南川市へ来ていたはずの麻衣がどこにも見当たらないのだ。何度電話をかけても繋がらず、彼女が何を企んでいるのかも分からない。七海の身に何かあってはならない。そう思った祐希はホテルにも泊まらず、七海の実家のマンション前で一晩中見張ることにした。――その頃。七海がうとうとと眠っていると、スマホに知らないアドレスからメールが届いた。送り主は千鶴だった。連絡先がブロックされ、別のアカウントを使ってメールを送ったのだ。【七海。麻衣があなたを追って南川市へ向かった。様子がおかしかった。七海のせいで全てを失ったって言って、必ず復讐するって言ってたから、相当精神が不安定かもしれない。どうか気をつけて。今まで、祐希さんと麻衣のことをずっと黙っていて、本当にごめんなさい。私も反省をしてる。いつか仲直りしてくれたら嬉しい。ここ最近、いろいろ考えたの。親友のあなたと喧嘩別れなんてしたくなかったのに、どうしてこんなことになってしまったんだろうって。そしたら、やっと目が覚めた気がするの。何がともあれ、七海が傷つく姿がもう見たくない。だから、ちゃんと自分を守ってね】通知音は聞こえたが、七海は酔いが深く、スマホを手に取る気力すらない。そのまま再び深い眠りへ落ちていった。深夜。ふと、何かが焦げる臭いが鼻をついた。次の瞬間、廊下に火災警報器が鳴り響く。「火事だ!逃げろ!」誰かの叫び声が聞こえた。「七海!火事よ!早く出てきな
車内では、俊平も七海も、しばらく口を開かなかった。静まり返った車内には、どこか気まずい空気が流れている。やがて、その沈黙を破ったのは俊平だった。「七海さんは、南川市に戻ってから何かご予定は?」「これまで少しずつ貯めてきたお金があるので、この街で工房を開こうと思っています」「そうですか。実は、七海さんが以前手掛けた作品を拝見したことがあります。とても素晴らしかった。うちの会社の雰囲気にもぴったりです。本当に、陶芸デザイナーとしてうちで働く気はありませんか?あなたなら、この業界でもすぐ頭角を現せると思いますが」「お気持ちは本当に嬉しいです。でも……今は両親のそばにいたいんです。このまま南川市で暮らすつもりなので」「そうですか、分かりました」それ以上、俊平は勧めなかった。そのまま車を七海の実家まで走らせる。マンションの前では、すでに紗智子が待っていた。七海と俊平が並んで車から降りる姿を見ると、驚いたように目を丸くする。「七海、俊平くんと知り合いだったの?」「えっ、お母さんも清水さんのことを?」「もちろんよ。俊平くんはお父さんと一緒によくうちへ遊びに来てくれてた。あなたよりずっと顔を合わせてるくらいよ。あなたなんて結婚してから、帰省なんて数えるほどだったでしょう?」そこまで言って、紗智子は「あら、いけない、また喋り過ぎてしまった」と苦笑した。「さあ、早く行きましょう。お父さんと靖彦さんが、お店で待ってくれてるでしょう?」七海は思わず俊平を見つめた。まさか彼が、両親とここまで親しい間柄だったなんて。そんなことは、今まで一度も聞いたことがなかった。……店に着くと、皆はお昼を食べながら世間話をし、にぎやかな時間を過ごした。そんな中、不意に靖彦が口を開く。「七海さん、うちの俊平はどうだい?もし嫌じゃなければ、一度付き合ってみるっていうのもありじゃないか?」「ごほっ、ごほっ……!」ちょうど水を飲んでいた七海は、危うくむせ返るところだった。慌てて口元を押さえながら頭を下げる。「すみません、靖彦さん。私、離婚したばかりなので……今すぐ彼氏を作る予定はなくて……」そう答えながらも、熱い視線が自分に真っすぐ注がれているのを感じる。見なくても分かった。俊平の視線だ。気まずさのあまり、七海は顔を上
「覚えていてくれて、光栄です」俊平が穏やかに微笑む。「おや?二人は知り合いだったのか」俊平の父、清水靖彦(しみず やすひこ)は服についた埃を軽く払いながら言った。「今日はひと騒ぎあったし、これからみんなでお昼に行かないか?」「誘ってくれてありがとうございます。でも私は母を迎えに行かないといけないので……」七海が反射的に断ろうとすると、靖彦がすかさず口を開く。「それなら俊平に送ってもらえばいい。車で来てるからな」俊平も頷いた。「ええ。これから用もないので」その瞬間、七海は嫌な予感がした。――さっき「うちの息子を紹介したい」と言っていたのは、この老人だった。息子は背が高くて、容姿も良く、お金もあって、恋愛経験がない。まさに俊平のことではないか。とはいえ、これだけ大勢が見ている前で、しかも先ほど助けてもらったばかりだ。断るわけにもいかず、七海は小さく頷いた。「では、お言葉に甘えます」そう言って俊平について歩き出そうとした、そのときだった。「七海!」祐希が再び二人の前に立ちはだかる。「その人について行くな。あいつは信用できない!」七海は冷ややかな視線を向けた。「清水さんが信用できないなら、あなたは信用できるっていうの?」それだけ言うと、それ以上は相手にせず、路肩に停まっていた黒い車へ乗り込んだ。俊平の車が走り去ると、祐希は今度は康二のもとへ駆け寄る。「お義父さん――」「私はあなたのお義父さんなんかじゃない!」康二はぴしゃりと言い放った。「あなたみたいな婿を持った覚えもない!二度と私の前に現れるな。次に顔を見せたら、本気で叩き出すからな!」靖彦も祐希に構うことなく、康二に声をかける。「白井さん、先に店に行きましょうか」「ああ、行こう」二人の老人はそのまま立ち去っていく。祐希は見送ることしかできず、追いかける勇気すら湧かなかった。ふと、七海が最後に残した言葉が脳裏をよぎる。――私は麻衣を突き落としてなんかいない。祐希はすぐにスマホを取り出し、秘書へ電話をかけた。「例のショッピングモールで七海が本当に麻衣を突き落としたのかどうか、すぐに調べてくれ。あの店の防犯カメラ映像を入手して、俺に送れ」指示を終えた途端、祐希は力が抜けたように石のベンチへ座り込んだ。自分は、なんて愚かだ
どれほど殴られようと罵られようと、祐希は決して七海を放そうとはしなかった。腕の中へ強く抱き寄せたまま、涙をぽろぽろと零す。「もう二度と離さない。七海……愛してる。お前がいなきゃ俺は生きていけない。頼む、許してくれ。もう俺のそばからいなくならないでくれ」あまりに強く抱き締められ、七海は息が詰まりそうになり、必死に彼を押し返しながら叫んだ。「祐希、離して!本当に警察を呼ぶよ!」「みんな、何をぼさっとしてる!一緒にこの男を引き離すんだ!」康二の声に、公園にいた友人たちが一斉に駆け寄った。祐希の腕を引き、肩をつかみ、七海から引き剥がそうとする。だが、何人がかりでも彼の身体はびくともしない。その拍子に、一人の老人が押し倒されてしまった。「いてて……骨が折れるかと思ったわい!」「警察だ!早く警察を呼べ!」「傷害で訴えてやれ!」現場が騒然となる中、一人の長身の男性が足早に駆けつけた。「お父さん、大丈夫か?何があった?」「俊平、ちょうどいいところに来た!あの男から七海さんを助けてやってくれ」老人は人だかりを指差す。「あの子が元夫につきまとわれてるんだ。私たちが総出でも引き離せなくてな」俊平は眉をひそめ、父親の指差す先へ視線を向けた。その先に七海の姿を見つけた瞬間、胸の奥から怒りが一気に込み上げる。人混みをかき分けて七海たちに近づき、190センチ近い高身長の彼は、圧倒的な存在感を放った。「北原さん、七海さんを離してください。父がすでに通報しました。間もなく警察が来ます。このままでは、数日は留置場で過ごすことになりますよ」「……清水俊平?お前、どうしてここに?」祐希はようやくわずかに冷静さを取り戻した。もし警察に拘束されれば、その間は七海に会うことすらできない。「七海……ごめん。俺が取り乱してた」ようやく腕をほどく。彼女の瞳に映る嫌悪に気づくと、慌てて弁解する。「誤解しないでくれ……お前に拒絶されるのが怖かっただけなんだ」七海は一度だけ彼を見て、氷のように冷たい声で言った。「祐希、あなたって本当に最低。もう二度と私の前に現れないで。これ以上つきまとうなら、接近禁止命令を申し立てるから」その言葉に、祐希は一歩たりとも近づけなくなった。七海は口にしたことを必ず実行する。それを誰よ
「七海」祐希は数時間もかけて飛行機で移動し、さらに1時間車を走らせて、ようやくここへたどり着いた。一睡もせず駆けつけたのは、一刻も早く七海に会いたかったからだ。七海の実家へ向かう途中、ちょうど彼女が康二と一緒に家を出る姿を見かけ、そのまま後を追ってきた。たった数日会っていないだけなのに、胸が張り裂けそうなほど恋しかった。だが、目の前の七海は以前よりもずっと痩せている。メイクをしていても、血色の悪さは隠しきれなかった。自分が彼女にしてきた数々の仕打ちを思い返し、祐希は罪悪感に胸を締めつけられる。「……何をしに来たの?」七海は彼の姿を見た瞬間、表情を一変させた。ようやく取り戻しかけていた穏やかな気持ちが、一気に奈落へ突き落とされる。踵を返そうとすると、祐希が慌てて立ちはだかった。「待ってくれ。少しだけでいい。ちゃんと話をさせてほしい」「祐希、私たちはもう離婚したの。あなたとはもう赤の他人よ。話すことなんて何ひとつないから、そこをどいて。これ以上つきまとうなら、警察を呼ぶわ」突き放すような言葉に、祐希の胸が鋭く痛んだ。「そんなふうに言わないでくれ……七海、俺たちはあんなに愛し合ってたじゃないか」「愛し合ってた?」七海は乾いた笑みを浮かべた。だが、その目には涙が滲んでいる。「だったら、どうして何度も私を傷つけたの?どうして麻衣の恨みを晴らすために、私のお腹の子まで奪おうとしたの?」「それなら俺だって聞きたい。どうして黙って子どもを堕ろした?あの子は俺たちの子なんだぞ。どうしてそんなことができた!」「どうしてって、あなたにそんなことを聞く資格がないわ」七海は静かに言い返した。「私が手術を受けなくても、あの子は結局あなたに命を奪われていた。結果は同じでしょう?それとも、自分の手であの子を始末できなかったことが心残りなの?」返す言葉を失い、祐希は唇を噛む。「そんな意味じゃない……ただ、まさかお前が本当に――」「もういい」七海は遮るように言った。「あなたとは、もう話すことなんてない」そのまま彼の脇をすり抜けて歩き出す。しかし祐希はなおも諦めず、後を追った。「七海!ごめん、俺が悪かった。今日は喧嘩をしに来たわけじゃない。俺はお前とやり直したいんだ。麻衣とはもう別れた。金を渡して家から出ても