LOGIN私は寺本眞理子(てらもと まりこ)。7歳の息子、榊原良一(さかきばら りょういち)がいる。 夫の榊原淳矢(さかきばら じゅんや)は、その年になってようやく本性を現した。元恋人の中本有美(なかもと ゆみ)とその息子・津田竜太(つだ りゅうた)を連れ込み、私たちの生活を壊し始めた。 町内の噂になっていることも、もう気にしなかった。ただ耐えていればいいと思っていた。 だが良一が学校で竜太にいじめられたと知った時、私は決めた。もう黙ってはいない。「やり返しなさい」と、息子に言った。 その夜、一ヶ月ぶりに淳矢が帰ってきた。 笑いながら駆け寄った良一の頬に、父親の手が叩きつけられた。
View More有美の本性がようやく見えた。淳矢は、すげなく彼女の手を振り払うと、そのまま立ち去った。会社に押しかけてくるなら、それなりの手はある。榊原家の法務部は飾りじゃない。私は、もうどうでもよかった。あのふたりがどうなろうと。なのに翌日、淳矢が来た。昔、喧嘩のたびにそうしていたように、寺本家の玄関先で深く頭を下げる。「眞理子、すまなかった。許してくれ」私は静かに首を振った。「離婚しましょう。息子は私が引き取る。財産の分け方で折り合いが必要なら、話し合いには応じる」淳矢が立ち上がり、私の表情をじっと見つめた。「納得できない。有美とは、何もなかった。責めるなら、証拠を見せてくれ」思わず、笑いが漏れた。「証拠?一ヶ月も家に帰らない。息子の誕生日に、元恋人のところへ駆けつける。他人の子のために、自分の子を叩く。これで足りないなら、あと何が要るの!」私の言葉に、淳矢は苛立った声で言い返してきた。「そこまで不満なら、なぜ、そのときに言わなかった。なぜ俺が、いつも折れなきゃいけないんだ。この結婚、お前にも非はないとでも思ってるのか。そうやって意地を張って――俺は、お前の召使いか!」立ち上がりざま、淳矢が両肩を掴んだ。強く。答えを迫るみたいに。かっとなって、振りほどこうとしたそのとき、寝室から小さな影が飛び出した。「ママを離せよ!」淳矢の顔から、表情が消えた。目が、わずかに揺れる。それから、力なく両手を下ろした。息子は私の前に立ちはだかると、強張った声で玄関を指した。「ママにひどいことするなら、出ていって」淳矢は私を見た。それから、息子を見た。なぜ、こんなことに――そう言いたげな顔だった。それでも、これ以上怒らせたくなかったのだろう。何も言わずに背を向ける。数分後、良一が胸に飛び込んできた。まだ、かなしみが癒えたわけじゃない。わかっていたから、背中をゆっくり撫でながら、静かに言った。「大丈夫。少しずつで、いいんだよ」良一はうなずいて、そっと私の手を握った。この日を境に、淳矢は何かが吹っ切れたみたいだった。贈り物はもう送ってこない。そのかわり、頻繁に顔を出すようになった。息子と、過ごすために。良一の反応は冷たかったが、淳矢は何も言わなかった。送り迎えの時間には、誰より早く校門の前に立つように
淳矢が、息を切らしながら詰め寄ってくる。「聞こえていただろう。どうして逃げる」「逃げてない」私が短く返すと、淳矢は言葉に詰まり、苛立たしげに髪をかき上げた。「なぜ、離婚なんて言い出すんだ」「離婚したいから」淳矢はまた黙った。背後では、子どもたちがまだ騒いでいる。さっきのやりとりを思い出したのか、淳矢は気まずそうに良一を見た。「子どもは何でも言うからな。気にするな、良一。竜太はパパの子じゃないし、家に連れて帰るわけないだろ。信じてくれ」良一の表情は落ち着いていた。でも、私の手を握る手が、かすかに震えている。ずっと遠くの道路を見ていた視線を淳矢に向けると、静かに言った。「大丈夫。もう何回も言われてきたから。慣れてるよ」淳矢の顔から、表情が消えた。慌てて良一の肩を掴み、身をかがめる。「何度も?誰に?どうして教えてくれなかったんだ?」家にも帰らない人間に、どうやって教えろというのか。私は、笑いそうになるのをこらえた。そこへ、後ろの同級生たちに背中を押されるように、竜太がまた近づいてくる。「淳矢おじちゃん、いつ家に遊びに来てくれる?ママ、最近ケーキ覚えたんだよ」言いながら、私も良一もいないもののように、当たり前の顔で淳矢の腕に手をかけた。淳矢の不快感が、とうとう限界に達した。その手を外して、区切るように言う。「竜太。俺は、お前の母親とは何の関係もない。これからは、もう俺を訪ねてくるな」声は抑えていたが、相手は子どもだ。竜太の顔が、みるみる赤くなる。後ろの子どもたちが、それを見逃すはずがない。「やっぱり竜太、嘘ついてたんだ。図々しいな」「どうりで、ずっと自慢ばかりしてたわけだ。ないものほど見せたがるって、うちの母ちゃんが言ってた」「おい、声でかいって。竜太、こっち睨んでるぞ」竜太はもう我慢できず、車道へ飛び出したが、その瞬間、走ってきた車に巻き込まれた。悲鳴が上がり、有美が狂ったように駆け寄ってくる。竜太の名前を叫ぶ声が、通りに響き渡った。この女は好きじゃない。でも、この瞬間だけは――母親として、胸が痛んだ。私は良一の目を手で覆い、振り返らずに歩き出した。淳矢が、焦ったようにこちらを一瞥した。それでも人垣のなかへ戻り、救助に加わる。何も感じなかった、と言えば嘘になる。
寺本家は、ずっと前から自分に不信感を抱いていたらしい。門前払いを食らって、淳矢はようやく事の重さを思い知った。焦っても仕方がない。重い足で自宅へ戻り、翌朝早く、自分の両親に頭を下げた。父親の榊原元太郎(さかきばら げんたろう)は意外そうな顔をした。「いったい、何があった」言葉を濁した息子に、母親の榊原美千枝(さかきばら みちえ)が核心を突いてくる。「また、あの有美って女に付け込まれたの?」淳矢は頭を抱え、慌てて否定した。「違う。ただ、少し……手を貸しただけだ」美千枝は信じなかったが、それでも息子を放ってはおけなかった。一線を越えた不倫でないのなら、話し合えば何とかなる――そう踏んだのだろう。それなりの菓子折りを用意し、三人で寺本家を訪ねた。けれど、何度やりとりを重ねても、寺本家の応対は丁寧なまま、一歩も引かない。淳矢の両親の顔色も、次第にこわばっていった。しびれを切らした淳矢は、両親を車へ送り出した。玄関先まで見送ったあと、歯を食いしばって屋敷へ戻る。「眞理子が出てこないなら、息子に会うくらい、構わないだろう」義父は、淳矢の苛立ちを察しても、怒らなかった。ただ、声に少しだけ皮肉が混じる。「良一が、いま学校だってこと、知らなかったのか」淳矢は言葉を失った。頬が熱くなる。何も言えず、そのまま学校へ向かった。何時に終わるのかもわからないまま、校門の外で待ち続けた。ようやく生徒たちがちらほらと出てきたのは、それから数時間後のことだ。見逃すまいと、出てくる子どもひとりひとりに目を凝らす。人波のずっと後ろに、見慣れた小さな姿を見つけた。良一が歩いていると、後ろから数人の子どもが駆け寄り、囲むようにして口々に言い始める。「なあ、良一のパパって、ほんとは竜太のパパなんだってな」「そうだそうだ。竜太が教室で、もうすぐ良一んちに引っ越すんだって自慢してたぞ」「じゃあ、竜太のママと良一のママ、一緒に住むの。どっちがほんとの奥さんなんだ」子どもは、残酷なくらい率直だ。良一は、どの問いにも表情を変えなかった。黙って聞いていて、全員が言いたいことを言い終わるのを待つ。それから、あっさりと頷いて、投げやりな口調で言った。「あってるよ。あれ、竜太のパパだもん」そう言って、笑った。淳矢は、ぞっ
言い終えたあと、病室は静まり返った。線を引くために、淳矢は自分の醜さまで晒した。それでも構わなかった。これで終わりにできるなら。有美は、縮み上がるような痛みに顔を歪めていた。つい数日前まで、玉の輿を夢見ていたのだ。その夢が、たった数分で音を立てて崩れた。ベッドを叩き、声を上げて泣き叫ぶ女を、淳矢はただ見下ろしていた。なぜ、こうもよく泣くのか。彼には、わからなかった。この一年、有美は何度も泣いた。すすり泣くこともあれば、声を殺して涙を流すこともあった。今度はただ、わめいている。ふと、思った。――眞理子は、泣いたことがあったか。どう思い返しても、答えは出てこなかった。息子のことで一度だけ、声を詰まらせたのを除いて。あの誇り高い女は、夫の前で涙を見せたことがない。まるで人形だ、と淳矢は思った。いつか、この女みたいに、すべてを投げ出して泣いてくれればいいのに。そこで我に返った。腕時計を見る。これ以上、時間を潰している余裕はない。足を踏み出しかけて、思い出したように振り返った。「約束していた裁判は、片をつけておいた。元夫が、もうお前に付きまとうことはない」一拍、間を置いた。「もう、俺のところにも来ないでほしい。息子の顔に残った傷を見るたびに胸が痛む」背を向けた。後ろで有美が金切り声を上げようと、自分を傷つけようと、二度と振り返らなかった。病院を出ると、すっかり日が暮れていた。スマホを確認する。妻からの連絡は、ない。――まあ、そうだろうと思った。眞理子は、息子のことでなければまず連絡をよこさない。眉間を押さえてから、車を出した。家に着いても、明かりはついているのに、会いたかった姿はどこにもない。コートを脱ぎ、寝室を覗く。ドアを押し開けるが、眞理子はいない。眉をひそめて、今度は良一の部屋へ向かった。ノックを三度。返事がない。ドアに手をかけようとしたとき、背後から声がした。「旦那さま」家政婦だった。巻き込まれるのを恐れるように書類を差し出し、早口で言う。「奥さまは、良一さまを連れてご実家へ戻られました。こちらを、お渡しするようにと」書類を受け取った淳矢を置いて、家政婦は足早に去っていった。その場に立ち尽くしたまま、紙面の大きな文字を凝視する。――離婚協議書。ふざけるな。なぜ、突然。病