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エレナ視点
高価な葉巻と、明らかに私のものではない花の香水の匂いが、重い扉を押し開けた瞬間、私の鼻を突いた。 目の前に広がった光景を考えれば、凍りついたり叫び声を上げたりしなかったことのほうが不思議だった。 身体の中が奇妙なほど空っぽになったように感じた。まるで肺から空気をすべて吸い出されたかのように、耳の奥には冷たく響く静寂だけが残っていた。 ジュリアンはそこにいた。 先月、私たちの記念日のために私が選んだシルクのシーツの上に、だらしなく身体を預けていた。 けれど、彼は一人ではなかった。 金髪の若い女は、まったく動じる様子もなく、私を見ても毛布に手を伸ばそうとすらしなかった。 「ジュリアン」 そう呟いた。 自分でも驚くほど、私の声は平坦だった。冷たく、感情がなかった。 彼は飛び上がることもなければ、自分のしたことについて慌てて言い訳することもしなかった。 ただ肘をついて身体を起こし、裸の胸をさらしたまま、私を見つめていた。 かつては私の心臓を跳ねさせた冷たい灰色の瞳。 今では、ただ肌が粟立つだけだった。 「早かったな、エレナ」 彼は言った。 あまりにも退屈そうな声だった。 「今日は私たちの記念日よ」 私は思い出させるように言った。 手は固く握りしめられ、爪が手のひらに食い込んでいた。 「あなたが具合を悪くしたって、あなたの秘書から聞いたから、心配でガラを途中で抜けてきたのよ」 ジュリアンは短く、鋭く笑った。 そしてナイトテーブルに置かれていた腕時計を手に取り、まるで妻と愛人が同じベッドにいることについて話すのではなく、これから仕事の会議にでも向かうかのように、悠々と腕に巻いた。 「大げさにするな」 彼は言った。 「もう何度もこの話はしてきただろう。涙は君には似合わない。それに、泣いたところで何も変わらない」 「この半年で三回目よ、ジュリアン。しかも全部、この家で。このベッドで」 彼は立ち上がった。 背が高く、威圧的な姿で私へと歩いてくる。 そして、私からわずか数センチのところで足を止めた。 「ベッドはただの家具だ」 彼は言った。 それから背後の女を漠然と指差した。女は今や何事もなかったかのようにスマートフォンをスクロールしている。 「それに、これは?」 ジュリアンは肩をすくめた。 「ただの生理的欲求だ。俺は能力の高い男だ。君の『献身』だけじゃ満たされないこともある」 何かが、私の中でぷつりと切れた。 心が壊れた音ではなかった。 そんな痛みなら、もう何度も味わってきた。今では、その痛みにすら慣れてしまっていた。 「離婚したい」 私は囁いた。 ジュリアンはゆっくりと、見下すように唇を歪めた。 「君はそんなこと望んでない」 「父親の会社のことを考えろ。俺たちの婚姻契約に紐づいている株のこともな。離婚すれば、君はすべてを失う。社交界からも爪弾きにされるし、ブランド物のバッグ一つ買えない程度の銀行残高しか残らないぞ」 彼はさらに一歩近づき、私の髪を一房つまんで耳にかけた。 その指先は氷のように冷たく感じた。 「もっといい案がある」 彼は言った。 「もうふりをするのはやめよう。カメラの前では夫婦でいればいい。契約のためにもな。だが、私生活は別々にする」 彼は少し間を置いた。 「オープン・マリッジだ、エレナ。俺は好きなことをする。君は……君がしたいことをすればいい。絵でも描いて、買い物でもしていろ。俺は何も聞かない。何も気にしない」 「あなたが好き勝手に他の女と出ていくのを、私はただ見ていろっていうの?」 「大人になれ!」 彼は苛立ったように吐き捨てた。 「世界はおとぎ話じゃない。条件を受け入れろ。それが、今の生活を維持する唯一の方法だ」 彼は私に背を向け、まるで長居しすぎた使用人を追い払うかのように、私を無視した。 「さあ、出ていけ。俺たちはまだ終わってない」 私は部屋から後ずさった。 心臓が肋骨を激しく叩いていた。 けれど、客室には向かわなかった。 泣きもしなかった。 まっすぐ自分の書斎へ向かい、ドアに鍵をかけ、そのまま背を預けた。 家の静寂が重く、息苦しく感じられた。 五年間。 私は完璧な妻という役割を演じ続けてきた。 「残業」も、「出張」も許してきた。 それらが仕事とは無関係だと知っていたのに。 自分の尊厳を犠牲にしてまで、彼の評判を守ってきた。 ジュリアンは私が弱いと思っていた。 私の彼への愛が、永遠に私を閉じ込めておく檻になると思っていた。 彼はオープン・マリッジを望んだ? いいわ。 望みどおりにしてあげる。 私は机に座り、ノートパソコンを開いた。 指は震えていなかった。 弁護士を探したわけではない。 ――まだ。 離婚すれば自分が破滅するという点では、ジュリアンの言うことは正しかった。 だから、私は別の形の自由を手に入れる必要があった。 私は、クラブの女たちが密かに、そしてスキャンダラスな話題として囁いていたサイトのアドレスを入力した。 その名は――THE OBSIDIAN TIER。 出会い系サイトではない。 「コンパニオン」を求める人々のための、エリート向けエージェンシーだった。 私はプロフィールをスクロールした。 高画質の写真に映る男たちは、まるでギリシャ神話の神々のようだった。 説明欄には、徹底した秘密厳守と「完全な気配り」を約束する言葉が並んでいる。 ジュリアンは、自分だけが私の「生理的欲求」を満たせると思っている? 私を、彼が気が向いたときだけ手に取る、棚の上の磁器人形だと思っている? 私は一つのプロフィールをクリックした。 男の名前は、カイ。 黒髪。 世界中の秘密をすべて知っているかのような、病的なほど美しい瞳。 そして、無精ひげ。 値段は高かった。 ――とんでもなく高かった。 私は迷わなかった。 今夜の予約フォームに必要事項を入力する。 場所:セント・レジス・ホテル ペントハウス 時間:午後11時 備考:一晩だけ。何のしがらみもなし。 私はジュリアンが管理していない個人口座からデポジットを支払った。 画面に「予約確定」の文字が表示された瞬間、アドレナリンが身体を駆け巡った。 それは、さっき感じたどんな悲しみよりも鋭かった。 私は立ち上がり、ドレッシングルームへ向かった。 保守的なガラドレスを脱いだ。 ジュリアンが「品格がある」と気に入っていたドレスだった。 私はそれを床へ放り投げ、クローゼットの奥へ手を伸ばした。 そして、一度も着る勇気が持てなかった、ミッドナイトブルーのシルクのスリップドレスを取り出した。 メイクも正確に仕上げた。 濃いアイライン。 大胆な赤い唇。 鏡の中の自分を見つめる。 そこにいる女性が、私には分からなかった。 彼女は――自分でも驚くほどセクシーだった。 午後10時45分。 私は階下へ降りた。 ジュリアンはリビングルームにいた。 手にはスコッチのグラスを持ち、財務報告書を読んでいる。 彼は顔を上げ、私の服装を頭から足元まで眺めた。 ほんの一瞬、驚きがその目に浮かんだ。 けれど、すぐにいつもの傲慢な表情へ戻った。 「出かけるのか?」 彼が眉を上げた。 「あなたが自分で言ったんでしょう、ジュリアン」 私はクラッチバッグを手に取った。 「私たちは今、そういう取り決めになったのよ。私もオープン・マリッジの『オープン』な部分を試してみるわ」 ジュリアンは鼻で笑い、首を振った。 「エレナ、無理するなよ。君は反抗なんてするタイプじゃない。どうせ映画でも観に行って、真夜中までには帰ってくるんだろ」 「待たなくていいわ」 私はそう言った。 声は揺れていなかった。 そして玄関を出て、待っていた車に乗り込んだ。 冷たい夜の空気が、まるで生まれ変わったような感覚を与えてくれた。 セント・レジスに到着すると、コンシェルジュが私を直接ペントハウスへ案内した。 心臓は高鳴っていた。 けれど恐怖からではない。 期待からだった。 ジュリアンの裏切りの記憶を、この一晩で身体の中から焼き払ってやる。 私は4002号室のドアの前に立った。 深く息を吸い、キーカードをかざした。 ドアが開く。 スイートは薄暗く、床から天井まで続く窓から差し込む街の光だけが室内を照らしていた。 一人の男が窓辺に立っていた。 私に背を向けている。 背が高く、仕立ての良い黒いスーツを身にまとっている。 その服は、広い肩幅にぴったりと沿っていた。 ドアが閉まる音とともに、彼が振り返った。 間近で見るカイは、写真で見るよりもさらに目を奪われるほど魅力的だった。 とても「男娼」には見えない。 彼は笑わなかった。 ただ、私をじっと見つめていた。 その集中した眼差しに、私は息を呑んだ。 「スターリング夫人?」 低く滑らかなバリトンの声だった。 「エレナ」 私は訂正した。 彼は私へ歩み寄った。 その動きは流れるようで、自信に満ちていた。 私のパーソナルスペースのすぐ外側で足を止める。 彼の香りが室内を満たした。 サンダルウッドとシダー。 不思議な組み合わせだった。 けれど、彼にはそれがよく似合っていた。 「緊張しているな、エレナ」 彼が優しく言った。 「セラピーを受けに来たんじゃないわ」 私は平静を保とうとしながら言った。 「お金は払った。私は、自分が買ったものを求めているだけ。今夜は、この部屋の外にあるすべてを忘れたいの」 カイが手を伸ばした。 指先が私の顎の輪郭をなぞる。 その手は温かかった。 ジュリアンとは正反対だった。 彼は私の顎を持ち上げ、私にその暗い瞳を見つめさせた。 「これは何のためだ?」 彼が尋ねた。 「関係ある?」 「ない」 彼は囁いた。 親指が私の下唇を撫でる。 「だが、何かを始めるなら、君には覚悟をしてほしい」 彼はさらに低い声で続けた。 「始まったら、俺は一瞬たりとも他の誰かのことを考えさせない」 私は彼を見つめた。 夫のプライドを傷つけるための武器として、自分で雇った男。 ジュリアンの傲慢な顔。 私のベッドにいた金髪の女。 そして、「完璧な妻」であり続けた年月。 それらすべてが頭をよぎった。 何年ぶりだろう。 私は初めて、誰かに期待されたことではなく、自分自身のために何かをしようとしていた。 私は被害者ではない。 火をつけるマッチを握っているのは、私だった。 そして、古い人生が燃え落ちていくのを、この目で見届ける準備はできていた。 ジュリアンはオープン・マリッジを望んだんでしょう? なら、扉を開けたとき、その向こうから何が入ってくるのか、自分で決められないことを思い知ることになる。 「彼なんて存在しない」 私は言った。 カイの腕が私の腰を強く抱き寄せ、身体がぴったりと重なる。 「それならいい」 彼は囁いた。 「始めよう」エレナ視点弁護士事務所を出ると、午後の街は人々の喧騒で賑わっていた。重いガラス扉が背後でカチリと閉まる。私は深く息を吐いた。そこには、かすかな自由への希望が宿っていた。バッグの中の離婚届は、まるで命綱のようだった。まだ自分の人生を、自分自身で選べるのだと静かに告げている。やっと……自由になれる。そう思った。けれど、その言葉が頭の中に浮かんだ瞬間、夕暮れの影のように疑念が忍び寄ってきた。家族の失望した顔。母の固く閉ざされた唇。父から聞かされる、義務と家の伝統についての説教。両親はずっと、この結婚こそが完璧な政略だと言い続けてきた。でも、今の私にとって何より大切なのは、自分の心と、この子の安全だった。ジュリアンは怪物だ。彼が私を本当に愛したことなど、一度もなかった。家族の絆や仕事上の契約のために結婚生活を続けるふりをしていたら、私はさらに深い破滅へ引きずり込まれるだけだ。私は少し休む必要があった。すべての重圧に押し潰されてしまう前に、本当の繋がりを感じられる時間が欲しかった。私はスマートフォンを取り出し、ルーシーに電話をかけた。運が良かった。彼女はちょうど昼休み中で、喜んで会ってくれるという。「いつもの場所に来て」彼女は明るい声で言った。「私に任せて」レストランは居心地がよく、見慣れた場所だった。柔らかな照明に包まれ、出来立てのパスタとハーブの豊かな香りが漂っている。ルーシーはすでに私の好物を注文してくれていた。クリーミーなキノコのリゾットと、ガーリックブレッド。彼女はいつもの隅のテーブルに座っていたが、私の顔を見た瞬間、その明るい笑顔が曇った。「ちょっと、あんた……見るからにボロボロじゃん」私が向かいの席に腰を下ろすと、ルーシーは気の毒そうに言った。その目が心配そうに和らぎ、まるで私が隠している傷まで見透かそうとしているようだった。私は、どこから話せばいいのか分からなかった。言葉が喉につかえる。そして、次の瞬間には止めることもできず、涙が頬を伝っていた。嗚咽が身体を震わせる。こんな場所なのに。レストランの真ん中で、私は泣き崩れてしまった。ルーシーは一瞬で席を立った。そして私の隣のボックス席へ滑り込み、腕の中に私を抱き寄せた。彼女のいつもの香水――淡く花のような香りが、安心できる毛布のよう
エレナ視点目の前のコーヒーはすっかりぬるくなっていた。苦味を感じても、散らかった私の思考を整理してくれるわけではない。私は暗い液体を見つめながら、スプーンでぼんやりとかき混ぜていた。でも、何ひとつまともに感じられなかった。最近は、何を口にしても美味しくない。何をしても、何もかもが間違っているように思える。私は高級カフェの静かな一角に座り、他の客たちの小さな話し声を遠くに聞きながら、弁護士を待っていた。これしかない。この混乱の中から、私の子供を守るために残された唯一の方法。離婚を申し立てることは、単なる逃げ道じゃない。生き残るためだった。私の脳裏には、昨夜の出来事が何度も蘇っていた。ジュリアンがあの女と私たちのソファで一緒にいるところを目撃したとき、私は口論になると思っていた。涙も、怒鳴り合いも、そして……もしかしたら、それで終わることさえ。けれど、そうはならなかった。彼は私の後を追って二階へ上がってきた。顔には、いつもの無関心に苛立ちを混ぜたような表情を浮かべていた。「理解しろよ、エレナ」ジュリアンは、まるで仕事の契約について説明するような落ち着いた声で言った。「ソファであの女と一緒にいたのも、俺たちの取り決めの一部だ。俺はオープン・マリッジを望んでいると言った。そして君も同意しただろう? 俺たちが何年もかけて心が離れていった今さら、何を期待してる? 貞操を守った結婚生活か?」私は嫌悪感を露わに彼を見つめた。両手が身体の横で震えていた。「私たちの家で? ジュリアン、自分がどれだけ無神経なことをしてるか分かってるの? 数週間前には、私が留守の間にあの女を私たちのベッドに連れ込んで……今度はソファ? 動くものなら何でも抱くつもりなの? 私たちの誓いなんて、最初から何の意味もなかったみたいに!」けれど、彼は聞いていなかった。彼の目に、見慣れた獰猛な光が浮かぶ。そして私の抗議など無視するように、一歩ずつ距離を詰めてきた。「ほら、ベイビー。そんな態度を取るなよ。俺たちには、この自由が必要なんだ。君だって楽しんだだろ? 覚えてるよな?」私が身を引くより早く、彼は私を掴み、強引にキスをした。唇を乱暴に重ねられ、逃げ場を塞ぐようなキスだった。私は彼を押し返せなかった。少なくとも……これを何かの隠れ蓑にすることはできる。アレクサン
エレナ視点「ルーシー、今起きたことを聞いたら、きっと信じられないと思う」私はそう切り出しながら、病院の建物から急いで外へ出た。声は震えていて、スマートフォンを耳に強く押し当てている。背後で自動ドアが「シュッ」と静かに閉まり、午後の日差しが顔を照らした。まるで、私の世界が崩れ落ちそうになっていても、世の中は何事もなかったかのように回り続けるのだと突きつけられているようだった。駐車場に、私の車が見えた。さっき置いていった場所とまったく同じところにある。どうしてここに?アレクサンダーが誰かに運ばせたのか、それとも私が意識を失っている間に、彼自身が運転してきたのか。そう考えると、また混乱の波が押し寄せてきた。何もかもが仕組まれているように感じる。まるで私は、自分でも理解できないゲームの駒だった。「エレナ? ねえ、早く話して!」電話の向こうから、ルーシーの明るくせっかちな声が聞こえてきた。「さっき、世界が終わるみたいな勢いで電話を切ったじゃない。何があったの? あのソーンって男に会ったの? 噂どおり怖かった?」私はバッグを後部座席へ放り込み、運転席へ滑り込んで素早くドアをロックした。「彼にキスされたの、ルーシー。彼のオフィスで。私は彼を押し返して逃げた。でも、そのあと廊下で気を失ったの。彼が……私を病院へ連れていった。それで今度は、ジュリアンに契約を取らせたから私に借りがあるって言ってるの」電話の向こうで沈黙が落ちた。そして、ルーシーが大げさに息を呑んだ。「アレクサンダー・ソーンにキスされて、気絶したの? ちょっと、絶対ものすごくイケメンなんでしょ。あの鉄の女エレナ・ジュリアンを骨抜きにするくらいなら、パンツが落ちるほどのイケメンってことじゃない!」「違う! ルーシー、完全に勘違いしてる!」私は電話に向かって叫び、ハンドルを強く握りしめた。拳が白くなるほどだった。「そういうことじゃないの! キスのせいで気絶したんじゃない。私……妊娠してるの。分かった? それに、何もかもめちゃくちゃになってる。彼は何か知ってる。『君の秘密は俺が守る』って言ったの。でも、何を意味してるのか分からない。もう滅茶苦茶よ!」「落ち着いて、ちゃんと話して。全然ついていけないんだけど」ルーシーの声から、からかうような調子が消え、心配そうなものへ変わった。
エレナ視点目を開けると、真っ白な光線が頭蓋骨を突き抜けるように差し込んできた。鼻腔を刺激する鋭く消毒液のような匂いに、胃が締めつけられる。数秒間、混乱した頭は断片的な記憶を必死につなぎ合わせようとしていた。何が起きたの?廊下、キス、めまい……。そして、ようやく思い出した。私は病院にいる。身体を起こそうとしたが、頭の奥を鈍く脈打つ痛みが走り、枕へと押し戻された。部屋は広く、ほとんど高級ホテルのようだった。柔らかな照明、大きな窓から見える街の景色、そして普通の病棟には似つかわしくないほど高価そうな医療機器。VIP専用室。当然だ。ドアがカチリと開き、明るい笑顔の看護師が入ってきた。真っ白な制服はきちんと整えられ、その顔には温かな笑みが浮かんでいる。「おはようございます、ジュリアン夫人」彼女は明るい声で言った。「気分はいかがですか? 吐き気はありますか? まだめまいが残っていますか?」喉が乾いていた。「私に何が起きたんですか?」私は彼女の質問を無視して尋ねた。「どうして私はここにいるの?」看護師は私に近づき、肩をそっと押してベッドへ戻した。「まだ休んでいないといけませんよ。今はまだ動き回れるほど回復していませんから。先生の指示です」私は小さく抗議し、再び身体を起こそうとした。「お願い、教えて。私は……気を失った。でも――」再びドアが開いた。今度は白衣を着た中年の男性が、カルテを手に入ってきた。眼鏡の奥には穏やかな目があり、落ち着いた威厳を漂わせている。「ジュリアン夫人、私はハリントン医師です」彼は穏やかな声で言った。「どうか落ち着いてください。少し大変な状態でしたが、現在は安定しています」「落ち着いてなんていられません」私は思った以上に鋭い声を出してしまった。恐怖と混乱が私を支配していた。「夫はどこ? ジュリアンはここにいるの?」医師は一瞬私を見つめ、驚きの色を浮かべた。それから看護師と素早く目を合わせ、咳払いをした。「実は、あなたをここへ運んだのはご主人ではありません」慎重な口調だった。「アレクサンダー・ソーン氏です。あなたが彼のオフィスのロビーの外で意識を失ったあと、彼がすぐにここへ搬送しました。彼は……最高の治療を受けさせることに、かなり強くこだわっていました」アレクサンダー。カイ。その名
エレナ視点私はソーン・シッピング・インダストリーズの回転式ガラスドアを押し開けた。冷たい空調の風が吹きつけてきたが、胸の内で荒れ狂う嵐を静めるにはほとんど役に立たなかった。建物は鋼鉄と大理石で造られた巨大なモノリスのようにそびえ立ち、まるで権力そのものを誇示しているかのようだった。どの表面も静かな傲慢さを漂わせている。まさに、アレクサンダー・ソーンのような男が所有するにふさわしい場所だった。あるいは――かつて、無謀な夜の熱に浮かされながら私が囁いた名前で言えば、カイ。またジュリアンの声が頭の中に響いた。鋭く、執拗な声。「くれぐれも彼を怒らせるなよ、エレナ。これをまとめられれば、大宴会でも開こう。契約は俺たちのものになる」私はその朝、慎重に服を選んだ。身体の曲線を上品に包み込む、体にぴったりとしたエメラルドグリーンのドレス。自分が美しく見えることは分かっていた。長い黒髪は柔らかなウェーブを描いて流れ、メイクは控えめでありながら完璧に整えている。努力などしなくても人目を引く、と昔から何度も言われてきた。けれど今日の美しさは、鎧であると同時に弱点にも感じられた。私に必要なのは、たった一つ。カイを私から遠ざけること。ジュリアンのために契約を成立させ、静かに離婚を申請して、遠い場所へ姿を消す。そして、誰にも邪魔されずにこの子を育てる。私の血の中に誰の血が流れているのかなんて、誰も知る必要はない。私は大きく息を吐き、ようやく建物の中へ足を踏み入れた。顎を上げる。何年もの間、「完璧な妻」を演じることで身につけた優雅さを、今こそ鎧として纏った。受付へ向かう前に、背の高い、きちんとした服装の男が落ち着いた足取りで近づいてきた。「ジュリアン夫人ですか?」滑らかでプロフェッショナルな声だった。「私はカルヴィン。アレクサンダー・ソーン様の個人秘書です。お迎えするよう命じられております」背筋を冷たいものが這い上がった。私が来ることを、彼は知っていた。当然だ。恐怖が私を掴んだが、私は無理やり礼儀正しい笑みを浮かべた。「ありがとう、カルヴィン。案内して」私たちは無言のまま専用エレベーターに乗った。階数が上がるたび、心臓が肋骨を叩く。扉が開くと、カルヴィンは私を広い廊下へ案内した。壁には抽象画が並んでいる。おそらく、普通の人が住む家よ
エレナ視点私は車からよろめくように降りた。脚は嵐の中で震える木の葉のように震えていた。胸にきつく抱きしめたバッグが、この崩れかけた世界で私に残された唯一の盾のように感じられた。ヒールが不規則に私道を叩く。震える手で鍵を探しながら、私は家へ向かって駆け出した。鍵がカチリと開き、私はドアを勢いよく閉めた。その鋭い音が、誰もいない廊下に響き渡る。私は冷たい木の扉に背を預け、息を切らした。心臓が激しく鼓動し、肋骨を突き破ってしまいそうだった。「ジュリアンが一緒に帰ってこなくて、本当によかった……」その考えに一瞬だけ安堵した。けれど、その安堵はすぐに喉元へ込み上げてくる苦い感情に飲み込まれた。私は扉を背にずるずると床へ崩れ落ち、熱い涙を頬にこぼした。どうして、こんなことになってしまったの?たった一度の無謀な夜。たった一度の弱さ。それだけで、私の人生は今や破滅の瀬戸際に立たされている。「どうして……?」私は静まり返った家に囁いた。「どうして、あんなことを許してしまったの?」バッグの中でスマートフォンが震えた。その振動が、泣き声を切り裂くナイフのように感じられた。私は胃の奥に不安を抱えながら、恐る恐るスマートフォンを取り出した。また、あの知らない番号。カイ。画面に表示された通知が、嘲笑うように光っている。震える親指がメッセージの上で止まった。もし開かなかったら、彼はどうする?ジュリアンに接触する?その考えに、また新たな恐怖が押し寄せた。ただでさえ、ジュリアンは何かを疑っている。これ以上の騒ぎは起こせない。私は深く、震える息を吐き、画面をタップした。メッセージは短かった。たった三つの言葉。それだけで、血が凍るような感覚に襲われた。「また明日」喉の奥から、押し殺したような嗚咽が漏れた。スマートフォンが手から滑り落ちる。私は冷たい床の上で身体を丸め、激しく泣いた。身体全体が痛みと恐怖に震えている。涙が止まらない。息をすることさえ苦しい。秘密の重みが私を押し潰し、ほとんど身動きが取れないほどだった。どれほど時間が経ったのか分からない。一時間にも感じられた頃、息苦しいほどの熱が身体を包み込んだ。肌はべたつき、服まで窮屈に感じる。この悪夢を洗い流したかった。お湯に浸かれば、心の中で荒れ狂う嵐も少しは静