FAZER LOGIN車に乗り込む前、彼女はもう一度振り返って仁志を一瞥した。仁志は相変わらずその場に立ち尽くし、視線はずっと彼女へ注がれていた。車は病院を離れた。怜央は先ほどの出来事について何も尋ねなかった。星は窓の外を見つめていたが、頭の中ではずっと仁志のあの言葉がこだましていた。ホテルに戻った後、星がロビーへ足を踏み入れた途端、横からふいに声が聞こえてきた。「星野さん」星は立ち止まった。彼女が振り返ると、少し離れた場所に美咲が立っていた。美咲は星の前に歩み寄ると、静かに彼女の顔を見つめた。「少し話があるの」星が口を開く前に、怜央が一歩前へ進み出た。星は手を伸ばし、怜央の動きを軽く制した。「ホテルのカフェで話しましょう」カフェで、二人は向かい合って座った。星は高熱が下がったばかりだったため、コーヒーは頼まず、温かい飲み物を一杯注文した。店員が美咲のコーヒーと星の飲み物を運んでくると、美咲はようやく口を開いた。「仁志と私の契約は、もう白紙になったわ」彼女はカップを手に取って一口飲み、その苦味を噛み締めるように少しだけ目を伏せた。「彼が一度決めたことは、誰にも覆せないわ。私と彼の結婚の話は、もうこれ以上進むことはないでしょうね」星は尋ねた。「美咲さんが私に会いに来たのは、それを言うためなの?」美咲は彼女を見つめた。「驚かないのね……どうやら、仁志はすでにあなたに会いに行ったようね」美咲は自嘲気味な笑みを浮かべた。「あの時、私が仁志に内緒であなたに会いに行き、彼の婚約者だと名乗ったのは、確かに私なりのエゴがあったからよ。でもその思惑は、私が仁志に惚れていて、わざとあなたたちの仲を裂こうとした……なんていう感傷的な理由じゃないわ。恋愛感情なんて、私の生き方の中では、きっと一番最後に来るものだから」彼女は手にしていたコーヒーを置き、声を落とした。「私があの時あなたに会いに行ったのは、実は今日のような事態になるのを危惧していたからなのよ。まさか……結局こうなってしまうなんてね」そこまで言うと、美咲は顔を上げて星を見た。「星野さん、あなたはとても聡明な人だから、わざわざ私が説明しなくても、仁志があなたを結婚相手に選ばなかった理由くらい分かっているでしょう?」星は温かいカップを握りしめた。
星は言った。「まずはホテルに戻りましょう。少し疲れちゃった」一行が病院の正面玄関を出た途端、星の目の前に見覚えのある人影が現れた。仁志だった。仁志は玄関の外に立っていた。すらりとした長身で、朝の光の中の面差しはどこか冷ややかだった。彼の視線は人混みを越えて真っ直ぐに星へ注がれ、その後彼女の後ろにいる怜央を一瞥すると、すぐに視線を外した。星を見つけると、彼は歩み寄ってきた。「入院したと聞いた」星は立ち止まった。「ただ熱が出ただけよ。もう大丈夫」「昨日来ようと思ったんだが、急な用で手が離せなくてね」仁志の視線が彼女の顔に落ちた。「送っていくよ」星は言った。「ううん、いいわ。怜央たちが送ってくれるから」仁志は言った。「少し、君と話がしたいんだ」星は言った。「ここで話しましょう」仁志は彼女を見つめ、低い声で言った。「星、僕はもう美咲とは結婚しない」星はそれを聞いても軽く眉をひそめただけで、顔には微塵の喜びも浮かべなかった。「仁志、そんな衝動的なこと……」仁志は彼女の言葉を遮った。「衝動的じゃない。深く考えた上での結論だ」星は言った。「仁志、人生は消せば片づくパズルゲームじゃないのよ。足したり引いたりで帳消しにできるものじゃないわ」「君の言いたいことは分かってる」仁志は微かに笑った。「今日君にこれを伝えたのは、君に負担を感じさせたいからじゃない。僕がただ、自分の心に従って選択しただけだと伝えたかったんだ。損得はもちろん重要だ。でも多くの場合、利害を計算し尽くした上で下した選択は、かえって自分が本当に望むものから遠ざかってしまうものなんだ。もし最後に、打算の末に手に入れたものが、自分が本当に望んでいたものでなかったとしたら、たとえ手に入れたところで何の意味がある?」星は小声で言った。「仁志、自分の下した決断のせいで、多くのものを失うかもしれないって考えたことはないの?」仁志は言った。「考えたさ」星は言った。「分かっていながら、それでもその道を選ぶの?」仁志は言った。「少なくとも後悔はしない」星は言った。「人生はこんなに長いのに、この先絶対に後悔しないなんて、どうして言い切れるの?」仁志は彼女を見つめ、静かな口調で言った。「分からないな」星は一瞬ハッとした。仁志は言った。「でも
「ただのありふれた恋愛に、彼の家の争いを巻き込む必要なんて全くないのよ。航平、あなたもそう思わない?」航平は馬鹿ではない。星の言葉の裏にある警告を、即座に察知した。星が何も言わないからといって、彼女が分かっていないわけではないのだ。航平が洋介と結託したことは、少し考えればすぐに察しがつく。星がはっきり口に出さなくても、航平は彼女の意図を正確に理解していた。航平は低い声で言った。「星、分かっている……ただ、あの時は私もあの件をあまりにも突然知らされて、君にどう切り出せばいいのか分からなかったんだ。それに……」彼は言葉を区切り、さらに言った。「分かっているさ。溝口さんの件で、君の私への信頼が揺らいでいることは。私が突然君の前に現れて溝口さんのことを口にしたところで、君は信じてくれないかもしれない。だから、君自身の目で確かめてもらうしかなかったんだ。溝口さんという人は……物事を完璧にこなすし、嘘をつくのも非常に上手い。もしかすると本当に君を騙し通してしまうかもしれない。だから、あんな強引な手段に出るしかなかったんだ」星は言った。「ええ、分かってるわ。私はあなたを責めるつもりはない。ただ、溝口家の人間には、もうこれ以上関わらないでほしいの」航平は頷いた。「星、安心してくれ。溝口家の争いには絶対に関わらないから」星はそれ以上何も言わず、病室を出ようとした。その時、航平が彼女を呼び止めた。「星」航平は少し躊躇ってから言った。「まだ君に言い忘れていたことがあるんだ」星は立ち止まった。「何?」航平は声を潜めた。「溝口家の血筋には少し問題があって、遺伝的な精神疾患を抱えているらしい。彼らの血には、何世代にもわたって凶暴性と破壊衝動が受け継がれているそうだ。普段は常人と変わりないが、一度発症すれば完全に理性を失うという。彼らの特徴の一つは、その手が血に塗れていることで、理性を失えば敵味方の見境すら失うということだ」星はしばらく沈黙し、淡々と言った。「分かったわ」彼女はそれ以上深く追及することもなく、恐怖はもちろん、いかなる感情も顔に出すことはなかった。航平は彼女の表情を注意深く窺った。心の奥底に微かな不安がよぎったものの、表面上はいかにも心配そうな素振りを崩さなかった。「星、君にこれを言ったのは他意はないん
航平が星の発熱による入院を知ったのは、翌日になってからだった。彼が病院に駆けつけた時、星はすでに退院の準備をしており、優芽利が荷造りを手伝い、怜央が荷物を持とうとしていた。彩香は退院手続きに向かっていて不在だった。航平が息を切らして病室に入ると、そこには怜央の姿があった。航平の表情は次第に険しくなり、怜央に向ける眼差しはたちまち険悪なものに変わった。「怜央さん……どうして君がここに?」怜央は顔を向けて航平を見つめ、淡々とした口調で言った。「ここで手の治療を受けているだけですが、何か問題でも?」怜央が表舞台から姿を消してからというもの、航平は彼のことを気に掛けなくなっていた。所詮、自分がとっくに蹴落とした三流画家にすぎない。この先、手に障害が残るかもしれず、二度と使い物になるはずのない男だ。たとえ運良く治療が済んだとしても、あれほどの損傷を受けては、再び絵を描くことなど不可能だろう。貧しく落ちぶれた私生児など、痛い目を見せる方法ならいくらでもある。だからこそ、航平は怜央のことなど全く意に介しておらず、すっかりその存在を忘れてしまいそうになっていたほどだ。せっかく一番厄介な仁志を追い払ったというのに、まさかこの男がまだ星のそばをうろついているとは思いもしなかった。どうやら、前回の制裁では、まだ懲りていなかったらしい。航平は微かに目を伏せ、瞳の奥に潜む陰湿な色を隠した。そういうことなら、次こそは二度と星の前に姿を現せないようにしてやるまでだ。星も航平に気づいた。彼女は振り返って怜央と優芽利に言った。「怜央、優芽利。私、航平と二人だけで少し話したいことがあるの」優芽利はすぐに言った。「わかった。私、彩香のところに行ってくるね」怜央は航平を一瞥し、低い声で言った。「外で待ってる。何かあったら呼んでくれ」彼が航平を全く信用していないのは明らかだった。航平の胸の内に、嫌悪感が込み上げてきた。この怜央という男、あからさまに星の前で自分と彼女の仲を裂こうとしているではないか。優芽利と怜央はすぐに病室を出て行った。病室のドアが閉まると、航平はいかにも心配そうな顔を作った。「星、どうして急に熱なんて出したんだ?」星は言った。「一昨日の夜、窓を閉め忘れて海風に当たったせいかも
書斎で、仁志は椅子の背もたれに寄りかかり、目を閉じていた。また頭痛が始まり、覚えのある鈍い痛みが神経を伝って広がっていく。ちょうどその時、傍らに置かれていたスマホが軽く震えた。雅人から送られてきた、スケジュールの確認のメッセージだった。結婚の手続きを済ませたら、明日の朝早く、美咲を伴って溝口家の数人の長老たちに挨拶へ行く手はずだったのだ。仁志はそのメッセージを二秒ほど見つめ、「キャンセルだ」とだけ返信した。……時を同じくして、洋介の書斎。秘書が入ってきて報告した。「洋介様、仁志さんが明日、高橋さんを連れて長老たちへ挨拶に赴く予定をキャンセルされました」洋介は茶を淹れていたが、それを聞いても手を止めず、ただ微笑んだ。「キャンセルしたのか?」「はい。部下からの報告によりますと、高橋さんはすでに溝口家を後にされたようで……どうやら当分の間、結婚の話は見送られたようです」「結婚しない、か……」洋介は茶碗に茶を注ぎ、その動作は悠然としていた。「どうやらこの一歩は正解だったようだな。なるほど、あの仁志もたった一人の女のために、見境を失うことがあるらしい」秘書が尋ねた。「洋介様、では明日の長老会議での我々の手はずは……」「予定通りだ」洋介は茶碗を手に取り、軽く息を吹きかけた。「いや、さらに追い打ちをかけろ」秘書が尋ねた。「星野さんの方はいかがいたしますか?我々から接触してみますか?」洋介は茶碗を置き、瞳の奥に興味深げな光を閃かせた。「焦るな。星野さんは、想像していたよりもずっと賢い。あの鈴木よりもな。今日の様子を見る限り、彼女は仁志と対立する道を選ばず、相変わらず仁志を庇い立てしようとしていた。正直言って、少し予想外だったし、少しばかり一筋縄ではいかないな。まずはお前が人をやって、星野さんを見張らせろ。何かあればすぐに報告するんだ」「かしこまりました」秘書が退室した後、洋介は一人灯りの下に座り、すっかり冷め切った茶をゆっくりと飲み干した。そしてスマホを手に取り、ある番号に電話をかけた。電話がつながると、彼の声には微かな笑みが混じっていた。「仁志と星野さんが別れた以上、次は鈴木さんの出番ですよ」……美咲が寧輝の姿を見つけた時、彼はタバコをくわえながらスマホのゲームに没頭していた。
星が怜央と優芽利の兄妹と知り合ってからずいぶん経つため、今ではすっかりお互いを名前で呼び合う仲になっていた。星は言った。「大丈夫よ。今日は迷惑かけちゃったわね」優芽利は言った。「私と兄さんは、星にたくさん助けてもらったんだから。これくらいのこと、どうってことないわよ」優芽利も彩香も明るく気さくな性格で、場を和ませてくれたおかげで、星の気持ちもずいぶん晴れてきた。……溝口家、仁志の部屋。美咲は、手続きが途中で止まっていた婚姻届を手に、仁志のところへやって来た。仁志はうつむいたままソファーに深く腰掛けており、その表情は暗くてよく見えなかった。「仁志」美咲は歩み寄った。「洋介がわざわざ今日星野さんをここへ呼んだのは、私たちの結婚を邪魔するためだけじゃなく、あなたにとって星野さんがどれほど重要な存在なのかを探るためよ。あなたが今日、あれほど多くの人間が見ている前で星野さんを追いかけていったことで、すでに多くの注目を集めてしまっているわ。もし私たちがすぐに結婚の手続きを終わらせなければ、洋介は必ずこの事を利用してここぞとばかりに騒ぎ立てるはずだわ」仁志は黙り込んだまま、何も答えなかった。美咲は深く息を吸って続けた。「仁志、婚姻届を出した後なら、私が直接星野さんのところへ話しに行ってもいいわ。私たちの関係はただの契約結婚で、あなたと星野さんの邪魔は絶対にしないと説明する。もし彼女が私の存在を気にするなら、私は絶対にあなたと星野さんの前には現れないと約束するわ。普段用事がある時は、寧輝を介して伝えればいい。一年後、あなたの当主の座が安定したら、私たちはすぐに離婚しましょう」仁志の声がゆっくりと響いた。「無駄だ」美咲は眉をひそめた。「彼女がまだ安心できないっていうなら、私が彼女の目の前で契約書にサインしてもいいわ。それか、前もって離婚協議書を作成しておいてもいい。私たちが結婚するのはただのその場しのぎなんだから、そこまで目くじらを立てる必要はないんじゃない?」仁志はようやく顔を上げた。彼の眼差しは酷く冷淡で、まるで波紋ひとつない水面のように静まり返っていたが、その底知れぬ静けさが、かえって美咲を不安にさせた。仁志は淡々とした口調で言った。「今日はもう帰ってくれ」美咲は大きく目を見開いて動揺した。「仁志、







