LOGIN彼女は、自分の夫の名前すら一度も口にしたことがなかった。そこまで思い至って、星はふと胸の奥に複雑な感慨が広がるのを感じた。美咲は、結婚してなお仕事を手放さなかった。それどころか、一族の当主にまで上り詰めている。それに比べて、自分はどうだろう。あれこれ犠牲にしたのに、感謝する者は誰ひとりいなかった。そのうえ、仕事まで失ってしまった。――美咲こそ、本当の意味でできる女なのかもしれない。仁志が美咲と知り合いだったとしても、星は不思議だとは思わなかった。強い者のまわりには、やはり同じように強い者が集まるものだからだ。やがて二人は、再び会場へ戻った。宴会場に入った瞬間、星は空気の異変に気づく。人がかなり減っている。しかも多くの招待客が、何かに引き寄せられるように、ある一点へ足早に向かっていた。事情を知らない客が、近くの者に声をかける。「何があったんです?みんなどこへ行ってるんですか?」すると、相手は声を潜めることもなく答えた。「知らないのか?レイル ウィンザー姫が池に落ちたんだ!」「えっ!?D国の、あの王室のウィンザー姫ですか?」「そうだよ。今みんな、お兄上を探してるところだ」そのやり取りを耳にしながら、星の目が静かに揺れた。彼女たちは比較的早い時間に会場へ来ていた。ウィンザー姫が兄とともに到着したとき、仁志はわざわざその人物について説明してくれていたのだ。レイル家はD国の王室一族。長い歴史を持ち、財力も桁違いだ。王族という立場のせいか、一族の人間はみな誇り高く、骨の髄まで染みついたような傲慢さを持っている。そのせいで、東洋人をあまり好まないことでも知られていた。仁志が言う。「星、俺たちも行ってみよう」「うん」二人は人の流れを追うようにして、ウィンザー姫が落ちたプールへ向かった。ウィンザー姫はすでに助け上げられており、今は大勢の人に囲まれている。だが、その場の視線はなおも水の中に残る一人の人物へ集中していた。明らかに、その人物がウィンザー姫を助けたのだ。星が目を向けた瞬間、わずかに目を細める。「……明日香」明日香はウィンザー姫を上へ押し上げたあと、自分も岸へ泳ぎ着いていた。普通なら、水に落ちた姿など見苦しく映るものだ。たとえ人助けをしたあとだとしても、それは変わらな
仁志のその表情を見た瞬間、美咲の目がわずかに止まった。こんな顔を、彼がするところを――彼女はこれまで一度も見たことがなかった。やさしさにも似た、あまりにも静かでやわらかな表情。美咲は呆然としたまま、仁志を見つめる。胸の奥に、説明のつかない感情がじわりと広がっていった。彼女は仁志と長い付き合いだった。かつては心を許し合った夫婦であり、同じ戦場に立つ仲間でもあった。だからずっと、自分は仁志のことを分かっていると思っていた。けれど、この瞬間――目の前の男が、ひどく遠い存在に思えた。まるで、自分は最初から彼のことなど何ひとつ知らなかったかのように。星は、仁志が無事だと分かって、思わずほっと息をついた。ふと視線を流すと、少し離れた場所に立つ細い人影が目に入る。その女は、深い藍色のドレスをまとっていた。月の光を受けた姿は、まるで静かな谷に咲く蘭のようだった。影の中に立っていたせいで、顔までははっきり見えない。それでも星には分かった。――たぶん、この人が怜央の言っていたランス家の当主、美咲。自分に大きな案件を与えてくれた相手だ。星は静かに尋ねる。「仁志、邪魔しちゃった?」仁志は短く答えた。「いや」星が好奇心をにじませながら美咲の方を見ているのに気づき、仁志は微笑む。「星、紹介するよ」影の中にいた美咲が、一歩前に出た。ドレスの裾がかすかに揺れる。それは湖面に広がる淡いさざ波のようだった。その瞳は、晩秋の深い潭を思わせる。静かで、冷たく、ほとんど温度を感じさせない。肌は新雪のように白く、冷たい象牙を思わせるほど透き通っていた。顔立ちは非の打ちどころがなく、まるで冷たい玉を丹念に彫り上げたような美しさをたたえている。その美貌は、明日香と比べても少しも見劣りしない。星がこれまで見てきた美しい女たちの中でも、間違いなく上位に入るだろう。ただ――彼女のまとっている空気は、あまりにも冷たかった。まるで永遠に溶けない雪山のようで、人を寄せつけない。隣で、仁志の澄んだ声が響く。「星、彼女が高橋美咲。ランス家の当主だ」星が挨拶しようとしたそのとき、美咲の方から先に手を差し出した。「はじめまして。高橋美咲です」星も落ち着いて手を伸ばし、礼儀正しく応じる。「美咲さん、お会いできてう
明日香は振り返ると、星に申し訳なさそうに言った。「ごめんね、星。司馬さんとちょっと話があるの。お先に失礼するね」星としては、むしろ明日香があの鬱陶しい怜央を連れて行ってくれるなら願ったり叶ったりだった。軽くうなずいて見送る。怜央と明日香が去ったあと、星はやはり裏庭へ向かった。今回の仁志は、少し席を外す時間が長すぎる気がする。自然と、胸の奥に小さな不安が芽生えていた。それに、怜央の口ぶりからしても、美咲が相当な人物であることは十分伝わってきた。星は仁志のことを信じている。それでも、美咲という相手を軽く見ていいとは思えなかった。……裏庭はひっそりとしていて、どこか幻想的な空気に包まれていた。美咲は複雑な眼差しで隣の男を見つめ、静かに口を開く。「仁志、久しぶりね」仁志は軽くうなずき、美咲に向かって言った。「星がランス家と提携した件、もう聞いてる。あんな大きな案件を彼女にくれて、ありがとう」美咲は端正な男の顔を見つめ、そっとため息をついた。「そんなふうに気を遣わなくていいわ。あのときあなたが助けてくれなかったら、私だって当主にはなれていなかったもの。たかがひとつの案件よ。昔、あなたが私にしてくれたことに比べたら、万分の一にもならないわ」少し間を置き、淡々と続ける。「それに、彼女が私の条件に届いていなければ、そもそも提携なんてしていない。言ってしまえば、私はただ彼女にひとつ機会を与えただけ。さっき、あなたが彼女に何人か紹介していたのと同じよ。それを掴めるかどうかは、結局、本人次第だもの」仁志はその厚意を否定せず、ただ静かに尋ねた。「この数年、どうしてた?」美咲は視線を足元へ落とした。地面には、木々や草花の影が淡く映っている。「相変わらずよ。毎日忙しいわ。あの頃は、絶対的な権力さえ手に入れれば、自分の欲しいものは全部手に入るって思ってた。でも、いざ本当に手にしてみたら……思ってたほど綺麗なものじゃなかった」仁志は横顔のまま、美咲を見る。「後悔してるのか?」美咲は否定しなかった。「少しだけ……ね。でも結局、人の心って厄介なのよ。手に入らないものほど、いつだっていちばんよく見える。もし私が当主の座を手にしていなかったら、きっと今度は当主にさえなれれば、それがいちばん幸せだって
星は言った。「私の知る限り、ランス家の当主は女性よ。しかも、あなたはその人に会ったことがある」一歩踏み込むように続ける。「だったら、さっき仁志と一緒にいた女が当主の可能性……八割はあるわね」怜央の目の奥に、わずかな賞賛がよぎった。彼は視線を落とし、星を見下ろす。「ランス家の当主の日本名は、高橋美咲。二十七歳。お前より一つ上だ。経歴も派手だ。お前と同じで何度も飛び級して、二十四で当主に就いた」静かに、だがはっきりと言い切る。「女で、しかも日系人。それで海外一族のトップにまで上り詰めた」その意味を、あえて噛みしめるように。「……それだけで分かるだろ」星の目を真っ直ぐに見つめ、一語ずつ区切る。「その女の手腕も、腹の底も、並の男じゃ太刀打ちできないってことだ。女が上に立とうとするなら、男以上のものを払うしかない。そんな相手が、簡単なわけがないだろ」星は、彼が親切心で忠告しているなどとは微塵も思っていなかった。視線を会場へと流し、ふっと笑う。「じゃああなたは、明日香と美咲……どっちが上だと思う?」その名前に、怜央の反応が一瞬遅れた。――明日香。もう長い間、耳にしていなかった名前だ。関係する人間をすべて遮断してから、彼の世界は驚くほど静かだった。その名を不意に突きつけられ、わずかに思考が空白になる。やがて星の視線を追うと――そこには、艶やかな笑みを浮かべた明日香がいた。朝陽の腕にそっと手を添え、優雅に会場へ入ってくる。この街の社交界で第一令嬢と呼ばれる女。海外一族の間でも、その名を知らぬ者はいない。普段はこうした場にあまり姿を見せない彼女が現れた――それだけで、この宴の格が分かる。怜央は一瞥しただけで、無表情のまま視線を外した。だが、明日香はまっすぐこちらへ視線を向ける。隣の朝陽に何か囁くと、彼は軽く頷いた。そして明日香は、そのまま歩いてくる。二人の前で立ち止まり、柔らかな笑みのまま口を開く。「星、司馬さん。もしかして一緒に来たの?」そう思っても無理はない。星がsummerであることは、すでに周知の事実だ。そして、怜央が最も高く評価していた画家――それがsummerだった。その正体が明らかになった今、彼女がその肩書きを利用して怜央に近づいていると考えて
そのときだった。すらりとした細身の影が、不意に彼の前へと現れ、視界を遮る。仁志はわずかに眉をひそめた。だが、その顔を見た瞬間、ふっと目を見開いた。……仁志は星に、いくつか有望な取引先を紹介してくれた。とはいえ、相手の信頼や好感を得られるかどうかは、結局のところ彼女自身の力量にかかっている。星は興味の幅が広い。そのおかげで、すぐに何人かと打ち解け、会話も大いに弾んだ。やがて自然な流れで連絡先も交換する。ひと通り挨拶を終え、相手と別れたあと、星はふと周囲を見回した。――あれ?いつの間にか、仁志の姿が見えなくなっている。探しに行こうとした、そのときだった。背後から、低くかすれた声が響く。「仁志を探してるのか?」振り返り、その顔を見た瞬間――星の表情がすっと冷えた。だが、怜央はそんな反応など気にも留めない。グラスを片手に、淡々と続ける。「さっき、女と一緒に裏庭の方へ行くのを見た」――女?仁志とは長い付き合いだ。優芽利や明日香のように、彼に振り回されていた例を除けば、特定の女性と親しげにしている姿など見たことがない。もっとも、あの頃の彼は身分を隠していた。社交の場に出ていなかったとしても、不思議ではない。星は少し迷った。今探しに行けば、仁志の用事を邪魔してしまうかもしれない。その横で、怜央は手元の赤ワインをゆっくりと揺らす。深紅の液体が光を受け、妖しくきらめいた。やがて、ふいに口を開く。「少し前、ランス家と正式に契約したそうだな?」星は即座に返す。「何?また邪魔でもするつもり?」怜央は口元をわずかに歪めた。「お前がランス家と組んだ以上、簡単に手を出すやつはいない。お前だけじゃなく、ランス家まで敵に回すことになるからな」一拍置いて、視線を細める。「……お前、M国に来てから関わってきたのは、主に日系人の一族だろ。海外の名家については、まだ詳しくないんじゃないか?」星はじっと彼を見た。「何が言いたいの?」怜央は薄く笑う。「海外の名門一族ってのはな、かなり排他的なんだ……まあ、それは俺たちも同じだが。だから、そういう連中と深く組むことは、今まであまり多くなかった」グラスを軽く揺らしながら続ける。「だが最近は、世界経済が落ち込んできてる。そのせいで、昔
仁志は静かにうなずいた。「この一年、お前は雲井グループでかなり力を見せてきた。仕事もずっと順調だった。順調だったからこそ、あんな短期間で高い支持率を得られたんだ」たった一年で、星は雲井グループの中に確かな足場を築き、将来の後継者と目される靖と肩を並べるところまで来た。それは、どこであってもほとんど奇跡に近いことだった。仁志は続ける。「高く上れば上るほど、落ちた時のダメージは大きい。下手をすれば、二度と這い上がれなくなることもある。連中がお前の成長を放っておいたのも、そういう狙いがあったからだ。何事にも表と裏がある。お前はあまりにも早く上へ行きすぎた。その分、多くの支持を得た一方で、足元は不安定になってるし、見えない火種もかなり抱え込んでる。周囲の期待が高すぎると、少しの失敗も許されなくなる。人間なんてそんなものだ。十回見事な結果を出しても、一度の失敗で全部かき消されることがある。普通の会社なら、多少のミスは大目に見てもらえるかもしれない。だが、雲井グループは違う。お前には社内にも敵がいる。雲井家の連中は、そんな機会を絶対に見逃さない。煽れるだけ煽って、そこを徹底的に突いてくる」仁志は星を見た。「星、お前にはあまり失敗する余地がない」星自身も分かっていた。今の自分は、雲井グループの中で華やかに見えても、実際には綱渡りの上に立っているようなものだ。ほんの少し踏み外せば、そのまま奈落に落ちる。それが、近道を選んだ代償だった。けれど、星には他に道がなかった。内には雲井家の人間がいて、外には朝陽と怜央が虎視眈々と狙っている。そんな状況で、ゆっくり力をつけていく余裕などなかった。最短で、彼らに対抗できるだけの力を手に入れなければ、容赦なく芽のうちに摘み取られてしまう。だから、賭けるしかなかったのだ。星は、ずっと自分を支えてくれている仁志を見つめ、静かに言った。「仁志、ありがとう」仁志は笑って答える。「お前を助けることは、結局は俺自身を助けることにもなる。雲井グループの資源も人脈も、俺にとって魅力があるからな。だから、お前が将来当主になれば、溝口家にとっても外に打って出る大きな強みになる。朝陽や怜央があれだけ明日香に肩入れしてるのも、結局は雲井家の人脈が目当てだからだ」そう言われても、
仁志はさらに何か言おうとしたが、星が静かな声で告げた。「仁志、翔太を守って。翔太を他の人に任せるのは、私は不安なの」もし、自分が危険に遭うのと、翔太が危険に遭うのと、どちらかを選ばなければならないなら――彼女は迷わず、自分を選ぶ。仁志も、その気持ちは分かっていた。だからこそ、彼はその場に立ち尽くし、星と靖が去っていく背中を見送るしかなかった。航平は、彼がこれ以上、星に付きまとう口実を失ったのを見て、唇の端に薄い笑みを浮かべた。「ここで翔太を見ていてくれ。私は星の様子を見に行く」一拍置いて、わざとらしく付け加える。「この世で、星を守れるのは、君だけじゃ
「お前の軽率な行動で、兄貴と父さんの計画に支障が出たら……二人とも絶対に許さないわよ」正道と靖の名前を出されて、忠はようやく少しだけトーンを落とした。「分かってるよ。無茶はしない。ただ……さっきの投資家にちょっと接触してみるだけだ。本物か、ただの詐欺師か、確かめてくる。もし星の原株が、あんなやつに騙し取られでもしたら、損をするのはこっちだろ」翔が、冷ややかに釘を刺した。「……加減を間違えるなよ」「心配すんなって。今回ばかりは、絶対に衝動的には動かない」忠は短気だが、決して愚かではない。星が本当に投資を引っ張ってしまう可能性を潰すため、裏で動き出した。水面下でそれとな
「富貴は危険の中にこそ宿る、って言うでしょ」星は、静かにそう口にした。「私と怜央は、もう絶対に相容れない。これから先も、どっちかが倒れるまで終わらないと思う。忠と怜央なら、これから先、あらゆる手を使って私の邪魔をしてくるはず。今動いてこないのは、ただまだ本気を出すタイミングじゃないって思ってるだけよ。殴られるのを待ってるくらいなら、こっちから先に殴ったほうがマシ。今が、逆に一番の好機でもある。それに……損失なんて──」そこまで言って、星の声は少し落ち着いた色になった。「怜央と忠に隙を突かれたら、その時点で受ける被害はどうせ小さくない。どっちみち痛い目を見るなら、結末
忠は続けた。「さっきの星の白々しい芝居も、どうせ俺の言葉尻を掴むか、こっそり配信でもしていたんだろう。だが、俺はすぐに気づいた。危うく、また罠にかかるところだった」蛇に噛まれて朽ち縄に怖じる。忠はまさにその状態だった。翔は眉をひそめる。「歩く監視カメラみたいな人間が、毎日そばにいるなんて、正直うんざりだ。もともと平穏な家族だったのに、今じゃ常に警戒しなきゃならない」明日香は落ち着いた口調で言った。「忠、翔。そこまで怯える必要はないわ。星は毎回配信したり、必ず録音したりできるわけじゃない。一度二度なら新鮮で面白がられるけれど、回数が増えれば、人