「あのDVDは、凛に言われてやったの?」
母は、凛の存在を認めることを少しばかり躊躇したようだった。視線が揺れ、何か言い訳を探すように口を開きかけたがすぐに諦めた。
「…………ええ。」
観念したように小さく頷いた。母は自身の悪事を反省しているのか、今は正直に話そうとしているようだった。俺と佳奈は顔を見合わせ、「やっぱり」という表情で小さく頷いた。私たちの予想は当たっていた。
俺はなんとか冷静さを保ちながら、次の質問を投げかけた。
「なんでそんなことしたの?」
母は、深く息を吐き、少しばかり言い訳をするかのように早口で説明を始めた。
「凛ちゃんが……啓介は佳奈さんに弱みを握られていて利用されているって……。」
「なんだそれ?そんなわけないだろ?」
俺は思わず声を荒げた。全く身に覚えのない話に怒りが再燃する。母は、俺の声に怯えるように少し身を縮めながらも必死に続けた。
「啓介は企業から多額の融資をしてもらうために信用が必要で、大企業に勤める佳奈さんの力を借りるために結婚を決めた。そしてその
「そんなんじゃないけど……。」私は慌ててスマホの画面を伏せた。しかし、佐藤くんは興味津々でこちらを見ている。彼は私の隣の席に座ると、さも当然のようにコーヒーを一口飲み、続きを促すように私を見つめた。私は観念し、両親への正式な挨拶へ行くこと、そして初めて顔を合わせたのがテレビ電話越しで、しかも啓介がスウェット姿だったことを話した。それを聞いた佐藤くんは、腹を抱えて豪快に笑い始めた。その笑い声は、休憩室中に響き渡り、周りの同僚たちがチラリとこちらを見た。「いやー、それは男としたら気にするよ!マジかよ、スウェットはねーわ!ドラマとかでもあるじゃん。スーツをバシッと決めて、『娘さんを僕にください!』的な挨拶。それくらいの気合いで臨まなきゃ、って男は思ってるもんだって。」佐藤くんは涙を拭いながら熱弁する。「戦に行くのに武器なし、防御する盾もなく向かうようなものだって。そんな状態で大切な戦に挑めるかよ、社長さんだってそう思っただろうよ!」彼の例えに、私は再び苦笑した。確かに、啓介も後で「あの時は焦った」とこっそり私に打ち明けていた。「戦って。うちの親、そんな攻撃的な感じじゃないけれど。」「会ったことないなら、どんな相手か分からないから身構えるもんだって
啓介の母である和美さんから、ついに結婚の承諾を得たその週末。長く続いた心の重しがようやく取れ、安堵と達成感で胸がいっぱいになった。数日経っても、あの和解の瞬間が鮮やかに蘇るたびに心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。そして、週が明けた火曜日の昼休み。デスクでスマホを開くと啓介から新しいメッセージが届いていた。画面に表示された彼の名前を見るだけで自然と口元が緩む。「佳奈のご両親にちゃんと挨拶したいと思っているから、都合のいい日を聞いてもらえるかな?」そのメッセージを読み終えるか読まないかのうちに、すぐに次のメッセージがポンと表示された。「今度は電話じゃないからね!訪問してもいい日を聞いてね!!」その文字を見て思わず苦笑いが漏れた。同時に、あの時の光景が脳裏にフラッシュバックする。啓介の実家へ初めて訪問し、和美さんの想像以上の敵意に心が折れそうになった翌日、啓介の前では強がっていたが私はすっかり意気消沈していた。そんな時に、たまたま両親からの着信があり、顔を見て元気を貰いたかった私はテレビ電話に切り替えて掛けなおした。そして、隣にいた啓介に、つい挨拶させる羽目となってしまったのだ。あの時、啓介は部屋着のスウェット姿で、髪はくしゃくしゃ、完全なオフモードだった。
凛は、水面下で啓介の母・和美さんに近付き、ありもしない嘘の情報を吹き込んでいたのだ。初顔合わせは、和美さんの私への敵意が丸出しの修羅場となった。そしてその後も和美さんは、憑かれたかのように凛の言葉を鵜呑みにし、私たちの結婚に猛反対した。和美さんの「結婚を認めるための条件」と称する要求はエスカレートしていった。誕生日会を開くこと、和美さんの理想の嫁の条件を満たすこと……。どれもこれも私たちを試すかのようないや、追い詰めるために用意されたような無理難題ばかりだった。あの時の私は、和美さんの猛攻とその背後にいる凛の悪意に心打ちのめされそうになった。そして、創立パーティーでのあの事件。啓介が私を婚約者として発表する寸前に、和美さんが差し込んだ悪意に満ちたDVD。あの瞬間、心臓が止まるかと思った。もし、佐藤くんの機転がなければ、私たちは、そして啓介の人生は、取り返しのつかないダメージを受けていたかもしれない。全てが終わり破滅する瞬間に見えた。だが、私たちはそれを乗り越え、啓介は私を信じて和美さんと凛の策略を打ち破った。そして、和美さんもまた、自らの過ちを認め心から謝罪してくれた。ただ表面的な謝罪ではなく、彼女が長年抱き続けてきた理想の嫁像とは全く違う、私という人間をありのままに受け入れてくれた証だった。全てを乗り越えてきたからこそ、今のこの穏やかな時間が何よりも尊く感じられた。手から伝わる啓介の温もりがじんわりと満たしていく。「そういえばさ、凛さんって誰から結婚
和食店を出て、暮れなずむ街の光の中を啓介と二人並んで歩く。駅まで和美さんを見送った帰り道は、張り詰めていたすべての糸が切れたかのような全身から力が抜けるような安堵感と長旅を終えたような清々しい疲労に包まれていた。啓介も同じように、どこか憑き物が落ちたような満ち足りた表情をしている。「今日、会えてよかったね。お母さんも私たちの結婚を認めてくれたし。」私がそっと隣の啓介に語りかけると、彼は深く頷き、私の手を取り温かい掌でそっと包み込んだ。「ああ、ようやくこれで一つ問題が解決した感じだな。本当に、佳奈には感謝している。一人じゃ、あそこまで母さんと向き合えなかった。」彼は私の目をじっと見つめ、その瞳には信頼と愛情が深く宿っていた。私もまた、啓介の誠実な眼差しに応えるように微笑んだ。「それにしても、この数ヶ月、色々あったな……。」ふいに、啓介がげんなりとした表情で再び口を開いた。その言葉に、私も深く頷く。「そうだね……。」この数ヶ月、本当に様々なことがあった。遠い過去のことのように思えるが、つい数ヶ月前の出来事だ。
(本当は、佳奈さんが初めて実家に訪れた時から、啓介が佳奈さんを見る目が優しさと愛しさに満ちているのを感じていた。だけど、良妻賢母として家庭のために尽くす女性こそが嫁として相応しいという、私の頑なな理想から離れていたから、その事実を認めたくなかったんだわ……。)初めて高柳家を訪れた日の記憶が鮮明に蘇った。あの時、啓介はいつも以上に緊張していて、佳奈に対しても何度も気遣っていた。今まで見たことの無い、息子のかけがえのないものを見つめるような眼差しや表情を見るたび、私の心はチクリと痛んだ。そして私の理想が、その事実を認めようとしなかったのだ。啓介は、母の言葉に安堵の息を漏らした。「母さんの言う通りだよ、今日も会うのは気が引けたけど一緒に行くから会おうと俺を説得したのは佳奈だ。疑惑が解けたなら結婚も認めてくれるよね?」「ええ……。認めます。認めさせていただきます。」和美は、静かに頷いた。目には涙が溢れ一筋の線となり頬を濡らしている。しかし、それは後悔の涙ではなく、安堵とようやく息子たちの幸せを心から願えるようになったことへの涙のようだった。「結婚するのは私じゃないのに、私は自分の理想を押し付け過ぎていたって分かったの。そして、佳奈さんのような人が啓介には必要だと思った。佳奈さん、啓介のことよろしくお願いします。」そう言って私に深く頭を下げた。
「いいえ……。もう、違うと分かりました。」彼女は深く息を吐き、自らに言い聞かせるように言葉を続けた。「あのパーティーでの佳奈さんの立ち振る舞いを見て、違うと分かったの。あなたはスタッフとして立派に動き回り、皆のために尽くしていた。自分も着飾るのではなく、裏方として啓介のことを支えようとしていたわ。そして、あの悪意ある映像が流れそうになった時、咄嗟の機転で場を収め、その後の啓介のスピーチの後も笑顔で社員たちと接していた。啓介もあんなに嫌がっていた婚約発表をみんなの前でして誤解を解こうとしていた。あの時のあなたたちの笑顔を見たら契約結婚のように見えなかった。」和美は、自分自身へ言い聞かせるようでもあったが、パーティーの日の出来事を思い出し一つ一つ言葉にしていた。あの日、私の行動をじっと観察し評価していたのだ。「そして、この前実家に来て、私があなたをあんな風に貶めようとしたことを知っていながら私をかばってくれたことも……。今日こうして、夫に知られることなく話し合いの場を設けてくれたのも、きっと佳奈さんのおかげだと思っている。」和美の声は、感謝の念で震えていた。私の胸が熱くなる。私の真意を理解してくれたことが、何よりも嬉しかった。「だから……だから、私はあなたたちが契約結婚だなんて、もう疑っていない。」和美は、深呼吸をしてから今度ははっきりとそう言い切った。