Masuk柿本蒼汰(かきもと そうた)がようやく時間を作り、妊娠8ヶ月の私、柿本笙子(かきもと しょうこ)を初めて妊婦健診へ付き添ってくれた。 けれど、病院に足を踏み入れた途端、蒼汰の仕事用スマホがけたたましく鳴り響いた。 表示された発信者名を見た瞬間、普段は冷静な蒼汰の表情が、みるみるうちに強張った。 「笙子、急な呼び出しだ。国際指名手配犯がまた入国したらしい。俺は……悪い……」 焦りを隠せないまま、有無を言わせぬ命令のような口調で詫びると、蒼汰は足早に立ち去っていった。 その背中を乗せたオフロード車が勢いよく走り去るのを見つめながら、私は受診票を握りしめた。気づくと、紙は爪でぐしゃぐしゃになっていた。 大きなお腹を抱えたままタクシーを止めると、すぐに運転手に話しかけた。 「前の車を追ってください」 ――国際指名手配犯だって?そんな嘘、よく思いついたものだ。 父がいる警視庁にさえ何の連絡も来ていないのに、ただの地方署の署長である蒼汰が、何をそんなに慌てる必要があるというのか。 いったい、どこの「お偉いさん」が、そんなに急いで彼を呼びつけたのか、この目で確かめてやる。
Lihat lebih banyakその願いは叶った。半月後、兄は他国の警察の協力を得て、昭を見つけ出した。DNA鑑定の結果、私と親子である確率は99.9%だ。私はその夜、目が腫れるほど一晩中泣き続けた。兄が昭を連れて帰ってくる日だけを、心待ちにしていた。けれど、迎えに出ようと玄関を開けると、家の外に蒼汰が立っていた。着ている服は汚れ、髭は伸び放題で、目には光がない。私を見た瞬間だけ、その瞳が揺れた。後悔、未練、悲しみ。様々な感情が入り混じっている。蒼汰はよろめきながら駆け寄り、私の前へ来ると、そのまま膝をついた。父はすぐに彼を蹴り飛ばした。「柿本!離れろ!笙子に近づくな!」部下たちも取り押さえようと駆け寄ったが、私は父を呼び止めた。「……お父さん」この6年間の因縁に、ここで決着をつけなければならない。父は私の気持ちを察し、部下たちとともにその場を離れてくれた。蒼汰は安堵の息を吐き、私の手を握りしめて泣き崩れた。「笙子……ごめん。本当に悪かった。不倫したことも、希美と一緒になって笙子を苦しめたことも……子供まで失わせてしまったことも……すべて……」涙と鼻水を流しながら謝り続けており、まさに惨めそのものだ。けれど、私の心はもう何一つ動かなかった。ただ静かに言った。「蒼汰が本当に償うべき相手は、私じゃない。謝るべきなのは、冤罪で人生を壊された人たち、権力で踏みにじられた人たち」蒼汰の体が震え始めた。私がこの話題に触れるのを予想していなかったのだろう。「警察官として、すべての人を守るべきだった。けれど蒼汰は、法を守る立場でありながら、自らの手で法を踏みにじった。収賄、横領、そして職権濫用。だから、裁きを受けるのは当然よ」蒼汰は顔色が青ざめ、唇を震わせている。何か言いたげだったが、一言も発することができなかった。私は息を吸い込み、冷たく告げた。「蒼汰、私たちはとっくに終わってる。もう二度と交わることはない」その手を振り払い、背を向けた。「笙子!待ってくれ!」蒼汰が叫んだ。私が振り返ると、彼は土下座をしたまま、まるで食べ物を乞う野良犬のように這いつくばっている。「俺が犯した罪は、もう償えないって分かってる。でも、俺たちは昔、愛し合ってたんだろう?子供もできたんだろう?見捨てないでくれ!
白髪が一晩で増えた父のこめかみを見て、私はそれ以上何も尋ねなかった。あの子がいなくなったのなら、それでよかったのかもしれない。蒼汰と繋がるものは、これですべて断ち切れたのだから。それから私は病院で療養を続ける。父も兄も、片時も私のそばを離れようとはしない。蒼汰は何度も病院へ現れたが、一歩たりとも私には近づけなかった。夜中に病室の窓から忍び込もうとしたことさえあったが、兄が雇ったボディーガードは容赦しなかった。4階の窓から、そのまま蒼汰を叩き落としたという。療養していた2か月の間、私は一度も彼と顔を合わせることはなかった。退院の日、父と兄に囲まれて車へ乗り込もうとしたときだ。道路の向こう側、雨の中に、一人の男が立っている。深く被ったキャップの下で、蒼汰は見違えるほど痩せ細り、まるで別人のようだ。雨に打たれながら、ただこちらを見つめている。やつれきったその姿は、生気を失い、周囲の空気まで闇へ染めてしまいそうだ。父の部下から、その後のことを聞かされた。わずか2か月で、柿本家は完全に崩壊していた。蒼汰が署長へと昇進できたきっかけは、かつてある宝石強盗事件を単独で解決した功績が認められたからだった。国家規模の治安危機を収束させた功績により、警視庁刑事部長自らが表彰状を授与していた。けれど誰も知らなかった。あの国際窃盗団を本当に制圧したのは、兄だったということを。当時、蒼汰は武器を持った犯人を前にして恐怖でまったく身動きが取れず、兄と共に突入するはずが、宝石箱の陰に隠れたまま震えていた。兄はナイフで何度も刺されながらも最後まで戦い抜き、命を懸けて犯人全員を逮捕した。蒼汰は、その後始末をしただけだった。兄はその夜、ICUへ運ばれ、生死の境をさまよった。それでも蒼汰は、その功績をすべて自分のものとして受け取った。兄は何も言わなかった。蒼汰は私の夫だったから、少しそのキャリアを後押ししても大したことじゃないと思った。今になって分かったのは、蒼汰は途中で変わったのではない。最初から、人として腐り切っていたのだ。父も兄も、結婚前から何度も私を止めていた。「あの男は信用できない」と何度も言われた。それでも私は耳を貸さず、大喧嘩までしてしまった。そのせいで、家族との距離までできてしまった。
「違うんです……本当に誤解なんです!笙子はわがままで、少し思い知らせようとしただけで、いじめるつもりなんてまったくありません!お義父様が来られなくても、ちゃんと病院へ……」「俺の娘を、お前ごときがしつけるだと?何様のつもりだ、この外道め!」再び父の蹴りが蒼汰を吹き飛ばした。父の目は真っ赤に充血しており、涙を堪えているのが分かった。私の容体が悪化していることに気づいた父は、蒼汰を睨みつけ、低い声で言い放った。「このクズ。今日、笙子か子供に何かあれば、お前には命をかけて償ってもらう」父に抱き上げられ、私は周囲のざわめきなど耳に入らなかった。ただ、里香や希美、そして私を傷つけた者たち全員を見渡した。一人ひとりの顔を焼き付けるように見据え、ゆっくりと言った。「絶対に許さない。今日あなたたちが私にしたこと、百倍でも、千倍でも返してあげる」そう言い残し、父は私を抱きかかえたまま部下たちに守られ、このグズだらけの場所を後にした。蒼汰はその場に立ち尽くし、私の遠ざかる背中を見送っている。絶望と未練が入り混じった目で。他の者たちも誰一人声を出せない。息を潜め、自分の立場が失われることだけを恐れている。一方、瀕死の私は、ようやく父によって病院へ搬送された。救急科、産婦人科、外科の名医たちが集結し、休む間もなく治療が始まった。体の他の傷は比較的軽いが、蒼汰に何度も蹴られた腹部は、皮膚全体が青黒く腫れ上がっている。下半身からはなお大量の出血が続き、子宮内では胎児の四肢までも砕かれ、子宮の一部も裂けていた。目を覆いたくなるほど凄惨だ。父が莫大な費用を投じて招いた名医たちでさえ、顔を曇らせた。ベッドの前で立ち尽くす主治医に向かって、父は悲痛な声を上げた。「先生、お願いします……娘を助けてください!娘にもしものことがあれば……俺は……」主治医は額の汗を拭いながら、ベッドと医療機器を急いで手術室へと押し込んでいく。「全力を尽くします!」それだけを残して。7時間後、手術室の扉が静かに開いた。主治医は私の容態を考えながら深く息を吐き、父を見つめた。その表情には痛ましさが滲んでいる。「お腹のお子さんは、強い衝撃を何度も受け……体は完全に損傷していました。残念ながら、お子さんは助かりませんでした」そ
その言葉が終わるよりも早く、宴会場の扉が轟音とともに蹴り破られた。真っ先に飛び込んできたのは、黒いスーツに身を包んだ父の部下たちだ。その声を耳にした瞬間、会場中の全員の顔色が一斉に青ざめた。希美も里香も全身を強張らせ、振り返ろうとしたが、その直前に警棒を体へ突きつけられ、一歩も動けなかった。部下たちは瞬く間に私の前へ立ちはだかり、所持品を調べようとしていた男たちを数手で取り押さえた。先頭に立つリーダーのような人物は鋭い視線で会場を見渡し、最後に蒼汰を見据えた。蒼汰の顔から血の気が引き、床に倒れ込んだ私に視線を向け、怒鳴りつけた。「笙子!一体何の真似だ!まだ騒ぎ足りないのか!こいつらは誰だ!」私は何も答えなかった。一人の部下が肩へ掛けてくれたスーツの上着を身にまとい、逆光の中、蒼汰の後ろからゆっくり歩いてくる人物だけを見つめている。その姿をはっきりと認めた瞬間、堰を切ったように泣き崩れた。蒼汰も私の視線を追って振り返り、その人と目が合った瞬間、膝から崩れ落ちた。「ど、どうして……ここに……」事情を知らない数人の貴婦人たちが、不機嫌そうに鼻を鳴らした。「あなたたち何者?見ればわかるでしょ。柿本署長が、狂ってる犯人を取り押さえてる最中なのよ。余計な口出しはしないでちょうだい」その一言で、蒼汰の顔色はさらに真っ白になった。父の顔は怒りで青ざめていた。彼が冷ややかに一瞥しただけで、一人の部下が前へ出て、その貴婦人を強く睨みつけた。「武居警視総監に向かって、その口の利き方か」その部下は鼻で笑うと、ポケットから名刺を取り出し、女の顔へ叩きつけた。「自分の目で確かめろ」女は不満そうに名刺を拾い上げたが、一目見た途端、顔面から血の気が引いた。そこにははっきりと【警視総監 武居尚道(たけい なおみち)】と記されていた。女は信じられないという表情で私を見つめた。瞳には恐怖だけが宿っている。周囲の人々も名刺を見た瞬間、恐怖の色を浮かべ、ざわめき始めた。「本当に……この方は警視総監の娘だったのか……」「だからあれだけ堂々としてたのか。警視総監の娘に逆らえる人なんて、この世にいないもんね……」「柿本蒼汰、完全に相手を間違えたな……愛人は本当に希美だったのか……」父は大股で歩み寄り、私