共有

第657話

作者: 楽しくお金を稼ごう
天音はそう言うと、一方的に電話を切った。

しかし、ふと微かな墨の香りが天音の鼻に届き、彼女がはっと振り返ると、そこには要の冷たい視線があった。

天音は驚きのあまり後ずさりし、背中を窓にぶつけてしまった。

窓には嵐が打ちつけている。薄い服越しに窓の冷たさが伝わり、天音はかすかに身震いした。

部屋の明かりはついていなく、静かで薄暗い。ただ、風と雨の音だけが、遠慮なく響き渡っていた。

それでも、その瞬間、天音には要の瞳に宿る怒りの炎がはっきりと見えた。

要はめったに怒らない、いつも穏やかな人だった。しかし今は、全身から凍えるようなオーラを放っている。

天音の心臓がずきりと痛んだが、胸を押さえることもできず、ただ要を見つめながら、痛みに耐えるしかなかった。

要が一歩前に出ると、天音は怯えたように身をすくめた。

「いつからだ?いつから俺を騙していたんだ?」

天音の拒絶するような態度を見て、要は足を止めたが、その怒りは抑えきれず、声はとても冷たいものだった。

妻が自分に隠れて、元夫と連絡を取り駆け落ちの相談をしていたとは。

到底、許せることではない。

天音は黙ったまま、自分の目の奥が熱くなるのを感じていた。涙を必死にこらえながら、要を見つめる。

「風間と一緒になるのか?

あいつと一緒になるって言うなら、今すぐここから出ていけ」

要は、冷え切った目で天音を見下ろす。

もし天音が一歩でも外に出ようものなら、その脚をへし折ってやる、そう思った。

天音は数秒間なんとか立っていたが、やがて力なく窓ガラスにもたれかかり、床を見つめてうなだれた。

本当は要とこのまま幸せに暮らしたい。

要が自分の身代わりになって撃たれてしまい、要を失うのではないかと思ったあの時から、その思いはずっと強くなっていた。

最近、体調もすごく良くて、何の問題もないように感じていたのに。

少なくともあと十年は生きられると思っていた。もしかしたら、二人の子供を授かることだってできるかもしれないと、そんなことまで考えていたのに。

でも……違ったのだ。

自分は結局、要に何も与えることができない。

母が最後の一年をどう過ごしたか、はっきりと覚えている。

寝たきりとなった母は、体中に管を繋がれ、呼吸すら苦しそうだった。体はむくみ、臓器は次々と機能しなくなり、何も自分でできなくな
この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード
ロックされたチャプター

最新チャプター

  • 妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。   第681話

    玲奈はきょとんとした。息子が自分を警戒した目で見ていることに気づいたのだ。「ドレスが届いたの。天音を呼んできて、試着させよう」と玲奈は言った。その時、ちょうど使用人がドレスを運んできた。「あなたが帰ってきてちょうどよかったわ。天音にどれが似合うか、見てあげてちょうだい」「部屋へ運べ」要は身をかがめると、天音を横抱きにした。天音は要の視線を避け、その胸に顔をうずめた。天音の服に目をやり、要は心の中で静かにため息をつくと、大股でその場を去った。天音は全身ひどく汚れていた。使用人はドレスを抱えて、すぐにその後を追った。玲奈がその場に立ち尽くし、二人の後ろ姿を見送っていると、後から来た裕也にそっと肩を抱かれた。玲奈は夫の胸にそっと寄りかかり、つぶやいた。「もし天音が同意して、要が無理やり他の女性と関係を持たされたとしたら、その結果は……きっと、数年会えないどころじゃ済まないわね。要は一生、私たちのことを許してくれないでしょ。そんな結果になったら……」「要の子供さえ残せるなら、どんな結末になろうとも、俺一人が背負う。お前は、何も知らなかったことにして」……要は天音を抱いたままソファに座り、彼女を見つめた。「見てごらん、どれがいい?」要の声はとても優しかった。天音が見上げると、使用人がドレスを一着一着ハンガーラックに掛けているのが見えた。「あの、緑のドレスがいい」「それだけ残して、あとは下げろ」要は使用人に言った。天音が彼の腕から抜け出そうとすると、腰をぐっと引き寄せられてしまった。使用人は部屋を出て、ドアを閉めた。要が天音の白いシャツのボタンに手をかけると、天音ははっと我に返った。そして、要の無表情な瞳を見つめ、その手を掴んだ。「想花と大智くんは向こうで遊んでる」要は声を潜め、「俺が着替えさせてやる」と言った。「大丈夫、自分でできるから」服越しに、二人の肌がぴったりと触れ合った。要はさらに顔を近づけ、言った。「転んだんだろ。怪我がないか見せてみろ」「転んでないわ」天音がかたくなに言うと、要は彼女の顎を掴んだ。天音の顔を上げさせると、その表情をじっと見つめて言った。「もう、ここへは二度と来ない」天音のまつげが微かに震えた。驚きに目を大きく見開いた瞬間、要はその

  • 妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。   第680話

    「あなた、まさか最初からこんなこと考えてたの?要に結婚させて、この地位に就かせた後で、天音を利用するつもりだったわけ?」裕也は言った。「利用だなんて人聞きの悪い。天音は産めないんだ。だから、俺が代わりに産む女を用意してやる。それが何か問題か?それに、お前だって平野先生の話は一理あると言ってただろ?」「私が考えていたのは代理出産よ。でもあなたは違う。あなたは最初から要にあてがう女を探してた!」玲奈は持っていた写真の束を裕也に叩きつける。写真が床一面に散らばった。「この恥知らず!もし昔、私に子供ができなかったら、あなたは私にも同じことをしたの?」「馬鹿なことを言うな!」裕也は玲奈の言葉にカッとなり、声を荒げた。「玲奈、少しは冷静になれ!天音は、もう長くないんだ。別れが来たら、要には何の希望も残らない。それなのに要はこれから先、どうやって生きていけばいいんだ?要は今日、自分のキャリアも、遠藤家の名誉も全部捨てて、出て行ってしまった。でも、数年後は?要はもしかしたら……よく考えてみろ。お前が一番よく分かっているはずの息子が、一体何をしでかすのか?昔、菖蒲との婚約破棄に反対した時でさえ、要は何年も家に寄りつかなくなったじゃないか」玲奈がその場に立ち尽くしていると、裕也に抱きしめられた。そのまま彼の腕の中で崩れ落ちる。床に散らばった写真を掴みながら、感情をぶつけるように呻いた。「代理出産よ、代理出産をお願いするわ」「要は絶対に同意しない。それに、どうやってあいつに種を提供してもらうつもりなんだ?そんなこと、お前にだってできないだろ?な?こんな状況でどうやって代理出産を実現させるつもりだ?考えてみろ。この間、天音の指から元夫の結婚指輪が抜けなくなった時、要は内心面白くなかったはずなのに、天音が痛がると思ったから、じっと我慢して自分では指一本触れず、皮膚科の医者を呼んで外してもらったんだぞ。そんな要が、天音の採卵に同意すると思うか?そんなことは、天と地がひっくり返ってもあり得ない。それに、代理出産なんてことが世間にバレたら、要のキャリアは終わりだ。だから、相手の女はこちらで用意する。我々が認めれば、関係ができるが、認めなければ、ただの他人なんだ。玲奈、たった一度の関係だ。ただ子供が一人増

  • 妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。   第679話

    常識のない女を嫁にしたことで、みんなに笑われているのは分かっている。すらりとした立ち姿で要は、しばらくその場に立ち尽くし、天音が階下へ降りた後、他の人たちと会議室へ向かう姿を見送っていた。大地の言う通り、自分は確かに狡猾だと思う。だが、全てはもう決まっているのだ。これから何が起きても、結果は変わらないし、今日ここに来ていなかったとしても、何も変わらなかっただろう。自分のものは、自分のもの。ただそれだけなのだから。敵は弱く、時の運もこっちにあった。そして、あの時天音は離婚を決めた。さらに、タイミングよく、この話を引っ掻き回そうとする輩も現れた。天音はあんなにも自分のことを心配し、気を揉んでいた。そこで、天音を騙して連れ戻すチャンスだと思ったから、周りの思惑通りに振る舞い、奴らの茶番に付き合ってやったのだ。しかしさっきの天音は、顔面蒼白でひどく怯えているようだった。様子がおかしい。また何かあったのだろうか。そう思い要は眉をひそめたが、すぐにふっと笑った。面倒を起こさず、自分を怒らせないなんて、そんなの天音じゃない。自分はそんな天音を娶ったのだから。腹を立てさせられるのも、自業自得というものだろう。受け入れるしかないのだ。……天音は想花と大智を連れて黒い車に乗り込んだ。「若奥様、これは若様からです」と、彩子が弁当箱を差し出した。「何ですか?」天音が受け取って蓋を開けると、ふわりといい香りが鼻をくすぐる。途端に目に涙が浮かんだ。「ママ、食べたい」想花の声がすぐそばでする。天音は瞬きで涙をこらえると、フォークでおかずをひとつ刺し、想花に差し出した。それは今朝、家を出る前に由理恵と彩子に言って、こっそり厨房から持ってきてもらったものだった。どんな些細なことでも、要は必ず気づいて応えてくれる。要……なんて完璧な人なんだろう。それにひきかえ、自分は……「ママも食べて」想花がおかずを天音の口元へ運んだ。一口食べると口の中に、幸せな味が広がる。その時、携帯が鳴った。手に取ると、要からの短いメッセージが届いていた。【会いたい】外に向けた天音の目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。しかし、次の瞬間裕也の冷たい視線と目が合った。天音は慌てて俯くと、携

  • 妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。   第678話

    天音はゆっくりと顔を上げ、裕也に視線を向ける。天音からした義父の裕也の印象はは、いつも優しくて穏やかな人だったので、自分と要の仲を邪魔しているのは、義母の玲奈だと思っていた。でも、それは間違いだったようだ。遠藤家の血筋を、一番気にしていたのは遠藤家の人間だったため、義母だけの問題であるはずがなかったのだ。「お父さん。それはどういう意味ですか?」天音は動揺を押し殺し、冷静を装って尋ねた。「あなたの代わりに子供を産む女を探す、ということだ」裕也の表情は落ち着いていて、少しも変わらない。まるで今日の天気でも話しているかのように、淡々としていた。天音は、以前椿に言われた言葉を思い出し、寂しげにうつむいた。「私に言われましても……」「子は正式な跡継ぎでなければならないから、あなたの籍に入れる必要があるんだよ」裕也の声は平坦だった。「だから、あなたの同意がいる」天音は胸を押さえた。心臓が張り裂けそうだった。天音の顔が青ざめているのを見て、裕也はなだめるように言った。「あなたがその子供を育てる必要はないし、会わなくたっていい。なんなら、いないものだと思ってもらって構わないんだ。その子が、あなたたちの生活の邪魔をすることはない。ただ、要には遠藤家に対する責任を果たしてもらう。それだけのことだから」天音の唇から血の気が引き、真っ青になっていた。お腹の前で固く握りしめられた手も、痺れている。胸が張り裂けそうだった。それでも必死にこらえて、か細い声で尋ねる。「要もそう思っているんですか?」「要は遠藤家の一人息子だ。跡継ぎを残すのは要の責任であり、義務なんだよ」裕也の声に冷たさが滲み出て、天音を見る目からは優しさが消えた。「少し考えさせていただけますか?」「あなたを嫁にもらうために、要はとてつもない代償を払ったんだ。俺たち親の気持ちを少しはわかってほしい。たった一度きりの関係で生まれる、二度と会うことのない子供だ。あなたたちの生活の邪魔をすることはないんだよ」もうすぐパイプカットの手術を受けるとまで言い張っている要に、裕也は言い勝てなかったのだ。だから天音を説得するしかなかった。子供……天音が言葉を詰まらせる。何かを言おうとしたが、声になっていなく、ただ小さく頷くだけだった。その時、裕也

  • 妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。   第677話

    「平野先生はルールを破って君を悲しませたから、クビにした。その後は、彼女より腕のいい心臓外科の専門家が実験室を引き継いだから、もう二度と彼女に会わずに済む。いいな?」要は天音の鼻をちょんとつついた。「俺が君をどれだけ大事にしているか分かっただろ?だから、お返ししてくれてもいいんじゃないか?」天音はカルテを見ながら、おずおずと口を開く。「ここに、私のカルテは……ないの?」「なんで君のが必要なんだ?君は健康なのに」要は目に浮かぶ心配の色を隠しながら、天音の柔らかい髪をくしゃっと撫でた。「最近、心臓の調子が悪いのか?それとも、誰かに何か言われた?」「ううん」天音は笑顔を浮かべた。「どこも悪くないわ」天音は要の首に抱きつき、急に嬉しくなって、甘えるように言った。「あなた、愛してる」要がそっと天音の後頭部に手を添えると、天音は彼の胸にすり寄った。「さあ、起きてネクタイを結んでくれないか?」「え?」「君との約束は絶対に破らないから」要は少し間を置いて言った。「さっき、君が俺に頼んできたんだろ?もうすぐ俺の番なんだ」「え?どういうこと!」天音は興奮を隠せなかった。要の無事と出世を願った時、彼は「分かった」と約束していたのだった。要は優しく天音の体を起こすと、紺色のネクタイを手渡した。そして天音の両手をとって自分の首に回させ、鼻の頭をちょんとつついて言う。「俺の後ろから見ててくれ。テレビの前なんかに隠れてないでさ」「何言ってるの!10時からじゃなかったの?もう間に合わないんじゃ……」要は軽く笑い、天音の柔らかい耳たぶを指でなぞった。天音はくすぐったくて身をよじり、ネクタイをぐいっと要ごと引っ張ってしまった。要が思わず顔を屈める。「結べるか?」「やったことないけど……」天音は携帯を取り出し、ネクタイの結び方を検索し始めた。「子供の頃、制服のリボンは結んでたから。きっと、似たようなもんでしょ」動画を見ながら、それっぽく結び始めた。要は天音の頬を軽くつねりながら、彼女の嬉しそうなつぶやきに耳を傾ける。「あなた。どうして?なんでこんなことに……」そしてふと何かを思い出したのか、天音は少し困ったような顔をした。「こうなるって知ってたら、さっきは放っておいたのに……」「何だと?」要の顔が一瞬で曇

  • 妊娠中に一緒にいた彼が、彼女を失って狂った話。   第676話

    要は翳りのある瞳を開け、天音の重そうなリュックをそっと下ろした。それから襟元を直し、大きな手で彼女の小さな顔を包み込んで、少し顔を上げるとキスを落とした。声を出せば、隠している気持ちがばれてしまいそうだったので、要は何も言わなかった。ただ、ひたすら情熱的に天音にキスをした。突然、後ろから十数台の黒い車が現れ、猛スピードでタクシーを追いかけてきた。しかし次の曲り角では、特殊部隊の隊員が乗ったパトカーが二台、後ろの黒い車の前に立ちはだかり応戦する。一触即発の事態だった。何とかタクシーは無事に、公会堂の東の入り口に到着した。天音は腕時計に目を落とし、落ち込んだ。「十時十分になっちゃった」玲奈も残念に思ったが、天音たちが無事に戻ってきたのを確認すると励ますように言った。「もう終わっちゃったことは仕方ないじゃない。要はまだ若いんだから、チャンスはいくらでもあるわ。それに、若いからって仕事ばかりじゃだめでしょ?時間があるなら、奥さんや子供と一緒に過ごさないと」玲奈は想花を抱き上げ、大智の手を引いて中へと入っていく。要は天音を休憩室に連れて行った。天音はしょんぼりした様子で要の胸に寄り添い、小声で言った。「ごめんなさい。あなたがすべてを投げ出して、私を探しに来るなんて思わなかった。それに、まさか誰もあなたを止めないなんて」要は天音の小さな顔を持ち上げてじっと見つめる。「もしこのことを予測できていたら、君は別の方法で俺から離れていくつもりだったのか?」天音は言葉に詰まらせ、ばつが悪そうに呟いた。「そんなことないわ」天音は要の額に手を当て、彼の様子を注意深く観察する。見たところ普通だ。さっきの要は、何かに取り憑かれたみたいだったのに。「天音、どうして俺から離れようとしたんだ?」要が天音を抱きしめながら、耳元で優しく尋ねた。天音は要の胸にそっと寄りかかり、両手を彼の胸に当て見上げる。自分はもうすぐ死んでしまうこと。要の腕の中で死にたくないこと。昔の自分のように、要に辛い思いをさせたくないこと。だんだん醜くなって、自分のことすらできなくなる姿を見られたくないこと。これらを、どう伝えればいいというのだろうか。天音は特に何も答えず、ただつま先立ちをして、要を見上げた。それに合わせて要も天音に高さを合わせる。二人は

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status