Mag-log in部屋のチャイムが鳴った。
美月は思わず肩を震わせる。
胸の前で握り締めていた手に、じんわりと汗が滲んだ。
「……はい」
恐る恐る返事をすると、ドアの向こうから落ち着いた声が聞こえる。
「九条です」
その一言だけで、強張っていた肩から少し力が抜けた。
ドアを開けると、蒼真と支配人が立っていた。
「失礼いたします」
支配人は室内へ入ることなく、丁寧に頭を下げる。
「先ほどの件ですが、男性は警察官とともにホテルを離れました」
美月はほっと息を吐いた。
「……そう、ですか」
「ご安心ください。当ホテルでは今後も、お客様のお部屋番号やご滞在に関する情報を外部へお伝えすることは一切ございません。また警備体制も強化しております」
「ありがとうございます……」
支配人は穏やかに微笑み、一礼
次の離婚訴訟の期日が近づいていた。 拓也は仕事を終えると、そのまま弁護士事務所へ向かった。「前に言ってた和解の話って、もうないんですか?」『相手方としては、離婚を前提とするのであれば協議する意向に変わりはありません』「俺が離婚に同意しない限りは?」『現状では、和解による解決は難しいでしょう』「じゃあ、裁判が続くんですよね」『はい』 拓也は少し考えた。「判決まで行ったら、本当に離婚になることもあるんですよね」『もちろん、その可能性はあります』 以前にも聞いた答えだった。 けれど今は、その言葉の重さが違う。「どのくらいですか」『何がでしょうか』「離婚になる可能性です」 弁護士はすぐには答えなかった。『具体的な確率でお答えすることはできません。ただ、不貞の事実や別居後の経緯、奥様の一貫した離婚意思などを考えると、こちらにとって厳しい事情があることはお伝えしてきたとおりです』「……そうですよね」 拓也は珍しく反論しなかった。 ◇ 美月は仕事の日を少しずつ増やしていた。 まだ長時間ではない。 赤ちゃんを母に預けられる日だけ、短い時間働く。 それでも生活に仕事が加わったことで、一週間の感覚が以前とは変わった。「美月ちゃん、三番テーブルお願い」「はい」 注文を運び、空いた皿を下げる。 店長が新しいケーキの試作品を持ってきた。「味見!」「今ですか?」「今よ」 一口食べる。「ちょっと甘いかも」「やっぱり? クリーム減らすわ」 そんなやり取りをしていると、自分が離婚裁判の最中だということさえ忘れる瞬間があった。 それでいいのだと思う。 拓也との問題は、美月の人生
拓也は弁護士事務所を出てからも、先ほどの言葉が頭から離れなかった。 離婚後の美月が誰と交際し、誰と再婚するかは、美月自身が決める。 当たり前のことだ。 それくらい、拓也にも分かっている。 けれど今まで、本当の意味で考えたことがなかった。 離婚は、美月が怒っているから言っているだけ。 時間が経てば落ち着く。 自分が変われば考え直す。 どこかで、そう思い続けていた。 だから、離婚した後の美月など想像する必要がなかった。「九条……」 自然に名前が出た。 もし美月が、あの男を選んだら。 その時、自分には何も言えない。 ◇ 翌日、拓也は仕事中も落ち着かなかった。 以前なら、美月がカフェにいる時間はだいたい分かっていた。 シフトを聞けば教えてくれたし、帰りが遅ければ連絡も来た。 今は何も知らない。 仕事に復帰したことさえ、裁判の書面で知った。 何曜日に働いているのか。 何時までなのか。 誰と会っているのか。 どこへ帰っているのか。 全部、分からない。 スマートフォンを手に取り、美月の連絡先を開く。 最後に直接やり取りしたのは、随分前だった。 メッセージを送ろうと思えば送れる。 けれど指は動かなかった。 代理人を通さず連絡しない。 そう言われている。「……分かってるよ」 拓也は画面を閉じた。 今、勝手なことをすれば、また不利になる。 それくらいは理解していた。 ◇ 美月は三度目の勤務を終えたところだった。 まだ二時間だけだが、最初の日より身体は楽になっている。「来週から三時間にしてみる?」
カフェへ復帰する日の朝、美月はいつもより少し早く起きた。 正確には、赤ちゃんに起こされた。 夜中にも何度か目を覚ましているため、十分に眠れたとは言えない。それでも今日は、不思議と気持ちが軽かった。 仕事は二時間だけ。 赤ちゃんは母が見てくれる。 無理だと思ったら、途中でも帰る。 店長ともそう約束していた。「じゃあ、行ってくるね」 眠っている赤ちゃんの頬にそっと触れてから、美月は家を出た。 ◇「美月ちゃん、おかえりー!」 店へ入った途端、店長の大きな声が飛んできた。「ただいま……でいいんですか?」「もちろんよ! でも今日は二時間だからね。調子いいからもう少し、は禁止!」「分かってます」「本当に?」「……たぶん」「ほら!」 久しぶりに笑った。 エプロンを身につけると、懐かしい感覚が戻ってくる。 最初は簡単な仕事だけを任された。 テーブルを片づけ、飲み物を運び、注文を取る。 以前なら何も考えずにできたことなのに、久しぶりだと少し緊張する。「美月ちゃん?」 声をかけられて振り向くと、見覚えのある常連客がいた。「お久しぶりです」「やっぱり美月ちゃんだ。しばらく見なかったから、辞めちゃったのかと思った」「ちょっとお休みしてたんです」「そうだったの。また会えてよかったわ」「ありがとうございます」 ただそれだけの会話だった。 けれど、胸が温かくなった。 ここでは誰も、裁判のことを聞かない。 拓也のことも知らない。 美月はただ、この店で働く店員だった。 ◇ 二時間は思っていたより早く過ぎた。「はい、美月ちゃん終了!」
次の離婚訴訟の期日を前に、美月は藤崎と打ち合わせをしていた。『先方は、現在は問題となる接触をしていないことや、仕事を継続していることなどを挙げ、婚姻関係の修復は可能だと主張しています』「……はい」『朝倉さんの離婚意思について、改めて確認しておきたいのですが』「変わってません」 答えはすぐに出た。「離婚したいです」『分かりました』「拓也が今、前よりちゃんとしてることは悪いことじゃないと思うんです」 美月は少し考えてから続けた。「でも、それで私が戻らなきゃいけないわけじゃないですよね」『もちろんです』「もう一度一緒に暮らして、変わったかどうか確かめてみようとも思いません」 以前なら、相手が努力していると聞けば、自分も応えなければならないような気がしたかもしれない。 けれど今は違う。 拓也がどう生きるかは、拓也自身の問題だ。「私はもう、拓也の妻として暮らしたくないです」 言葉にしても、迷いはなかった。 ◇ 期日当日。 美月は藤崎とともに裁判所へ向かった。 これまで何度も同じような場所へ来ているのに、緊張には慣れない。 それでも今日は、以前とは少し違った。 自分がどうしたいのか、もう分かっている。 拓也を説得したいわけではない。 理解してもらわなければ離婚できないとも思っていない。 ただ、終わらせたい。 そのために来た。 ◇ 一方、拓也は弁護士と打ち合わせをしていた。「美月はまだ離婚したいって言ってるんですか?」『はい。相手方の意思に変更はありません』「俺、もう何もしてませんよね」『現在、代理人を通さない接触は確認されていません』「仕事もちゃんと行ってます」『はい』
拓也は、次の面会について弁護士に相談した。「この前、問題なかったんだから、また会えますよね?」『次回については先方と協議します。初回が問題なく終了したことはこちらにとっても話を進めやすい事情です』「今度はもう少し長くできますか?」『希望としては伝えられます。ただ、最初から大幅な変更を求めるより、まず継続して交流できる形を整える方がいいでしょう』「……分かりました」 以前なら、そこで不満をぶつけていたかもしれない。 けれど拓也は頷いた。 約束を守れば次につながる。 実際、一度は赤ちゃんに会えたのだ。「離婚しても、こういうのは続けられるんですよね?」『もちろん、離婚したからといって親子関係がなくなるわけではありません』「じゃあ、俺はずっと父親なんですよね」『はい』 その答えに安心したはずなのに、妙な違和感が残った。「美月が再婚しても?」『再婚しただけで、あなたとの親子関係が当然になくなるわけではありません』 拓也は眉を寄せた。「……再婚?」『今は仮定の話です』「九条とですか?」『特定の誰かについて申し上げたわけではありません』「でも、離婚したら再婚できるってことですよね」『法的にはそうです』 拓也は黙り込んだ。 今まで、離婚した後の美月について具体的に考えたことがなかった。 離婚を求められても、最後には戻ってくると思っていたからだ。 けれど本当に離婚したら。 美月は自分の妻ではなくなる。 誰と暮らしても、自分には止められない。 そして赤ちゃんも、その家で育つ。「……」『朝倉さん?』「いえ」 拓也は首を振った。「次の面会のこと、お願
面会を終えてからも、拓也はその時の感触を何度も思い出していた。 腕の中に収まった、小さな身体。 途中で泣かれてしまったけれど、それさえ嫌ではなかった。 次はもっと上手に抱ける。 少しずつ慣れていけばいい。 父親としてできることを増やしていけばいい。 けれど、そのたびに弁護士から言われた言葉も蘇る。 ――父親であり続けることと、美月の夫であり続けることは別。「……なんでだよ」 拓也には、どうしても納得できなかった。 子供がいる。 自分は父親で、美月は母親だ。 それなら三人は家族ではないのか。 離れて暮らしている今の方が、おかしいのではないのか。 ◇ 数日後、離婚訴訟について弁護士との打ち合わせがあった。 机の上には、美月側から提出された書面が置かれていた。『相手方は、離婚の意思に変更はないと改めて主張しています』「それは知ってます」『今回、これまでの経緯についても、かなり具体的に整理されています』 拓也は渡された書面へ目を落とした。 不貞。 別居後の連絡。 カフェへの訪問。 美月の居場所を確認するために後を追ったこと。 サービスアパート付近での行動。 警察から注意を受けたこと。 会社への接触。 一つずつ、日付とともに並んでいる。「でも、これ、前の話ですよね」『そうですね』「俺、もうやってないです」『現在は代理人を通じて連絡していることも、こちらから主張しています』「だったら、それでいいじゃないですか」『現在問題を起こしていないという事情は主張できます。ただ、相手方は、これまでの経緯によって婚姻関係が破綻したと主張しています』「だから、俺は変わったって――」『朝







