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第174話

Autor: 八雲詩乃
秘書はすぐに確認へ向かったが、相手はまだ到着していなかった。

そのまま急いで戻り、宗介に報告する。

宗介は鼻で笑った。

この時間になっても来ないとは、ずいぶんと大物ぶっているらしい。

その頃、宗介の到着を聞きつけた人々が、名刺を手に次々と控室を訪ねてきた。

安藤グループの取引先も少なくない。

仕事の場である以上、内心どう思っていようと、表向きの付き合いはこなさなければならない。

気づけば大勢に囲まれ、ほかのことを考える余裕もなくなった。

一方、若葉がまだ会場へ着いていなかったのは、乗っていた車が故障したためだった。

すでに路上で30分近く立ち往生している。

すぐ直ると思っていたが、いまだに修理は終わらない。

車も運転手も、昭夫が手配してくれたものだった。

若葉がこのフォーラムに出席すると知り、送迎を用意すると申し出てくれたのだ。

初め、若葉は断った。

自分でタクシーを呼べば済むのだから、わざわざ会社の車を使う必要はないと思った。

だが昭夫は譲らなかった。

副社長という立場で会議に出席する以上、専用車での送迎は必要だという。

移動の利便性だけでなく、会社
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    宗介は答えなかった。その沈黙で、涼香はかえって確信を深めた。「だから言ったでしょう。あの女、ろくな人間じゃないって。大した能力もないくせに態度だけは大きいし。前に私が連絡したときもそうだったけど、相手があなたでもまるで態度を変えないなんて、いったい何様のつもりなの?」ただでさえ苛立っていた宗介は、涼香の声を聞いているうちにますます鬱陶しくなった。返事もせず、煙草に火をつける。だが感情が高ぶっている涼香は、宗介の顔色が変わったことにも気づかず、そのまま話し続けた。「私に言わせれば、ああいう人にはもっと強く出たほうがいいわ。今度の案件会議で、これまでどんな態度を取られたか、明和バイオ側にも全部伝えたら?社内の人たちにも、あの人がどんな人物なのか知ってもらえばいいのよ」できることなら、司の目の前であの女のこれまでの態度を全部暴いてやりたい。司が怒って解雇してくれれば、もう二度と顔を合わせずに済む。終わりの見えない資料修正に毎日振り回されることもなくなる。そんな想像に浸っていた涼香を、宗介が突然遮った。声には、苛立ちが隠しようもなくにじんでいた。「もういい。出ていけ」涼香は不満だったが、何も言い返さなかった。宗介がどういう人間かは、よく知っている。機嫌がいいときなら、多少わがままを言っても許される。だが一度機嫌を損ねれば、相手が誰であろうと容赦しない。そんなときは、さっさと離れるのがいちばんだった。涼香は取り繕うように言った。「じゃあ、仕事の邪魔にならないように先に出るわ。何かあったら呼んで」自分のオフィスへ戻ると、すぐ拓海にメールを送り、来週月曜日の案件会議に向けて資料を準備するよう命じた。メールで連絡したのは、以前、拓海が自分の指示に従わなかったことに腹を立て、電話を着信拒否にし、LINEまでブロックしていたからだ。それでも仕事では彼を使わなければならない。今のところ、連絡手段はメールしか残っていなかった。指示を出し終えると、涼香はまた一人で考えを巡らせた。月曜日の会議で、あの女の鼻を明かせると思うだけで、笑いがこみ上げてくる。幼い頃から、ここまで屈辱を味わわされたことなど一度もない。何度も駄目出しをされ、冷たくあしらわれるなど、物心がついて以来、ほとんど経験した

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    宗介は一瞬、言葉を失った。それから、信じられないものを聞いたように問い返す。「俺が誰なのか、きちんと説明したのか?」「はい」「なら、さっき俺が壇上で話していたのも見ていただろう?」「おそらく。あの時点では、すでに会場にいらっしゃいましたので」「つまり、俺が誰かも知っていて、今日わざわざ会いに来たこともわかっていて、壇上で話しているところまで見たうえで、それでも断ったということか?」宗介は、一つ一つ確かめるように言った。自分がわざわざここまで出向いたというのに、それでも顔を立てようとしない。そんな相手がいること自体、信じられなかった。「彼女はどこだ?」宗介は秘書に怒鳴った。「もう会場を出られました」「どっちへ行った?」「あちらです」秘書が指した方向へ、宗介はすぐに歩き出した。相手がいったいどんな女なのか、今度こそ自分の目で確かめてやるつもりだった。しばらく進むと、確かに一人の女性が見えた。ガラス扉を隔て、宗介は建物の中、あの女は外でタクシーを拾おうとしている。宗介は足を速め、回転ドアを抜けた。あと少しで追いつくというところで、女はタクシーに乗り込み、そのまま走り出してしまった。諦めきれず、宗介は車に向かって声を張り上げた。「停まれ!」車内の若葉は気づかなかった。運転手に声をかけられて、初めて後ろを振り返る。「お客さん、後ろで誰か呼んでますけど、停めますか?」「そうですか?」若葉が振り返ると、風の中に立つ宗介の姿が目に入った。途端に眉を寄せ、すぐ運転手へ向き直った。「そのまま行ってください。知らない人です」宗介は、遠ざかっていく車を見送るしかなかった。行き場のない苛立ちを持て余し、その場を何度か歩き回る。これまではただの疑いだった。だが、これではっきりした。あの女は、意図的に自分を避けている。それでも、いくら考えても、自分がいつ彼女の恨みを買ったのか思い当たらなかった。冷たい風が吹きつけ、宗介の頭も少しずつ冷えていく。先ほど見た後ろ姿を思い返すと、不思議なくらい若葉に似ていた気がした。宗介は鼻で笑った。今日だけでも、これで2度目だ。あの女を若葉に似ていると思うなど、どうかしている。あり得ないことは、自分がいちばん

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    ほどなく、宗介が壇上へ上がっていく姿が見えた。上質なオーダーメイドのスーツに、同系色でまとめたネクタイとカフリンクス。髪も隙なく整えられ、身なりに十分手をかけてきたことが一目でわかる。案の定、壇上に姿を現しただけで、会場にはざわめきと大きな拍手が広がった。皆、あの外見に惑わされているのだと、若葉にはすぐわかった。かつての自分も、そうだった。だが実際に接し、どんな人間かを知ってしまえば、見た目がいいだけの男だとわかる。嫌いになってしまえば、整った顔さえ目に入れたくなくなるものだ。今の若葉が、まさにそうだった。宗介という人間が嫌いすぎて、声も顔も受けつけない。理屈ではなく、身体のほうが拒んでいた。顔を見た途端、思わず眉間にしわが寄った。そのため宗介が話している間、若葉はずっとうつむき、眉を寄せたまま、手元の資料をめくって意識をそらしていた。壇上の宗介も、彼女が会場へ来たことには気づいていた。ただ、終始うつむいていたため、顔までは見えない。それでも遠目に見ただけで、かなりの美人だとわかった。物静かで、どこか上品な雰囲気がある。一瞬、若葉に似ているようにも思えた。面白い。見た目はあれほど柔らかそうなのに、やることはずいぶん頑なだ。早く直接、顔を合わせてみたい。だが今は壇上にいる。遠くから眺めることしかできなかった。11時近くになり、フォーラムは終了した。3時間にわたる講演もすべて終わり、ここからは参加者同士が自由に交流する時間となる。壇上で注目を集めていた宗介の周囲には、終了と同時に多くの人が押し寄せた。すぐには動けそうにない。そこで秘書を先に向かわせ、自分もあとから行くと伝えさせた。秘書は指示どおり、若葉のもとへ向かった。彼は入社したばかりで若葉のことを知らず、以前安藤グループに勤めていたことも知らない。いつもの商談と同じつもりで、宗介からの申し出を伝えた。初め、若葉は単に名刺交換に来たのだと思い、ほかの参加者と同じように、明るく丁寧に応じた。だが宗介の代理だと聞いた途端、眉をひそめた。もちろん、秘書を責めているわけではない。彼も仕事で命じられて来ただけだということは、若葉にもわかっていた。それでも、嫌悪感までは抑えきれない。若葉

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    秘書はすぐに確認へ向かったが、相手はまだ到着していなかった。そのまま急いで戻り、宗介に報告する。宗介は鼻で笑った。この時間になっても来ないとは、ずいぶんと大物ぶっているらしい。その頃、宗介の到着を聞きつけた人々が、名刺を手に次々と控室を訪ねてきた。安藤グループの取引先も少なくない。仕事の場である以上、内心どう思っていようと、表向きの付き合いはこなさなければならない。気づけば大勢に囲まれ、ほかのことを考える余裕もなくなった。一方、若葉がまだ会場へ着いていなかったのは、乗っていた車が故障したためだった。すでに路上で30分近く立ち往生している。すぐ直ると思っていたが、いまだに修理は終わらない。車も運転手も、昭夫が手配してくれたものだった。若葉がこのフォーラムに出席すると知り、送迎を用意すると申し出てくれたのだ。初め、若葉は断った。自分でタクシーを呼べば済むのだから、わざわざ会社の車を使う必要はないと思った。だが昭夫は譲らなかった。副社長という立場で会議に出席する以上、専用車での送迎は必要だという。移動の利便性だけでなく、会社としての体面にも関わるのだと説明された。実際には、もっと大きな理由があった。だが、それを昭夫が口にすることはなかった。若葉を一人で会議へ行かせ、会社が車すら用意していなかったと司に知られたら、ただでは済まない。若葉の移動から宿泊、食事に至るまで、すべて社内最高水準で手配するよう、司からとっくに指示されていたのだ。そこまで言われては、若葉も断れなかった。まさか途中で、こんなことになるとは思ってもいなかったが。運転手は、実直そうな中年男性だった。車が故障してからというもの、何度も若葉に頭を下げている。どうやら職を失うのが怖いらしい。会社には報告しないでほしいと、今にも泣きそうな顔で頼み込んできた。若葉は気の毒になり、会社には言わないと約束した。ただ、このままではフォーラムに遅れてしまう。いつまでもここで待っているわけにはいかなかった。そこで、自分はタクシーで向かうから、運転手はここに残って修理を続けるよう提案した。運転手はおとなしくうなずいた。苦情さえ入れられなければ、若葉の言うとおりにするつもりらしい。結局、若葉は路上でタク

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    静かな場所へ移動すると、宗介は聞き返した。「今、何と言った?もう一度言え」「彼女の直近の予定がわかりました。来週水曜日、深津市で開かれるバイオテクノロジー・フォーラムに出席する予定です」秘書はおそるおそる答えた。宗介の機嫌を損ねないよう、余計なことは一切口にしない。実は、明和バイオの副社長の名前も、すでに調べがついていた。参加者名簿には、「安藤若葉」と記載されている。だが、その名前を聞いた宗介がどう反応するのかまではわからない。不用意に口にするのは避けたほうがいい。そう判断した秘書は、宗介と同じように、無難に「彼女」とだけ呼ぶことにした。「正確な日時と場所を確認しろ。それから、その日の予定は全部空けておけ。俺も出る」「かしこまりました」水曜日、宗介は秘書が手配した車で、フォーラム会場となる深津コンベンションセンターへ向かった。出発前、ちょうど涼香が訪ねてきた。出かけようとしている宗介を見て、どこへ行くのか尋ねる。宗介は隠すことなく答え、ついでに一緒に行くかとも聞いた。だが涼香は、あの女に散々振り回されたことを思い出しただけで気が滅入った。またあの冷たい態度を見せられるくらいなら、わざわざ足を運ぶ気にはなれない。結局、車に乗ったのは宗介と秘書だけだった。「今回の参加者名簿を見せろ」どんな顔ぶれが集まるのか、先に把握しておきたかった。知り合いに会う可能性もある。それに、もうすぐ明和バイオの副社長と直接顔を合わせるのだ。せめて名前くらいは確認しておくべきだろう。秘書は参加者名簿も当日の進行表も、すでに用意していた。さらに宗介の参加を知った主催者側から、短い講演まで依頼されている。秘書は一式をまとめて差し出した。「こちらです。スピーチ原稿も用意しておりますので、ご確認ください。修正が必要でしたら、すぐに対応いたします」「ああ」宗介は書類を受け取った。原稿にひととおり目を通し、次に名簿を確認しようとした、そのときだった。取締役から電話が入った。宗介は何気なく、書類を隣の座席へ置く。その手が押さえていたのは、ちょうど若葉の名前が記された箇所だった。だが本人はまるで気づかず、意識はすべて電話に向いている。通話中、何度か書類に手を触れたものの、結局

  • 妻を3年単身赴任させた夫。離婚宣告で執着?    第172話

    二つ目は、明和バイオの案件を担当する副社長との面会についてだった。秘書が宗介の名で申し入れたものの、相手は取りつく島もなく断り、交渉の余地さえ残さなかった。「そうか」報告を聞いた宗介は、冷たく笑った。面白い女だ。これまで、自分の誘いを何度も断る女など見たことがなかった。若葉のことには執着している。だが、物事の優先順位くらいはわかっている。若葉の件は急がなくてもいい。それより今は、明和バイオの副社長と一刻も早く会う必要があった。宗介は秘書に命じた。「一つ目は後回しでいい。先に二つ目を片づけろ。彼女の直近の予定を全部調べろ」正攻法で会えないなら、別の手を使えばいい。「かしこまりました。すぐに手配いたします」電話を切るなり、聡がからかうように言った。「こんな時間まで仕事の電話か。相変わらず仕事人間だな」宗介は否定しなかった。ふと、秘書が口にした「表には出ない後ろ盾」のことを思い出し、そのまま皆にも話した。佳奈や克彦を使って若葉を動かそうとした件は、彼らも知っている。だから事情はすぐに伝わった。その中で、和之だけは話を聞き終えると眉をひそめた。彼はこのところ、宗介の意向に反することを密かに進めていた。多少の後ろめたさはあった。だが今の話を聞くと、むしろ動き出すのが遅すぎたとさえ思えた。もともとは、若葉のために始めたことだった。だが改めて考えてみれば、たとえ若葉との縁がなかったとしても、あれほど明るくのびのびとした女性が理不尽に追い詰められているのを見れば、きっと手を差し伸べていただろう。宗介が話し終えると、最初に口を開いたのは聡だった。「その件なら和之に聞けばいいだろ。深津市のそういう裏事情なら、こいつ以上に詳しいやつはいない」それは事実だった。彼らの家はいずれも大きな力を持っているが、主な基盤は財界にある。政界への影響力となれば、芳賀家に並ぶ家はそう多くない。和之の父や祖父はもちろん、さらに何代も前から、芳賀家は深津市で確かな地盤を築いてきた。ところが和之は、あっさり断った。「時間がない」「時間がない?最近、何してるんだ?」聡は不思議そうに尋ねた。「いつも一番暇だっただろ。家から口出しされることもないし、何か任されてるわけでもなかった

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