スマホが震えた。
枕元のテーブルに置きっぱなしにしていた携帯が、静かに、けれど確かに鳴っている。 時計を見ると、もう午前零時を過ぎていた。 深夜の着信は、それだけで心臓に小さな鈍い痛みをもたらす。佐山は、画面を覗いた。
「母親」の文字が浮かんでいた。 母から電話が来るなんて、滅多にない。 普段はLINEで済むやりとりばかりだ。 「元気?」とか「風邪引いてない?」とか、スタンプを添えて短く送られてくるだけで、それに「大丈夫だよ」と返せば、会話は終わる。電話は、何かが起きたときのものだ。
悪い予感が、体の奥を冷たく這い上がってくる。 指先が勝手に震えた。それでも佐山は、通話ボタンを押した。
「もしもし」
声がかすれている。自分でも、こんな声が出るのかと思うほどだった。
電話の向こうからは、しばらくの間、息を呑むような気配しか聞こえなかった。
空白の時間。 次に何を言われるのか、分かりきっているのに、それを待つことしかできなかった。やがて、母親のかすれた声が漏れた。
「悠人……」
かすれた呼びかけだけで、心臓がぎゅっと縮む。
「どうしたの」
そう聞き返すと、母はさらに震えた声で続けた。
「悠人……あ、あずさが……あずさが……死んだのよ……」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「は?」
短い疑問の声が、口をついて出た。
意味が分からなかった。 分かるわけがなかった。「……あずさが、死んだのよ……」
母は、絞り出すように繰り返した。
涙声で、呼吸が乱れている。 それでも、「死んだ」という言葉だけは、はっきりと聞こえた。佐山の頭の中が、真っ白になった。
時間が止まったようだった。 さっきまで、部屋の時計の秒針がコツコツと鳴っていたはずなのに、今はもう何も聞こえなかった。「……嘘だろ」
それだけしか言えなかった。
「嘘じゃない……本当よ……」
母は、嗚咽混じりに答えた。
「さっき、警察から連絡が来たの……」
その言葉に、現実感が一気に押し寄せた。
警察、という単語が、佐山の胸に冷たい刃のように突き刺さる。「何で……」
声が震えていた。
喉がうまく動かない。「何で死んだの」
「……わからない……でも……」
母は言葉を詰まらせた。
電話の向こうで、何かを探るように息を呑んでいる。「警察が言ってたの。……飛び降りだって……」
その言葉が、耳の奥で反響する。
飛び降り。 梓が。 姉が。「そんなわけ……」
言いかけて、言葉を飲み込んだ。
姉が死ぬはずがない。
あの姉が。 ついこの間、「またね」とLINEをくれたばかりだったじゃないか。 「仕事、頑張ってね」って、笑ってたじゃないか。 どうして、そんな姉が死ぬんだ。「悠人……」
母の声は、もう涙でぐちゃぐちゃだった。
「ごめんね……こんな時間に……でも……私も、どうしたらいいか……」
「……場所は?」
佐山は、無理やり口を動かした。
「どこで?」
「……中央区のビル。勤務先の近く……
警察から連絡があって、すぐに病院に運ばれたって……」母の声は震え続けている。
「悠人……あずさが……
……いないのよ……」佐山は、スマホを握りしめたまま、冷たい汗が手のひらにじっとりと滲んでいくのを感じていた。
手の感覚が、どんどん麻痺していく。「……わかった。行く」
それだけ言って、佐山は通話を切った。
母のすすり泣きが、最後に耳に残った。部屋の中は、また静かになった。
でも、さっきまでの静けさとは違った。 今はもう、何も聞こえなかった。 自分の呼吸の音すら、遠く感じる。佐山は、ゆっくりと立ち上がった。
足元がふらつく。 冷蔵庫の横に置いたバッグを掴もうとしたが、手が震えている。 思うように動かない。 頭の中が、ぐるぐると同じ言葉を繰り返している。「姉さんが死んだ」
「梓が死んだ」意味が分からなかった。
でも、それが現実だった。なぜ。
どうして。 何があった。 なぜ、俺は気づかなかった。佐山は、玄関に向かいながら、壁に手をついた。
膝が少し笑っている。 靴を履こうとしても、手がうまく動かない。目の奥が痛む。
でも、泣けなかった。 涙なんて出るわけがなかった。心臓だけが、どくどくと脈を打っている。
全身が冷たく、痺れたようになっていた。「……姉さん」
口の中で呟いた。
けれど、その声もかすれて、耳には届かなかった。佐山は、缶コーヒーを渡した手をゆっくりと引っ込めた。隣の椅子に腰を下ろし、佐伯の横顔をちらりと見た。蛍光灯の光が、佐伯の頬に淡く影を作っている。眉間に刻まれた皺は、疲労のせいか、それとも年齢のせいか。いや、そうではない。心の中に積もった「何か」が、表情に滲んでいるだけだと佐山は知っていた。「佐伯部長も、今日は遅いですね」佐山は、あえて形式的な言葉をかけた。普通の新人なら、ここで「お疲れ様です」とだけ言って去る。だが、それでは何も始まらない。だからこそ、あえて声をかけた。佐伯は、缶コーヒーを口に運びながら答えた。「まあな。今週は案件詰まってるから」声は、柔らかい。だが、そのトーンには疲れが混じっていた。演技でも、取り繕いでもない。本当に、心から疲れている声だった。「大変ですね」佐山は、言葉を重ねた。だが、その声色はあくまで穏やか。「労わる部下」の顔を崩さず、相手の懐に入り込む。その距離感を計算しながら。佐伯は、資料に目を落としたまま缶を握っている。右手のペンは、いつの間にか止まっていた。それだけで、佐山には手応えがあった。「……」佐伯は何も言わなかった。ただ、缶コーヒーを握る手に力が入っているのが見えた。缶がわずかにへこんでいる。それは、誰にも気づかれない程度の小さな変化。だが、佐山は見逃さなかった。「……部長って」佐山は、少しだけ間を置いた。呼吸を整える。その一瞬の「ため」が、言葉を重くする。「寂しい時、ないですか」言った瞬間、佐伯の肩がぴくりと動いた。缶コーヒーを持つ手が、ほんの一瞬だけ止まった。佐山は、その動きを見逃さなかった。「何だよ、それ」佐伯は、冗談めかして笑っ
午後七時を過ぎると、フロアの空気は昼間とまるで違っていた。窓の外は、薄い雨が街灯の光を滲ませている。オフィスの蛍光灯は、昼間よりも青白く感じた。誰もが帰路につき、静かな空間に残されたのは、わずかな残業組だけだった。その中に、佐伯の背中があった。営業部のエース。誰もがそう呼ぶ男の背中は、しかし今、妙に小さく見えた。資料に目を落とし、黙々とページをめくる。肩は真っ直ぐだが、どこか力が抜けている。スーツの背中に浮かぶ皺が、疲れを映していた。佐山は、デスクの向こうからその背中を見ていた。手元では、会社支給のタブレットをいじるふりをしている。だが、実際はほとんど画面を見ていなかった。視線は、ずっと佐伯に向けられている。佐伯の右手が、ペンを持ったまま小刻みに回る。人差し指と中指でくるりと回し、また戻す。その動作が止まらない。考え事をしている時、佐伯はよくその癖を出す。佐山は、初日からそれを観察していた。「頼れる先輩」と呼ばれる男は、こうやって隙間を晒す。肩に滲む疲れ。目の下の薄いクマ。ペン回しの癖。そして、誰にも頼れない空気。それは、まるで無意識に貼り付けられた「孤独」のラベルのようだった。佐伯は営業のトップだ。案件の進捗管理、クライアント対応、新人教育。誰よりも頼られ、誰よりも期待される。それは当然のこととして、彼の肩に乗せられていた。だが、佐山にはわかる。その期待が、じわじわと彼を蝕んでいることを。「家庭でも、きっとそうなんだろう」佐山は心の中で呟いた。佐伯の家庭は、表向きは「理想の夫婦」だ。妻は美咲。会社の上層部とつながりがあり、美咲自身も部下を持つ管理職。そんな女と結婚している男には、「完璧な夫」でいることが求められる。仕事もできて、家庭も支えて、常に余裕を持つ男。世間が求める「理想の男」
ロッカー室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。業務が終わると、オフィスの空気は急速に弛緩する。誰もが疲労と余韻を抱え、私語も減る。だが、その静けさの中で、佐山はひとり、ネクタイを外していた。手首の動きは、淡々としていた。今日一日つけていたネクタイをゆるめ、首元から滑らせる。その感触は、まるで舞台の小道具を外す感覚に似ていた。鏡越しに、自分の顔を見た。笑ってもいないし、怒ってもいない。ただ、穏やかな顔。何の変哲もない、仕事帰りの若い男の顔。しかし、その内側では別の表情があった。「これは、ただのゲームだ」心の中で、佐山はゆっくりと呟いた。今日一日、美咲が与えてきた言葉や視線を、何度も思い返す。「分からないことは私に聞いて」「佐山さん、頑張って」「また一緒に案件出そうね」その一つ一つが、彼女の「所有欲」を満たしていた。自分を「選んだ側」の優越感。自分が「導く側」だと信じ込んでいる快感。佐山は、それを冷静に観察していた。だが、その快感を与えているのは、他でもない自分だ。与えているふりをしているだけ。その事実が、胸の奥でじわじわと熱を持って広がる。ネクタイを丁寧に丸め、鞄の中にしまう。その動きもまた、儀式の一部だった。舞台が終わった後の、衣装を脱ぐ時間。だが、心はまだ舞台の上にいる。本番は、これからだ。ロッカーに鍵をかける指先は、決して震えなかった。それどころか、静かな快感に満ちていた。姉を奪った女に、今、懐かれていると錯覚させている。その倒錯が、何よりも自分を満たしていた。「俺は、悲しんでなんかいない」それも、心の中で繰り返した。泣きたいわけじゃない。怒っているわけでもない。ただ、ゲームをしているだけだ。役割を与えられたふりをして、自分が主導権を握るゲーム。
美咲は、休憩室でコーヒーを淹れていた。昼休み明けのわずかな隙間時間。業務に戻る前の、ほんの数分の儀式だ。コンビニで買ってきたペットボトルの水をポットに注ぎ、インスタントのコーヒーをカップに入れる。ステンレスのスプーンがカップの底に触れて、かちゃりと音を立てた。部下たちは、誰もこの時間に声をかけてこない。それが普通だ。部長が一人でいる時は、そっとしておく。誰もがそういう距離感を守っている。それが、役職者という立場だった。だからこそ、美咲は一瞬だけ戸惑った。背後から、柔らかい声がかかった。「部長、ブラックなんですね」振り向くと、佐山が立っていた。距離が、近い。同じフロアで働く者同士としては、ぎりぎり不自然にならない範囲の距離。だが、他の社員なら絶対に取らない距離だった。美咲は、ほんの一瞬だけ動揺した。だが、それを表には出さなかった。軽く笑って、カップを手に持ち替える。「そうよ。朝は砂糖入れるけど、昼はブラックって決めてるの」「へえ」佐山は、ほんのわずかに目を細めた。その表情は、単なる好奇心にも見えたし、懐いている年下の顔にも見えた。美咲は、心の奥に微かな快感を覚えた。「この子、私に気を許してる」そう錯覚する感覚。いや、錯覚だとは思いたくなかった。自然な距離感のように見せかけて、確かに「特別な何か」を感じさせる。佐山はそういう雰囲気を纏っていた。「いつもブラックなんですか?」「うん、まあね。大人になるとそうなるの」「大人、ですか」佐山は、目を伏せて小さく笑った。その声のトーンが妙に耳に残った。ただの雑談のはずなのに、胸の奥をかすかに撫でられるような感覚。美咲は、それを気のせいだと自分に言い聞かせた。「砂糖とかミルクは、使わないんですね」「そう。甘いのは仕事
昼休みの時間になった。フロアの空気が一斉に緩む。それまでキーボードを叩いていた指が止まり、椅子が軋む音があちこちから聞こえる。誰かがコンビニの袋を持って戻ってきた。別の誰かは、エレベーターの方へ向かう。社内の食堂に行く者、デスクで弁当を開く者、スマホをいじる者。それぞれの昼休みが、平等に流れていく。佐山は、そんな風景の中で、あえて席を立たなかった。弁当を買いに行くふりをしてトイレに立つこともできたが、あえて美咲の近くに残った。手元の資料をゆっくりめくる。顔は穏やかに、眉間には少しだけ困ったような皺を寄せて。「部長」佐山は声をかけた。柔らかい声だった。呼ぶときだけ、少しだけトーンを落とす。それが、年下の男の「甘える時の声」に自然と聞こえるように。美咲は顔を上げた。昼食のサラダにフォークを差し込んだまま、佐山の方を見た。「どうした?」佐山は、手元の資料を見せた。営業用のプレゼン資料。新規クライアント用の提案書のテンプレートだった。「これ、フォーマットは分かるんですけど、実際に使う場面って、どういう順番で話すのがいいんでしょうか」「順番?」「はい。例えば、先に課題を聞いてから提案するのか、それともこちらから先に商品説明をするのか。今までの職場だと、決まった形しかなかったので」美咲は、ほんのわずかに唇を緩めた。その顔には「教えてあげる側の快楽」がにじんでいた。上司として、部下に頼られること。しかも、こんな美形の部下に。その構図自体が、美咲には心地よかった。「基本は、相手の状況を聞いてから提案よ。だけど、相手によっては、最初にプレゼンしちゃった方が話が早い時もある。ケースバイケースかな」「なるほど…」佐山は、わざと少し首をかしげた。眉を寄せる。唇を少しだけ噛む。その仕草は、完全に「懐いている年
美咲は、自分のデスクから佐山の横顔をちらりと見た。黒髪がきれいに撫でつけられている。耳のあたりにかかる髪の流れも、襟足も、整っているのにわざとらしさがなかった。その自然さが、かえって目を惹く。美咲は、心の中で「やっぱり顔がいい」と思った。派遣で入れた新人にしては、思った以上の収穫だった。実務能力はこれから見ていけばいい。だが、顔だけは最初から決まっている。それは、美咲にとって大きな武器だった。営業職は、見た目も仕事のうち。そういうことは、この業界では暗黙の了解だった。特にクライアント対応の場では、第一印象で八割が決まる。男でも女でも、顔が良ければそれだけで信用されることがある。美咲は、そこに快感を覚えていた。「選ぶ側」の立場。「使う側」の快楽。自分のチームに、誰を置くかは自分が決める。その決定権を持っていることが、美咲の自尊心をくすぐった。佐山は、物静かで礼儀正しい。控えめに見えるが、返事はきちんとしている。目を見て話す。けれど、決して出しゃばらない。絶妙な距離感だった。「これは使えるな」美咲は、心の中で確信していた。イケメン部下は、単なる飾りではない。その存在は、自分の立場を高める。他の女性社員たちが、佐山をちらちら見ているのも気づいていた。「私が選んだ部下よ」そういう所有感が、美咲の胸に広がっていた。午前中の業務が一段落したころ、美咲は立ち上がり、佐山のデスクに近づいた。後ろから声をかける。「佐山さん、慣れた?」佐山は椅子を回し、美咲を見上げた。その目が、一瞬だけ柔らかく緩んだ。美咲は、その変化に気づいた。だが、表情には出さない。気づかないふりをする。「はい。まだ分からないことばかりですけど、頑張ります」佐山の声は低くて穏やかだった。耳に心地