姉は死んだ。 上司の女に追い詰められ、パワハラによって自ら命を絶った。 佐山悠人はその日から、復讐だけを目的に生きてきた。 加害者である女と、その夫。 ふたりの心と身体を壊すため、佐山は綿密な計画を立てた。 女には年下の部下として接近し、男には禁忌の扉を開かせる。 「抱かれているのは、どちらだ?」 「支配しているつもりが、支配されている」 復讐と快楽は、いつも隣り合っている。 壊しているはずが、壊されていく。 ふたりを堕とすたび、佐山の心も少しずつ蝕まれていく。 これは愛じゃない。赦しでもない。 背徳と快楽、復讐と依存が交錯する、濃密な心理官能ドラマ。 あなたはどこまで堕ちる覚悟がありますか?
View More部屋の時計が午後十一時を告げると、佐山悠人は箸を置いた。
テーブルの上には、開きかけたコンビニ弁当が中途半端に残っている。白米が少し、から揚げが二つ、ぬるくなったポテトサラダが端に寄っていた。口の中には、まだ油の味が残っているのに、もう何も食べたくなかった。
仕事帰り、無意識に寄ったコンビニで手に取った弁当だったが、いま思えば別に腹が減っていたわけでもなかった。食べることも、眠ることも、どこか惰性でやっている。手元のスマホが、ふと光った。画面にはSNSの通知が並んでいる。佐山はそれを無視して、LINEを開いた。
履歴をスクロールすると、数日前の姉・梓からのメッセージが目に入った。「仕事、大丈夫?無理しないでね」
その下に、もう一つ。
「またね」
たったそれだけだった。
でも、その「またね」が、妙に胸に引っかかる。「またね」と言われると、普通は「また近いうちに会おう」という意味だと受け取る。
けれど、あのときの梓の「またね」には、どこか終わりの予感があった。 わかるはずがないのに、そんな気がした。佐山はスマホの画面を消し、天井を見上げた。
雨は、もう止んでいた。 窓の外では、街灯の光が濡れたアスファルトに滲んでいる。 雨上がりの湿った匂いが、窓の隙間から微かに流れ込んできた。「またね、か」
小さく呟く。
梓の言葉が、頭の奥で反響していた。 思い返せば、最近、姉の声をちゃんと聞いていなかった。 電話ではなく、LINEばかりだった。 顔を見たのも、もう一ヶ月前だ。 「忙しいから」と自分から会うのを先延ばしにしていた。あの日、梓は少し疲れた顔をしていた。
でも、いつものように笑って、「悠人は元気そうだね」と言った。 食事の途中で、佐山の皿にサラダを移しながら、「ちゃんと野菜も食べなさいよ」と笑っていた。その顔が、今もはっきり思い出せる。
けれど、それはもう「過去」になってしまったのかもしれない。 「またね」と言われたのに、次があるとは限らない。佐山はソファに身体を沈めた。
背中が沈み込む感触が、やけに冷たく感じた。 目を閉じると、姉の声が耳の奥で揺れる。「悠人、ちゃんと食べてる?」
「無理しすぎないでよ」
「またね」
その「またね」が、心に張り付いて離れなかった。
不安が喉の奥を締めつけるように広がる。 けれど、佐山はその感覚を、ゆっくりと呼吸することで押し殺した。「今度、飯でも行こう」
ぽつりと呟いた。
自分に言い聞かせるように、未来の約束をすることで安心したかった。 次に会えば、もっとちゃんと話そう。 最近どうなのか、仕事はどうか、身体は大丈夫か。 そんなこと、もっと早く聞いておけばよかったのに、いつも後回しだった。佐山はスマホを握りしめた。
通知をすべて消して、画面を伏せた。 それでも、心のどこかで、またすぐに姉から連絡が来るような気がしていた。いつもの「悠人、元気?」というスタンプ。
いつもの「またね」の文字。そんなやりとりが、これからもずっと続くと思っていた。
当然のように。 何の根拠もなく。部屋の中は、静かだった。
雨が上がったあとの夜は、やけに冷える。 外の車の音も、人の声も遠く、時計の秒針だけが、コツコツとリズムを刻んでいた。佐山は目を閉じ、深く息を吸った。
肺の奥まで、冷たい空気が入り込む。 それが少しだけ、心を落ち着かせる気がした。「今度、ちゃんと会おう」
もう一度、口の中で呟いた。
ただ、それが「最後になるかもしれない」ということだけは、
まだ考えたくなかった。美咲は、自分のデスクから佐山の横顔をちらりと見た。黒髪がきれいに撫でつけられている。耳のあたりにかかる髪の流れも、襟足も、整っているのにわざとらしさがなかった。その自然さが、かえって目を惹く。美咲は、心の中で「やっぱり顔がいい」と思った。派遣で入れた新人にしては、思った以上の収穫だった。実務能力はこれから見ていけばいい。だが、顔だけは最初から決まっている。それは、美咲にとって大きな武器だった。営業職は、見た目も仕事のうち。そういうことは、この業界では暗黙の了解だった。特にクライアント対応の場では、第一印象で八割が決まる。男でも女でも、顔が良ければそれだけで信用されることがある。美咲は、そこに快感を覚えていた。「選ぶ側」の立場。「使う側」の快楽。自分のチームに、誰を置くかは自分が決める。その決定権を持っていることが、美咲の自尊心をくすぐった。佐山は、物静かで礼儀正しい。控えめに見えるが、返事はきちんとしている。目を見て話す。けれど、決して出しゃばらない。絶妙な距離感だった。「これは使えるな」美咲は、心の中で確信していた。イケメン部下は、単なる飾りではない。その存在は、自分の立場を高める。他の女性社員たちが、佐山をちらちら見ているのも気づいていた。「私が選んだ部下よ」そういう所有感が、美咲の胸に広がっていた。午前中の業務が一段落したころ、美咲は立ち上がり、佐山のデスクに近づいた。後ろから声をかける。「佐山さん、慣れた?」佐山は椅子を回し、美咲を見上げた。その目が、一瞬だけ柔らかく緩んだ。美咲は、その変化に気づいた。だが、表情には出さない。気づかないふりをする。「はい。まだ分からないことばかりですけど、頑張ります」佐山の声は低くて穏やかだった。耳に心地
朝8時半。フューチャーリンク広告のエントランスは、もうすでに社員たちの足音で満ちていた。スーツの擦れる音と、ヒールの小さな音。エレベーターのドアが開くたびに、ぴりっとした空気が立ち上る。オフィス街の朝は、いつもこんなふうに始まる。曇った空からは、湿気を帯びた光が差し込んでいた。梅雨入り前の重たい空気。けれど、佐山はその湿度すらも、体の内側で切り離していた。エントランスのガラスは、朝の光を反射している。そこに映る自分の姿を、佐山は一瞥した。黒いスーツ。ネクタイは少し緩め。だが、それは計算の上だった。新入りらしい「まだ慣れていない雰囲気」を演出するための、わざとらしい微調整。髪は整えすぎず、ラフすぎず。目元には、柔らかい笑みの気配を残している。「今日は、舞台に立つ日だ」心の中で、佐山はそう呟いた。高揚感が、皮膚の内側を静かに滑っていく。名札を受け取る指先が、わずかに震えている。だが、それは不安からくるものではなかった。ゲームの開始を知らせる合図だ。震えは、むしろ快感だった。受付嬢がにこやかに「おはようございます」と頭を下げた。佐山は、同じように会釈を返す。だが、心の中では「舞台装置が動いている」と冷静に観察していた。エレベーターに乗ると、他の社員が「今日からですか?」と声をかけてきた。柔らかい表情。新入りに対する慣れた対応。佐山は、その空気に違和感なく溶け込む。「はい。今日からお世話になります」口角を少しだけ上げる。目元もわずかに緩める。だが、内心では全てを俯瞰していた。自分は「懐に入り込むための準備」をしているだけだ。ここでの笑顔も、言葉も、全てはゲームの駒に過ぎない。エレベーターのドアが開くと、フロアの空気が変わった。白い蛍光灯が天井一面に並び、オフィスの机が整然と並んでいる。パソコンのディス
美咲は、履歴書を机の上に戻した。白い指先が紙を滑らせると、会議室の中にわずかな摩擦音が響いた。その動作は、あまりに無造作で、あまりに当然のものだった。選ぶ側の人間が、いつもやる手つき。そこには迷いがなかった。「佐山さん」美咲は、再び佐山の目を見た。その視線は、すでに「決めた」という色を帯びている。形式的な確認ではなかった。もう、採用は確定している。美咲の中で、それは決定事項だった。「うちで、やってみましょうか」声は柔らかかった。しかし、その柔らかさの裏にある「選ぶ側の優越」は隠しきれない。自分が「許可を与える」立場だという自覚が、声色に滲んでいる。支配する側の女の声音だ。佐山は、それを静かに受け止めた。「ありがとうございます。よろしくお願いします」佐山は、頭を下げた。けれど、その内心では、すでに冷たい達成感が広がっていた。理由は分かっている。美咲が自分を選んだのは、能力でも経歴でもない。「顔がいいから」「営業職にも使えそうだから」それだけだ。美咲の中では、それで十分だった。「営業に出すときは、見た目も大事だからね」美咲は、軽く笑いながらそう言った。それは、冗談のように聞こえるが、本心だった。佐山は、その言葉を否定せず、ただ柔らかく頷いた。「はい。自分にできることを頑張ります」その答え方も、計算している。謙虚でありながら、使いやすそうな男を演じる。言葉のトーンも、目線も、全てを調整している。だが、その裏では、別の感情が確かに蠢いていた。「これで準備は整った」心の中で、佐山は呟いた。冷たい言葉だった。だが、それは確実に自分のものだった。美咲は、採用を決めた自分に満足していた。この男は使いやすい。顔がいい。営業先にも
美咲は、机の上に置かれた履歴書を手に取った。白い指先が、さらりと紙を滑らせる。目元は笑みを浮かべたままだが、視線は冷静に文字を追っていた。採用面接に慣れた人間特有の動作。選ぶ側の余裕が、そこには確かにあった。「佐山悠人さん、ですね」美咲は、履歴書の左上にある名前を、もう一度確認した。佐山悠人。その文字を見ても、美咲の表情は変わらない。特に何も思わなかった。当然だ。「篠田」の名前は、どこにもなかった。佐山は、心の奥で小さく笑った。唇には出さない。顔の表情も微動だにしない。だが、心の中でははっきりと「ほらな」と呟いた。「佐山」――父親の姓だ。両親が離婚したとき、姉は母方に、弟は父方に引き取られた。その結果、苗字が違う。たったそれだけのこと。だが、その「たったそれだけ」で、目の前の女は何も気づかない。美咲は、履歴書の内容をざっと流し読みしている。学歴、職歴、資格。どれも特に目立つところはない。だが、問題にしなかった。美咲が求めているのは「顔」だ。使えるかどうか、それだけが基準になっている。「佐山さん、前職は営業事務だったんですね」美咲は、形式的に質問を続ける。佐山は、穏やかに頷いた。「はい。営業職の方をサポートしていました。実績としては表に出ませんが、少しずつ数字に関われる仕事をしたくて、今回応募しました」美咲は、また笑った。営業事務から営業職へ。派遣としてのスタートなら、そういう人材はいくらでもいる。それにしても、この顔なら営業に出しても問題ない。むしろプラスだ。「ふうん」美咲は、履歴書を指先で軽く弾いた。その音が、わずかに会議室に響いた。「お姉さんか妹さん、いらっしゃるの?」唐突な質問だった。面接というより、雑談の延長。
佐山は、椅子に軽く背を預けたまま、丁寧に答えていた。言葉遣いも表情も、完璧に調整している。笑顔は控えめに。目線は外さないが、決して挑戦的にならない。語尾は柔らかく、けれど曖昧にはしない。誠実で、真面目で、どこか初々しい――「理想的な新人」の仮面だった。「前職では、営業事務をしていましたが、契約更新のタイミングで退職しました」「それは、正社員登用がなかったから?」美咲が問いかける。声のトーンは柔らかいが、その奥には「選ぶ側」の余裕がある。自分が主導権を持っているという確信が、その声に滲んでいた。佐山は、ゆっくりと頷いた。笑みを崩さず、でも少しだけ眉尻を下げて、弱さを滲ませる。そのほうが、相手は安心するからだ。「はい。正直、悔しさはありましたけど、力不足だったと思っています」「謙虚ね」美咲は笑った。その目は「よしよし」と相手を撫でるような視線だ。選ぶ側の女が、気に入った男を見る目だった。佐山は、その視線を受け止めながら、内心で別の感情を育てていた。「演じるのは、楽しいな」心の中で、佐山はそう呟いた。本心では何も感じていない。だが、こうやって「役」を演じることに、妙な愉悦があった。美咲は、佐山の顔を見るたびに、安心しているのが分かる。顔が整っている男は、会社にとっても自分にとっても都合がいい。営業に出せば、クライアントにも受けがいい。社内でも「目の保養」として重宝される。そんな打算が、美咲の目に浮かんでいた。「権力者の目だな」佐山は、心の奥でそう思った。選ぶ側。与える側。美咲は今、自分の手のひらに佐山が乗っていると信じている。だが、実際は逆だ。「それごと奪う」佐山は、目の奥で静かに呟いた。声には出さない。もちろん、表情にも出さない。けれど、心の奥で
扉がノックされた。コン、と小さく二度。その音だけで、佐山の体は自然に反応した。目線を上げる。扉の向こうから、高いヒールの音が近づいてきた。扉が開かれる音は、控えめだったが、その後ろに続く気配は支配的だった。「お待たせしました」柔らかい声がそう言った。だが、その柔らかさは表面だけだ。内側にあるのは、選ぶ側の余裕と、見下ろす側の権力。佐山はその声を、どこか遠いところから眺めるように受け止めた。佐伯美咲が、会議室に入ってきた。白いブラウス。胸元は控えめに開き、スーツのパンツと合わせている。淡いベージュのパンプス。足首は細く、立ち姿には自信がにじむ。髪は後ろでひとつにまとめられ、横顔は化粧品の広告に出てきそうなほど整っていた。表面上は飾らない風を装っているが、そのどれもが「選ぶ側の女」の演出だった。「佐山さんですね」美咲は、佐山の目の前の椅子に座る。自然に足を組み、視線をまっすぐ向けた。目だけで相手の価値を測る。面接官特有の視線だった。人を見るのではなく、使えるかどうかを判断する目。佐山はその目を、逃げずに受け止めた。「はい。佐山悠人です」柔らかく、しかしはっきりと答える。声のトーンは中庸。低すぎず、高すぎず。面接に最適な、相手を安心させる声。だが、その中にほんのわずかだけ「余裕」を滲ませる。それが佐山の演技だった。視線を逸らさなかった。普通、面接で相手を直視するのはリスクだ。だが、佐山はあえて目を合わせた。ただし、それは睨むでもなく、媚びるでもなく。穏やかに、優しく、でも確実に目を合わせる。それだけで、美咲の顔色がほんの少しだけ変わったのが分かった。美咲は、一瞬だけ目を細めた。けれど、すぐに微笑みに戻した。その微笑みは、今までと変わらない「権力者の笑顔」だった。
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