姉を奪われた俺は、快楽と復讐を同時に味わった~復讐か、共依存か…堕ちた先で見つけたもの

姉を奪われた俺は、快楽と復讐を同時に味わった~復讐か、共依存か…堕ちた先で見つけたもの

last update最終更新日 : 2025-11-16
作家:  中岡 始完了
言語: Japanese
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概要

歪んだ愛

BL

現代

いじめ

浮気・不倫

BL

ざまぁ

姉は死んだ。 上司の女に追い詰められ、パワハラによって自ら命を絶った。 佐山悠人はその日から、復讐だけを目的に生きてきた。 加害者である女と、その夫。 ふたりの心と身体を壊すため、佐山は綿密な計画を立てた。 女には年下の部下として接近し、男には禁忌の扉を開かせる。 「抱かれているのは、どちらだ?」 「支配しているつもりが、支配されている」 復讐と快楽は、いつも隣り合っている。 壊しているはずが、壊されていく。 ふたりを堕とすたび、佐山の心も少しずつ蝕まれていく。 これは愛じゃない。赦しでもない。 背徳と快楽、復讐と依存が交錯する、濃密な心理官能ドラマ。 あなたはどこまで堕ちる覚悟がありますか?

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第1話

またね、の最後

「……被告人を、無期懲役に処する」

裁判官の宣告が、鼓膜を震わせた。

ブーン、と耳鳴りがする。

深水心愛(しみず ここあ)の体がぐらりと揺らぎ、危うくその場に崩れ落ちそうになった。

無期懲役……

そんな……

深水俊輔(しみず しゅんすけ)は、自分がずっと見守り、手ずから育ててきた弟なのだ。あの子が人を殺めるなど、あり得るはずがない!

開廷前、桐生貴臣(きりゅう たかおみ)は何と言ったっけ?

「わがままはよせ、心愛」

眉をひそめ、苛立ちを隠そうともせず、彼はそう言った。

「葵は海外から戻ったばかりで、専攻は法学だ。これは、彼女が帰国後に名を上げるための初陣だ。勝てば今後のキャリアにも箔がつく。お前の弟の弁護は、葵に任せておけば間違いない」

弟の命運を、明石葵(あかし あおい)などに託してたまるものか。心愛は、即座に反論した。

「貴臣、これは弟の命がかかっているのよ!葵が経歴に箔をつけるための踏み台じゃないわ」

しかし、彼は聞く耳を持たなかった。

その眼差しは次第に冷え、脅しにも似た色が浮かんだ。

「だからこそ、葵に任せるんだ。お前はただ、俺を信じていればいい」

――俺を信じろ、と。

心愛は、そんな彼の言葉を受け入れてしまった。

だが、その結果がこれだ。

法廷での葵は、冒頭陳述を読み上げたきり、その後は俊輔のために弁護らしい弁護をほとんどしなかった。

宇佐美紘(うさみ ひろし)側の弁護士が提示した証拠に対し、葵は反論するどころか、あろうことか相手の主張を認めるかのような素振りさえ見せたのだ。

紘のたった数言の告発に対しても、葵は異議さえ申し立てなかった。

そして、俊輔が無期懲役を宣告されるのを、ただ黙って見ているだけだった。

それも当然だ。俊輔は葵の弟ではない。自分の弟なのだから、彼女が同じ痛みを感じるはずもない。

心愛は、よろめきながら法廷を出た。廊下の冷気が肺を刺し、激しい咳が込み上げる。

前方に、二つの人影が見えた。葵が貴臣に寄り添い、肩を細かく震わせ、涙をぼろぼろと零して泣き崩れている。

「貴臣、ごめんなさい……私、本当に精一杯やったの。でも相手側の証拠の連なりが……あまりにも完璧で、どこにもつけ入る隙がなかった。もしかしたら……俊輔くんは、本当に有罪なんじゃないかって……」

「もういい。お前のせいじゃない」

貴臣の声は、心愛が今まで聞いたこともないほど優しさに満ちていた。彼はスーツの上着を脱ぎ、そっと葵の肩にかける。

「お前が全力を尽くしたことは、俺が一番よく知っている」

すすり泣いていた葵は、視界の端に心愛の姿を捉えると、その表情をさっと怯えたものに変えた。

「心愛さん……この度は、お力になれず、本当に……」

言葉が終わらないうちに、心愛は二人に向かって歩き出した。

彼女が近づいた瞬間、貴臣は反射的に葵を背後へとかばった。

それは、あまりにも自然で、あまりにも無意識の仕草だった。

葵を庇う貴臣の姿に、心愛の瞳に底知れぬ失望が広がる。

葵を抱き寄せる貴臣の腕を見て、心愛は悟った――もはや彼は、かつての貴臣ではないのだと。

それでも、無実の罪を着せられた弟を思うと、葵を睨みつけずにはいられなかった。

「どうして?」心愛の声は乾き、かすれていた。「宇佐美の証言にはあれほど矛盾があったのに、なぜ一言も反論しなかったの?あなたは一体、どっちの代理人なの!?」

葵は貴臣の背後に隠れ、泣き腫らした目だけを覗かせている。その姿は、いかにも無垢で哀れに見えた。

心愛に答えたのは、貴臣だった。

「いい加減にしろ、心愛。事実は明白だ。いつまで騒ぎ立てるつもりだ?」

「事実?」心愛は乾いた笑いを漏らした。「どんな事実よ。俊輔は人を殺してなんかいない!あの子は、ただアルバイトに行っていただけよ。人殺しなんて、できるわけがないじゃない!」

感情は、堰を切ったように溢れ出す。「宇佐美紘がどんな人間か、知らないわけじゃないでしょう?名雲中じゃ、あいつが人の命を弄ぶ道楽息子だって、知らない者はいないわ!前にも、人を弄んで死なせたという噂があったのに……どうして彼を調べないの?どうして彼の戯言を信じるのよ!」

「おっと、そこのお嬢ちゃん、言葉には気をつけろよ」

軽薄な声が、横から割り込んできた。

両手をポケットにねじ込んだまま、紘は階段を悠然と降り、心愛の前で足を止めた。その口元には、あからさまな悪意を孕んだ笑みが浮かんでいる。

「俺が人を死なせた、だと?くだらん噂を鵜呑みにするなよ。証拠もなくそんなことを口走れば、名誉棄損になるぜ。訴えられたくなければ、その口は慎むことだな」

紘は心愛を顎でしゃくるように見下ろした。その眼差しには、隠す気もない侮蔑と挑発の色が滲んでいる。

やがてその視線は心愛を通り越し、貴臣の背後から不安げに顔を覗かせる葵を捉えて交錯した。その一瞬の目配せには、まるで共犯者のような得意げな光が宿っていた。

言いたいことだけ一方的に言い放つと、紘は愉快な見世物でも堪能したかのように口の端を吊り上げ、取り巻きを引き連れて勝ち誇ったように去っていった。

その背中が見えなくなった矢先、誰かが叫び声を上げた。

「おい、見ろ!桐生社長だ!」

「明石弁護士も一緒だぞ!」

その声を皮切りに、瞬く間に大勢の記者が四方八方から押し寄せ、心愛たち三人を幾重にも取り囲んだ。

「明石先生、今回の判決について一言お願いします!」

「鳴り物入りで帰国された初陣が敗訴となりましたが、今のお気持ちは!」

「法廷では弁護に力が入っていなかったとの声もありますが、事実ですか!?」

「桐生社長、なぜこの裁判を明石弁護士に?」

無数のマイクが突きつけられ、容赦ない質問が浴びせられる中、葵の顔が一瞬にして蒼白に染まった。

貴臣の表情もたちまち険しくなる。

彼は怯える葵を強く抱き寄せると、自らの体で無数のカメラレンズから彼女を庇った。そして人垣を押し分けるようにして、一度も振り返ることなく自分の車へと向かう。

その傍らに心愛が立っていることなど、まるで思い出すことすらないかのように。

彼は、記者たちの渦中に、心愛をただ一人置き去りにした。

遠ざかる二人の背中を見つめる心愛の胸に、冷たい痛みがしんしんと込み上げてきた。

貴臣を追うのを諦めた記者たちは、即座に標的を変え、残された心愛へと殺到した。

「そちらの方、あなたは深水俊輔さんのご家族ですか?」

「今回の判決について、お考えをお聞かせいただけますか?」

「明石弁護士の仕事ぶりはいかがでしたか?」

その喧騒の中、一人の目ざとい芸能記者が何かに気づいたように、甲高い声を張り上げた。

「待ってください!あなた……もしかして、桐生グループの社長夫人、深水心愛さんではありませんか!?」

その一言は、静寂に投じられた石のように波紋を広げ、その場の空気を一変させた。

すべてのカメラレンズが、一斉に心愛の顔へと向けられる。

「本当だ、社長夫人だ!」

「ってことは、被告は社長夫人の弟か?とんでもないセレブスキャンダルだぞ!」

そんな喧騒の中に、心愛を氷の底へと突き落とす囁き声が混じっていた。

「じゃあ、さっき桐生社長が庇っていたのが、噂の明石葵か。三年前、桐生社長の元を去ったっていう……彼女こそ、桐生社長がずっと想い続けていたという『本命の元カノ』らしいぜ」

「ああ、だからか!言われてみれば、社長夫人とあの明石葵、どことなく目元が似ている……」

「なるほどな!どうりで深水家が破産した途端、桐生社長が周囲の猛反対を押し切って、ただの養女だった深水心愛と結婚したわけだ。つまり……元カノの『身代わり』を見つけた、ってことか」

身代わり。

その言葉が、雷鳴のように心愛の思考を打ち砕いた。

そうか、そういうことだったのか。

深水家が倒産し、居候の養女だった自分が生活のために三つもアルバイトを掛け持ちしていた、あの頃。雲の上の存在だったはずの貴臣が、なぜ周囲の反対を押し切ってまで自分を妻に迎えたのか。その謎が、今、すべて解けた。

あれは救いだと思っていた。暗闇に差し込んだ、唯一の光だと信じていた。

だが、すべてははじめから、滑稽な茶番に過ぎなかったのだ。

自分はただ、彼の愛した女の面影を宿す、身代わりに過ぎなかった。

心愛はその場に凍りついたように立ち尽くした。無数のフラッシュが白く視界を焼く中、貴臣が冷たく去っていった虚空を見つめ、乾いた笑いが唇からこぼれ落ちた。

この三年間、ひたむきに、すべてを捧げる想いで尽くしてきた結婚生活。

それらすべてが、結局は彼女一人の、滑稽な一人芝居だったというわけだ。

その頃、葵はスマートフォンを手に、自分の名前がSNSのトレンドを駆け上がっているのを確認していた。そしてある番号へ短いメッセージを送ると、すぐさまその送信履歴を削除した。

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またね、の最後
部屋の時計が午後十一時を告げると、佐山悠人は箸を置いた。テーブルの上には、開きかけたコンビニ弁当が中途半端に残っている。白米が少し、から揚げが二つ、ぬるくなったポテトサラダが端に寄っていた。口の中には、まだ油の味が残っているのに、もう何も食べたくなかった。仕事帰り、無意識に寄ったコンビニで手に取った弁当だったが、いま思えば別に腹が減っていたわけでもなかった。食べることも、眠ることも、どこか惰性でやっている。手元のスマホが、ふと光った。画面にはSNSの通知が並んでいる。佐山はそれを無視して、LINEを開いた。履歴をスクロールすると、数日前の姉・梓からのメッセージが目に入った。「仕事、大丈夫?無理しないでね」その下に、もう一つ。「またね」たったそれだけだった。でも、その「またね」が、妙に胸に引っかかる。「またね」と言われると、普通は「また近いうちに会おう」という意味だと受け取る。けれど、あのときの梓の「またね」には、どこか終わりの予感があった。わかるはずがないのに、そんな気がした。佐山はスマホの画面を消し、天井を見上げた。雨は、もう止んでいた。窓の外では、街灯の光が濡れたアスファルトに滲んでいる。雨上がりの湿った匂いが、窓の隙間から微かに流れ込んできた。「またね、か」小さく呟く。梓の言葉が、頭の奥で反響していた。思い返せば、最近、姉の声をちゃんと聞いていなかった。電話ではなく、LINEばかりだった。顔を見たのも、もう一ヶ月前だ。「忙しいから」と自分から会うのを先延ばしにしていた。あの日、梓は少し疲れた顔をしていた。でも、いつものように笑って、「悠人は元気そうだね」と言った。食事の途中で、佐山の皿にサラダを移しながら、「ちゃんと野菜も食べなさいよ」と笑っていた。その顔が、今もはっきり思い出せる。けれど、それはもう「過去」になってしまったのかもしれない。「またね」と言
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深夜の着信
スマホが震えた。枕元のテーブルに置きっぱなしにしていた携帯が、静かに、けれど確かに鳴っている。時計を見ると、もう午前零時を過ぎていた。深夜の着信は、それだけで心臓に小さな鈍い痛みをもたらす。佐山は、画面を覗いた。「母親」の文字が浮かんでいた。母から電話が来るなんて、滅多にない。普段はLINEで済むやりとりばかりだ。「元気?」とか「風邪引いてない?」とか、スタンプを添えて短く送られてくるだけで、それに「大丈夫だよ」と返せば、会話は終わる。電話は、何かが起きたときのものだ。悪い予感が、体の奥を冷たく這い上がってくる。指先が勝手に震えた。それでも佐山は、通話ボタンを押した。「もしもし」声がかすれている。自分でも、こんな声が出るのかと思うほどだった。電話の向こうからは、しばらくの間、息を呑むような気配しか聞こえなかった。空白の時間。次に何を言われるのか、分かりきっているのに、それを待つことしかできなかった。やがて、母親のかすれた声が漏れた。「悠人……」かすれた呼びかけだけで、心臓がぎゅっと縮む。「どうしたの」そう聞き返すと、母はさらに震えた声で続けた。「悠人……あ、あずさが……あずさが……死んだのよ……」一瞬、言葉の意味が理解できなかった。「は?」短い疑問の声が、口をついて出た。意味が分からなかった。分かるわけがなかった。「……あずさが、死んだのよ……」母は、絞り出すように繰り返した。涙声で、呼吸が乱れている。それでも、「死んだ」という言葉だけは、はっきりと聞こえた。佐山の頭の中が、真っ白になった。時間が
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止まった時計
佐山は、シャワーも浴びずに玄関へと歩いた。足取りは重かった。それなのに、体は勝手に動いている。寒くもないのに、肩が小さく震えていた。服は、さっきまで着ていたままのスーツ。ネクタイも緩めたままだった。ワイシャツの襟が、少しだけ湿っているのは、きっと汗のせいだろう。だが、そんなことを気にする余裕もなかった。洗面所の前に立つと、鏡が曇っていないことに気づいた。曇るはずがない。シャワーを浴びていないのだから。鏡の中には、自分が映っていた。けれど、それは自分ではないように見えた。どこか遠くから、誰か他人の顔を見ているような気分だった。目の下にうっすらとクマがある。髪は少し乱れている。いつもの佐山悠人だ。でも、もう「いつもの自分」はどこにもいなかった。口元が、勝手に動いた。「……何してんだよ」自分に向かって言った言葉だった。だけど、その声も、どこか他人事だった。姉さんが死んだ。それは、もう変わらない事実だった。頭では理解しているはずなのに、心はまだ追いついていなかった。「飛び降りたんだってさ」もう一度、口の中で繰り返してみた。声に出せば、現実になると思った。でも、言葉にしても実感は湧かなかった。鏡の中の自分が、静かに瞬きをした。その動きすら、妙にぎこちなく感じた。時計が、コツコツと秒を刻んでいる。リビングの壁に掛けた安物の時計だ。二秒に一回、わずかに針が動く音が聞こえた。心は止まっているのに、時間だけは進んでいく。そんな感覚が、じわじわと胸の奥に広がっていく。「おかしいな」自分に向かって呟いた。「姉さんが死んだのに、なんで世界は普通に動いてるんだよ」口を動かすたび、喉の奥が締めつけられるようだった。唾を飲み
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姉と俺の距離
タクシーの後部座席で、佐山は額を窓ガラスに軽く押し付けた。深夜の街が、ぼんやりと流れていく。雨に濡れた路面が、ヘッドライトの光を反射していた。ワイパーの音が規則的に耳に届く。車内は妙に暖かくて、その温度が逆に息苦しかった。目を閉じれば、嫌でも思い出す。姉と過ごした時間。遠くなった記憶が、ゆっくりと浮かび上がる。両親が離婚したのは、佐山が中学二年のときだった。母と父の言い争いは日常で、もう慣れているはずだった。けれど、ある日突然、父が荷物をまとめて出て行った。母も泣きながら「もういい」とだけ言って、家から父の痕跡をすべて消した。離婚が正式に決まったとき、佐山は父親に引き取られた。姉は母親と一緒に残った。二人とも、泣かなかった。泣けば余計に惨めになると分かっていたからだ。それでも、姉の梓は別れ際に、そっと佐山の頭を撫でてくれた。高校生だった梓の手は、少し冷たかった。「悠人は大丈夫だよね。お父さんとちゃんとやっていけるよね」そう言われて、佐山は「うん」と頷いた。本当は不安でいっぱいだった。でも、姉の前で弱音を吐きたくなかった。それから、姉と自分は別々の家で暮らすようになった。物理的な距離はできたけれど、心の距離は離れなかった。毎晩のようにLINEをしていた。「今日は何してたの?」「ごはん食べた?」「ちゃんと宿題やってる?」姉はいつも気にかけてくれた。父親は仕事で忙しく、ほとんど家にいなかった。だから、佐山にとって梓は唯一の「家族」だった。本当の意味での家族。「姉さんは、俺の帰る場所だった」そう思っていた。何があっても、あの人がいれば大丈夫だと、勝手に思い込んでいた。たまに会うと、梓はいつも同じことを言った。「悠人は頭いいね」「ちゃんと食べてる?」その言葉に、どれだけ救
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遺体安置所
地下の冷たい空気が、皮膚の上を這うようだった。佐山は、母の後ろを歩きながら、地下への階段を降りていく。警察署の建物の中は、深夜だというのに無機質な蛍光灯の明かりが眩しかった。足音がコツコツと響くたび、胸の奥に鈍い痛みが広がる。遺体安置所までの廊下は、異様なほど静かだった。誰も何も話さなかった。母は佐山のすぐ前を歩きながら、肩を震わせている。小さな背中が、頼りなく揺れていた。「こちらです」案内係の警察官が、無表情で扉を開けた。金属のドアが、きい、と重たく開く。その音だけで、背筋が粟立つ。部屋の中は、ひんやりとしていた。壁際には銀色の保冷庫が並び、その一つが静かに引き出される。佐山は無意識に息を止めた。母が小さく呻く声が聞こえた。「ご確認ください」警察官の声は淡々としていた。その冷たさが、逆に胸に突き刺さる。シーツをめくると、姉がそこにいた。白い布の中から、静かに現れた顔。梓だった。間違いなく、梓だった。でも、そこにいるのは、もう「姉さん」ではなかった。化粧をされているせいか、顔色はやけに白かった。頬のあたりが少しだけこわばっている。唇は薄く、何かを言いかけたような形で止まっていた。佐山は、息ができなかった。心臓が喉の奥までせり上がる。手が勝手に震える。母が、かすれた声で呼んだ。「梓……」その声は、部屋の中で消えていった。誰も返事をする人はいなかった。佐山は、姉の顔を見つめた。何度も見た顔だ。笑っているときも、怒っているときも、いつも近くにあった顔。でも今、目の前にあるのは、「ただの顔」だった。そこには、もう魂はなかった。目の端で、手元が動いたのが見えた。姉の手。小さな手の甲に、うっすらと傷
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なぜ、だけが残る
夜の街は、驚くほど普通だった。佐山は、警察署からの帰り道、歩道を歩きながらそれを思い知らされていた。車が交差点で止まり、信号が変わると再び走り出す。コンビニの前では、酔っ払ったサラリーマンが笑い声を上げている。遠くでパトカーのサイレンが鳴っているが、それはもう日常の騒音の一部だった。誰も、何も変わっていなかった。だけど、自分の中だけが、確実に変わってしまった。いや、変わったというより、止まってしまった。足元を見れば、アスファルトが濡れて光っている。さっきまで降っていた雨が、まだ地面に残っている。靴の裏が、時折小さな水たまりを踏んで、じゅっと音を立てる。その音だけが、やけに鮮明に聞こえた。目の前を歩く人たちは、誰も自分のことを気にしていない。当たり前だ。みんな、自分の生活に忙しい。帰る場所があり、待っている人がいて、明日の予定がある。自分には、もうそんなものはなかった。姉がいなくなった瞬間、世界は色を失った。それなのに、街は普通に動き続けている。佐山は、ポケットの中でスマホを握りしめた。LINEの画面を開く。そこには、まだ姉のメッセージが残っていた。「またね」その文字が、夜の闇に浮かぶように光って見えた。何度も見返しているのに、消せなかった。消すことなんて、できるはずがなかった。どうして。どうして、死んだんだ。理由がわからない。何があった?誰が何をした?俺は、知らなかった。それが一番、怖い。姉は、最後まで「大丈夫」と言っていた。それが嘘だとは思わなかった。むしろ、安心していた。姉なら大丈夫だと、勝手に思い込んでいた。けれど、本当は違った。姉は助けを求めることもせず、一人で全部抱え込んで、そして死んだ。「俺は、何してたんだよ」小さく呟いた声は、誰
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残されたデバイス
部屋の空気は、湿り気を帯びたまま動かなかった。佐山は静かにドアを閉め、梓の部屋に足を踏み入れた。時計を見ると、午前三時半を回っている。家の中は、どこもかしこも寝静まっていた。母はきっと、隣の部屋で泣き疲れて眠っているだろう。それでも佐山は、どうしても目を閉じることができなかった。外は、雨上がりの曇り空。カーテンの隙間から、ぼんやりとした夜明け前の光が差し込んでいる。でも、その光は弱く、部屋の中には届かない。机の上にあるデスクライトだけが、静かに机を照らしていた。視線を落とすと、そこに梓のノートパソコンとスマホが並んでいる。母が遺品を整理しようとしたのだろう。それでも、手をつけられずにそのまま置いてあった。佐山は、しばらくそれを見つめていた。触れたらいけないものに手を出すような、そんな背徳感があった。けれど、手は勝手に動いていた。理由を知りたかった。なぜ姉は死んだのか。何があったのか。どうして、俺には何も言ってくれなかったのか。指先で、そっとスマホを持ち上げる。手の中で、ひどく軽いと感じた。こんな小さなものの中に、姉の全部が詰まっているのかと思うと、胸が締めつけられた。電源を入れると、画面が明るくなった。顔を青白く照らすその光に、佐山の表情は変わらなかった。けれど、目だけが異様に乾いている。瞬きすることすら忘れたまま、画面を見つめていた。ロック解除の画面が現れた。パスコードは、簡単に予想がついた。姉の誕生日だ。四桁の数字を打ち込むと、あっさりとロックは外れた。「こんな簡単なパスで」小さく呟いた。でも、その言葉には怒りも苛立ちもなかった。むしろ、そんなところにも姉の人柄が滲んでいる気がして、胸が苦しくなった。スマホの中には、姉の日常がそのまま残っていた。カレンダーアプリには、仕事のスケジュールが細かく書き
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ログの裏側
佐山は、ノートパソコンのタッチパッドをなぞる指を止めた。呼吸が浅い。けれど、それを意識することもなかった。ディスプレイの光が、静かに顔を照らしている。画面の中では、コマンドラインが次々と動いていた。ログ解析ツール。バックアップデータの復元。本来なら業者でも簡単には触れない領域を、佐山は冷静に操作していた。姉のパソコンに残っていたデータを、片っ端から復元している。削除されたファイルも、履歴も、ゴミ箱すら完全に復元した。姉が自分で消したものか、誰かに強制されたものか、それはまだ分からない。だが、それを知る必要はなかった。全部、見ればいい。全部、確かめればいい。佐山は、プログラムを打ちながら、何も考えないようにしていた。感情は邪魔だ。ただ、目の前の作業を淡々と進める。それだけに集中する方が、余計なことを考えなくて済む。画面の中で、解析が進んでいく。チャットツールのデータも、バックアップフォルダから復元できた。姉が使っていた社内ツール。本来なら社内のログは管理者権限がなければ見られない。だが、梓は自分用にコピーを保存していた。おそらく、証拠を残すためだろう。「……」佐山は無言のまま、解析が終わるのを待った。目はディスプレイに釘付けだが、顔の筋肉は微動だにしない。まぶたすら、ほとんど動かなかった。解析が終わり、フォルダが開く。チャットログのファイルが並ぶ。日付ごとに保存されたデータは、数ヶ月分にも及んでいた。佐山は、その中の一つをクリックした。テキストファイルが開く。目を走らせると、すぐに異常なやり取りが見つかった。「またあの女、営業失敗してたな」「枕営業してるくせに、使えねーな」「部長、なんで庇うんだろ。抱いてんじゃね?」その文章を見た瞬間、佐山の目が細くなった。
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沈む証拠
佐山は、モニターに映る数字の羅列を眺めていた。時計の針は、すでに四時を回っている。外はまだ夜のままで、窓の外には曇った空が続いていた。雨は止んでいるが、湿り気を含んだ空気が部屋にじっとりと漂っている。デスクライトの光だけが、部屋の中で孤立していた。画面には、姉が保存していたスクリーンショットがずらりと並んでいる。日付と時刻が、すべて記録されていた。佐山は、手元のコマンドラインを操作しながら、それらの書き込み時間とサーバーログを照合していた。匿名掲示板の投稿は、基本的には身元が分からないようになっている。だが、裏を返せば、完璧な匿名性なんて存在しない。姉のパソコンに保存されていたスクリーンショットには、IPアドレスが残されていた。それは、掲示板の運営側がたまたま開示ミスをしていた瞬間を、梓が巧妙に保存していたのだ。誰かに見せるつもりだったのか、それともただの自衛だったのかは分からない。けれど、そのミスが、今となっては唯一の糸口だった。佐山は指先で、キーボードを叩いた。ブラウザのウィンドウと、独自の解析ツールを行き来しながら、IPアドレスの履歴を確認する。時間はかかったが、一つだけ「決定的なログ」が見つかった。「220.149.XX.XXX」佐山は、画面に表示されたその数字を見つめた。誰も知らない夜の部屋で、たった一人だけ、数字を睨んでいる。手は止まらなかった。裏ルートを使い、固定回線の契約者情報を追跡する。もちろん、これは正規の方法ではない。違法か合法かなど、考えている暇はなかった。姉が死んだ今、そんな区別はどうでもよかった。数分後、照合結果が画面に表示された。プロバイダ名。契約者情報。住所。川上美咲。その名前が、確かにそこにあった。「……」佐山は、唇を動かした。乾いた声で、その名前を口にする。「川上、美咲」
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目を閉じて、誓う
佐山は、静かにノートパソコンの蓋を閉じた。画面が消えると、部屋は一瞬で暗くなった。蛍光灯は点けていなかった。机の上に置いたデスクライトのスイッチにも、手を伸ばさなかった。ただ、夜明け前の窓から差し込む、わずかな光だけが部屋を照らしていた。梓の部屋は、そのままだった。机の上には、まだ開かれたままの手帳と、使いかけのリップクリームが転がっている。壁には、彼女が好きだったポストカードが何枚か貼られていた。ベッドの上には、畳まれたままの部屋着。すべてが、そこに暮らしていた人間の痕跡だった。佐山は、椅子に深く背を預けた。背中にあたる椅子の背もたれが、冷たい。肩の力を抜いたつもりだったのに、体は妙にこわばっていた。握りしめた手のひらには、微かな汗が滲んでいる。目を閉じた。暗闇が瞼の裏に広がる。呼吸は浅かったが、心は妙に静かだった。もう、後戻りはできない。そう思った。証拠は見つけた。誰が姉を追い詰めたのか、誰が殺したのか。それはもう、疑う余地がなかった。川上美咲。その名前を思い浮かべると、胸の奥が冷たくなる。ただ憎い、という感情ではなかった。もっと深く、もっと静かな感情だった。怒りとも違う。悲しみでもない。それは、行動への欲望に近かった。「奪われたら、奪い返すしかない」心の中で、そう繰り返した。「壊されたら、壊し返すしかない」それ以外に、やるべきことなんてない。これから自分がすることは、正しいかどうかなんて問題じゃなかった。善悪の話でもない。道徳や倫理なんて、最初から意味がなかった。「それだけだ」佐山は、静かに呟いた。声には、微かな笑いが混じっていた。笑っているつもりはなかったのに、自然と口角が上がっていた。涙は一滴も流れなかった。目の奥は乾い
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