LOGIN佐伯は佐山の体を抱きしめたまま、喉の奥で微かな吐息を漏らした。
肩越しに見える佐山の横顔は、安アパートの灯りにぼんやりと照らされていた。睫毛が微かに震えている。目は閉じたままだが、瞼の奥で何かを堪えているようだった。その震えを見た瞬間、佐伯ははっきりと理解してしまった。
これは、快楽に震える顔だと。これまで佐山が見せてきた、計算された誘いの表情でも、冷めた笑いでもない。本当に感じている時の顔だ。佐伯は、腕の力を少しだけ強めた。
佐山悠人という一人の男を、自分の手の中で確かに抱いている。「……佐山」
喉の奥で名前を呼んだ。
けれど、それは呼びかけというより、吐息だった。佐山は何も答えなかった。ただ、肩の奥で小さく身をよじった。佐伯の手は、佐山の背骨に沿って滑った。
指先で骨の形をなぞると、そのたびに佐山の身体が微かに反応する。小さな痙攣のような動きが、肌の下に走った。佐伯は、その震えを逃さなかった。もっと欲しいと思った。もっと深く、もっと強く、佐山を抱きしめたいと願った。「……嫌なら言えよ」
そう囁いたが、返事はなかった。
睫毛はまだ震えていた。佐伯は、唇で佐山の耳朶をなぞった。ぬるい吐息が、佐山の肌に触れた瞬間、肩がほんの少しだけ震えた。(ああ、もう俺は駄目だ)
心の中でそう呟いた。
これが罰だとも、贖罪だとも思えなかった。ただ「欲しい」と思ってしまった。佐山の肌が、佐山の呼吸が、佐山の温度が、どうしようもなく欲しい。佐伯は腰を沈め、指先を絡ませる。
湿った音が、二人の間に生まれた。佐山の唇から、小さく息が漏れた。「っ……」その声に、佐伯の心臓が跳ねる。
理性は止めろと言ったが、体は止まらなかった。佐山の首筋に唇を押し当てる。佐山は、静かに寝息を立てる佐伯の横顔を見つめていた。薄暗い部屋の中で、安アパートの安い蛍光灯がぼんやりと天井を照らしている。カーテンの隙間から、街灯の灯りが滲む。時計の秒針だけが、規則的に静寂を刻んでいた。佐伯の呼吸が、肩で小さく上下する。佐山はその動きを目で追った。呼吸のリズムは穏やかで、まるで何も背負っていないかのように見えた。けれど、それが嘘だと佐山は知っている。佐伯は、何もかも失った。家庭も、仕事も、自尊心も。それでも、こうして隣にいる。佐山は、そっと佐伯の髪に指先を滑らせた。濡れたように柔らかな黒髪が、指の間を通る。髪の感触は、夜の湿度を帯びていて、佐山の指をほんの少しだけ温めた。目を閉じて、その感覚を確かめる。「これは愛じゃない」佐山は、心の中でそう呟いた。喉の奥で、言葉が詰まる。けれど、それは事実だと知っている。これは罰でもない。贖罪でもない。「でも」佐山は目を開け、また佐伯の寝顔を見た。眉間に寄せられた皺が、眠りの中でふっとほどける瞬間を見た。佐伯の顔が、少しだけ柔らかくなった。それが、胸の奥を少しだけ痛めた。「ここにいることを、選んだんだ」佐山は心の中で呟いた。別に、逃げようと思えば逃げられた。あの夜、復讐が終わったあの日に、すべてを断ち切ることはできた。消えることもできた。けれど、自分は戻ってきた。自分から、佐伯を探した。そして、今もこうして隣にいる。「もう一度、壊れるくらいなら」佐山は、唇を噛んだ。喉の奥がきゅっと締まる。「一緒に堕ちる方がいい」佐伯の髪を撫でる手が、僅かに震えた。それでも離さない。佐山は、心の中で何度も反芻する。このぬくもりは、姉の代わりではない。これは復讐でも、愛情でもない。ただ、「ここにいる」という選択を、自分がしてしまったというだけだ。それでも、心の奥に少しだけ安堵があった。自分は、まだ壊れていなかった。まだ、
佐山は、静かに胸に手を当てた。夜の闇の中、呼吸すら忘れそうになるほどの静寂が部屋を満たしている。カーテンの隙間から滲む街灯の光が、薄く乱れた髪に影を落とす。その下で、佐山の指先が肌に触れた。冷たいはずの指先が、胸の奥に脈打つ熱を感じ取る。鼓動は、まだ続いている。それが、どうしようもなく不思議だった。姉は、もういない。復讐も、終わった。なのに、自分はまだ生きている。「……なんでだろう」誰にも聞こえないほどの声で、佐山は呟いた。声帯がわずかに震え、喉奥がきゅっと締まる。指先が、心臓の上を撫でた。皮膚の下で、確かに何かが動いている。生きてしまっている。望んだはずの終わりには、辿り着けなかった。「終わったはずなのに」唇が動いたが、空気を震わせただけで声にはならなかった。息を吸い込むと、肺の奥に冷たい痛みが走る。生きることが、こんなにも重たいものだとは知らなかった。あの夜、ホテルで二人を壊したとき、自分も壊れたはずだった。けれど、体はまだこうして動いている。心臓は止まらない。佐山は、自分の体が他人のもののように感じた。まるで、誰かに与えられた罰のように。生きることが。「罰」として、生き残ってしまったのだと、喉の奥で苦く思った。耳の奥で、秒針の音が響いている。時計は止まらない。姉がいない時間だけが、無意味に積み重なっていく。そのたびに、胸の中が空洞になる。「姉さん……」つぶやくと、胸がきゅっと痛んだ。心臓の鼓動が、余計に速くなる。自分がまだ生きていることが、どうしようもなく罪に思えた。窓の外は、まだ濡れている。雨は止んだのに、アスファルトは光を吸い込み、反射している。その光が、部屋の天井を薄く照らしていた。佐山はその光を見つめた。「もういいよ」と誰かが言ってくれるのを待っている。けれど、誰もいない。隣のベッドからは、佐伯の呼吸がかすかに聞こえた。規則正しく、眠っている。けれど、その呼吸もまた、佐山の心を締めつける。あの夜、佐伯を壊したのに、なぜ自分の心が壊れきれないのか。な
佐山は、乱れた呼吸のまま、シーツを握りしめていた。背中を濡らす汗が、まだ冷めない熱を伝えている。全身が微かな痙攣を繰り返し、呼吸と呼吸の隙間に、心臓の鼓動が入り込んでくる。佐伯の手が、髪に触れた。優しくもなく、乱暴でもなく、ただ確かめるような動きだった。その手のひらが、頭の後ろを撫でるたびに、佐山の喉奥からかすかな音が漏れる。快楽はとっくに終わっているはずなのに、体はまだ震えていた。(……ああ、これが、最後だったな)心の中で、佐山は呟いた。復讐も、支配も、すべて終わった。これ以上のカードは、もう何も残っていない。目を閉じたまま、佐山は自分の胸の奥を探った。確かに、体は満たされている。絶頂の瞬間、佐伯と同時に達したとき、体の奥まで溶けていくような感覚があった。けれど——(それでも、空洞は残る)胸の真ん中にぽっかりと開いた穴は、何をしても埋まらなかった。姉を失ったその日から、ずっとそこにある。復讐を終えても、誰かを愛しても、抱かれても——その穴は埋まらない。でも、と佐山は思った。この空洞ごと、抱かれるなら、それでいいのかもしれない。佐伯の腕の中にいれば、少なくとも「何もない」よりはマシだ。この胸の空洞を、佐伯が抱えてくれるなら、それで生きていける気がした。「……ふ」薄く笑いが漏れた。自嘲だったのか、安堵だったのか、自分でも分からない。ただ、佐伯の手が髪に触れ続けるのが心地よくて、目を開けたくなかった。でも、そっと瞼を持ち上げると、視界の端に佐伯の横顔が見えた。天井の薄明かりに照らされたその顔は、どこか無防備で、静かだった。(もう、逃げない)佐山は知っていた。あのとき、ホテルの部屋で「終わり」を告げたときとは違う。今、佐伯の横顔
佐伯は佐山の体を抱きしめたまま、喉の奥で微かな吐息を漏らした。肩越しに見える佐山の横顔は、安アパートの灯りにぼんやりと照らされていた。睫毛が微かに震えている。目は閉じたままだが、瞼の奥で何かを堪えているようだった。その震えを見た瞬間、佐伯ははっきりと理解してしまった。これは、快楽に震える顔だと。これまで佐山が見せてきた、計算された誘いの表情でも、冷めた笑いでもない。本当に感じている時の顔だ。佐伯は、腕の力を少しだけ強めた。佐山悠人という一人の男を、自分の手の中で確かに抱いている。「……佐山」喉の奥で名前を呼んだ。けれど、それは呼びかけというより、吐息だった。佐山は何も答えなかった。ただ、肩の奥で小さく身をよじった。佐伯の手は、佐山の背骨に沿って滑った。指先で骨の形をなぞると、そのたびに佐山の身体が微かに反応する。小さな痙攣のような動きが、肌の下に走った。佐伯は、その震えを逃さなかった。もっと欲しいと思った。もっと深く、もっと強く、佐山を抱きしめたいと願った。「……嫌なら言えよ」そう囁いたが、返事はなかった。睫毛はまだ震えていた。佐伯は、唇で佐山の耳朶をなぞった。ぬるい吐息が、佐山の肌に触れた瞬間、肩がほんの少しだけ震えた。(ああ、もう俺は駄目だ)心の中でそう呟いた。これが罰だとも、贖罪だとも思えなかった。ただ「欲しい」と思ってしまった。佐山の肌が、佐山の呼吸が、佐山の温度が、どうしようもなく欲しい。佐伯は腰を沈め、指先を絡ませる。湿った音が、二人の間に生まれた。佐山の唇から、小さく息が漏れた。「っ……」その声に、佐伯の心臓が跳ねる。理性は止めろと言ったが、体は止まらなかった。佐山の首筋に唇を押し当てる。
佐伯の指先が、背中を這っていく。佐山は目を閉じたまま、その感触に全身の神経を預けた。冷たくもなく、熱くもなく、ただ静かに、呼吸と共に肌が揺れている。呼吸音だけが部屋に満ちていた。秒針の音も、外の雨音も、今はもう聞こえない。(これは、俺が与えているだけだ)そう思い込もうとした。昔からそうだった。与える側でいれば、傷つかなくて済む。相手の欲望を受け止める側なら、何も失わなくていい。それが、自分の生き延び方だった。だけど。背中に触れる佐伯の指先が、今夜は違った。撫でるでもなく、抱きしめるでもなく、まるで何かを確かめるように、佐山の肌をなぞっていく。そのたびに、心臓が跳ねる。理性が「これは計算だ」と囁く。だが、体は嘘をつかなかった。(…もう、俺も逃げられないな)心の中でそう呟いた。佐伯の手は、まるで自分の境界線を壊すかのように、深く入り込んでくる。「愛されたい」とは思わない。そんなものは、とうの昔に信じるのをやめた。でも——一緒に堕ちたいとは、思ってしまった。喉の奥で、ひとつ小さな音が鳴った。自分でも気づかないほどの微かな喘ぎ。それを聞かれたくなくて、唇を噛んだ。けれど、佐伯は気づいたらしい。背中を撫でる手が、少しだけ強くなる。佐山は目を閉じたまま、指先でシーツを握った。その感触も、もうどうでもよかった。部屋の空気が、ぬるい熱に満ちている。呼吸が、だんだん浅くなる。(こんなはずじゃなかったのに)そう思いながらも、佐山は自分の中に湧き上がる感覚を止められなかった。かつては「佐伯を堕とすため」に抱かせた体。今は、ただ「触れられること」に、心も体も沈んでいく。「……っ」息が漏れた。それだけで、佐伯の手が止まる。
雨が上がった夜の匂いが、安アパートの薄い壁を越えて室内に滲んでくる。窓の外、濡れたアスファルトが街灯の光をぼんやりと反射していた。秒針の音だけが、静まり返った部屋に規則正しく響く。佐伯は、ベッドの上で佐山の背中に腕を回していた。ぬるい体温が指先に伝わるたび、自分の心臓がまだ動いていることを知る。こんなふうに抱き寄せるのは、もう何度目になるのか分からない。けれど、今夜は違った。「ただ、欲しい」と思ってしまう。罪でも、罰でもなく、理由もない。ただこの身体に触れていたいと、指が勝手に動いた。佐山の髪にそっと指を滑らせる。夜の湿気で少しだけ重たくなった髪が、掌に絡んだ。柔らかい感触が、喉の奥を熱くする。過去も、罪も、全部を忘れたわけじゃない。それでも、触れたいと願ってしまう。佐山は目を閉じたまま、微かに肩を揺らした。嫌がっているのか、それともただ呼吸が浅いだけなのか分からない。けれど、佐伯は手を止めなかった。心の中で「これは間違っている」と叫ぶ声があった。だが、もう離せなかった。首筋に唇を落とす。佐山の肌は、まるで硝子細工のように冷たく、それでいて柔らかい。ひとつ息を吸うと、佐山の匂いが喉を滑った。夜の灯りの中で、佐伯は自分が何をしているのか分からなくなった。「これでいい」と思った。心が壊れる音を、どこか遠くで聞いた気がした。けれど、その音が心地よかった。佐山の肩越しに、濡れた窓ガラスが見えた。街灯の明かりがぼんやりと滲み、二人の影を映している。その影は、どちらがどちらなのか分からなくなるほど、重なり合っていた。佐伯は目を閉じた。そして、もう一度、佐山の髪に触れた。その柔らかさだけが、今の自分の現実だった。