Masuk蒼空の頭の中で、鋭い声が響き続けていた。――「もう喋らないで」――「あなたにそんな資格はない」――「そんな資格が、ない」けれど胸の奥が激しく痛めば痛むほど、彼女の表情は逆に静かになっていく。「痛かった?」瑛司が低く尋ねる。「あの日、海へ飛び込んだ時......痛かったか?」蒼空は淡々と答えた。「もう覚えてない」その言葉に滲む冷たさと距離を、瑛司はすぐに察した。彼の口元から苦い笑みが零れる。声は掠れていた。「......俺に、償う機会をくれないか?」そう口にしながら、瑛司自身も思う。――自分はいったい、何を償えるというのだろう。この人生では、咲紀は生まれていない。傷だけが残っているのに、それを埋める道はもう存在しない。蒼空は、ひどく滑稽だと思った。――今さら償うなんて、もう遅い。彼女は何も答えない。瑛司は苦しげに口を開いた。「もう......償い終えたんだと思ってた」彼が言っているのは、最近の松木グループを巡る騒動のことだった。数々の不祥事によって株価は暴落し、会社は大打撃を受けた。それでも彼は、それでようやく自分は過去の罪を返したのだと思っていた。蒼空と、もう一度やり直せるかもしれないと。だがその瞬間、前世の記憶が突然すべて蘇った。まるで天罰のように。彼と蒼空の間へ、越えようのない深い溝として落ちてきた。彼は説明したかった。夢の中で見た、自分自身の行動の理由を。敬一郎に支配され、蒼空へ近づくことを許されなかったこと。松木グループを無事に継承するため。そして敬一郎の手から蒼空を守るため。彼は距離を置き、人前では冷たく振る舞い、芝居を続けた。すべてが終わったら迎えに行けばいい。蒼空と、娘を取り戻せばいい。――そんなふうに考えていた。だが彼は想像もしなかった。その「距離」と「放置」こそが、蒼空と娘を死へ追いやる原因になるなんて。取り返しのつかない罪になるなんて。これは、どんな理由があっても逃れられない責任だ。咲紀がどう死んだのか。蒼空がどんな絶望の果てに海へ飛び込んだのか。彼には、それをまともに考えることすらできない。少し想像しただけで、息ができないほど苦しくなる。もし蒼空が生まれ変わっ
蒼空は二人の病室へ顔を出したあと、ベッドに横たわる姿を見つめたまま、長いこと黙っていた。文香は両手を合わせ、何度も胸を撫で下ろす。「......二人とも無事で、本当に良かったわ......」そう呟き続けていたが、しばらくしてようやく蒼空が一言も話していないことに気づく。文香は心配そうに彼女を見た。「蒼空?」蒼空は両手を強く握り締め、ゆっくり口を開く。「......今回は、私のせいよ。この件をうまく片付けられなかった」そのせいで、遥樹と澄依を巻き込んだ。哲郎が彼女に不安を抱いていたのも当然だ。つい数日前、「きちんと処理する」と話したばかりなのに、今日にはもう問題が起きている。しかも遥樹を救急搬送されるような目に遭わせてしまった。文香は首を振る。「どうして蒼空のせいになるの。悪いのはあの人たちよ。そんなふうに考え込まないで」蒼空は静かに首を横へ振ったきり、それ以上何も言わなかった。文香もしばらく宥めていたが、やがて諦めたように口を閉ざす。こういうことは、本人が自分で考えて納得しない限り意味がない。他人の言葉では、その場しのぎにしかならないのだ。瑛司が救急室から出てきたのは、その30分後だった。遥樹や澄依よりも先に意識を取り戻したらしい。蒼空は医師と看護師が病室を出てから、中へ入った。ゆっくり視線を上げる。病床に横たわる男の頭には、ぐるりと包帯が巻かれていた。顔色は少し青白い。それでも整った鋭い顔立ちは変わらず、その蒼白さがかえって彼の張り詰めた雰囲気に、どこか痛々しい弱さを添えていた。蒼空が入ってきた時、瑛司は目を伏せていた。だが彼女がベッド脇まで来ると、ゆっくり瞼を上げる。二人の視線がぶつかった。その瞬間、蒼空の胸がひやりと冷える。――その目が、明らかに異様だった。いつも静かで深い黒を湛えていた瞳が、今ははっきりとした悲しみに染まっている。あまりにも露骨な痛みだった。目の縁は赤く染まり、さらによく見れば、シーツを掴む両手が微かに震えている。手の甲には青筋まで浮いていた。――おかしい。こんな瑛司を、見たことがない。最初に用意していた言葉を、その目に見つめられた瞬間、全部忘れてしまった。何を言えばいいのかも分からない。その
典子は警察の制止を振り切ろうと激しく暴れた。絶望に追い詰められた人間が爆発させる力は、想像を超える。蒼空が目にしたのは、怒りに顔を歪めた典子が、近くの床に置かれていた誰かの電気ケトルを掴み、そのまま彼女の頭へ叩きつけようとする姿だった。一瞬で文香の顔色が変わる。「蒼空!」蒼空の目が鋭く細まる。彼女は反射的に身体を横へ逸らそうとした。その瞬間、目の前を黒い影が横切った。肩を強く掴まれる。顔を上げた蒼空の視界に飛び込んできたのは、深く黒い瞳だった。――瑛司だ。バンッ!!典子が振り下ろした電気ケトルは、勢いそのままに瑛司の頭へ激突した。ケトルは砕け散り、破片が床へ飛び散る。中の熱湯も同時に弾けた。瑛司は眉を強く寄せ、低く呻く。その身体が前へ崩れ落ちそうになる。蒼空の頭の中は、一瞬で真っ白になった。ただ本能的に、彼の頭を支えようと手を伸ばす。そこから先は、もう混乱だった。周囲の人々がどよめき、警察が駆け寄って典子を押さえ込む。瑛司の後頭部から血が流れていた。蒼空一人では彼の体重を支えきれず、二人ともそのまま床へ崩れ落ちる。遠くから医師と看護師が慌てて走って来た。蒼空は脇へ押し退けられ、瑛司はそのまま救急室へ運び込まれていく。それでも典子はなお暴れ続けていた。だが、警察相手に敵うはずもない。その場で手錠を掛けられ、大勢の視線の中、強引に連行されていく。数人の警察官はその場に残り、蒼空たちへ事情聴取を始めた。蒼空は警察を見つめながら、相手が何を言っているのか上手く理解できなかった。ただ反射的に質問へ答えていく。気づけば事情聴取は終わっており、警察官が慰めるように彼女の肩を軽く叩き、そのまま久米川夫婦を連れて去っていった。病院にいた人々は皆、呆然とした様子でその光景を見ている。複雑な視線が蒼空へ向けられていた。しばらくして、小春が慎重に近づいてくる。「蒼空......大丈夫だった?」蒼空はゆっくり瞬きをした。視線を床から宙へ移し、小さな声で答える。「うん、平気」文香も慌てたように駆け寄ってきて、蒼空の腕を掴み、怪我がないか確かめるように上から下まで何度も見回した。「本当に怪我してない?」蒼空は唇を軽く結び、小さく答える
最寄りの病院へ到着した頃には、すでに病院側へ連絡が入っていた。医師と看護師たちは入口で待機しており、車が止まるや否やストレッチャーを押して駆け寄ってきた。昏睡状態の遥樹と澄依は、すぐに救急処置室へ運び込まれた。ようやく手術室の前まで辿り着いた瞬間、蒼空は張り詰めていた糸が切れたように、壁へ身を預ける。軽く俯き、長く息を吐いた。ふたつの救急室は、それほど離れてはいない。久米川夫婦は文香とともに澄依の方へ向かい、搬送される様子を見届けると、何度か落ち着きなく入口を覗き込み、それから蒼空たちの方へ戻ってきた。だが途中で、二人の足がぴたりと止まる。瑛司が上着を脱ぎ、蒼空の肩へ掛けようとしていたからだ。蒼空は瞬時に警戒し、一歩身を引く。そのまま手を上げ、彼の動きを遮った。「いらないから」瑛司は目を伏せ、静かに彼女を見つめる。無理強いはせず、上着を引き戻すと腕へ掛け直し、そのまま蒼空の隣へ立った。その光景を見た典子の顔色が、わずかに曇る。だが瑛司と瑠々はすでに離婚している。今の彼の行動に口を挟む立場など、自分にはない。典子は感情を押し殺しながら歩み寄った。「関水蒼空」呼ばれて、蒼空はゆっくり顔を上げる。典子は複雑な感情を宿した目で彼女を見つめ、さらに手を伸ばして彼女の手首を掴もうとした。だが蒼空は冷淡な表情のままそれを避ける。一瞬、典子の顔に陰りが差した。それでも怒りは見せず、低い声で尋ねる。「澄依は......本当に瑠々の子なの?」その問いに、蒼空はちらりと瑛司を見た。典子も意味が分からないまま、その視線を追う。瑛司の黒い瞳は静かで深い。蒼空は淡々と言った。「それが本当かどうか、一番分かってるのは瑠々の元夫でしょう」典子は瑛司と目が合った瞬間、胸がざわついた。もし彼が澄依の存在を知っていたなら――なぜそれでも瑠々と結婚したのか。蒼空は眉をわずかに上げ、まるでお気楽な傍観者でも眺めるような冷ややかな目で瑛司を見る。瑛司の目に、一瞬だけ諦めたような色がよぎった。そして彼は、蒼空の意図に従うように口を開く。「澄依は、確かに瑠々の子どもだ」その言葉に、典子の目が揺れた。孫娘がいたという喜び。そして瑛司が最初から知っていたという複雑さ。
蒼空は澄依を抱いたまま室内を覗き込み、暗がりのせいではっきり見えない中、声を上げた。「遥樹?」小春が懐中電灯を向ける。次の瞬間、彼女は口元を押さえて叫んだ。「遥樹!」蒼空の心臓が激しく跳ねる。彼女も視線を向けた。床には遥樹のスマホが落ちていた。ちょうど画面を上にした状態で倒れており、ライトの光は本体の下に押し潰されるように埋もれている。そして――遥樹本人は、そのそばに倒れ込んでいた。ぴくりとも動かない。蒼空の胸に、言葉にできない恐怖が一気に押し寄せる。理不尽な雷に頭を撃ち抜かれたような衝撃だった。全身の血が凍りつき、澄依を抱える腕まで震え出す。足はその場に縫い付けられたように動かなかった。扉が開いたことで、室内に充満していた強烈な化学薬品の臭いが一気に流れ出る。蒼空の目に鋭い光が走り、彼女は久米川夫婦を睨みつけた。その視線に典子は怯んだように目を逸らす。蒼空はもう構っていられなかった。そのまま部屋へ飛び込む――だが彼女の腕には澄依がいる。小春と一緒に遥樹を起こすことができない。遥樹は完全に意識を失っていた。どれだけ呼びかけても反応しない。小春が慌てて鼻先に手を当て、次の瞬間ほっと息を吐いた。「よかった......まだ息がある」だが蒼空の顔色はまるで良くならない。久米川夫婦が手を貸すはずもなく、文香も冷凍庫に閉じ込められていたばかりで動けない。ましてや瑛司に期待できるはずなど――ないはずだった。「とにかく起こして」小春は細い腕で唇を引き結び、遥樹の腕を掴む。「やってみるよ......」そう言った矢先、一人の影が蒼空の横を通り過ぎた。瑛司だった。彼はしゃがみ込み、遥樹の腕を取ると低い声で言う。「俺が背負う。君は支えろ」小春はまるで幽霊でも見たような顔をした。信じられない、という表情で動きまで止まり、思わず蒼空を見上げる。蒼空もまた眉を寄せ、瑛司の動きを見ていた。この二人は昔から折り合いが悪い。そんな瑛司が、こんなふうに助けるなんて。瑛司は小春をちらりと見た。「何ぼーっとしてる」小春は我に返り、気まずそうに遥樹を支え起こす。そのまま瑛司の背へ預けると、瑛司は無言で遥樹を背負い、そのまま外へ向かった。
蒼空は目の奥に浮かんだ驚きを押し隠し、険しい表情のまま典子を見据えた。典子は信じられないという顔で声を上げる。「そんな......そんなはずない......澄依が瑠々の子どもだなんて......」蒼空は、自分でも驚くほど冷静な口調で言った。「知ってるでしょう。瑠々と為澤相馬が別れたのは7年前。そして澄依は今6歳」久米川夫婦の瞳が激しく揺れる。典子の顔には動揺が広がり、頭の中で必死に辻褄を合わせ始めた。――確かに、時期は合っている。しかも相馬は、これまで一度も澄依の実母について話そうとしなかった。だとしたら......だとしたら本当に、澄依は瑠々の娘なのかもしれない。典子は思わず瑛司を見た。だが瑛司は静かな顔のまま。少しの驚きもない。まるで最初から知っていたかのようだった。つまり、彼も知っている。蒼空はさらに静かに言葉を重ねる。「信じられないなら、外に出てからDNA鑑定でもすればいい」典子は興奮と混乱の間で揺れていた。どうすればいいのか、判断がつかない。だが蒼空には分かった。――もう心は揺らいでいる。彼女は淡々と続ける。「それでも、瑠々の娘をあの中で凍えさせたままにするつもり?早く決めて。あの子はもう気絶してるのよ」久米川夫婦の表情が目に見えて動いた。蒼空は最後に言い切る。「チャンスはもう与えた。あとはあなたたちがどう選ぶかよ」典子はうつむき、葛藤するように唇を噛んだ。しばらくして、ようやく顔を上げる。「......分かった。今から鍵を取りに行くから、どかしてくれる?」小春が蒼空を見る。蒼空は小さくうなずいた。それを見て、小春は立ち上がり、ようやく久米川夫婦は支え合いながら起き上がる。蒼空は二人の後をぴたりと追った。久米川夫婦は薄暗い隅まで歩いて行き、機械の下へ身を屈めると、そこから鍵束を取り出した。典子は慎介の手から鍵を奪うように受け取り、そのまま冷凍倉庫へ駆け出す。素早く鍵を差し込み、扉を開けた。蒼空は二人の後ろに立っていた。扉が開いた瞬間、凍えるような冷気が吹き出してくる。そして典子は待ちきれないように中へ飛び込んだ。文香の腕の中で気を失っている澄依を見つけた途端、悲鳴のような声を上げる。「私の孫娘―
彼女は写真を開いた。蒼空と遥樹が投稿したものはシンプルだった。――「ようやく」。その瞬間、小春の中のゴシップ魂が一気に燃え上がる。彼女はすぐさまノリノリで二人の投稿にいいねを押し、コメントを残した。【おめでとう~(ニヤリ)】ほんの少しの間に、遥樹と蒼空の投稿の下では、いいねの数が勢いよく増え、コメントも次々と積み重なっていく。内容はどれも【お幸せに】といった祝福ばかりだった。小春は蒼空にメッセージを送った。【遥樹もようやく報われたね】投稿に使われた写真は、遥樹が蒼空に送ってきたものだった。蒼空は、彼がいつこの写真を撮ったのかまったく分からず、撮られて
遥樹はそれ以上、返信してこなかった。菜々はしばらく待っても遥樹からの返事がなく、たまらなく悔しくなって、鼻の奥がツンとし、目元が赤くなり、怒り混じりに指で画面を叩いた。菜々【冗談じゃないの、本当にお腹空いててお金もないし、こんな時間にどこへ行けばいいのかも分からない。早く迎えに来てよ】菜々【遥樹、もう私のことどうでもいいの?】それでも遥樹は返事をしなかった。菜々の目から、たちまち涙がこぼれ落ちた。彼女はしゃくり上げながら遥樹に電話をかけたが、遥樹は出ず、すぐに自動で切れた。何度もかけ直したが、どれもつながらなかった。菜々はそのままテーブルに突っ伏し、涙をぼろぼろ
蒼空はポットを病室のベッド横の棚に置き、コップにお湯を注いで梅子に手渡した。梅子は驚いたように受け取り、こけた頬にさらに深い皺を刻んで笑った。「ありがとうね、お嬢さん。名前は何て言うんだい?」蒼空は表情を変えず、平然と嘘をつく。「思音(しおん)といいます」梅子はその名を反芻しながら尋ねた。「しおん......漢字はどう書くんだい?」「思いの『思』に、音楽の『音』です」蒼空は歩み寄って彼女をベッドのそばへ支えた。梅子は蒼空の手を握り、そのまま横に座らせて、心配そうに聞いた。「お嬢さんは病院に何しに来たの?診察?」蒼空は淡々とした声で答えた。「友達の
瑠々と蒼空の件について、理人自身もその渦中にいた。瑠々のために自ら各メディアや宣伝アカウントへ連絡し、世論操作のためのトレンドをいくつも買い、ネット上の流れを無理やり捻じ曲げた。良い印象はすべて久米川瑠々に、悪い印象はすべて関水蒼空に。彼はその中にいたからこそ、何がどう利害に結びついているのかを誰よりもよく理解しており、その分だけ蒼空に対する同情の念が強かった。蒼空は、本当に無実だった。けれど仕方がない。松木社長がどちらの側に立つか、それがすべてを決める。瑠々には松木社長の後ろ盾がある。自分は松木社長の部下。どれほど蒼空を哀れに思っても、どうにもならない。だ