Se connecter判決が言い渡されたころには、もう冬になっていた。浩介は、私の署名を偽造したこと、私を無理やり精神科に入れて自由を奪ったこと、そして咲良の献眼手続きを不正に進めたことについて責任を問われた。それに関わった病院職員も職務を外され、引き続き調査を受けることになった。翔太のために買われた学区内の住宅も手放すことになり、その代金も清算の対象になった。咲良の治療のために貯めていたお金も、保険の解約返戻金も、夫婦の財産も、すべて見直された。梨沙も、書類の偽造や金銭の不正流用をめぐって起訴されていた。梨沙が翔太を連れてこの街を離れた日は、激しい雨が降っていた。私は見送りには行かなかった。晶から電話がかかってきたとき、私は咲良の遺品を整理していた。あのクマも、きれいに拭いた。けれど、破れた耳だけは、何度やってもうまく直せなかった。その裂け目を見ていると、元どおりにはならないものもあるのだと思った。浩介は晶を通して、私に手紙を1通よこした。私は封を開けなかった。晶が聞いた。「読まないの?」私は首を横に振った。「今さら読まなくていい。言いたいことがあったなら、言う機会はいくらでもあったから」咲良が初めて熱を出したとき。私が初めて、帰ってきてほしいと頼んだとき。治療費が口座からなくなったときも、治療を止めるための署名を求められたときも。浩介には、そのたびに選ぶ機会があった。それでも選んだのは、いつも私と咲良ではなく、別の誰かだった。だから今さら何を書かれても、自分を少しでも正当化するための言い訳にしか思えなかった。その後、私は咲良と暮らしていた家を売った。咲良のものは全部持って出た。浩介のものは、何ひとつ持っていかなかった。新しい家は広くなかったけれど、よく日の入る窓があった。私はそのそばに咲良の写真を置いた。毎朝、朝日がいちばん先に咲良の顔を照らした。まるで、今もそこにいるみたいだった。3年後、私は小児医療を支援する基金を立ち上げた。名前は「すこやか基金」にした。どうしてその名前にしたのかと聞かれることもあった。そんなときは、壁に飾った咲良の写真を見ながら答えた。「生きたいと願う子どもたちに、元気に大きくなってほしいと思ったから」基金を立ち上げた
浩介が顔を上げた。目は真っ赤だった。「翔太は、俺の子だ」梨沙の表情がこわばった。晶が別の資料を浩介の前に置いた。「では、こちらを見てください」警察が確認した戸籍関係の資料だった。「翔太くんの父親として記録されているのは、羽賀征司(はが せいじ)という人です」浩介が勢いよく梨沙を振り返った。梨沙は真っ青になった。「違う……その書類、偽物よ!」梨沙が慌てて資料を奪おうとしたが、晶はさっと引いた。「警察が原本まで確認しています。偽物ではありません」晶はそのまま梨沙を見た。「病院に出した書類や、お金の流れについても調べが進んでいます。桐谷さんを翔太くんの父親として届け出た経緯も、これから確認されます」梨沙は力が抜けたように椅子へ座り込んだ。怯えた翔太が泣き出した。「ママ……どこかに連れていかれちゃうの?」けれど浩介は、翔太の声にも反応しなかった。ただ、目の前の資料を食い入るように見つめていた。長い沈黙のあと、かすかな笑い声が漏れた。「……俺の子じゃなかったのか?」梨沙は泣きながら浩介の袖をつかんだ。「浩介、騙そうとしたわけじゃないの。本当に1人で翔太を育てるのが大変で……この子にも父親がいたらって、それだけだったの」浩介はゆっくり梨沙を見た。「そのために、咲良を死なせたのか?」梨沙の体がこわばった。「違う、私は……」浩介の声は、ほとんど聞き取れないほどかすれていた。「あの子は、俺のことをパパって呼んでた」浩介は私の腕の中のクマを見た。頬を涙が伝っていった。「死ぬまで、ずっと俺を待ってたんだ……」私はそっと目を閉じた。私も、いつか浩介が気づいてくれるのを待っていた。咲良もずっと待っていた。けれど、浩介がようやく気づいたときには、咲良はもう痛いと訴えることさえできなかった。後日、弁護士を交えて話し合うことになった。その日、浩介は梨沙をかばう言葉を一度も口にしなかった。向かいに座る浩介は、以前よりひと回り痩せて見えた。梨沙は泣きながら、何度も同じことを繰り返していた。家を買ったお金がどこから出たのかは知らない。自分から買ってほしいと頼んだわけでもない。翔太の手術だって、たまたま移植の条件が合っただけだ、と。晶は口座の取引明
手術は緊急に中止され、病院はすぐに院内調査を始めた。アイバンクとのやり取りや、献眼に関する書類もすべて保全された。3日目、病院から私たちに連絡があり、資料の確認に立ち会うことになった。案内された会議室は広くなかった。長机が1つと、椅子が数脚。壁時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえた。私は晶の隣に座り、咲良のクマのぬいぐるみを胸に抱いていた。向かいには浩介が座っていた。浩介はクマに一瞬目を留めたが、すぐに視線を落とした。梨沙は泣き腫らした目のまま、翔太を抱いて浩介の隣に座っていた。調査担当者が、最初の書類を机に置いた。「こちらは、献眼について千尋さんの意思を確認した際の記録です。献眼を希望しないとの記載と、千尋さんご本人の署名が残っています。日付は、咲良さんを見送った日です」私は自分の署名を見つめた。あの日は、手がひどく震えていた。それでも、献眼には同意しないという意思だけは、はっきり書いた。次の書類が机に置かれた。「こちらは、そのあと浩介さんから病院へ提出された書面です。千尋さんは娘さんを亡くした直後で、冷静な判断ができる状態ではないとの申し出がありました」晶が冷ややかに尋ねた。「それで、千尋本人が断っているのに、手続きを止めなかったんですか?」調査担当者は少し言葉に詰まった。「今回の対応に重大な問題があったことは認めています」浩介が口を開いた。「あとで後悔してほしくなかっただけだ」私は浩介を見た。「私が何を後悔するの?」浩介の喉が動いた。「救える子がいたのに、助けなかったことを」浩介の指先がこわばった。「咲良はもう……」「もう死んだなんて、二度と言わないで」会議室が静まり返った。晶がICレコーダーを取り出した。「院内調査で確認された通話の録音です。再生をお願いします」録音が再生されると、最初に聞こえてきたのは浩介の声だった。「薬はもう止めてください。これ以上、金をかけても意味がない」直人の低い声が続いた。「お母さんは同意していません」「俺は父親です。俺がサインします」少し間が空いた。「あの病気にいくら金をかけたって、きりがない」私は机を見つめたまま、泣かなかった。向かいに座っていた浩介の顔からは、少しずつ血
その瞬間、浩介の顔から血の気が引いた。浩介が書類を奪おうと手を伸ばしてきた。私は書類を胸元に引き寄せ、強く握りしめた。「……父親?」自分でも驚くほど、声は静かだった。「翔太って、あなたの子なの?」梨沙が先に泣き出した。「千尋さん、待って。そういうことじゃないの」私は梨沙を見た。「じゃあ、どういうこと?」梨沙は翔太を抱きしめ、涙をこぼした。「翔太には小さいころから父親がいなかったの。せめて普通の家庭みたいにしてあげたくて……病院では、浩介に父親代わりになってもらっただけなの」思わず笑った。「父親代わりって……そこまでする必要があったの?」梨沙は唇をかみ、視線をそらした。浩介が口を開いた。「千尋、この話はあとだ。今は翔太の手術が先だ」こんなときでさえ、浩介が気にしているのは翔太の手術だった。握りしめた書類にしわが寄った。「じゃあ……翔太は本当にあなたの子なの?」浩介は一度目を閉じた。「梨沙と別れたあとで、妊娠してたってわかったんだ。1人で産んで、ここまで育てるのは大変だった」梨沙は泣きながら続けた。「千尋さんたちの家庭を壊したかったわけじゃないの。私だって、どうすればいいのかわからなかったの……」どうすればいいのかわからなかった。梨沙がそう言うたびに、後回しにされたのはいつも私と咲良だった。浩介は私の妊婦健診に来なかった。咲良の誕生日にも来なかった。そして最後には、咲良の薬まで止めた。今度は、咲良の角膜まで差し出そうとしている。私は浩介を見た。「じゃあ、咲良は?あの子が危篤だったとき、一度でも来た?咲良を見送った日、あの子にちゃんと手を合わせた?」そのとき、翔太が急に泣き出した。「ママ、怖いよ」浩介は反射的に振り返ると、すぐ翔太の前にしゃがみ込んでなだめた。その背中を見た瞬間、私の中に残っていた最後の何かまで消えた。「泣くな。おじさんがいるから」おじさん。書類には、はっきり「父」と書いてあった。それなのに、私の前ではまた「おじさん」に戻る。父親として振る舞う相手まで、浩介は選んでいた。私は病棟を抜け出すときに取り戻したスマホを取り出し、唐沢晶(からさわ あき)に電話をかけた。晶は大学時代の同級生で、弁護士とし
私は病院へ向かった。病院に着くと、まず窓口へ向かって、診療記録の開示を要求した。本人確認書類と、咲良との関係がわかる書類を出すと、職員は内容を確認してから申請書を差し出した。書類に目を通していた職員は、咲良の年齢に目を留めると、そっと声を落とした。「まだ、小さなお子さんだったんですね……」私は顔を上げず、そのまま申請書に名前を書いた。手続きを済ませたあと、咲良の主治医だった佐伯直人(さえき なおと)のもとへ向かった。私を見ると、直人は少し間を置いてから口を開いた。「桐谷さん……このたびは、お悔やみ申し上げます」私は保険の解約通知書と、夫婦で使っていた口座の取引明細を机の上に置いた。「先生、咲良が亡くなる前の1か月に何があったのか、教えてください」直人はすぐには答えなかった。「診療記録については、手続きが済めば開示されます。ただ、治療を止めた経緯については……ご主人にも確認されたほうがいいと思います」私はスマホの録音を始めた。「娘が亡くなったんです。どうして亡くなったのかくらい、母親の私には知る権利がありますよね」直人は眼鏡を外し、疲れたように目元を押さえた。しばらくしてから、カルテの中から1枚のコピーを取り出した。自由診療で続けていた治療を中止することに同意した書類だった。そこには、浩介の署名があった。日付を見た瞬間、息が詰まった。咲良が亡くなる15日前だった。あの日から亡くなるまで、咲良は毎日のように聞いていた。「パパ、お薬いつ買って帰ってくるの?」そのたびに、私は嘘をついた。「もうすぐだよ。パパももうすぐ帰ってくるから。咲良を置いていったりしないよ」直人の声が低かった。「薬を続けていても、治ったとまでは言えません。ただ、少なくとも次の治療方針が決まるまでは、持ちこたえられた可能性はあります」私は顔を上げた。「どうして浩介は薬を止めたんですか?」直人は視線を落とした。「ご主人は、これ以上治療費を出すのは難しいと。それに、これ以上つらい治療を続けさせたくないともおっしゃっていました」咲良の治療費は出せない。そう言いながら、翔太のためなら人気の学区に家を買い、個室で治療まで受けさせていた。そのとき、廊下から看護師の声が聞こえた。「佐伯
夜が明けるころ、夫婦で使っていた口座から600万円の振込が完了したという通知が、スマホに届いた。銀行アプリを開くと、振込先には不動産会社の名が表示されていた。摘要欄には「住宅購入代金」とある。その画面を見たまま、スマホを握る指が少しずつ冷たくなっていった。母の形見のブレスレットを売り、結婚前に買ったマンションも担保に入れた。デザイナーとして働きながら貯めてきたお金まで、全部あの口座に入れていた。いざというとき、咲良の治療に使うつもりだった。咲良が入院したとき、浩介はこう言った。「夫婦なんだから、金のことで疑い合うのはやめよう」私は、その言葉を信じた。咲良の遺影を抱え、タクシーで不動産会社へ向かった。店に入ると、梨沙がソファに座って書類に署名していた。浩介はその後ろから身をかがめ、梨沙の手に自分の手を重ねるようにして、書類への署名を手伝っていた。あまりに親しげな様子に、胸の奥がずきりと痛んだ。テーブルには不動産の売買契約書が広げられ、買主欄には梨沙の名前があった。その横には、翔太の入学に必要な書類まで置かれていた。担当者がにこやかに声をかけた。「水野様、よかったですね。桐谷様も翔太くんのことを本当に大切にされてますね。この辺りは学校が近いので人気ですから、いい物件は出てもすぐ決まってしまうんですよ」梨沙はうつむき、照れたように笑った。「この子、ほんと運がいいんです」私は2人のところまで歩いていき、銀行アプリの振込履歴を開いたスマホをテーブルに置いた。「浩介、これ……どういうこと?」私を見るなり、浩介の顔が険しくなった。「どうしてここがわかった?」私は契約書を指さした。「そのお金、私が入れた分も使ったの?」梨沙の手からペンが落ち、テーブルの上を転がった。「千尋さん、違うの。浩介が先に立て替えてくれただけで……翔太の入学まで時間がなくて。あとでちゃんと返すつもりだから」私は浩介を見た。「咲良の薬は、平気で後回しにしたのに?」浩介は契約書を閉じた。「もう払った」「返してもらって」「もう無理だ」息が詰まった。「亡くなる前の2週間、咲良は痛くて、夜もまともに眠れなかった。薬さえ続けられれば、次の治療法が決まるまでは何とか持ちこたえられるって、先生も言っ