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娘の角膜まで、あの子に渡すつもり?
娘の角膜まで、あの子に渡すつもり?
Auteur: あまなな

第1話

Auteur: あまなな
夕方になって、浩介はようやくやってきた。

「どうして咲良の薬、止めたの?」

私が聞くと、浩介はうんざりしたように眉をひそめた。

「治療にいくら金をかけたって、きりがないだろ。翔太だってもうすぐ小学生なんだ。これから何かと金がかかるんだよ」

私は浩介を見つめたまま、何も言えなかった。

咲良がどれだけ必死に生きようとしていたかなんて、浩介にはどうでもいいらしい。

胸に抱いた遺影には、髪を二つに結び、目を細めて笑う咲良が写っていた。

咲良が一番気に入っていた写真で、浩介が珍しく遊園地に連れていってくれた日に撮ったものだった。

けれど、親子で過ごせたのはたった20分。梨沙から電話が入ると、浩介は咲良を私に預け、すぐに帰ってしまった。

それでも、咲良はずっと嬉しそうだった。

パパに抱っこしてもらったことも、パパからお日さまみたいな匂いがしたことも、何度も私に話してくれた。

そんな浩介が今、咲良のすぐそばに立っていた。

それなのに、泣いた様子すらなかった。

アイバンクの担当者が書類を開き、声を落として言った。

「ご主人には、すでに献眼についてご説明し、承諾書にもご署名いただいています。ただ、処置に入る前に、お母さまのご意向も確認させてください」

書類の署名欄には、浩介の名前があった。

日付は、咲良が息を引き取った日だった。

そのとき私は病室のベッドのそばに膝をつき、咲良の手をどうしても離せずにいた。

浩介は姿を見せなかった。

けれど、咲良が亡くなったことは知っていた。

それなのに病室には来ず、献眼の書類には署名していた。

私は顔を上げ、浩介を見た。

「最初から、咲良の角膜を提供するつもりだったの?」

浩介は私と目を合わせようとしなかった。

「医者から、角膜は提供できる可能性があるって聞いたんだ。提供できるなら、誰かの役に立ったほうがいいだろ」

遺影を抱く手に力が入った。額縁の角が手のひらに当たり、じんと痛んだ。

「どうして私に何も言わずに決めたの?」

浩介は眉間にしわを寄せた。

「俺は咲良の父親だ」

思わず、笑いが漏れた。

咲良が生きていたころは、父親らしいことなんて何一つしなかったくせに。

咲良が初めて抗がん剤治療を受けた日、浩介は梨沙の家で翔太の誕生日を祝っていた。

咲良が高熱でけいれんを起こし、私が必死に電話をかけたとき、浩介は冷たく言い放った。

「翔太だって泣いてるんだ。咲良のことを理由に、いちいち俺を呼び戻そうとするな」

咲良が痛みに耐えきれず、ベッドの上で身をよじりながら「パパ、お薬いつ買って帰ってくるの?」と聞いていたそのときも、薬を止めたのは浩介だった。

咲良が二度と目を開けなくなった今になって、父親面をするなんて。

私は目の前の書類を押し返した。

「同意しません」

担当者はわずかに驚いたようだったが、すぐにうなずいた。

「承知しました。では、献眼の処置は行いません」

浩介の顔が険しくなった。

「千尋、意地を張るな。咲良はもう死んでるんだぞ」

咲良はもう死んでいる。

その一言で、全部終わったことにするつもりなのだろうか。

生きている間は何もしてやらなかったくせに、今度はあの子に残った最後のものまで、勝手に差し出すつもりなのか。

私は浩介を見つめた。声がかすれた。

「そこまでして助けたいのは、誰なの?」

浩介は答えなかった。

そのとき、浩介のスマホが鳴った。

スマホを見た途端、浩介の表情が変わった。

着信画面には「梨沙」と表示されていた。

電話に出ると、梨沙の泣きそうな声がこちらにまで聞こえてきた。

「浩介、翔太がまた目が痛いって……手術、いつできるのってずっと聞いてくるの」

浩介はとっさに背を向けた。

「大丈夫だ。すぐ行く」

その声を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。

その瞬間、ようやくわかった。

角膜移植を待っていたのは、翔太だった。

だから浩介は、咲良の献眼にここまでこだわっていた。

咲良が最後まで待っていた薬は、とうとう届かなかった。

それなのに翔太のためなら、浩介は必要なものを何でも用意した。

そして今度は、咲良の角膜まで翔太に回ることを望んでいたのだ。

私はもう一度、書類へ手を伸ばした。

次の瞬間、浩介に手首をつかまれた。

「千尋、翔太はまだ子どもなんだぞ」

私は浩介を見上げた。

「咲良だって、まだ子どもだったよ」

手首をつかむ浩介の力が、一瞬だけ緩んだ。

私はその手を振りほどいた。

安置室は、息苦しいほど静かだった。

咲良は大好きだったピンクのワンピースを着て、静かに横たわっていた。枕元には白い花が供えられていた。

そのワンピースは、私が買ったものだった。

咲良はもったいないと言って、ずっと大事にしまっていた。パパが帰ってきたら着て見せるんだと、楽しみにしていたのに。

けれど浩介は、最後まであの子にちゃんと目を向けようとしなかった。

私はうつむき、提供には同意しないと改めて伝え、確認書に署名した。

手が震えて、名前を書くだけなのに何度もペン先が止まった。

書き終えた紙を見た途端、浩介の顔つきが変わった。

「後悔するぞ」

私は書類を担当者に返した。

「咲良はもう自分で嫌だって言えないから、私が代わりに断ります」

浩介は私を見た。

「翔太は角膜移植を待ってるんだぞ。それでも同意しないっていうなら、もう勝手にしろ」

そう言って、浩介は部屋を出ていった。

扉が閉まる音が、静かな部屋に響いた。

私は咲良の遺影を強く抱きしめたまま、追いかけなかった。

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  • 娘の角膜まで、あの子に渡すつもり?   第8話

    判決が言い渡されたころには、もう冬になっていた。浩介は、私の署名を偽造したこと、私を無理やり精神科に入れて自由を奪ったこと、そして咲良の献眼手続きを不正に進めたことについて責任を問われた。それに関わった病院職員も職務を外され、引き続き調査を受けることになった。翔太のために買われた学区内の住宅も手放すことになり、その代金も清算の対象になった。咲良の治療のために貯めていたお金も、保険の解約返戻金も、夫婦の財産も、すべて見直された。梨沙も、書類の偽造や金銭の不正流用をめぐって起訴されていた。梨沙が翔太を連れてこの街を離れた日は、激しい雨が降っていた。私は見送りには行かなかった。晶から電話がかかってきたとき、私は咲良の遺品を整理していた。あのクマも、きれいに拭いた。けれど、破れた耳だけは、何度やってもうまく直せなかった。その裂け目を見ていると、元どおりにはならないものもあるのだと思った。浩介は晶を通して、私に手紙を1通よこした。私は封を開けなかった。晶が聞いた。「読まないの?」私は首を横に振った。「今さら読まなくていい。言いたいことがあったなら、言う機会はいくらでもあったから」咲良が初めて熱を出したとき。私が初めて、帰ってきてほしいと頼んだとき。治療費が口座からなくなったときも、治療を止めるための署名を求められたときも。浩介には、そのたびに選ぶ機会があった。それでも選んだのは、いつも私と咲良ではなく、別の誰かだった。だから今さら何を書かれても、自分を少しでも正当化するための言い訳にしか思えなかった。その後、私は咲良と暮らしていた家を売った。咲良のものは全部持って出た。浩介のものは、何ひとつ持っていかなかった。新しい家は広くなかったけれど、よく日の入る窓があった。私はそのそばに咲良の写真を置いた。毎朝、朝日がいちばん先に咲良の顔を照らした。まるで、今もそこにいるみたいだった。3年後、私は小児医療を支援する基金を立ち上げた。名前は「すこやか基金」にした。どうしてその名前にしたのかと聞かれることもあった。そんなときは、壁に飾った咲良の写真を見ながら答えた。「生きたいと願う子どもたちに、元気に大きくなってほしいと思ったから」基金を立ち上げた

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  • 娘の角膜まで、あの子に渡すつもり?   第6話

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  • 娘の角膜まで、あの子に渡すつもり?   第4話

    私は病院へ向かった。病院に着くと、まず窓口へ向かって、診療記録の開示を要求した。本人確認書類と、咲良との関係がわかる書類を出すと、職員は内容を確認してから申請書を差し出した。書類に目を通していた職員は、咲良の年齢に目を留めると、そっと声を落とした。「まだ、小さなお子さんだったんですね……」私は顔を上げず、そのまま申請書に名前を書いた。手続きを済ませたあと、咲良の主治医だった佐伯直人(さえき なおと)のもとへ向かった。私を見ると、直人は少し間を置いてから口を開いた。「桐谷さん……このたびは、お悔やみ申し上げます」私は保険の解約通知書と、夫婦で使っていた口座の取引明細を机の上に置いた。「先生、咲良が亡くなる前の1か月に何があったのか、教えてください」直人はすぐには答えなかった。「診療記録については、手続きが済めば開示されます。ただ、治療を止めた経緯については……ご主人にも確認されたほうがいいと思います」私はスマホの録音を始めた。「娘が亡くなったんです。どうして亡くなったのかくらい、母親の私には知る権利がありますよね」直人は眼鏡を外し、疲れたように目元を押さえた。しばらくしてから、カルテの中から1枚のコピーを取り出した。自由診療で続けていた治療を中止することに同意した書類だった。そこには、浩介の署名があった。日付を見た瞬間、息が詰まった。咲良が亡くなる15日前だった。あの日から亡くなるまで、咲良は毎日のように聞いていた。「パパ、お薬いつ買って帰ってくるの?」そのたびに、私は嘘をついた。「もうすぐだよ。パパももうすぐ帰ってくるから。咲良を置いていったりしないよ」直人の声が低かった。「薬を続けていても、治ったとまでは言えません。ただ、少なくとも次の治療方針が決まるまでは、持ちこたえられた可能性はあります」私は顔を上げた。「どうして浩介は薬を止めたんですか?」直人は視線を落とした。「ご主人は、これ以上治療費を出すのは難しいと。それに、これ以上つらい治療を続けさせたくないともおっしゃっていました」咲良の治療費は出せない。そう言いながら、翔太のためなら人気の学区に家を買い、個室で治療まで受けさせていた。そのとき、廊下から看護師の声が聞こえた。「佐伯

  • 娘の角膜まで、あの子に渡すつもり?   第3話

    夜が明けるころ、夫婦で使っていた口座から600万円の振込が完了したという通知が、スマホに届いた。銀行アプリを開くと、振込先には不動産会社の名が表示されていた。摘要欄には「住宅購入代金」とある。その画面を見たまま、スマホを握る指が少しずつ冷たくなっていった。母の形見のブレスレットを売り、結婚前に買ったマンションも担保に入れた。デザイナーとして働きながら貯めてきたお金まで、全部あの口座に入れていた。いざというとき、咲良の治療に使うつもりだった。咲良が入院したとき、浩介はこう言った。「夫婦なんだから、金のことで疑い合うのはやめよう」私は、その言葉を信じた。咲良の遺影を抱え、タクシーで不動産会社へ向かった。店に入ると、梨沙がソファに座って書類に署名していた。浩介はその後ろから身をかがめ、梨沙の手に自分の手を重ねるようにして、書類への署名を手伝っていた。あまりに親しげな様子に、胸の奥がずきりと痛んだ。テーブルには不動産の売買契約書が広げられ、買主欄には梨沙の名前があった。その横には、翔太の入学に必要な書類まで置かれていた。担当者がにこやかに声をかけた。「水野様、よかったですね。桐谷様も翔太くんのことを本当に大切にされてますね。この辺りは学校が近いので人気ですから、いい物件は出てもすぐ決まってしまうんですよ」梨沙はうつむき、照れたように笑った。「この子、ほんと運がいいんです」私は2人のところまで歩いていき、銀行アプリの振込履歴を開いたスマホをテーブルに置いた。「浩介、これ……どういうこと?」私を見るなり、浩介の顔が険しくなった。「どうしてここがわかった?」私は契約書を指さした。「そのお金、私が入れた分も使ったの?」梨沙の手からペンが落ち、テーブルの上を転がった。「千尋さん、違うの。浩介が先に立て替えてくれただけで……翔太の入学まで時間がなくて。あとでちゃんと返すつもりだから」私は浩介を見た。「咲良の薬は、平気で後回しにしたのに?」浩介は契約書を閉じた。「もう払った」「返してもらって」「もう無理だ」息が詰まった。「亡くなる前の2週間、咲良は痛くて、夜もまともに眠れなかった。薬さえ続けられれば、次の治療法が決まるまでは何とか持ちこたえられるって、先生も言っ

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