Mag-log in結婚3周年を翌日に控えた夜、私、松本彩香(まつもと あやか)は、夫の松本亮介(まつもと りょうすけ)から、突然アイスランド行きの航空券をキャンセルしたと告げられた。 亮介は申し訳なさそうな顔で私を見た。 「機密データが流出して、社内が大混乱なんだ。少なくとも3日は会社を離れられない」 私を納得させたかったのか、亮介の共同経営者で友人でもある黒田圭介(くろだ けいすけ)まで、グループチャットに社員たちが残業している写真を送ってきた。 【彩香さん、亮介をもう数日だけ借りるね。落ち着いたら、ちゃんと埋め合わせしてもらってください!】 しばらくすると、亮介の母からも電話がかかってきた。けれど、その口ぶりからは、私への気遣いなど少しも感じられなかった。 「仕事なんだから仕方ないでしょ。旅行に行けなくなったくらいで、いつまでも拗ねて亮介を困らせないの」 亮介は私の口座に200万円を振り込むと、そっと顔を寄せて額に口づけた。 「好きなものでも買って、気晴らししておいで。仕事が落ち着いたら、今度こそ二人でゆっくり旅行しよう」 200万円が振り込まれているのを確認し、私は黙ってうなずいた。 亮介が家を出ると、私はすぐにその200万円を彼の口座へ送り返した。それから、この3年間ずっと折半してきた生活費の明細もまとめて送った。 さっき圭介が送ってきた写真を見ると、隅に写り込んでいたカレンダーは先月のままだった。 それだけでも十分怪しかったが、決定的だったのは、ついさっき届いたクレジットカードの利用通知だった。 私は亮介の家族カードを持っていて、利用通知は私のスマホにも届くようになっていた。 通知に表示されていた利用先は、会社ではなくホテルだった。 支払われていたのは、水中が見えるスイートルーム1泊分と、2人分のディナー代だった。
view more亮介は自分名義のマンションを2戸売り、スポーツカーも手放して、会社の損失を埋めた。財産分与で私の取り分になったお金も、一円残らず私の口座へ振り込んできた。亮介の母にも実家へ戻ってもらい、私が嫌がっていたことを、今さら一つずつなくしていった。離婚届を出す前日、亮介はベルベットの小箱を手に、私の会社の前で待っていた。中に入っていたのは、5カラットもあるダイヤの指輪だった。以前、買ってくれると約束していたものよりずっと大きく、眩しいほど輝いていた。亮介が私の前で片膝をつくと、通りがかった人たちまで何事かと足を止めた。「彩香、麻衣はもう捕まった。会社もなんとか持ち直した。もう前みたいなことにはならない」亮介は縋るような目で私を見上げた。「もう一度だけチャンスをくれないか。一からやり直そう。今度こそちゃんとお前の話を聞く。アイスランドにも行こう。二人でいろんな国を回ろう……」私は差し出された指輪を見た。あれほど欲しかったはずなのに、今はもう何も感じなかった。「桐谷さんのことも会社のことも片がついて、こんな指輪まで用意したら、それで私が戻ると思ったの?」亮介は言葉を失った。指輪を持つ手が、かすかに震えた。「その指輪、きれいね」私は静かに続けた。「結婚3周年の日にこれをもらってたら、きっと嬉しくて泣いてたと思う」もう一度、指輪に目を落とした。「でも今は、きれいな石だなって思うだけ」私は亮介の横を通り過ぎた。「明日10時、区役所に来て。遅れないで」翌日、私たちは区役所に離婚届を出した。手続きが終わっても、亮介の手はまだ震えていた。「彩香……これからも、友達ではいられないか?何かあったら、電話してもいいか?」目を赤くした亮介に、私は首を横に振った。「無理よ」外へ出ると、雨は上がり、珍しくきれいな青空が広がっていた。「これから先、あなたがうまくやっていけたらいいと思ってる。でも、もう私がそばにいることはないわ」それだけ言って、私は待たせていたタクシーへ向かった。タクシーが走り出してからバックミラーを見ると、亮介は区役所の前に一人でしゃがみ込み、顔を覆っていた。ポケットからは、あのオーロラブレスレットが滑り落ち、足元の水たまりに落ちた。けれど、それももう私には関係なかった。
3日後、会社にいた亮介のもとへ、家庭裁判所から離婚調停の申立書の写しが届いた。同じ日、弁護士に申し立ててもらっていた仮差押えも認められ、亮介名義の預金の一部と、亮介が持っている会社の株式の一部は動かせなくなった。午後2時、亮介が私のマンションに押しかけてきた。目は充血して真っ赤で、裁判所から届いた書類を握りしめていた。いつもはきちんと着ているスーツも、その日はしわだらけだった。「彩香、俺の口座まで押さえたのか?そこまでしなくてもいいだろ」亮介はかすれた声で言い、書類をテーブルに叩きつけた。私はソファに座ったまま、コーヒーを一口飲んだ。「私に黙って桐谷さんと水中スイートに泊まったときは、私のことなんて気にしなかったでしょ」「だから、あれは出資のためだったって言ってるだろ!」亮介は苛立ったように髪をかき上げた。「今は口座も株も押さえられて、出資の話まで止まりかけてる。このまま金が入らなかったら、会社だって回らなくなる。何年もかけてここまでやってきたのに、全部潰す気かよ」「私だって、その会社をずっと一緒に支えてきたのよ」私は立ち上がった。「起業したばかりの頃、あなたが寝る間も惜しんでコードを書いてる間、私は仕事を二つ掛け持ちして家賃を払ってた。胃出血で入院したときも、3日間ずっと付き添った」亮介は黙ったままだった。「この会社は、あなただけでここまで来たんじゃない。それなのに、その株を桐谷さんに渡そうとしたんでしょ。だったら私が、自分の分を取り戻したっていいじゃない」亮介は一歩後ろへ下がり、顔色を変えた。「会社を麻衣に渡すつもりなんてなかった……」亮介の声から、さっきまでの勢いが消えた。「彩香、調停も仮差押えも取り下げてくれないか。麻衣はすぐ会社から外す。だから、家に戻ってきてくれ。これからはちゃんとお前の話も聞くから」「もう無理よ」私は麻衣から送られてきた写真を、亮介の前に置いた。「結婚3周年のために用意したブレスレットを、桐谷さんと二人でつけてたでしょ。あれを見たとき、もう戻れないって思ったの」亮介は写真を見つめたまま、何も言えなくなった。ずっと、私が怒っているだけで、そのうち元に戻ると思っていたのだろう。けれど裁判所から書類が届き、預金や株まで押さえられて、ようやく私が本気
離婚協議書を亮介に送ってから5日経っても、署名したものは返ってこなかった。その間も、亮介は秘書を通して花や食事を送ってきた。しまいには、アイスランド行きの航空券まで二人分取り直してきた。私はどれも受け取らず、そのまま返した。金曜日の午後、家に置いたままになっていた必要な書類を取りに戻った。ドアを開けると、リビングに麻衣がいた。私のスリッパを履き、テーブルには私が使っていたマグカップまで置かれていた。亮介はバルコニーで電話をしていたが、私に気づくとすぐに切った。「麻衣が泊まってたホテルで、宿泊客の個人情報が漏れたらしい。しばらくあそこにいるのは危ないから、何日かうちに泊まってもらうことにした」まるで離婚の話なんてしていないような口ぶりだった。麻衣が立ち上がった。「彩香さん、亮介から最近はこっちに帰ってないって聞いてて……二晩だけ、お邪魔させてもらうつもりだったんです」「ここ、まだ私たちの家なんだけど」私は亮介を見た。「悪いけど、今日は出ていってもらって」亮介は眉をひそめた。「ホテルの件は仕事にも関わるんだ。俺たちのことで麻衣まで巻き込むなよ」「私の物を勝手に使って、この家にまで泊まってるのに、それも仕事だって言うの?」麻衣はすぐにスリッパを脱いだ。「ごめんなさい。私、今すぐ出ます」キャリーケースを引き寄せ、私の横を通ろうとしたところで、麻衣がふらついた。亮介はとっさにその体を支えた。「まだ調子戻ってないんだろ。無理するなよ」亮介は迷うことなくローテーブルの引き出しから飴を取り出し、包みを開けて麻衣に渡した。それは、私が自分のために置いていたものだった。以前、低血糖で一度倒れたことがあり、それからずっと同じ場所に入れていた。亮介は飴の場所は覚えていたのに、それが私のために置いてあったことは忘れていた。それでも、麻衣が低血糖になりやすいことだけは覚えていた。「いいから、少し座ってろ」麻衣は亮介に支えられたまま、その肩越しに私を見た。さっきまでの弱々しさは消え、どこか得意げだった。私はそれ以上何も言わず、書斎で必要な書類だけを取った。管理会社にも連絡し、顔認証の登録を解除してもらった。玄関を出ようとしたところで、亮介が追ってきた。「彩香、こうなるたびに俺に
私はひとまず、友人が使っていないマンションの一室に身を寄せた。翌日、弁護士を通じて亮介に離婚協議書の案を送ってもらったが、返事はなかった。その日の午後、今度は麻衣から会いたいと連絡が来た。待ち合わせたカフェで、麻衣はもうあのブレスレットを外していた。手首には、うっすらと跡だけが残っていた。「亮介に、これ返してこいって言われたの」麻衣はジュエリーボックスを私の前に差し出した。「それは亮介に渡すために用意したものよ。私が受け取るものじゃないわ」私は受け取らなかった。麻衣は小さく笑った。「本当に離婚するの?」「あなたに関係ある?」「あるわよ」麻衣はコーヒーを一口飲んだ。亮介の前で見せていた、あのしおらしい態度はもうなかった。「彩香さん、私と亮介は大学の頃からの付き合いなの。最初の事業プランも二人で考えたし、研究室に泊まり込んだことだってある。会社がうまくいったら、一緒に水中ホテルへ行こうって約束もしてた」「それで、今さら亮介まで自分のものにするつもり?」「今さらじゃないわ。もともと私のものだったのよ」麻衣は平然と言った。「あのとき私が海外に行かなかったら、今、亮介の隣にいるのはあなたじゃなかった。何年か一緒に苦労したからって、私と亮介の10年に代われると思ってるの?」「そこまで自信があるなら、どうしてみんなで私に嘘をついたの?」麻衣の笑みが少し消えた。「亮介が、あなたを傷つけたくなかったからよ」「違うわ。私が傷ついたあと、自分が責められるのが嫌だっただけ」窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。麻衣はしばらく黙っていたが、ふいに口を開いた。「あの夜、亮介がどうして男性用のブレスレットをつけてたか知ってる?」カップを持つ私の手が止まった。麻衣はスマホを取り出し、一枚の写真を見せた。水中スイートの大きな窓の前に、亮介と麻衣が並んで立っていた。麻衣は女性用を、亮介は男性用のブレスレットをつけていた。青い水の光に照らされた二本は、まるで本当に二人のために作られたペアのように見えた。「これ、彩香さんが用意したペアだって、亮介にはちゃんと言ったの」麻衣は静かに続けた。「それでも外さなかったわ」私は写真を見たまま、本当かどうかは聞かなかった。麻衣が何を
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