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第4話

Auteur: あまなな
私は病院へ向かった。

病院に着くと、まず窓口へ向かって、診療記録の開示を要求した。

本人確認書類と、咲良との関係がわかる書類を出すと、職員は内容を確認してから申請書を差し出した。

書類に目を通していた職員は、咲良の年齢に目を留めると、そっと声を落とした。

「まだ、小さなお子さんだったんですね……」

私は顔を上げず、そのまま申請書に名前を書いた。

手続きを済ませたあと、咲良の主治医だった佐伯直人(さえき なおと)のもとへ向かった。

私を見ると、直人は少し間を置いてから口を開いた。

「桐谷さん……このたびは、お悔やみ申し上げます」

私は保険の解約通知書と、夫婦で使っていた口座の取引明細を机の上に置いた。

「先生、咲良が亡くなる前の1か月に何があったのか、教えてください」

直人はすぐには答えなかった。

「診療記録については、手続きが済めば開示されます。ただ、治療を止めた経緯については……ご主人にも確認されたほうがいいと思います」

私はスマホの録音を始めた。

「娘が亡くなったんです。どうして亡くなったのかくらい、母親の私には知る権利がありますよね」

直人は眼鏡を外し、疲れたように目元を押さえた。

しばらくしてから、カルテの中から1枚のコピーを取り出した。

自由診療で続けていた治療を中止することに同意した書類だった。

そこには、浩介の署名があった。

日付を見た瞬間、息が詰まった。

咲良が亡くなる15日前だった。

あの日から亡くなるまで、咲良は毎日のように聞いていた。

「パパ、お薬いつ買って帰ってくるの?」

そのたびに、私は嘘をついた。

「もうすぐだよ。パパももうすぐ帰ってくるから。咲良を置いていったりしないよ」

直人の声が低かった。

「薬を続けていても、治ったとまでは言えません。ただ、少なくとも次の治療方針が決まるまでは、持ちこたえられた可能性はあります」

私は顔を上げた。

「どうして浩介は薬を止めたんですか?」

直人は視線を落とした。

「ご主人は、これ以上治療費を出すのは難しいと。それに、これ以上つらい治療を続けさせたくないともおっしゃっていました」

咲良の治療費は出せない。

そう言いながら、翔太のためなら人気の学区に家を買い、個室で治療まで受けさせていた。

そのとき、廊下から看護師の声が聞こえた。

「佐伯先生、水野翔太くんの明日の手術なんですけど、保護者の本人確認書類のコピーがあと1部足りません。桐谷浩介さんが、あとで持ってくるそうです」

翔太の名前を聞いた瞬間、指先に力が入った。

看護師がそのまま診察室へ入ってきたが、私を見るなり言葉を止めた。

抱えていたファイルがずれ、何枚かの明細が床に散らばった。

足元に落ちた1枚に目が止まった。

浩介が翔太の治療費として支払ったものだった。

個室料や術前検査、保険適用外の薬剤などで、合計632万円。

しかも、その支払いは咲良の薬が止められた翌日だった。

私が明細に手を伸ばすと、直人がすぐに止めた。

「桐谷さん、それ以上は見ないでください。水野くんの診療情報です」

けれど、明細から目を離すことができなかった。

「個人情報なのはわかってます。でも、咲良の薬を止めた翌日に、浩介は翔太のために632万円も払ってるんですよ」

声が震えた。

「これを見て、何も聞かずに帰れると思いますか?」

直人は何も答えなかった。

ほどなくして、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。

浩介だった。

病院から連絡を受けたのだろう。険しい顔でこちらへ歩いてきた。

「千尋、病院まで来て何やってるんだ」

私は治療を中止したときの同意書を、浩介の胸元に叩きつけた。

「どうして?」

浩介は私を見た。

「咲良は、もう十分苦しんだ」

「それでも、生きたがってた」

「俺は、助かる可能性があるほうを選んだだけだ」

一瞬、何を言われたのかわからなかった。

咲良は実の父親に、助ける価値がないと言われたようなものだった。

気づけば、私は浩介の胸元をつかんでいた。

「あの子は死ぬまで、あなたを待ってたのよ」

浩介の喉がかすかに動いた。

「あなたが帰ってきたとき、自分が寝てたら、また何も言わずに行っちゃうんじゃないかって、ずっと怖がってたの。ちゃんと薬を飲むから、もう置いていかないでってパパに伝えてほしいと言ってたのよ……」

浩介の目が一瞬揺れた。

けれど、そのときスマホが鳴った。

梨沙からだった。

浩介は私を押しのけ、電話に出た。

「梨沙、落ち着け。今、病院にいるから」

押された拍子に腰を椅子の肘掛けにぶつけ、しびれるような痛みが走った。

電話の向こうから、梨沙の泣き声が聞こえてきた。

「翔太が手術を怖がってて……ずっと浩介のこと呼んでるの」

浩介は一度目を閉じた。

「すぐ行く」

私は机に手をついて立ち上がった。

「浩介」

浩介はスマホを口元から離し、眉をひそめた。

「今度は何だ?」

「一度でも、後悔したことある?」

浩介はしばらく黙っていた。

「もっと早く治療をやめてやれば、あそこまで苦しませずに済んだとは思ってる」

その一言でわかった。

浩介はこの期に及んでも、自分が間違っていたとは思っていなかった。

ほどなくして、梨沙もやってきた。

浩介の隣に立ち、不安そうに私を見た。

「千尋さん、お願い。翔太はただ、ちゃんと見えるようになりたいだけなの。あの子は何も悪くないの」

「わかってる」

私は浩介を見た。

「翔太が悪いんじゃない。咲良をこんな目に遭わせたのは、あなたたちでしょ」

浩介の顔が険しくなった。

「今のお前とはまともに話ができない」

そう言うと、書類ケースから1枚の紙を取り出した。

私を精神科に入院させるための家族同意の書類だった。

そこには、すでに浩介の署名があった。

思わず笑いが漏れた。

「咲良の治療を止めるときも、献眼のときも、あなたが勝手に決めた。今度は私を精神科に入れるの?」

私は浩介を見上げた。

「私も咲良も、あなたが勝手に決めていいと思ってるの?」

浩介は答えなかった。

その代わり、廊下の向こうへ目をやった。

振り返ると、スタッフらしい2人がこちらへ近づいてきていた。

思わず後ずさり、背中が壁に当たった。

浩介が低い声で言った。

「一度、ちゃんと休め」

そのあと私は精神科で診察を受けさせられ、そのまま入院することになった。

娘を亡くしたばかりでひどく取り乱しており、このままでは人を傷つけるおそれがある――そう説明された。

浩介が家族として同意していたこともあり、私は3日間、病棟から出られなかった。

病室の窓は開かないようになっていて、スマホも預けさせられた。昼も夜も、近くにはスタッフがいた。

3日目の夜、交代のわずかな隙をついて病棟を抜け出した。

洗面所の小窓から外へ出ようとしたとき、割れたガラスでふくらはぎを切った。

血が足首まで流れていたけれど、不思議なくらい痛みは感じなかった。

病院へ行かなければ――それしか頭になかった。

病棟を抜け出す前、廊下で看護師が浩介に電話しているのを偶然聞いたからだ。

「桐谷さん、咲良ちゃんの献眼の件ですが、ご家族の同意が確認できたということで、手続きが進んでいます。水野翔太くんの術前書類も、今夜中にそろえてください」

病院に着いたころには、午前2時を回っていた。

眼科の手術室前は、深夜とは思えないほど明るかった。

梨沙は翔太を抱いて、椅子に座っていた。

翔太は目にガーゼを当て、痛いと泣いていた。

浩介はその前にしゃがみ、根気よくなだめていた。

「翔太、大丈夫だ。手術が終わったら、黒板もちゃんと見えるようになるから」

翔太はしゃくり上げながら聞いた。

「浩介さん、あの子は痛くないの?」

浩介は翔太の頭を撫でた。

「大丈夫だ。もう痛くないから」

廊下の端で、足が止まった。

私に気づいた梨沙の顔色が変わった。

「千尋さん……どうしてここに?」

浩介も振り返った。

私を見るなり、眉をひそめた。

私は2人のところまで歩いていった。

「手術、いつなの?」

浩介が前に出た。

「ここで騒ぐな」

私は浩介をまっすぐ見た。

「咲良の角膜、いつ取るの?」

梨沙は翔太を抱きしめたまま、涙をこぼした。

「翔太はもうずっと待ってるの。千尋さんだってお母さんでしょう? お願い、私の気持ちも少しはわかって……」

私は梨沙を見た。

「自分の子のことなら、母親の気持ちをわかってって言えるのね」

梨沙の表情が固まった。

「息子には、ちゃんと見えるようになってほしいんでしょ。私だって、咲良に生きていてほしかった」

声が震えた。

「それなのに、今度は咲良の角膜まで取るの?」

廊下が静まり返った。

そのとき、看護師が書類ケースを手に足早にやってきた。

「桐谷さん、水野翔太くんの術前書類なんですが、本人確認書類のコピーがあと1部必要です。それと、続柄の欄には実際のご関係をご記入ください。入院時の書類も訂正が必要です」

浩介の顔色が変わった。

「貸せ」

看護師はその強い口調に驚き、書類ケースを取り落としかけた。

何枚かの紙が床に落ち、私はしゃがんで一番上の1枚を拾った。

浩介が勢いよく手を伸ばしたが、もう遅かった。

移植を受ける患者の欄には翔太、保護者欄には浩介の名前があった。

そして続柄の欄には、はっきりと「父」と書かれていた。

浩介を見上げた瞬間、耳の奥がわんと鳴った。

浩介にも、ちゃんと父親らしいことはできたのだ。

ただ、その相手が咲良ではなく翔太だった。

咲良は最初から最後まで、翔太を優先するたびに切り捨てられる側だった。

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    判決が言い渡されたころには、もう冬になっていた。浩介は、私の署名を偽造したこと、私を無理やり精神科に入れて自由を奪ったこと、そして咲良の献眼手続きを不正に進めたことについて責任を問われた。それに関わった病院職員も職務を外され、引き続き調査を受けることになった。翔太のために買われた学区内の住宅も手放すことになり、その代金も清算の対象になった。咲良の治療のために貯めていたお金も、保険の解約返戻金も、夫婦の財産も、すべて見直された。梨沙も、書類の偽造や金銭の不正流用をめぐって起訴されていた。梨沙が翔太を連れてこの街を離れた日は、激しい雨が降っていた。私は見送りには行かなかった。晶から電話がかかってきたとき、私は咲良の遺品を整理していた。あのクマも、きれいに拭いた。けれど、破れた耳だけは、何度やってもうまく直せなかった。その裂け目を見ていると、元どおりにはならないものもあるのだと思った。浩介は晶を通して、私に手紙を1通よこした。私は封を開けなかった。晶が聞いた。「読まないの?」私は首を横に振った。「今さら読まなくていい。言いたいことがあったなら、言う機会はいくらでもあったから」咲良が初めて熱を出したとき。私が初めて、帰ってきてほしいと頼んだとき。治療費が口座からなくなったときも、治療を止めるための署名を求められたときも。浩介には、そのたびに選ぶ機会があった。それでも選んだのは、いつも私と咲良ではなく、別の誰かだった。だから今さら何を書かれても、自分を少しでも正当化するための言い訳にしか思えなかった。その後、私は咲良と暮らしていた家を売った。咲良のものは全部持って出た。浩介のものは、何ひとつ持っていかなかった。新しい家は広くなかったけれど、よく日の入る窓があった。私はそのそばに咲良の写真を置いた。毎朝、朝日がいちばん先に咲良の顔を照らした。まるで、今もそこにいるみたいだった。3年後、私は小児医療を支援する基金を立ち上げた。名前は「すこやか基金」にした。どうしてその名前にしたのかと聞かれることもあった。そんなときは、壁に飾った咲良の写真を見ながら答えた。「生きたいと願う子どもたちに、元気に大きくなってほしいと思ったから」基金を立ち上げた

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