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南の雨、残された情

南の雨、残された情

By:  ロウイーCompleted
Language: Japanese
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私、許斐喬子(このみ きょうこ)は、生まれつき人にものを譲るのがうまい。 5歳で家族写真を撮ったとき、父と母は左右に分かれて弟の手を引き、私は写真に収まりきらなくなるのを気にして、自分から鉢植えの後ろへ下がった。 カメラマンは三度も人数を確認し、「仲のいい3人家族ですね」と褒めた。 私は葉っぱの陰で拍手をしていた。 12歳の誕生日ケーキでは、弟がいちばんクリームの多い一切れを取り、父と母が残りの二切れを取った。私は自分から皿を洗った。 母は私のことを「本当によく気が利く子ね」と褒め、私はその一言を何年経っても嬉しく思い続けていた。 結婚してからも、私はその人にものを譲る習慣を結婚生活に持ち込んだ。 夫の藤原白夜(ふじわら びゃくや)が彼の幼なじみの綾瀬静玖(あやせ しずく)の誕生日を祝い、映画を観に行き、病院に付き添っている時、私はケーキを手配し、映画のチケットを買い、診察の予約を取った。 白夜は私の頭を撫でた。「変に思うなよ。あいつには小さい頃から俺しかいないんだ」 私は頷いて微笑んだ。白夜は知らない。私には小さい頃から、誰もいなかったのだ。 ある日、スーパーで買い物を終えると、雨が降り出した。紙袋が破れ、みかんが地面に転がった。 私はしゃがんで拾った。白夜は静玖に傘を差しかけ、振り返りもしなかった。 二人はどんどん遠ざかっていき、その背中が、何年も前に弟の手を引いて歩く父と母の姿と重なった。 喪失感が急に全身を駆け抜けた。 今度こそ、妻としての居場所さえも、私は譲ってしまおうと思った。

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Chapter 1

第1話

家に帰ると、私は心を決めた――妻としての居場所を譲って、あの二人の生活から、身を引こう、と。

21日後は、白夜との結婚記念日だった。その日に、彼に別れを告げよう。

同じ頃、白夜は静玖に電話をかけていた。

「薬はバッグのサイドポケットに入ってる。寝る前に忘れずに飲めよ。それに、窓とドアはちゃんと閉めて。何かあったら、すぐ連絡して」

電話を切ってから、彼はようやく玄関に立つ私に気づいた。

「なんでそんなにびしょ濡れなんだ?」

雨水がズボンの裾から滴り落ち、床に小さな水たまりができていた。

「傘はあなたが持っていったから」

彼は言葉に詰まった。

スーパーの入り口には傘が1本しかなく、彼はそれを静玖に差し出して、そのまま行ってしまったのだ。

「呼び止めればよかったのに」

「呼んだよ。あなたは聞こえなかったかも」

彼が言い訳をしようとしたちょうどその時、またスマホが鳴った。

静玖から、家の給湯器が壊れたと連絡が来たのだ。

白夜は工具箱を手に取った。

「あいつ一人暮らしで、すぐ慌てるから、ちょっと見てくる。すぐ戻るね」

出かける前、彼は私の額に手を当てた。

「顔色、すごく悪いけど」

彼の手のひらは乾いていて、温かかった。

昔はこうして彼に触れられるだけで、どんなつらさもまだ耐えられる気がしていた。

「たぶん、雨に濡れて風邪を引いただけ」

「戸棚に薬があるから、ちゃんと飲んで」

そして、ドアが閉まった。

熱を測ると、38度7分だった。

薬箱に解熱剤はなかった。先週、静玖が熱を出した時、白夜が最後の1箱を持って行ってしまったのだ。

私は彼にメッセージを送った。

【家に薬がないから、帰りに1箱買ってきて】

30分後、彼から返信が来た。

【わかった】

私はソファで眠ってしまった。

再び目を覚ますと、空はもう明るくなっていた。

体には毛布がかかっていて、テーブルの上には白湯が置かれ、そのすぐ横で白夜がうつ伏せになっていた。

私が体を起こすと、彼も目を覚ました。

「少しは良くなったか?」

私はテーブルの上を見た。

薬はなかった。

彼の表情が、わずかに強張った。

「昨夜は遅すぎて、薬局が閉まってた。今から買ってくる」

私は嘘を暴かなかった。

下の薬局は24時間営業だ。

彼のスマホはついたままで、静玖からのメッセージがまだ画面に残っていた。

【来てくれて本当によかった。じゃなきゃ、どうしていいかわからなかった】

彼は、頭を撫でるスタンプを返していた。

昔、私をあやす時とまったく同じものだった。

「もういいよ」

「喬子、病気の時にわがまま言うな」

「わがままじゃない」

私は出前アプリで注文した。

10分もしないうちに、解熱剤が玄関まで届いた。

私は彼の目の前で薬を飲んだ。

「会社行って。自分のことは自分でできるから」

この言葉は、何度も口にしてきた。

昔は、この言葉を口にするたび、心の中では彼に残ってほしいと願っていた。

しかし今日は違った。

彼は靴を履き替えながら、二度振り返って私を見た。

「昼休みに戻ってくるから」

「うん」

昼の12時、私は二人分の料理をデリバリーで注文した。

1時、料理は冷めた。

2時、彼からメッセージが来た。

【静玖が大家ともめてて、対応を手伝ってる。先に食べてて】

私は少しだけ食べて、残りはゴミ箱に捨てた。

スマホに表示された離婚までのカウントダウンは、20日になった。

誰かを諦めると決めること自体は、実はそれほど痛くないのだとわかった。

本当に痛かったのは、諦めると決めるまでの間、何度も何度も彼のために言い訳を探していた時間だった。

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第1話
家に帰ると、私は心を決めた――妻としての居場所を譲って、あの二人の生活から、身を引こう、と。21日後は、白夜との結婚記念日だった。その日に、彼に別れを告げよう。同じ頃、白夜は静玖に電話をかけていた。「薬はバッグのサイドポケットに入ってる。寝る前に忘れずに飲めよ。それに、窓とドアはちゃんと閉めて。何かあったら、すぐ連絡して」電話を切ってから、彼はようやく玄関に立つ私に気づいた。「なんでそんなにびしょ濡れなんだ?」雨水がズボンの裾から滴り落ち、床に小さな水たまりができていた。「傘はあなたが持っていったから」彼は言葉に詰まった。スーパーの入り口には傘が1本しかなく、彼はそれを静玖に差し出して、そのまま行ってしまったのだ。「呼び止めればよかったのに」「呼んだよ。あなたは聞こえなかったかも」彼が言い訳をしようとしたちょうどその時、またスマホが鳴った。静玖から、家の給湯器が壊れたと連絡が来たのだ。白夜は工具箱を手に取った。「あいつ一人暮らしで、すぐ慌てるから、ちょっと見てくる。すぐ戻るね」出かける前、彼は私の額に手を当てた。「顔色、すごく悪いけど」彼の手のひらは乾いていて、温かかった。昔はこうして彼に触れられるだけで、どんなつらさもまだ耐えられる気がしていた。「たぶん、雨に濡れて風邪を引いただけ」「戸棚に薬があるから、ちゃんと飲んで」そして、ドアが閉まった。熱を測ると、38度7分だった。薬箱に解熱剤はなかった。先週、静玖が熱を出した時、白夜が最後の1箱を持って行ってしまったのだ。私は彼にメッセージを送った。【家に薬がないから、帰りに1箱買ってきて】30分後、彼から返信が来た。【わかった】私はソファで眠ってしまった。再び目を覚ますと、空はもう明るくなっていた。体には毛布がかかっていて、テーブルの上には白湯が置かれ、そのすぐ横で白夜がうつ伏せになっていた。私が体を起こすと、彼も目を覚ました。「少しは良くなったか?」私はテーブルの上を見た。薬はなかった。彼の表情が、わずかに強張った。「昨夜は遅すぎて、薬局が閉まってた。今から買ってくる」私は嘘を暴かなかった。下の薬局は24時間営業だ。彼のスマホはついたままで、静玖からのメッセー
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第2話
熱が下がった日、母から連絡があり、家に帰ってご飯を食べるよう言われた。「祐介が結婚するから、新居のことを相談しようと思って」母は相談すると言ったけど、実際にはもう話は決まっていた。食事中、父が間取り図を出した。「頭金がまだ800万円足りない。お前と白夜は余裕があるんだから、祐介のために立て替えてやれ」弟の許斐祐介(このみ ゆうすけ)はうつむいたままスマホをいじっていて、まるで自分には関係のないことだと言わんばかりだった。私は聞いた。「どうして私なの?」母は一瞬きょとんとした。これまでの20数年間、彼らが何を求めてきても、私は一度も理由を尋ねたことがなかったのだ。「あんたは姉でしょ。姉は弟を助けずに、誰を助けるの?」「彼は27歳で、仕事もあるし、お金だって稼げるんでしょう」母は顔を曇らせた。「祐介の結婚は家族みんなの大事でしょ。服を何着か我慢すれば、お金なんてすぐ貯まるでしょ」私は母の新しいコートを見た。先月、お正月に着る服がないと言われ、12万円を振り込んだばかりだった。私自身、そんな高い服を買ったことなど一度もない。白夜がテーブルの下で私の手を握った。彼が私の味方をしてくれるのだと思ったが、彼は銀行カードを取り出した。「お義母さん、お金は俺が出します」母はすぐに笑顔になった。「やっぱり白夜は話がわかるわ」私は銀行カードをひったくった。「これ、私たちが引っ越しのために貯めてたお金でしょ」白夜は思わず眉をひそめ、声を潜めた。「祐介が急いでるんだ。引っ越しは後回しにすればいい」「私に相談した?」「こういうこと、前の君なら気にしなかっただろう」彼の目には、本気で戸惑っている色が浮かんでいた。まるで、昔から何でも言うことを聞く私こそが、彼にとって当たり前だったかのように、拒むことも、怒ることもある私が、かえって見知らぬ他人になってしまった。祐介が顔を上げた。「義兄さんがいいって言ってるのに、なんでそんな顔するんだ?返さないって言ってるわけじゃないし」「あんたが前に借りた240万円、返した?」祐介の顔は真っ赤になった。母が箸をテーブルに叩きつけ、私を指さして怒鳴った。「家族なのに、そこまできっちり計算して何が楽しいの?」「すごく楽しいよ」
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第3話
離婚の日まで、あと9日となった頃、私は病院で胃カメラの検査を受けた。この検査は2か月前から予約していて、白夜は付き添うと約束してくれていた。出かける前、彼は私のバッグに飴を一つ入れてくれた。「検査が終わったら低血糖になりやすいから、起きたらまず舐めとけ」彼は、私が痛みに弱いことも、空腹が続くと手が震えることも覚えていた。車が病院の前に止まると、彼は私のシートベルトを外してくれた。「怖がるなよ。ずっとそばにいるから」彼がここまで細やかに気を配るのは珍しかった。もう少しで、信じそうになった。何しろ検査なのだ。誰かにそばにいてほしかった。麻酔の同意書にサインをしようとしたその時、もう一度、静玖から電話がかかってきた。彼女は裁判所の前で元夫に会い、行く手を阻まれているらしかった。電話の向こうは怒鳴り声で騒然としていて、彼女は泣いていて、まともに言葉を話せない。白夜は顔を真っ青にして、突然立ち上がった。「ちょっと行ってくる」私はとっさに彼の袖口をつかんだ。「検査まで、あと10分しかない」彼は声を潜めた。でも、その声にはわずかに苛立ちが混じっていた。「あっちは何かあるかもしれないんだ!」「私にだって、家族のサインが必要なの」横にいた看護師が急かした。「次の方、お入りください」私は同意書を彼の前に押し出した。「サインしてから行って」彼がペンを握った。けれど、まだペン先が紙に触れる前に、電話の向こうから静玖の泣き叫ぶ声が聞こえた。白夜は険しい顔のまま、素早くペンを置いた。「喬子、君はいつも自分のことはちゃんとできる。だから俺がいなくても大丈夫だろう。しかし静玖と君は違うんだ。今、彼女のそばには誰もいないんだ」私は数秒間、彼をじっと見つめた。そして、震える声で聞いた。「私のそばに、誰かいるの?」彼は答えに詰まった。私は同意書を引き戻した。「もう行っていいよ」彼は身をかがめ、私を抱きしめた。「信じてくれ。すぐ戻るから」私は動かなかった。結局、看護師が付き添いのスタッフを一人探してくれた。麻酔をかける前、医師に家族はいるかと聞かれた。私は涙をこらえ、いないと答えた。目が覚めると、観察室の明かりが目にしみて痛かった。周りの人にはみんな支
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第4話
静玖が引っ越してきた日、私は自分の荷物を箱に詰めた。白夜が箱の蓋を押さえた。「客室で十分だ。場所を空ける必要はない」「自分のために片付けてるだけ」彼には、その言葉の意味がわかっていなかった。静玖はスーツケースを引いて玄関に立っていた。「喬子さん、数日で出ていくから。白夜が喬子さんは気にしないって言うから、来たの」「うん」夕食は静玖が作った。白夜は魚料理を一口食べた。「昔の味だ」「まだ覚えてるの?」「お前が16歳の時、初めて作った料理だろ。塩と砂糖を間違えて、鍋を焦がしかけたやつ」二人はテーブル越しに笑い合った。私はその場に迷い込んだよそ者のようだった。静玖が私に魚を取り分けてくれた。「喬子さんも食べてみて」「私、魚アレルギーなの」白夜の笑みが固まった。「何だって?」「結婚して1年目の時、あなたが私を救急に連れて行った夜のこと、忘れたの?」あの夜、私は全身に赤い発疹が出て、息もうまくできなくなって、彼は一晩中そばにいてくれた。翌日、静玖の機嫌が悪いと聞くと、彼はすぐに彼女のもとへ向かった。その後、彼は静玖の誕生日を逃したことだけを覚えていて、私がなぜ病院に行ったのかは忘れてしまっていた。その食事のあいだ、もう誰も笑わなかった。……そうして8日が過ぎた頃、静玖がバスルームで転んだ。白夜が駆け込んで、彼女を助け起こした。彼女は薄い寝間着のまま、彼の胸に寄りかかって泣いていた。私は感情の消えた顔で二人を見ていた。彼は顔を上げ、言い訳するように言った。「彼女、立てないんだ」私は唇をわずかに動かした。「あなたは私への時間を彼女に譲って、私が必要としていることを彼女より後回しにして、私たちの家まで彼女の避難場所にした。それに対して、私はあなたを必要とするたび、一度だって本当に私のために残ってくれたことなんてなかった。白夜、私だって、あなたに揺るがずにいてほしかった」部屋は長いあいだ、静まり返っていた。彼が手を伸ばし、私の顔に触れようとした、その時だった。隣にいた静玖が飛び出してきた。彼女は私の前に先回りして、ひざまずいた。「ごめんなさい。私のせいで喧嘩しないで……」その瞬間、すべての感情が抑えきれなくなった。私は嫌悪感をあ
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第5話
家を出て10分後、白夜から最初の電話がかかってきた。私は出なかった。それからの2時間、彼は47回も電話をかけてきた。最後の一回に、私は応答ボタンを押した。電話の向こうはとても静かで、彼の呼吸だけが聞こえた。「今どこにいる?」「南市行きの新幹線の中」「次の駅で降りろ。迎えに行く」「明日、仕事なの」「仕事は休めばいい」「休まない」彼はしばらく黙った。「わかった。俺が南市に行く」「白夜、協議書にサインしたら送って。他のことはしないで」「サインしない」「なら、訴訟を起こす」彼の呼吸が乱れた。「喬子、俺たちはまだそこまで行ってない」私は車窓の外を流れていく明かりを見つめた。「とっくに来てたよ。ただ、前の私がそれを認めたくなかっただけ」私は電話を切り、彼の番号を着信拒否した。後になって静玖から聞いた話では、あの夜、白夜はリビングで一晩中座っていたという。静玖は荷物をまとめ終え、出ていく前に彼に尋ねた。「追いかけないの?」白夜は言った。「彼女はただ怒ってるだけだ」静玖は離婚協議書を彼の前に押し出した。「彼女、共有預金も取らず、自分の服と本だけ持って出て行った。腹いせで出て行く人が、そこまできれいに準備できるわけないと思う」白夜は何も言わなかった。彼は家の中で私が残したものを探し始めた。クローゼットに私の服はなかった。浴室に私の歯ブラシもなかった。冷蔵庫の上にあった家族カレンダーは、はがされていた。そこで彼はようやく気づいた。ガス代をいつ払えばいいのかも、管理会社の電話番号も、家の予備の鍵がどこにあるのかも、自分は何も知らないことに。彼は書斎の机の引き出しを開け、1冊の青いノートを見つけた。最初のページには、彼の胃薬の服用量が書いてあった。2ページ目には、彼の両親の健康診断の日付。その後ろには、静玖の誕生日、祐介の試験、母の血圧、父が食べられないものまで記されていた。一人につき、1ページずつ。ただ、私自身のことだけがなかった。ノートの最後には、病院の付き添い確認書が挟まっていた。緊急連絡先の欄に、看護師が代わりに書いていたのは【なし】だった。白夜は病院に電話した。付き添いのおばさんは、私のことを覚えていた。「あの
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第6話
私は外に出なかった。白夜は通りの向かいに、30分ほど立っていた。同僚が聞いてきた。「あの人、喬子さんを待ってるんじゃない?」「違うよ」「ずっとこっちを見てるけど」「人違いだと思うわ」私は画集を抱えて倉庫に入った。再び出てきた時、彼の姿はもうなかった。入口に傘が1本置いてあった。柄にはメモが結びつけてある。【天気予報では、夜に雨が降るらしい】私はその傘を忘れ物預かり所に入れた。私の働いている店は、古い写真館を改装した、写真館の機能を兼ね備えた書店で、店名は「南本屋」だった。1階は本を販売し、2階ではお客さんの古い写真を修復している。私が最初に担当した企画は、「写真に写らなかった人」というものだった。近所の住民から古い写真を集め、いつも画面の外で家族の世話をしてきた人たちの話を記録する。洗濯をする母、家族の写真を撮る父、長年店を守る妻、弟や妹の学費を払う姉。彼らは誰かの話の中には登場するのに、自分の姿を残すことはほとんどない。同僚になぜこのテーマにしたのかと聞かれると、私は答えた。「写っていないからって、存在しないことにはならないから」開店準備は忙しかった。毎日朝早く家を出て、夜遅く帰る。借りたアパートには、ベッドを一つ置いただけ。不思議なことに、ここ数年で一番よく眠れたのは、この忙しい時期だった。夜中に静玖のために車を手配してほしいと頼む人もいない。弟に送金しろと急かす人もいない。もう少しだけ我慢してほしいと、誰も私に求めない。白夜は3日目にまた来た。今度は通りの向かいには立たなかった。一番安い雑誌を1冊買い、隅の席で午後いっぱい読んでいた。閉店の時間になり、私は彼のところへ歩いていった。「もうすぐ閉店だけど」「ああ」彼は雑誌を閉じた。「近くのホテル、どこも満室だった」「はい?」「どこか泊まれる場所がないかと思って」「スマホで調べればいいでしょ」白夜は言葉に詰まった。私が振り返って電気を消そうとすると、彼が急に呼び止めた。「家の魚、人にあげた」私の足が一瞬止まった。あの水槽の魚は、静玖が彼に贈ったものだった。彼はとても気に入っていて、毎日自分で餌をやっていた。「私には関係ない」「寝室のシーツ
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第7話
両親が南市を訪ねてきたのは、開店1週間前のことだった。母は入ってくるなり、私の腕をつかんだ。「いつまで駄々をこねるつもり?」店内にはまだお客さんがいたから。私は母の手を振りほどかなかった。「外で話そう」「ここで言えないことなんてないでしょ。夫を置いてよその土地に来て、白夜に祐介の家の頭金まで払わせないなんて。あんたには家族というものが目に入らないの?」母は声を張り上げた。父が保証書をカウンターに叩きつけた。「祐介の頭金はもう払った。残金の支払いが来週までなんだ。ここにサインしなさい」私は書類を開いた。私が結婚前から所有していたマンションを抵当に入れるという内容だった。署名欄には、私の名前まで代わりに書かれていた。「こんな書類、私は認めない」母の顔がこわばった。「祐介は実の弟よ」「だから?」「あんたには家もあるし、仕事もある。弟は結婚したばかりで大変なの。一度助けて何が悪いの?」店内が一瞬で静まり返った。昔なら、こんな言葉を聞くと、まず恥ずかしくなっていた。親不孝だと思われないか。両親に恥をかかせないか。弟の結婚に悪い影響が出ないか。そんなことばかり気にしていた。でも今度は、私は保証書を破いてゴミ箱に捨てた。「彼の家のことは、彼自身が責任を取るべきでしょ」母が手を振り上げた。その手が振り下ろされる前に、誰かが止めた。白夜が私の横に立ち、母の手首をつかみ、すぐに手を離した。「お義母さん、ここには監視カメラがある」「あんた、こいつの味方をするの?もともとはあんたがお金を出すって言ったんでしょ!」母は白夜に食ってかかった。「俺が言ったことです。喬子には関係ありません」「じゃあ、あんたが出しなさいよ」「もう彼女の代わりに、勝手に決めたりしません」母は私を指さした。「あんた、白夜に何を吹き込んだの?この恩知らず、昔からずる賢くて、弟に譲ることもできないなんて」私は笑いがこみ上げてきた。私の子ども時代は、母の口の中では、いつの間にかそんな話にすり替わっていた。「中学3年間の奨学金は祐介に渡した。大学時代のバイト代は家の借金の返済に充てた。結婚してからは、毎月10万円の生活費を振り込んでた。祐介が車を買う時は160万円出した。起業に失敗した時は
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第8話
「写真に写らなかった人」展示会当日、祐介が婚約者を連れてやってきた。彼は展示を見に来たわけではなく、私を待ち伏せするためだった。「姉さん、ローン会社から、姉さんが連帯保証人を解除したって連絡が来たんだ。このままだと家が買えなくなる」「私は一度も保証人になったことなんてない」「父さんが、姉さんの身分証のコピーを使ったんだ」私の視線は両親へ向かった。二人は祐介の後ろにいて、気まずそうに目をそらしていた。私はすぐに理解した。父は誰かに頼んで私の署名を偽造し、先に書類を提出してローンの枠を押さえ、後から私に追認させようとしていたのだ。ローン会社から本人確認の連絡が来た時、私はすぐに異議を申し立てた。母が私の腕をつかんだ。「書類はもう出しちゃったんだから、サインだけすればいいでしょ。調べられたら、父さんだって責任を問われるのよ」「間違ったことをしたなら、責任を取るべきでしょ」父は顔を真っ青にして怒鳴った。「お前は実の父親を警察に突き出すつもりか?」「私は本当のことしか言わない」祐介の婚約者はそばに立っていたが、顔色はどんどん悪くなっていった。「祐介、家は全額自分で払ったって言ったよね?」祐介は慌てて言い訳した。「姉は金があるんだ。昔から何だって俺にくれたから」私は彼を見た。この瞬間まで、彼はまだ、私の持ち物にはもともと自分の分があると思っているのだ。展示を見に来ていた人たちが、少しずつ集まってきた。母が泣き出した。「苦労して育てた娘が、出世したら家族を捨てるなんて」母は私をどう追い詰めればいいのか、よくわかっている。昔なら、周りの視線がこちらに向いただけで、私は折れていただろう。私はマイクを手に取り、流れていた展示の紹介を止めた。「皆さん、すみません。今日はもう1枚、写真を追加させてください」私はスマホをスクリーンにつないだ。大きな画面に、黄ばんだ家族写真が映し出された。両親が祐介の手を引いて、中央に立っている。画面の右端、鉢植えの後ろから、私の顔が半分だけ見えている。母は写真を確認すると、すぐに接続ケーブルを抜こうとした。私は彼女の前に立ちはだかった。「この写真を撮った時、私は5歳でした。カメラマンは私に気づかず、両親も教えてくれませんでした。
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第9話
離婚届が受理された日、白夜は私を引き止めなかった。役所を出ると、彼は書類の入った封筒を私に差し出した。中には財産分与の資料と家の鍵、それから胃カメラの再検査の予約票が入っていた。日付は2か月後だった。「医者が、先延ばしにすればまずいって言ってた」「あなたが予約したの?」「前に取ってたんだ。行くかどうかは君が決めればいい」彼はそう言って、手を離した。取っておけとも言わない。それを口実に、何かを約束させようともしなかった。私は予約票を封筒に戻した。「ありがとう」交差点の信号が青に変わった。彼はその場から動かなかった。私が数歩歩いたところで、後ろから彼の声がした。「喬子、俺、しばらくこの街を離れようと思ってる」私は振り返った。「どこへ?」「海外だ。会社の学校改修プロジェクトがあって、6か月間の駐在を申し込んだ」以前の彼なら、3日出張するだけでも、生活の細々としたことを全部私に任せていた。今は、そんな遠くへ行こうとしている。「どうして?」「ここにいたら、どうしても君に会いに行ってしまいそうだから」彼は私を見た。その目には疲れと、それから自制の色があった。「君はやっと自分のために生き始めたんだ。俺がまた重荷になるわけにはいかない」私はファイルを握ったまま、何も言えなかった。「展示が終わったら、南市に残るのか?」「当分は残るつもり」「わかった」彼は頷いた。「じゃあ、行くよ」彼は本当に背を向けて歩き出した。私が呼び止めるのを待つことも、私の心が揺れていないか振り返って確かめることもなかった。私は道端に立ち、彼の背中が人混みに溶けていくのを見ていた。胸のどこかが、小さく崩れていった。その夜、静玖が私を呼び出した。彼女は家の合鍵をテーブルに置いた。「これ、前に白夜からもらったもの」私は手に取らなかった。「彼に返すべきだよ」「連絡が取れないの」彼女は苦笑した。「私の連絡先、全部消されちゃった」私は顔を上げた。「喧嘩したの?」「ううん」静玖はしばらく黙っていた。「喬子さん、前の私は、彼に世話を焼かれるのが好きだった。離婚して一人になるのが怖くて、何度も彼を頼った。彼は断らない人だってわかってたし、あなた
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第10話
1年後、「写真に写らなかった人」は2回目の展示を迎えた。展示最終日、白夜が南市に戻ってきた。彼は事前に連絡してこなかった。最後の来場者が出て行ったあと、私に入場券を差し出した。「まだ席はあるか?」「閉館したよ」「明日は?」「今日は最終日」彼は頷いた。耳が風で赤くなっていた。「そっか。残念だな」私は体を横にずらして、道を空けた。「最後の10分だけね」この1年間、私たちの連絡は少なかった。彼は時々、学校の改修後の写真を送ってきたり、再検査を忘れないように知らせてくれたりした。私が返事をすることもあれば、しないこともあった。彼は一度も急かさなかった。父が書類偽造で処分を受けてから、実家は長い間静かだった。母は2度、私を訪ねてきた。1度目は私が冷たいと怒鳴り、2度目は一緒にご飯を食べてくれないかと聞いてきた。私は断った。罰を与えたいわけじゃない。まだ心の準備ができていないだけだ。白夜に対しても、同じだった。変化は、何度か謝ったり、何度か雨の中で待ったりしたくらいで生まれるものじゃない。時間がかかるものだ。同じ選択を迫られる場面で、その人が何度も違う方向へ歩いていくことが必要なのだ。会場の中央には、新しい写真が並んでいた。どの写真に写っている人も、みんな正面を向いていて、隅に隠れている人はいない。白夜は、私一人で写っている写真の前で足を止めた。「いつ撮ったんだ?」「先月」「きれいだ」「写真だけを褒めてるの?」彼は一瞬戸惑い、私を見つめた。何かを言いたそうなのに、線を越えるのを怖がっているようだった。「人のほうが、もっときれいだ」私は笑った。「前より口がうまくなったね」「1年間、練習したから」「誰と?」「工事現場の同僚」私は思わず声を上げて笑ってしまった。彼も笑った。閉館後、同僚が記念写真を撮ろうと言い出した。私はいつもの癖で一番端へ行こうとして、一歩踏み出したところで止まった。「喬子さんは企画の責任者なんだから、真ん中に立ってください」そう言われて、私は中央に立った。白夜は画面の外にいて、私たちのためにシャッターを押してくれた。撮り終わると、同僚が彼に手を振った。「手伝ってくれた人も、1枚残らないと」彼
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