LOGIN私、許斐喬子(このみ きょうこ)は、生まれつき人にものを譲るのがうまい。 5歳で家族写真を撮ったとき、父と母は左右に分かれて弟の手を引き、私は写真に収まりきらなくなるのを気にして、自分から鉢植えの後ろへ下がった。 カメラマンは三度も人数を確認し、「仲のいい3人家族ですね」と褒めた。 私は葉っぱの陰で拍手をしていた。 12歳の誕生日ケーキでは、弟がいちばんクリームの多い一切れを取り、父と母が残りの二切れを取った。私は自分から皿を洗った。 母は私のことを「本当によく気が利く子ね」と褒め、私はその一言を何年経っても嬉しく思い続けていた。 結婚してからも、私はその人にものを譲る習慣を結婚生活に持ち込んだ。 夫の藤原白夜(ふじわら びゃくや)が彼の幼なじみの綾瀬静玖(あやせ しずく)の誕生日を祝い、映画を観に行き、病院に付き添っている時、私はケーキを手配し、映画のチケットを買い、診察の予約を取った。 白夜は私の頭を撫でた。「変に思うなよ。あいつには小さい頃から俺しかいないんだ」 私は頷いて微笑んだ。白夜は知らない。私には小さい頃から、誰もいなかったのだ。 ある日、スーパーで買い物を終えると、雨が降り出した。紙袋が破れ、みかんが地面に転がった。 私はしゃがんで拾った。白夜は静玖に傘を差しかけ、振り返りもしなかった。 二人はどんどん遠ざかっていき、その背中が、何年も前に弟の手を引いて歩く父と母の姿と重なった。 喪失感が急に全身を駆け抜けた。 今度こそ、妻としての居場所さえも、私は譲ってしまおうと思った。
View More1年後、「写真に写らなかった人」は2回目の展示を迎えた。展示最終日、白夜が南市に戻ってきた。彼は事前に連絡してこなかった。最後の来場者が出て行ったあと、私に入場券を差し出した。「まだ席はあるか?」「閉館したよ」「明日は?」「今日は最終日」彼は頷いた。耳が風で赤くなっていた。「そっか。残念だな」私は体を横にずらして、道を空けた。「最後の10分だけね」この1年間、私たちの連絡は少なかった。彼は時々、学校の改修後の写真を送ってきたり、再検査を忘れないように知らせてくれたりした。私が返事をすることもあれば、しないこともあった。彼は一度も急かさなかった。父が書類偽造で処分を受けてから、実家は長い間静かだった。母は2度、私を訪ねてきた。1度目は私が冷たいと怒鳴り、2度目は一緒にご飯を食べてくれないかと聞いてきた。私は断った。罰を与えたいわけじゃない。まだ心の準備ができていないだけだ。白夜に対しても、同じだった。変化は、何度か謝ったり、何度か雨の中で待ったりしたくらいで生まれるものじゃない。時間がかかるものだ。同じ選択を迫られる場面で、その人が何度も違う方向へ歩いていくことが必要なのだ。会場の中央には、新しい写真が並んでいた。どの写真に写っている人も、みんな正面を向いていて、隅に隠れている人はいない。白夜は、私一人で写っている写真の前で足を止めた。「いつ撮ったんだ?」「先月」「きれいだ」「写真だけを褒めてるの?」彼は一瞬戸惑い、私を見つめた。何かを言いたそうなのに、線を越えるのを怖がっているようだった。「人のほうが、もっときれいだ」私は笑った。「前より口がうまくなったね」「1年間、練習したから」「誰と?」「工事現場の同僚」私は思わず声を上げて笑ってしまった。彼も笑った。閉館後、同僚が記念写真を撮ろうと言い出した。私はいつもの癖で一番端へ行こうとして、一歩踏み出したところで止まった。「喬子さんは企画の責任者なんだから、真ん中に立ってください」そう言われて、私は中央に立った。白夜は画面の外にいて、私たちのためにシャッターを押してくれた。撮り終わると、同僚が彼に手を振った。「手伝ってくれた人も、1枚残らないと」彼
離婚届が受理された日、白夜は私を引き止めなかった。役所を出ると、彼は書類の入った封筒を私に差し出した。中には財産分与の資料と家の鍵、それから胃カメラの再検査の予約票が入っていた。日付は2か月後だった。「医者が、先延ばしにすればまずいって言ってた」「あなたが予約したの?」「前に取ってたんだ。行くかどうかは君が決めればいい」彼はそう言って、手を離した。取っておけとも言わない。それを口実に、何かを約束させようともしなかった。私は予約票を封筒に戻した。「ありがとう」交差点の信号が青に変わった。彼はその場から動かなかった。私が数歩歩いたところで、後ろから彼の声がした。「喬子、俺、しばらくこの街を離れようと思ってる」私は振り返った。「どこへ?」「海外だ。会社の学校改修プロジェクトがあって、6か月間の駐在を申し込んだ」以前の彼なら、3日出張するだけでも、生活の細々としたことを全部私に任せていた。今は、そんな遠くへ行こうとしている。「どうして?」「ここにいたら、どうしても君に会いに行ってしまいそうだから」彼は私を見た。その目には疲れと、それから自制の色があった。「君はやっと自分のために生き始めたんだ。俺がまた重荷になるわけにはいかない」私はファイルを握ったまま、何も言えなかった。「展示が終わったら、南市に残るのか?」「当分は残るつもり」「わかった」彼は頷いた。「じゃあ、行くよ」彼は本当に背を向けて歩き出した。私が呼び止めるのを待つことも、私の心が揺れていないか振り返って確かめることもなかった。私は道端に立ち、彼の背中が人混みに溶けていくのを見ていた。胸のどこかが、小さく崩れていった。その夜、静玖が私を呼び出した。彼女は家の合鍵をテーブルに置いた。「これ、前に白夜からもらったもの」私は手に取らなかった。「彼に返すべきだよ」「連絡が取れないの」彼女は苦笑した。「私の連絡先、全部消されちゃった」私は顔を上げた。「喧嘩したの?」「ううん」静玖はしばらく黙っていた。「喬子さん、前の私は、彼に世話を焼かれるのが好きだった。離婚して一人になるのが怖くて、何度も彼を頼った。彼は断らない人だってわかってたし、あなた
「写真に写らなかった人」展示会当日、祐介が婚約者を連れてやってきた。彼は展示を見に来たわけではなく、私を待ち伏せするためだった。「姉さん、ローン会社から、姉さんが連帯保証人を解除したって連絡が来たんだ。このままだと家が買えなくなる」「私は一度も保証人になったことなんてない」「父さんが、姉さんの身分証のコピーを使ったんだ」私の視線は両親へ向かった。二人は祐介の後ろにいて、気まずそうに目をそらしていた。私はすぐに理解した。父は誰かに頼んで私の署名を偽造し、先に書類を提出してローンの枠を押さえ、後から私に追認させようとしていたのだ。ローン会社から本人確認の連絡が来た時、私はすぐに異議を申し立てた。母が私の腕をつかんだ。「書類はもう出しちゃったんだから、サインだけすればいいでしょ。調べられたら、父さんだって責任を問われるのよ」「間違ったことをしたなら、責任を取るべきでしょ」父は顔を真っ青にして怒鳴った。「お前は実の父親を警察に突き出すつもりか?」「私は本当のことしか言わない」祐介の婚約者はそばに立っていたが、顔色はどんどん悪くなっていった。「祐介、家は全額自分で払ったって言ったよね?」祐介は慌てて言い訳した。「姉は金があるんだ。昔から何だって俺にくれたから」私は彼を見た。この瞬間まで、彼はまだ、私の持ち物にはもともと自分の分があると思っているのだ。展示を見に来ていた人たちが、少しずつ集まってきた。母が泣き出した。「苦労して育てた娘が、出世したら家族を捨てるなんて」母は私をどう追い詰めればいいのか、よくわかっている。昔なら、周りの視線がこちらに向いただけで、私は折れていただろう。私はマイクを手に取り、流れていた展示の紹介を止めた。「皆さん、すみません。今日はもう1枚、写真を追加させてください」私はスマホをスクリーンにつないだ。大きな画面に、黄ばんだ家族写真が映し出された。両親が祐介の手を引いて、中央に立っている。画面の右端、鉢植えの後ろから、私の顔が半分だけ見えている。母は写真を確認すると、すぐに接続ケーブルを抜こうとした。私は彼女の前に立ちはだかった。「この写真を撮った時、私は5歳でした。カメラマンは私に気づかず、両親も教えてくれませんでした。
両親が南市を訪ねてきたのは、開店1週間前のことだった。母は入ってくるなり、私の腕をつかんだ。「いつまで駄々をこねるつもり?」店内にはまだお客さんがいたから。私は母の手を振りほどかなかった。「外で話そう」「ここで言えないことなんてないでしょ。夫を置いてよその土地に来て、白夜に祐介の家の頭金まで払わせないなんて。あんたには家族というものが目に入らないの?」母は声を張り上げた。父が保証書をカウンターに叩きつけた。「祐介の頭金はもう払った。残金の支払いが来週までなんだ。ここにサインしなさい」私は書類を開いた。私が結婚前から所有していたマンションを抵当に入れるという内容だった。署名欄には、私の名前まで代わりに書かれていた。「こんな書類、私は認めない」母の顔がこわばった。「祐介は実の弟よ」「だから?」「あんたには家もあるし、仕事もある。弟は結婚したばかりで大変なの。一度助けて何が悪いの?」店内が一瞬で静まり返った。昔なら、こんな言葉を聞くと、まず恥ずかしくなっていた。親不孝だと思われないか。両親に恥をかかせないか。弟の結婚に悪い影響が出ないか。そんなことばかり気にしていた。でも今度は、私は保証書を破いてゴミ箱に捨てた。「彼の家のことは、彼自身が責任を取るべきでしょ」母が手を振り上げた。その手が振り下ろされる前に、誰かが止めた。白夜が私の横に立ち、母の手首をつかみ、すぐに手を離した。「お義母さん、ここには監視カメラがある」「あんた、こいつの味方をするの?もともとはあんたがお金を出すって言ったんでしょ!」母は白夜に食ってかかった。「俺が言ったことです。喬子には関係ありません」「じゃあ、あんたが出しなさいよ」「もう彼女の代わりに、勝手に決めたりしません」母は私を指さした。「あんた、白夜に何を吹き込んだの?この恩知らず、昔からずる賢くて、弟に譲ることもできないなんて」私は笑いがこみ上げてきた。私の子ども時代は、母の口の中では、いつの間にかそんな話にすり替わっていた。「中学3年間の奨学金は祐介に渡した。大学時代のバイト代は家の借金の返済に充てた。結婚してからは、毎月10万円の生活費を振り込んでた。祐介が車を買う時は160万円出した。起業に失敗した時は