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第102話

Author: 三佐咲美
家には誰もおらず、私は寝室に戻って慎一に会いに行くために着替えをしようとした。

クローゼットの扉を開けると、私の服はしわくちゃのまま、下の隅に追いやられていた。ハンガーに掛かっているのは、全部、雲香の服ばかり。

慎一のパジャマも、彼女の服の隣にきちんと並んでいる。

その時、私は初めて気付いた。人が傷つけられるのに、暴力や罵声なんて必要ないことを。

ただ、いくつかの綺麗な服が、自分の居場所を奪うだけで、こんなにも簡単に心を痛めることができるのだ。

私はしわくちゃの服と一緒に、沈んだ気持ちもまとめて洗濯カゴに放り込んだ。

母が亡くなった時、私は心に決めた。もう余計なことを考えすぎるのはやめよう、と。

自分の目的だけを見据えて、それ以外の全てを切り捨てればいいのだ。

仕方なく、私は階下のクロークへ向かった。わざとワンピースを選んだけれど、無難なデザインのものだ。

鏡の前で自分の姿をじっくり見つめる。慎一にとっては、これで十分だろう。これ以上攻めたら、彼を怖がらせてしまうかもしれない。

出かけようとした矢先、まるで私にGPSでもつけたみたいに、田中さんが現れた。遠くからでも分かる漢方薬の匂いが漂ってくる。

私は眉をひそめ、どうして昔はあんなウンチみたいなものを飲めたんだろうと不思議に思った。何年も飲み続けたけど、慎一の子どもを授かることもなく、これからも無理だろう。

私は鼻をつまみ、もう片方の手で前を仰ぎながら言った。

「田中さん、もう漢方薬は煎じなくていいよ。もし慎一がどうしてもって言ったら、こっそり捨てて。もう飲めないの」

田中さんは首を横に振って、納得いかない様子。「そんなことできません!これはご主人様の愛の表れなんです」

田中さんは本当に嬉しそうに笑っている。でも、私はちっとも嬉しくなかった。

「どれだけの愛だろうと、チョコレート味のウンチと、ウンチ味のチョコレートみたいなものよ」

そう言って、私は田中さんをすり抜けて走り去った。背中からは「この子ったら……」と田中さんのため息が聞こえる。

心の奥に少しだけ重たさを感じた。田中さんだけが、まだ私を子ども扱いしてくれる。

私は時間を計りながら歩いた。慎一との約束よりも一時間遅れて行くつもりだった。すぐに会いに行ったら、まるで待ちきれないみたいで嫌だったから。

でも、秘書の高橋が私
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