登入夫の子を妊娠した佳苗は、出産直後に命を落としかける。薄れる意識の中で聞こえたのは、夫と妹の残酷な真実だった――「佳苗は代理母として用済み」。 不妊の妹のため、夫と妹は最初から佳苗を利用していたのだ。絶望のまま死んだはずの佳苗は、気づけば妊娠前に戻っていた。今度こそ二人から逃げると決意した彼女の前に現れたのは、冷徹CEO・榊原雄吾。「やっと手に入る」――彼は昔から佳苗だけを執着する危険な男で…!?
查看更多「……っ、はぁ……ぁっ……!」
全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。
眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。
苦しい。
息ができない。
「もう少しです! 頑張ってください!」
医師の声が遠い。
お腹の奥が裂けるように熱い。
それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。
(赤ちゃん……)
やっと会える。
悟との子供。
愛する夫との、大切な命。
その一心だけで耐えていた。
けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。
「血圧低下!」
「出血が止まりません!」
「急げ!」
視界がぐらりと揺れる。
寒い。
急激に体温が奪われていく。
「佳苗さん! しっかりしてください!」
誰かが叫んでいる。
でも、もう指一本動かせなかった。
(やだ……)
(まだ、赤ちゃんを抱いてない……)
涙が滲む。
そのときだった。
病室の外から、聞き慣れた声がした。
「……本当に、佳苗は助からないのか?」
悟だ。
夫の声。
だがその声に、佳苗を心配する色はなかった。
ぞくり、と背筋が冷える。
「仕方ないじゃない。もともと体弱かったし」
続いて聞こえたのは、妹――坂井恵の声。
どうして恵がここに……?
ぼんやりした頭で考えた瞬間、二人の会話が耳に飛び込んできた。
「でも、これでやっと私たち本当の家族になれるのね」
「……ああ」
悟が安堵したように笑う。
「正直、あいつには感謝してるよ。代理母としては完璧だった」
――だいりぼ?
意味が分からなかった。
佳苗の思考は止まる。
「お姉ちゃんって昔から私に逆らえないもんねぇ。妊活頑張ろうって言ったら、あんなに嬉しそうにして」
恵がくすくす笑った。
「不妊の私の代わりに産んでくれるなんて、本当に便利なお姉ちゃん」
……なに、を。
言っているの。
耳鳴りがする。
視界が滲む。
「まあ、死んじゃったのは想定外だけど。でももう役目は終わったし」
「だな。子供さえ無事なら問題ない」
悟の声は、驚くほど冷たかった。
「佳苗も、自分の子を俺たちに育ててもらえるなら本望だろ」
二人が笑う。
楽しそうに。
幸せそうに。
その笑い声が、佳苗の心をぐちゃぐちゃに引き裂いた。
(……うそ)
(そんな……)
(私は……)
愛されていたんじゃなかったの?
赤ちゃんを望んでいたのは、二人で幸せになるためじゃなかったの?
全部。
全部嘘だったの?
喉が震える。
声を出したいのに、息すらうまく吸えない。
涙だけが頬を伝った。
(じゃあ私は……)
(何のために……)
命を懸けたの?
その瞬間、機械音が鋭く鳴り響いた。
「心停止!」
「除細動準備!」
「佳苗さん!!」
誰かが叫ぶ。
けれど佳苗の意識は、ゆっくりと暗闇へ沈んでいく。
最後に見えたのは、真っ白な天井だった。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
もし、もう一度やり直せるなら――。
◇◆◇
「――佳苗? 聞いてる?」
不意に耳元で声がした。
佳苗ははっと目を開けた。
「え……?」
見慣れたリビング。
昼下がりの光。
テーブルの上に置かれたマグカップ。
そして目の前には、困ったように笑う夫――藤倉悟がいた。
「ぼーっとしてどうした?」
「……さ、とる?」
佳苗は震える声で呟く。
悟は怪訝そうに眉を寄せた。
「何その顔。疲れてるなら今日は休めば?」
優しい声音。
けれど、その笑顔を見た瞬間。
佳苗の全身にぞわりと鳥肌が立った。
「っ……!」
反射的に身体を引く。
ガタン、と椅子が鳴った。
「佳苗?」
悟が手を伸ばしてくる。
その瞬間。
病室で聞いた言葉が脳内に蘇った。
『代理母としては完璧だった』
『役目は終わったし』
「いやっ……!」
佳苗は悲鳴のような声を上げた。
荒く息を吐きながら、自分の腹部に触れる。
平らだった。
妊娠していない。
出産も、していない。
スマホを掴み、震える手で日付を見る。
「……っ」
一年前。
妊娠する前の日付だった。
佳苗の呼吸が止まる。
(戻ってる……?)
(私……死んだはずじゃ……)
混乱する佳苗を見て、悟は眉をひそめた。
「本当にどうしたんだよ」
その声すら恐ろしい。
佳苗は唇を噛み締めた。
もう騙されない。
もう利用されない。
この男の子供なんて、絶対に産まない。
そのときだった。
ピロン、と悟のスマホが鳴る。
画面を見た悟の口元が、わずかに緩んだ。
佳苗は見逃さなかった。
表示されていた名前を。
『恵』
心臓が凍りつく。
やはり。
二人はもう――。
「……誰から?」
震える声で尋ねると、悟は一瞬だけ目を逸らした。
「ああ、仕事関係」
嘘だ。
佳苗には分かった。
前世では気づけなかった。
けれど今なら分かる。
この男は、ずっと自分を騙していたのだ。
佳苗はゆっくり拳を握り締めた。
(逃げなきゃ)
(今度こそ――)
事件が解決してから数日。 佳苗は以前のような穏やかな毎日を取り戻していた。 契約書の件以来、社内で彼女を見る目も少し変わった。「朝倉さん、この資料お願い」「はい」「あと、この契約書も確認してもらっていい?」「もちろんです」 以前なら営業担当を経由していた仕事も、直接声を掛けられるようになっている。 それは大きな変化ではない。 けれど、佳苗には十分すぎるほど嬉しかった。 自分の仕事を、自分の力で認めてもらえた。 それだけで胸が温かくなる。 その日の夜。 仕事を終えた佳苗は、雄吾の待つマンションへ帰った。「ただいまです」「おかえり」 ソファで新聞を読んでいた雄吾が顔を上げる。「今日はどうだった?」「平和でした」 佳苗は笑いながら隣へ座った。「前みたいに普通に仕事ができるって、こんなに幸せなんですね」「そうか」 雄吾も静かに笑う。「それは良かった」 佳苗は雄吾の肩へ少しだけ寄りかかった。「それで……今日は約束の日ですよね?」「ああ」 雄吾は立ち上がる。「着替えたら行こう」 数日前に約束した祝いの食事だ。「楽しみです」 佳苗も嬉しそうに立ち上がった。 食事を終え、夜風に当たりながら二人で歩く。 駅前は金曜日ということもあり、多くの人で賑わっていた。「美味しかったですね」「ああ」「こんなに高いお店、まだ慣れませんけど……」「そのうち慣れる」「慣れませんよ」 佳苗はくすっと笑う。 雄吾も小さく口元を緩めた。 マンションへ戻ると、佳苗はリビングの棚から小さなクッキー缶を取り出した。「雄吾さん」「ん
玄関のドアが開く音に、リビングから雄吾が顔を上げた。「おかえり」 その一言を聞いた瞬間。 佳苗は何日も張りつめていたものが、一気にほどけるのを感じた。「……ただいま帰りました」 バッグを置くより早く、雄吾が佳苗の表情を見る。「終わったようだな」 佳苗は驚いたように笑う。「分かるんですか?」「ああ」「昨日までとは顔が違う」 佳苗は小さく笑って頷いた。「終わりました」「私の送った契約書は間違っていませんでした」 雄吾は静かに頷く。「そうか」 それだけだった。 だが、その一言だけで十分だった。 佳苗はソファへ腰を下ろし、今日あったことを話し始める。 相手の営業部長から連絡があったこと。 社内調査の結果、担当者が古い資料を見ていたこと。 正式に謝罪があったこと。 部長や課長が最後まで信じてくれたこと。 そして、自分で証明できたこと。 雄吾は途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。「……ということなんです」 話し終えると、佳苗は大きく息を吐く。「疲れたでしょう」 そう言うつもりだった。 だが、口から出たのは違う言葉だった。「怖かったです」 その瞬間。 自分でも驚いた。 会社では一度も口にしなかった本音。 怒鳴られても。 責められても。 平気なふりをしていた。「私、本当は……」 声が少し震える。「途中で、自分が間違っているんじゃないかって、何度も思いました」「でも、調べても調べても違う気がして……」 視界が滲む。
翌日の午後。 営業部へ一本の電話が入った。「はい」 応対した佐々木の表情が変わる。「……はい」「お待ちください」 受話器を押さえ、部長へ振り返った。「先方の営業部長からです」 部長は静かに受話器を受け取る。「お世話になっております」 会議室は静まり返り、誰もが部長の様子を見守った。「……はい」「ええ」 部長は時折相づちを打ちながら話を聞いている。 しかし、昨日までとは違う。 相手の声は怒鳴っている様子ではなかった。 数分後。「承知いたしました」「こちらこそ、ご丁寧にありがとうございます」 部長は電話を切った。 そのまま佳苗たちを見渡す。「結論が出た」 全員が息をのむ。「朝倉さんが送付した契約書に誤りはなかった」 佳苗は思わず息を止めた。「先方でも調査した結果、担当者が社内の古いデータを確認していたそうだ」 佐々木が安堵の息を漏らす。「よかった……」 部長は続けた。「さらに、こちらから送った最新版の契約書は、相手の会社にもきちんと届いていた」「ただ、その担当者が確認せず、自分の持っていた古い資料だけを見て話を進めてしまったらしい」 佳苗は言葉が出なかった。 やはり。 自分は間違っていなかった。「営業部長から正式に謝罪があった」「担当者の対応についても、社内で厳正に対処するとのことだ」 課長が静かに笑う。「朝倉さん」「はい」「よく最後まで調べたな」「ありがとうございます」 部長も頷いた。「最初に担当者を代えていたら、この
電話を切ったあとも、会議室には重い沈黙が流れていた。 誰もが、先ほどのやり取りを思い返している。 最初に口を開いたのは部長だった。「課長」「はい」「今の会話、要点をまとめてくれ」「承知しました」 課長はすぐにメモを取り始める。 佳苗はその様子を見ながら、小さく息をついた。 ようやく。 ようやく、自分だけの問題ではなくなった。 部長は佳苗へ向き直る。「朝倉さん」「はい」「今までよく冷静に対応してくれた」 その言葉に、佳苗は目を丸くした。「ありがとうございます」「礼には及ばない」 部長は静かに首を振る。「むしろ、君が感情的にならなかったからこそ、今日の発言をそのまま聞くことができた」 もし途中で言い返していたら。 相手は「担当者の態度が悪い」と話をすり替えていただろう。 しかし、実際は違った。 問題にしていたのは契約書ではない。 担当者が女性であることだった。 部長はゆっくりと椅子にもたれ掛かる。「さて」「ここからは会社として対応する」 佳苗は思わず顔を上げた。「会社として……ですか?」「ああ」「契約書の内容を確認したいという要求を拒否され、担当者の変更だけを求められた」「その上で、女性だから契約は無理だと発言した」 部長は資料を閉じる。「少なくとも私は、これを通常の商談だとは思わない」 課長も頷いた。「ええ」「契約内容を確認したいというこちらの要求は、至って普通ですからね」「それを拒否されている以上、このまま担当者だけ代えるわけにはいきません」 佳苗は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。 自分を信じてもらえている。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。
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