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第269話

Author: 三佐咲美
私は一瞬ためらった。「大物って?」

「安井先生、俺が嘘なんてつくと思うか?いよいよチャンスが来たんだよ!」監督は興奮気味に言う。「最初に話した時から分かってたよ、君には野心があるって。最近は世間のモラルも上がってきたけど、法律を広める道はまだまだ遠い。でもな、今回は近道が来たんだ。この機会、絶対に掴まなきゃダメだぞ!」

正直なところ、私は何事にも近道なんてないと思っている。子供の頃から必死に勉強してきたし、誰かを本気で好きになるにも、抜け道なんてなかった。

もし近道があるとしたら、それはきっとズルいことをする時だけで、いつか必ずそのツケは自分に返ってきて、手にしたものさえ失ってしまう。

でも、監督が悪い人じゃないことは分かっている。テレビ局でトラブルに巻き込まれた時も、最後まで私を送り出してくれて、しかもお礼まで包んでくれた。だから今回も彼についていくことにした。

バーに足を踏み入れた瞬間、煙草とお酒の匂いに咳き込んでしまう。監督は話しかけながらも、普通の距離感なんてお構いなしにどんどん私に近づいてきて、耳元で大声を張り上げる。

私は眉をひそめて、無意識に距離を取る。もう彼とまともに会話する気にもなれなかった。

それでも監督は心配しているのか、私の腕を引っ張りながらしつこく念を押す。「国内でも指折りのエンタメ会社だぞ、今日は三人の社長が来てる。みんな君に注目してるんだ。今回は君のためにわざわざ足を運んでくれたんだぞ。しっかりアピールしろよ。番組がバズるかどうか、君にかかってるんだからな!」

私は驚いた。記憶が確かなら、それは鈴木グループ傘下の子会社のはずだ。以前、康平が一時期そこの社長をしていたし、今売り出し中の女優・夏目陽子も、彼がプッシュしていた。

少し安心し、思わず口元に笑みが浮かんだ。

どうやら今夜のことが終わったら、康平にもお礼の電話をしなくてはならなそうだ。

廊下の鏡の前を通り過ぎる時、私は立ち止まった。

今日は黒いドレスを着て、その上にカシミヤのコートを羽織っていた。意を決してコートを脱ぎ、手に持ちながら服の裾を整える。

監督は私を見て感心したように目を細める。「今日はどうせまた地味なスーツだろうと思ってたけど、さすが安井先生、やるじゃん」

私は何も答えなかった。たぶん最近はずっと仕事着姿でネットに出ていたから、みんな昔の私
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