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第433話

Author: 三佐咲美
「彼の子は、まだ生きてるの。だから、彼にもちゃんと生きていてほしい!」私は鼻の奥がつんとした。「子どもには、父親が必要なんだ!」

「彼の子?」雲香は小さな声で繰り返し、不思議そうに顔を上げた。「まさか、お腹に、お兄ちゃんの子がいるの?」

私はこくりとうなずいた。

雲香の唇に、場違いなほど甘やかな笑みが浮かぶ。「じゃあ一緒に来ようよ。お兄ちゃんが自分の子どもができたと知ったら、きっと喜ぶよ!」

さっきまで私に慎一に会わせないとしていた雲香が、今度は自分から誘ってきた。

私は屋上に立つ人影を見上げる。あの人が風にさらわれてしまいそうで、本当に怖くなった。

もう迷っている暇はない。「うん。行こう」

その時、軽舟が私の腕をぐっと掴んだ。真剣な顔で見つめてくる。「佳奈、彼女に任せるんだ。佳奈はここにいてくれ。伝えたいことがあるなら、彼女に電話で伝えてもらえばいい」

彼の手は強く、痛いほどだった。けれど、そのまっすぐな瞳は「信じてくれ」と語っていた。

他に道はない。私は頷き、雲香がひとりで駆け上がっていく姿を見送った。

パトカーに戻ると、軽舟はすぐに無線で応援を要請し、運転手に言った。「このビル、どうも怪しい。いつでも脱出できるよう準備しておけ。この女は一筋縄じゃいかない」

私はぞわっと鳥肌が立った。「どういう意味?」

軽舟は警戒した目であたりを見回し、無言で私に答えた。それ以上は聞けず、不安で窓の外を見つめる。けれど、軽舟ほどの観察眼は私にはない。何も異変は感じられなかった。

だけど、特に何事も起きなかった。

一方その頃、雲香が病院のビルに駆け込むと、白衣を着た「医者」たちがすぐに集まってきた。雲香は苛立った声を上げる。「何してんのよ!さっき下にいたのに!なんで捕まえなかったの?女一人と警察二人でしょ、こんなに人がいて!」

その中の一人の男が、彼女に低く囁いた。「曲井さん、あまり軽率な行動は……」

雲香はその男の顔を平手で打ち、しかしその口元にはますます大きな笑み。「弱虫め。警官二人くらいでビビってんの?こんな腰抜けが私のそばにいる資格なんてないわ」

打たれた男は表情ひとつ変えず、淡々と微笑んだ。「曲井さん、お忘れなく。南風様は、安井さんを小さい頃から特別に可愛がっていました。彼女がしっかり護られていなければ、今頃曲井さんが南風様のお気に入り
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シマエナガlove
義妹が悪質で嘘つきなのが まったくわからない真一に呆れる 次には目前で義妹逮捕されて 変な薬使って支配されてるのが わかっても 今さらだけど とりあえず 義妹とニセ医者が逮捕されて 処刑されれば 佳奈の気持ちも収まり 真一からも解放される
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