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第135話

Auteur: つき酔
承也の金縁の眼鏡の奥で、黒い瞳に暗い光が沈む。

美月は病室でしばらく待っていた。

ようやく扉口から承也が入ってくるのを見て、沈んでいた顔がぱっと明るくなる。

「承也!」

美月は上半身を起こした。黒いストレートの長い髪が耳の横に落ち、もともと白い顔が、いっそう血の気を失って見える。

承也が杖を持っていないことに気づくと、美月は低い声で責めるように言った。

「また先生の言いつけを忘れているわ。悠斗さん、社長の杖を取ってきて」

承也は淡々と答えた。

「もう必要ない」

あのとき病院で固定具をつけたのも、承也が無理に動き回らないようにするためだった。

自分は体が強く、回復も早い。固定具を外したあと十日ほど杖を使えば、もう十分だった。

「それでも、もっと気をつけて。ずっと立っていないで、座って」

美月は自分のそばを指した。

承也が病室に入ってきてから、美月の視線は一度もその顔から離れていない。

たった三日会えなかっただけなのに、胸が締めつけられるほど恋しかった。毎日、承也に会えたらいいのに。

けれど今になっても、承也は美月に松風レジデンスへ移ってこいとは言わない。

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