LOGIN莉奈がすっかり痩せてしまった姿を見て、二人の間に何があったのかも分かっている老人は、ため息をついた。「つらかったな、莉奈。ゆっくり休んで、しっかり身体を治すんだ。それが何より大切だ。スープを持ってきたから、病室に戻って温かいうちに飲みなさい」莉奈はうなずき、少しでも表情を浮かべようとした。「ありがとう、お爺様」「お前!」政隆は次の瞬間、承也を睨みつけ、態度を一変させた。「さっさと入ってこい!」承也は莉奈の手を離さず、気だるげに目を上げた。「待ってろ。先に莉奈を病室まで送っていく」承也は言い終えるなり、政隆が反応する間も与えず、莉奈の手を半ば強引に引いて病室へ歩き出した。案の定、ベッドの脇には弁当箱が置かれていた。承也は莉奈を座らせると、容器の蓋を開け、中のスープを小さめの椀によそった。スプーンで何度かかき混ぜ、熱すぎないことを確かめてから、莉奈に手渡した。彼はベッド脇の椅子に腰を下ろし、彼女がスープを飲む様子を見守った。静かに、音も立てずに飲んでいる。とてもおとなしく、騒ぐこともない。だが、こんな姿は昔の莉奈とはまるで違っていた。そんな莉奈を見ていると、承也の胸には何かがつかえているようだった。胸の苦しさを、どこにもぶつけられなかった。莉奈が椀にスプーンを戻したところで、承也はティッシュを一枚抜き、口元に残ったスープをそっと拭き取った。「医師は、もう退院して自宅で静養してもいいと言っていた。だが、君は病院に残って小槌のそばにいたいだろうと思い、退院の手続きはしていない」莉奈は黙ってうなずいた。承也は手を握りしめた。そのとき、莉奈が口を開いた。「お爺様が待っている」莉奈は顔も上げず、承也に目も向けなかった。だが、承也は出ていくつもりなどなかった。空になった椀を莉奈の手から受け取り、もう少しだけスープをよそった。「あの人は、どうせ暇を持て余しているだけだ」それに、承也の傷は命に関わるものではない。政隆はもう承也の様子を見ているのだから、彼が病室で待っている理由など、莉奈と小槌のこと以外にあるはずがなかった。莉奈を見つめる承也の目に、柔らかな光が一瞬よぎった。「小槌が初めて口にした言葉は、俺が教えた『ママ』なんだ。悠斗に動画を撮ってもらったから、あとで俺から送ってもいい
これでも我慢できるのか?さすがは承也だ。取り繕うのが本当に……「小槌は眠ったか?」すぐそばで聞き慣れた声が響き、浩平は心の中で白目を剥いた。買い被りすぎたようだ。承也は体の脇に垂らした手を強く握りしめ、莉奈の顔をじっと見つめながら、ゆっくりと喉仏を動かした。その低い声には、わずかに探るような響きが混じっていた。浩平はそばにいた者たちに目配せし、先にその場を離れた。莉奈は小さく「うん」と答えた。彼女は承也の服を一瞥し、唇を少し動かしかけた。だが、向かいの男が先に口を開いた。「少し用事で出ていた。傷は問題ない」まだ遠くまで行っていなかった浩平は、またもや白目を剥いた。莉奈はまだ何も聞いていないのに、そんなに慌てて言い訳をするとは。承也、お前にもこんな日が来るとはな。東安市のビジネス界で恐れられる大物中の大物が、愛する女の前ではこんなに必死になっていると世間の人間が知ったら、間違いなく腰を抜かすだろう。承也は言った。「部屋まで送る。休んだほうがいい」莉奈が下ろしていた手を、承也が握りしめた。彼の大きく温かな手のひらには、指の腹に薄いタコがあった。その手が、莉奈の手をゆっくりとすっぽり包み込んだ。彼女は抵抗しなかったが、同意の言葉も口にしなかった。ただ承也に手を引かれるまま、病室へと歩き出した。莉奈の病室へ戻るには、承也の病室の前を通ることになる。浩平たちが中に入ったばかりで、病室のドアはまだ開いていた。承也は一目で、見慣れた人影がソファに座っているのに気づいた。手には彼の入院カルテを持ち、眉をひそめたり、鼻を鳴らしたりしている。白髪交じりの頭で、かくしゃくとした様子の夏目政隆(なつめ まさたか)は、濃い色の伝統的な服を着て、そばにはボディガードが一人立っていた。承也の目に諦めの色がよぎった。足を止め、部屋の中に向かって声をかけた。「どうしてここにいるんだ」政隆はカルテをめくる手を止め、顔も上げずに答えた。「ドアが開いていたから、ついでに入って休んでいたんだ」「お爺様」予想していた嫌味の代わりに、優しく従順な女の声が聞こえた。老人はすぐに病室のドアの方へ顔を向け、同時に立ち上がった。先ほどまで仏頂面だった顔が、瞬時に柔和で慈愛に満ちた表情に変わる。「奈奈」莉奈
心に深く刻まれたその名を耳にして、男の顔に一瞬、呆然とした色が浮かんだ。彼は眉をひそめ、必死に感情を押し殺した。秋乃は、彼がこんなふうになるのを嫌がっていた。その様子を見て、琴音は鋼の針で心臓を何度も突き刺されたような痛みを覚え、胸の奥が震えた。たまらず、辛辣な言葉を吐き捨てた。「向井秋乃はもう死んだのよ。どうして彼女を忘れようとしないの!」中年の男は蒼白な唇をきつく結び、目尻を赤くした。「彼女は死んでいない!」何かにしがみつくように、彼はもう一度繰り返した。「彼女は死んでいない!」男は背を向け、琴音の目に次第に恨みが宿っていくことには気づかなかった。壁についていた手は強く握り込まれ、力のあまり爪が反り返り、折れそうになっていた。もちろん、琴音は秋乃が死んでいないことを知っていた。それどころか、彼女がどこにいるのかさえ知っていたのだ。……車の中で、浩平は承也から莉奈の両親がまだ生きているかもしれないと聞き、頭の芯が痺れ、背筋が凍るような思いをした。「生きているかもしれないって?そんな馬鹿な。あの夫婦は、お前が追い詰めて死んだんじゃ……」そこで言葉を切り、浩平は声を潜めた。「本気で言ってるのか?ビビらせるなよ」真昼間から怪談なんて勘弁してくれ。「君の勘違いじゃないのか?いくらなんでも荒唐無稽すぎる。そんなことあり得ない。絶対何かの間違いだろ?」問えば問うほど、浩平の声は小さくなっていった。承也は昔から、根も葉もないことを言う人間ではない。ましてこの件で冗談を言うはずがなかった。承也の顔には何の表情もなかった。ただ、その黒い瞳は底知れぬ深淵のように暗かった。彼は窓の外へ顔を向け、絶え間なく行き交う車の流れを一瞥した。「間違いない」浩平はすぐに、承也がなぜそんな反応をしたのか悟った。彼がそう言い切るからには、必ず何か手がかりを掴んでいるに違いない。「いっそ、莉奈に直接話したほうがいいんじゃないか?そもそも彼女が今お前にあんな態度を取るのも、ひとつは両親の件があるからだ。もうひとつは、お前が何かあるたびに彼女に隠し事をするからだろ。このことを話せば、どちらも解決するじゃないか」承也は振り向きもせずに答えた。「彼女が信じると思うか?」承也は指を折り曲げ、何もない空間を握りしめるよう
「文彦、どうしたの?」琴音は慌てて床から起き上がった。心臓が止まりそうになり、足元もふらついた。だが、彼女の手が男に触れた瞬間、男は手の甲で彼女を突き飛ばした。容赦のない力で突き飛ばされ、琴音は後ろへよろめいた。危うく尻餅をつきそうになり、足首を捻って鋭い痛みが走ったが、今はそれどころではなかった。男の顔色は、先ほどよりもさらに悪くなっていた。男は卓上のティッシュを素早く数枚抜き取り、口元の血と指についた血を無造作に拭き取った。突き飛ばした琴音のことなど、気にも留めていなかった。しかし、琴音は彼のこの冷淡な態度に慣れていた。長年、彼女のほうから必死にすがってきたのだ。まして今は、こんな状況だった。「いったいどうしたの?病気なの?病院へ行って診てもらいましょう」琴音は歩み寄り、男の手を強く握った。男は再び彼女の手を振り払い、冷酷に言い放った。「出て行け」琴音は氷水を浴びせられたように立ち尽くした。ふと何かを思い出し、慌ててクローゼットへ走った。自分が持ってきた服を探し出し、その中から一着を取り出すと、バスルームへは行かず、そのまま部屋で着替え始めた。以前の琴音なら、絶対にこんなことはしなかった。男の越えてはならない一線を知っており、逆鱗に触れることを恐れていた。そうでなければ、自分が握っている弱みで彼を牽制できなくなってしまうからだ。だが今の琴音の頭の中は、男が血を吐く姿でいっぱいだった。彼を怒らせるかどうかなど、考えている余裕はなかった。男は琴音に意識を向けることもなく、彼女が何をしているかも気に留めなかった。琴音は素早く着替えると、男のそばへ駆け寄った。「行きましょう。病院へ」そう言いながら、琴音は男の腕に手を添えようとした。中年の男はゆっくりと顔を向け、琴音の手を一瞥した。視線を上げて彼女の顔を見ると、その目には嘲りが浮かんでいた。「承也の部下に見つかってもいいのか」琴音は目を赤くして答えた。「そんなこと、どうでもいい。あなたを病院へ連れて行くわ」「ふっ」男の喉の奥から、冷笑が漏れた。「失せろ!」男は再び彼女を突き飛ばし、冷えきった目で琴音を睨みつけた。琴音は、血を拭き取った彼の唇がひどく青白くなり、かすかに動くのを見つめた。「見え透いた同情など要
早朝、薄霧を通して差し込む朝日が、住宅街のやや色褪せた壁面を照らしていた。そのうちの一軒では、窓という窓のカーテンが隙間なく閉め切られ、一筋の光さえ入り込まないようになっている。外から見れば、住人が遠出をして長く帰っていないかのように見えた。簡素な造りの部屋には、スタンドライトが一つだけ灯っていた。琴音はベッドに横たわっていた。朝早くに一度目を覚まし、時計を確認したものの、琴音はまた眠りに落ちていた。どれほど時間が経ったのか。玄関から、鍵を回すかすかな音が聞こえた。琴音は夢から引き戻されるように目を覚まし、勢いよく上体を起こした。息を潜め、外の気配に全神経を集中させる。心臓の鼓動が自然と速まった。ドアが開き、靴箱の上に放り出された鍵が金属音を立てた。「ゴホッ……」聞き慣れた咳だった。琴音は高鳴る胸を押さえ、大きく息を吐いてから手を下ろした。立ち上がってスリッパを履き、部屋を出ようとしたそのとき、ドアが外から押し開けられた。こめかみに白髪の混じった男は琴音を見て、明らかに驚いた顔を一瞬だけ見せた。だが、その驚きはすぐに消え、冷たく沈んだ目で彼女を睨みつけた。「どうしてここにいる!」琴音はすっかり見慣れたその顔を見つめた。それでも、脳裏には別の顔が浮かんでしまう。顔は違っているのに、さっきの男の口調には、かつての彼とどこか通じるものがあった。彼は昔からずっとこうだった。琴音が彼の秘密に気づかなければ、言葉を交わすことすら拒んでいただろう。だから琴音がこの家に来てから、彼はめったにここへ戻らなくなった。琴音は不意に目頭を熱くさせ、低く笑った。琴音が身につけているのは自分の服ではなく、男物のシャツだった。五十を過ぎても、琴音は相変わらず見事なスタイルを保っていた。若い頃に舞踊学校を卒業しており、姿勢がよく、歩く姿も優雅だった。「ここはもう、半分は私の家みたいなものよ。私がいて、何がそんなに驚きなの?」だが、琴音が近づく前に、男は猛烈な勢いで踏み込み、彼女の首を力いっぱい締め上げた。かすれた声で怒鳴った。「なぜ俺の家に隠れている!」ここは彼が自宅とは別に用意していた家で、汐見ヶ丘にも近い。だが、普段はめったに戻らず、戻ってきても泊まることはなかった。事件が起きてから、すでに数日が経っている
その言葉を聞き、和夫の湯呑みを持つ手がわずかに止まった。湯呑みの中で、お茶がかすかに波立った。彼はゆっくりとお茶を一口飲んだ。「随分と昔の出来事ですが、椎名社長がそれを持ち出してどうするおつもりですか」承也は指先を茶卓に置いた。「理由もなく人に親切にする人間などいません。莉奈に近づく者は、誰であろうとすべて調べ上げます。山本教授、気を悪くされないでくださいね」「構いません。それも彼女を守る手段の一つでしょう。彼女の安全のためなら、結構なことです」和夫は向かいの男を見た。「もともとは彼女の母親への想いから、何かと気にかけていました。ですが、彼女自身も私の自慢の教え子でしたからね」莉奈のことに触れると、彼の目にはわずかな賞賛の色が浮かんだ。「山本教授は度量が広い。かつて愛した女性が他の男との間にもうけた子供を受け入れたうえ、特別に目をかけるとは」承也は、かすかに口角を上げた。それは笑っているようでもあり、嘲笑しているようでもあった。和夫は表情を変えず、笑って答えた。「この年になれば、そんなことは気にしませんよ。それに、彼女の両親が亡くなってから随分経ちます。私が自分のわずかな心残りにこだわって彼女を冷遇するなんて、筋が通らないでしょう」承也は笑みを浮かべたまま、何も言わなかった。やがて、彼は静かに口を開いた。「今日、山本教授にお越しいただいたのは、他でもありません。あなたが奈奈に親切にすることに異存はありませんが、彼女が東安市を離れる手助けをするのは、もうやめていただきたい。前回のE国の海外支局への応募の件は、彼女の顔に免じて不問に付しました。ですが、次があれば、俺も見過ごしません」……茶屋の駐車場。浩平は店には上がらず、車の中で待っていた。承也が降りてきてこちらへ歩いてくるのを見つけ、ドアを開ける。承也が車に乗り込んだ。彼はまず黙って承也の顔色を窺い、それから尋ねた。「山本と会ってどうしたんだ?また脅したのか?」承也は淡々と答えた。「嘘と本当を混ぜただけだ」彼は視線を上げ、フロントガラス越しに少し離れた場所を見た。和夫が、悠斗の手配した車に乗り込むところだった。浩平は呆れたように目を丸くした。「勿体ぶるなよ、はっきり言え!」遠ざかっていく車を見つめる承也の目